長き道のり(その4)
1990年のルマン直後に新しい競技規則の1年間延期が発表され、1991年へ希望をつなぐことが出来たが、今度は正真正銘最後の挑戦だった。1990年7月、マツダ内でいくつかの動きがあった。まずは、数年来強力な指導力を発揮してきた達富氏が、財政立て直しのために購買本部長に異動した。これに伴い当時、モータースポーツ担当主査であった私の肩の荷が一段と重くなったことは言うまでもない。次に、商品本部のモータースポーツ推進室を軸に、マツダとマツダスピードの徹底した連携をはかるべくマネージメント会議を設定した。メンバーはマツダスピードの森丘社長、大橋専務、松浦技術担当取締、マツダ側は予算の負担部門たる国内宣伝の岡野部長、モータースポーツ推進室本井伝副主査、それに小生で、1990年に現役を引退した片山義美氏をアドバイザーとし、毎月一回開催することに決定した。このマネージメント会議で、マツダとマツダスピードが一体となって1990年の敗因を徹底的に分析し、1991年に向けての「勝つためのシナリオ」を書き、最後の年にむけてベストな開発体制を構築することを合意した。
ここで井上寛氏に登板してもらおう。現在マツダでプログラム開発推進本部長という要職にある井上氏をモータースポーツの世界に引っ張り込んだのは私だが、1989年11月に達富氏から2足のわらじを履くよう命じられた私は、モータースポーツプログラム推進の実務上の要となる人材が必須と判断、かつて技術研究所から私の担当していた商品性実験に一年間留学(!)した井上氏に着目、1989年11月当時は横浜の技術研究所で計算機画像処理の応用研究に従事していた井上氏の説得に成功した。井上氏は1990年の敗因の分析と1991年にむけての「勝つためのシナリオ」の構築、推進において大変貴重な役割を果たしてくれたが、以下は今回の証言と、ルマン直後に技術関係の雑誌に投稿した井上氏の原稿の合体である。
「1990年7月末にマツダ本社で開いたマツダとマツダスピードの開発スタッフによる翌年への開発方針に関する討議において、それまでのエンジンはマツダ、その他の駆動系やシャシーなどは全てマツダスピードという分業体制に代わり、開発目標と進捗をマシンのトータル性能で把握してマツダとマツダスピードが一体となって開発を進めることを確認、エンジン以外の領域もマツダ本社が技術協力することになり、車両設計部内にタスクフォースグループも新設した。」
「次なる変革は情報システムも活用した合理的な開発スタイルの推進だった。マツダの技術研究所が実用化をトライしてきたテレメトリーシステムがこの年から本格稼働、ルマンにおける貴重な実戦データが収集されていた。さらにサーキットシミュレーターも完成し、エンジン出力、重量、空力特性などに加えてドライバーの運転特性もパラメーターとして、サーキット走行時のタイムや燃費をシミュレートできるようになっていた。」
「1990年の競合車データを調べた結果、ピットストップが最も短かったのはポルシェで、22時間45分ノントラブルで走っており、過去10年間の優勝車の性能向上トレンドに加え、車重に関する新レギュレーションの影響を検討した結果、勝つための目標としては23時間で367周走る必要があることがわかった。1990年の787の実力は355ラップだったので、平均ラップタイムを8秒短縮、同時に燃費を4%向上する必要があることが分った。」
「サーキットシミュレーションの結果、コーナリングスピードの向上がラップタイムの向上に最も効果が大きいことが分かった。またジャッキー・イクス氏からはカーボンブレーキを是非とも使うようにというリコメンド(推薦)ももらった。367ラップという目標を、エンジンの目標、車両の目標に細かくブレークダウンし、それぞれの課題に対して誰がいつまでにやるかというスケジュールを決めてフォローすることにしたが、マツダとマツダスピードの目標の共有化は非常にうまくゆき、それぞれのグループや人々にカスケードすることができた。」
当時のドキュメント(資料)はほとんど残っていないのが残念だが、上図左は787B戦闘力向上活動、右は787Bの改善構想の総括だ。マツダ・マツダスピードの協力体制推進の中で重要な役割を果たした松浦氏は最後のルマン挑戦に関し次のように述べている。
「最後のルマンへの挑戦に際して、4つのテーマ(コーナリングスピード、乗りやすさ、燃費、耐久信頼性)と、4つの品質(設計、製造、テスト、メンテナンス)に関するハード、ソフトを含めて二百数十項目を出し、徹底的に追求した。」
次につい最近まで2代目、3代目ロードスターの主査として活躍、また3代目RX-7の市場導入後に主査を私から引きつぎ、2002年の生産終了まで育成に尽力してくれた貴島孝雄氏に登場いただこう。1990年7月当時貴島氏には3代目RX-7の設計領域全体の責任を担ってもらっており、開発はまさに山場だったが、無理を承知でルマンにむけてのタスクフォースグループのリーダーも引き受けてもらった。ドライバーから787のハンドリングに関する問題指摘を受けた私は、貴島氏にその原因の究明と対策の検討を依頼、以下は貴島氏の今回の証言とルマン直後に技術関係の雑誌に投稿した井上氏の原稿を合体したものだ。
「レースに初めて関わったのは初代RX-7によるIMSAレースで、それ以来IMSAのレースカー(GTU、GTO、GTP)のサスペンション開発に全て関わると共に、(注:1995年までにIMSA合計117勝、中でもデイトナ24時間レースでは1979年、1982〜93年の12年間連続GTUクラス優勝を達成)世界ラリー選手権でもギリシャのラリーでRX-7のサスが曲がってしまうという話を聞き実際にアクロポリスのコースに行き、それに耐えられるサスペンションを設計した。(3位に入賞)。このようなバックグラウンドからレーシングカーのサスペンションへの関心は高かった。」
「モータースポーツの技術を量産車に適用するというのが普通だが、RX-7の技術をモータースポーツに応用することになった。787のコーナリング中の車両挙動が安定しないというピエール・デュドネさんの声をベースに私がまず疑ったのは車体構造だった。車体剛性を分析してみると、車体前部を構成するカーボンモノコックの部分と、パイプフレーム構造である車体後部のエンジンルーム部分はそれぞれ十分な剛性をもっていたが、両者の接合部分では著しい剛性低下がみられた。この部分を強化するためのシンプルで軽量な構造を実現するためFEM(有限要素法)によるシミュレーションを繰り返し、エンジンストラットロアーとよぶ支持部材を追加することにし、スペース上翼型断面とした。また1990年にリアサスロッカーアームの破損というトラブルがあり、加えて車体剛性の向上により、リアサスには従来以上のストレスがかかると予想されたので入念な強度解析を行ない新しいリアサスロッカーアームを開発、これらが出来たのは1991年1月だった。」
車体構造改良のハンドリングに対する貢献は大きかったが、優勝1ヵ月後に横浜で行なったジャーナリストの目前での優勝車分解イベントに出向いた貴島氏は、エンジンストラットロアーメンバーの取り付け部の穴が楕円形に摩耗していることを発見、ロアーメンバーが機能を発揮したことを改めて確認するとともに、レースがあと30分ないし1時間長かったら、ボルトが折れて事故にすらつながりかねない状況に胸をなでおろしたという。しかしこれは見方を変えれば見事な限界設計であったということもできよう。
以上は1991年ルマンに向けての技術改良の氷山の一角に過ぎない。イギリスのMIRA(マイラ)、マツダの三次の風洞で行なった空力の改善、カーボンブレーキの採用にあたってのカーボンインダストリー社やブレンボ社の協力、ダンロップによる新しい18インチタイヤの開発、2分割セラミックアペックスシールの採用とセラミック成分の改良によるなじみ性の向上、ローターハウジングのX線検査の実施、ラジエター、オイルクーラーの容量拡大、吸気ダクトのダストシールの改善、モノコックの各ピボット部の強化、デファレンシャル取り付けボルトの精度アップ、ドライブシャフトのスプラインの強化、燃料タンクの材質変更など、関係者の寝る間も惜しむ技術改良がほぼ予定通りに進み、2月と4月のポールリカールでの24時間テストに備えることになった。
ところがそこに湾岸戦争という思わぬ事態が発生、2月に予定していたポールリカールでのテストは中止せざるをえなくなり、国内テストや、鈴鹿SWCレース、富士1000kmレースなどでカバーするとともに、4月のポールリカールでは、耐久テストに加えて、燃費とドライビングの関係、カーボンブレーキの温度コントロール、排気の熱害対策の効果確認など多くのテーマを抱えていた。ここで再び松浦氏に登場してもらおう。
「ポールリカールでの36時間テストでは耐久性のテストに加えて、カーボンブレーキや燃費に関する非常に貴重なデータを蓄積することができた。燃費はそれまで国内でいくらやっても1.7〜1.8km/Lと、ハードウェアーによる改善には限界があった。一方で鈴鹿のテストでドライバーにより燃費が大きく変わることが判明、テレメーターのデータを分析して、ポールリカールでドライバーの燃費走行の実地練習を行なった。コーナーに入る前からアクセルを戻すなど走り方を変えるだけでタイムはほとんど同じでも最良ケースでは何と2.5 km/Lまで燃費が向上することがわかった。 ベルトラン・ガショーだけがぶつけ本番となったが、何スティントかする内に大きく進化し、最終的には彼の燃費がベストとなった。」
こうして迎えた1991年のルマンへの日本車の参加はマツダのみとなった。トヨタは3.5LのNAエンジンがまだ開発過程だったためか、早くから参加を断念、一方の日産は1991年デイトナ24時間レースでは3.5Lツインターボエンジン車がケタ違いの早さをみせており、やる気は十分あったはずだ。しかし1991年のルマンが3年ぶりにSWC(スポーツカー世界選手権)の一戦となりSWC出場が義務付けられ、ルマンがSWCから外れると予測した日産はSWCに参戦せず、結果としてルマンへの出場権を失った。マツダはSWCに参戦した。
1991年のルマンにマツダはケネディ/ヨハンソン/サラ組の18号車、バイドラー/ハーバート/ガショーの55号車の2台の787B、従野/寺田/デュドネ組の787の56号車の3台を出走させた。55号車は19番手、18号車は23番手、56号車は30番手からのスタートとなったが、8周目には55号車が9位に、他の2台もレース序盤に上位に進出した。午前3時過ぎには55号車は3位にまで浮上、上位2台はメルセデスとなり、明け方近くにはその内の1台が脱落、55号車は2位、18号車は7位、56号車も9位につけた。朝8時頃18号車がドライブシャフトの温度上昇のため大事をとってアセンブリー交換、一時的にポジションを落とすが、それ以外は3台とも安定した走りでゴールを目指した。そして午後1時過ぎ、ピットにはりつく1位のメルセデスを抜き首位に躍り出て、ジャガーをしり目にそのままフィニッシュラインを超え、加えて18号車が6位、56号車が8位と3台が10位以内で完走するという、願ってもない結果となった。
このようにして18年に及ぶ飽くなき挑戦の末手中に収めることが出来た日本車初のルマン優勝だが、一昨年他界されたマツダスピードの生みの親兼育ての親の大橋孝至氏、当初から同氏とともにマツダスピードのルマンへの挑戦を支えてきた寺田陽次郎氏、さらにはマツダスピードの人たちのルマンに対する情熱なくしてはマツダがこのような栄誉を手にすることはなかったと断言できよう。優勝までの18年間は決して豊富な予算を駆使しての挑戦ではなく、1991年の年間総予算ですら近年のF1年間予算の数%にも満たない額だったが、「貧乏チーム」マツダスピードは「ルマン村」の村人として温かく受け入れられた。
また大橋氏の長年の経験と国際的なネットワークにより、車両開発、チーム編成、レース運営などを常に適切、かつ戦略的に行なうことが出来、国際モータースポーツ界における発言権も確保してきたことを忘れることはできない。ジャッキー・イクス氏を1990年からコンサルティングチームマネージャーとして起用したのも大橋氏だ。イクス氏は、ルマン優勝6回の記録を持つルマンの神様的存在だが、多くの貴重なアドバイスを与えてくれた。さらに優勝チームのF1ドライバートリオ、長年ドライバーとしてマツダでルマンに挑戦し続けてくれた片山氏、従野氏、ピエール・デュドネ氏、デイビッド・ケネディー氏、757から787Bに至る車両の設計を担当してくれたナイジェル・シュトラウド氏、マツダスピードの挑戦を現地でサポートしてくれたイギリスのレーシングチーム、アラン・ドッキング、同じくフランスのオレカ、そしてマツダスピードやマツダにおいて、勝てるマシン、エンジンの開発に寝食を忘れて頑張ってくれた人たちなどの貢献も決して忘れることは出来ない。
以上で4回の連載「マツダのルマン24時間レース優勝への長き道のり」を終えるが、本稿は、「飽くなき挑戦」の歴史と、「飽くなき挑戦」をする者には女神がほほ笑んでくれたことを理解いただくことが目的であり、マツダのプロパガンダではない。日本の自動車産業には21世紀半ばにむけての生き残りをかけた挑戦が目の前に待ち構えており、今こそ「飽くなき挑戦」が求められているといっても過言ではない。
なお、今年のマツダのルマン優勝20周年を記念して、永年マツダスピードのルマン挑戦に重要な役割を果たしてくれたピエール・デュドネさんが400ページ近い記録本を執筆、仏、英、日の言語で発刊されるので、ご関心のある方は是非入手をお勧めしたい。日本ではMZレーシング http://www.mzracing.jp/en/を通じて今年のルマンまでには入手可能となる予定だ。