長き道のり(その3)
当初「マツダのルマン24時間レース優勝への長き道のり」は3回の連載で終える予定だったが、今回1991年ルマンまでカバーすることが難しかったので、3ローター、4ローターエンジンの開発を中心に、1990年までの足取りをたどり、次回(その4)で1991年ルマンへの挑戦をご報告することにしたい。ご理解いただければ幸いである。
1983年からグループCカテゴリーを前提とした高出力エンジンの開発がスタートしたが、当時ロータリーエンジン設計にいた栗尾憲之氏(写真左)と、山本修弘氏(写真右)は以下のように回想している。『ツインターボ付きの13Bエンジン(2ローター)で開発を進めたが、当時セラミックタービンはなく、苦労の上耐熱合金を使ったタービンができたものの、軸受部のオイルシールが熱で破損し、レース用にはターボが非常に難しいことが判明、新しく導入された燃費規制も考慮して3ローターに方針を変更した。3ローターの課題はエキセントリックシャフトにあったが、メルセデスベンツC111が採用していたようなギヤの分割ではなく、シャフトを分割して、テーパーカップリングでつなぐ方式を選択、業務外で密かに2ローターのシャフトを使い分割シャフトの信頼性を確認したが、当時の黒田尭常務がゴーをかけてくれた。その時3ローターの開発にさける人員はたったの2.5人。1985年のルマンから使いたかったが、間に合わず、1986年のルマンが3ローターエンジンのデビュー戦となった。この3ローターでの苦労がその後の4ローターの開発に大きく貢献した。』
13Gと名付けられた3ローターエンジン(写真左下の13J(20B)が正しくは13G)は9000rpmで450馬力を発揮、ポルシェ962用のギヤボックスと組み合わされ、ナイジェル・ストラウド氏の設計による757に搭載された。1号車は1985年11月にシェークダウン、1986年4月には鈴鹿500キロで実戦デビュー、ルマンでの活躍が期待されたが、決勝では片山/寺田/従野の乗る171号車は59周目にメインドライブシャフトの折損でリタイア、ケネディ/ギャルビン/デュドネの繰る170号車も10時間で同じトラブルに遭遇、3ローターのデビュー戦を飾ることはできなかった。
1987年のルマンには再度13G 3ローターエンジンで挑戦、この年の757は外観こそほとんど変更がなかったが、モノコック後部とリアのサブフレームの構造変更により運動性能が飛躍的に向上、空力的にも改善され、ケネディ/ギャルピン/デュドネ組の202号車はマイナーなトラブルに遭遇するものの、日本車で初めての総合7位、IMSA GTP部門優勝を果たすことが出来たことは、これまでの報告の通りだ。
1987年ルマン後の7月の富士500マイルレースは、当時エンジン開発部長だった達富康夫氏(写真左)にとってはじめてレースで、このレースにはルマンに出場した757も2台参戦した。ルマンでそれなりの結果は残したものの、より上位を狙うには450馬力程度の3ローターエンジンでは十分ではく、更なる出力アップが必須だったが、ターボ化が適切ではないことすでに分かっていた。達富氏は、富士スピードウェイでの寺田氏の『3ローターにもうひとつローターをつければいいのでは?』の一言に動かされ、本社に帰るなり、『4ローターを3日でつくれと指示、実際にエンジンが出来たのは10日後だったが、マツダの歴史の中で新エンジンをこのような短期間で実現したのはこれをおいてはないはずだ』という。3ローターのリア側にもう一つローターを追加して4ローター化した13Jというプロトタイプエンジンは、757を改造した757Eというクルマに搭載されて1987年11月の富士500キロレースに参戦したがコースアウトでリタイア。しかしこの4ローターエンジンは全長が長く、重量も重く、そのままで1988年のルマンに挑戦することは不可能と判断、非常に短いリードタイムの中で全長を70mm短縮するなど大幅な改造を行ない、新しく開発されたシャシー767に搭載、1988年のルマンに挑戦することになる。13J改エンジン(写真右)の出力は8500rpmで550馬力だった。
1987年10月にはマツダのモータースポーツにとってもう一つ大きな動きがあった。達富氏がエンジン開発部長から商品企画開発本部(以下商品本部)長に異動、同時に前報で述べたようにモータースポーツ主管部門が広報部から商品本部に移管されたのだ。『エンジン開発部長時代もモータースポーツ委員会のメンバーだったが、好き者が勝手にやっているように思えたし、大金をかけてモータースポーツをやることの会社にとってのメリットは一体何なのかと大きな疑問を持っていた。その意味からはアンチモータースポーツ派だった』という達富氏は、モータースポーツにも主査制度を導入、初代モータースポーツ担当主査には、広報でモータースポーツを統括してきたRE研究部出身の藤山哲男氏が任命された。
1988年のルマンには13J改エンジンを搭載した767 2台と、前年の3ローターエンジン搭載757 1台の計3台で挑戦した。767は757同様ナイジェル・ストラウド氏の設計によるもので、モノコックの形状は基本的に757をベースにしているものの、アルミハニカムモノコックの一部にカーボンパネルを採用、車体剛性を高めると共に、4ローターエンジン搭載によるホイールベースの延長を最小限に抑え、リアウィングはボディーと別体になった。予選結果は767の2台が28位、29位、757が37位、決勝で767は序盤快調な走りを見せるが、夕暮れごろには3台にブレーキトラブルが発生、翌朝から2台ともエキゾーストマニホールドのクラックやタイミングベルトのトラブルに見舞われ、復旧に長時間を要し、上位入賞の願いは届かず、2台の767は総合で17位、19位で終わり、3ローターの757が15位と3台中最上位でチェッカーフラッグを受けた。残念だが4ローターエンジンのデビュー戦としては満足のゆくものではなかった。
余りにも短時間で開発された13J改4ローターエンジンの反省をもとに、1989年のルマンにむけて大幅な改良が行なわれた。2段切り替え可変吸気やセラミックアペックスシールの採用などによりエンジン出力は630馬力にアップ、中低速トルクも向上した。加えてサーメット金属をバインダーとしたセラミックコーティングをサイドハウジングのガスシール摺動面に溶射、更にはガスシール潤滑用混合オイルの開発などによりシール摩耗の改善もはかられ、エンジン制御システムの改善も行なわれた。このエンジンは13J改2型とよばれた。
このエンジンを搭載したのが767Bで、エキゾーストパイプをサイド排気とし、ラジエターやオイルクーラーが小型化され、風洞による徹底した空力テストの結果、CD値の低減も図られた。レナウンのスポンサーを得て、あざやかなチャージカラーのマシンが誕生したのもこの年だ。1989年のルマンには3台の767Bをエントリー、201号車はホッジス/ケネディ/デュドネ、202号車は従野/ルゴー/フォーブスロビンソン、203号車は寺田/デュエズ/バイドラーがハンドルを握った。本来201号車のハンドルを握る予定だった片山氏は食中毒が原因で出場を断念した。
202号車が16位、201号車が29位、予選でアクシデントに巻き込まれた203号車が35位からのスタートとなったが、3台とも序盤から順調に周回を重ね、201号車はノートラブルで24時間を走りぬき、4980?を走破して総合7位、IMSA GTPクラス優勝、202、203号はサスペンショントラブル、エキゾース系のトラブルなどに遭遇するものの、総合9位、11位で3台とも完走を果たした。
しかし1989年が初めてのルマン行きとなった達富氏はその時以下のように感じたという。『まずニッサンの走りに好感をもった。優勝に向けて全力でファイトしていたからだ。それに比べてマツダの走りは後ろからとろとろついて行って前のクルマがリタイアするのを待っているように見え、非常に不満だった。レース後のメディアインタビューで、なぜ総合優勝を狙わないのかと聞かれ大変悔しかった。またルマンの観客の興奮ぶりに驚くと共に、優勝に向けて戦うことがいかに大切かということを強く感じた。ニッサンの走り方はまさにそうだった。マツダがルマンに参戦する以上は、優勝に向けて戦うマツダを見てもらうことが大切だと思った。』
そしてその後の打ち上げパーティーが1991年の優勝に向けての大きな引き金になった。達富氏はいう。『打ち上げパーティーの会場でピエール・デュドネさんが目の前にいたので、来年優勝するには何が必要かと聞いたところ、あと100馬力欲しいという返事が返ってきたので、その場で100馬力向上を約束した。帰国後、今でも燃費がぎりぎりなのに100馬力アップして燃費がもつはずがないという声が多かったが、ロータリーエンジンの効率が悪いのはアイドリングなど超低速領域であり、ルマンで使う回転数領域ではレシプロエンジンの効率と変わらず、レシプロに出来ることならロータリーに出来ないはずはないと考えた。』
ここで一言触れておかねばならないのが、ルマンの競技規則の変更の動きだ。FISAの案では1990年をロータリーエンジン、ターボエンジン、大排気量エンジンなどが出場出来る最後の年とし、1991年からは当時のF1と同じ、3.5Lの自然吸気エンジンだけに出場資格を与える方向で着々と動いていた。マツダがREで出場可能な最後の年となる可能性の高い、1990年のルマンに向けて最大限の努力を傾注することになったのは当然の成り行きでもあった。
ここで本井伝義則氏(写真右)に登場してもらおう。本井伝氏はもともとロータリーエンジンの開発に従事してきたエンジニアだが、1989年ルマンの終了当時、エンジン開発部でユーノスコスモ用の3ローターエンジンの開発リーダーを務めていた。『ルマンに行った達富さんから、100馬力アップせよ、同時に燃費も10%向上せよという、信じられないような目標が「神の声」として下りてきた。同時に私は達富さんの後任の大平エンジン開発部長から、ユーノスコスモ用の3ローターエンジンに加えてルマン用エンジンの開発責任者も命じられた。それまでルマン用のエンジン開発に従事してきたのはごく一部の人達だったが、神の声に奮起してエンジン開発の全てのメンバーから@高回転化、A抵抗低減、B燃費改善、Cエレキ制御、D重量軽減に関するアイディアを募集することにした。その結果、1000件を超えるアイディアが集まったので、それぞれにスペシャリストを割り当て、アイディアの絞り込みを行なった。当時すでに図面化にはCADが活用されはじめていたが、量産開発が忙しく、夜間や夏休みを利用し、若い設計者たちがラーメンをすすりながら、家に帰らず図面を完成させてくれた。エンジンのテストベンチも量産開発で手一杯だったので、外部の専門会社にも最大限協力してもらい、各種パーツのテストは1990年の2月ごろまで続いたが、目標とした700馬力の出力と、10%の燃費向上は何とかめどをつけることが出来た。このエンジンが26Bとよばれるエンジンだ。ただし1990年のルマンには、最終評価を十分に行なえないまま、送り出さざるを得なかった。』
ここで26Bと呼ばれる新型4ローターエンジンを簡単にご紹介しておこう。まず前年は2段切り替えだった可変吸気を、回転数とともにリニアに吸気管の長さの変わるものに変更することにより回転数全域でのトルクが大幅に向上、燃料噴射を吸気ポートに近いところで行なうペリフェラルポートインジェクションにすることによりエンジンの応答性も改善された。繊維強化を取り入れたセラミックによりアペックスシールの強度と靭性を強化、2分割を採用、それまでの2プラグ方式を3プラブ方式に変更して出力、燃費を更に改善、前年はサイドハウジングのみに採用したサーメットコーティングをローターハウジングにも採用して耐摩耗性を向上するなど多岐にわたる改善がな行われた。
達富氏はまた1989年のルマンのとき以下のように感じたという。『モータースポーツに大切なことはマン、マシン、マネージメントの3Mだと思った。このうちマシンは技術サイドの努力で解決が可能だし、マンという視点からはF1ドライバーの採用を承認したが、最大の問題はマネージメントだと思った。マツダスピードというレースのプロに、当時のマツダの開発関係者がいろいろと口をさし挟んでいたことも問題で、マツダが送りこむマツダスピードの社長にはあえて技術系ではない、営業出身の森丘幸宏氏を選んでもらった。』
1989年終わりから1990年初めにかけて達富氏はマツダにおけるモータースポーツ関連の人事異動も行なった。ちょうど3代目RX-7の開発が佳境に面していた小生に対してモータースポーツ主査兼務が指示された。2足のわらじを躊躇した私を動かしたのは前任者の健康悪化だった。加えて本井伝氏をエンジン開発から商品本部に異動させ、私と二人三脚が組めるようにし、それまで20年以上ロータリーエンジンチューニング一筋に活躍してきた松浦氏をマツダスピードの取締役技術部長として出向させた。一連の人事異動が機能し始めたのは1990年の2月ごろだった。
1990年ルマン用の26Bエンジンを搭載した787は757以来マツダのマシンを手掛けてきたナイジェル・ストラウド氏の設計によるものだが、従来のアルミハニカムモノコックは、カーボンファイバーコンポジットに変えられ、シャシー剛性が大幅に向上、ラジエターがフロントに移され、空気抵抗の低減が図られた。また走行中の各種データーをリアルタイムに分析できるテレメータリングシステムもこの年から採用された。1号車が完成したのは1990年4月、富士スピードウェイでシェークダウン後ポルトガルのエストリルに空輸され、5日間の連続耐久テストに臨んだが、2号車で参戦予定だった5月の富士1000キロレースが雨のためキャンセルになり、不安を抱えながらのルマン参戦となった。またこの年から大きく変わったのが、ユノディエールの直線に設けられた2つのシケインで、これにより車両に要求される特性も様変わりした。
レースには787 2台と、前年のマシン(13J改2型エンジン搭載の767B)の計3台が出場したが、787のステアリングを握ったのは201号がヨハンソン/ケネディ/デュドネ、202号車がF1トリオのガショー/ハーバート/バイドラー、767B 203号車は片山/従野/寺田の日本人トリオだった。レースでは不安が的中し、水温上昇、燃料ラインのパーコレーション、ブレーキローターの不具合、サスペンションのボルトの緩み、ヘッドライトの脱落、ドライブシャフトからのオイル漏れなどのトラブルに悩まされ、11時間目には201号車にエンジントラブルが発生しリタイア、202号車は電気系統のトラブルがこうじて14時間目にリタイア、残る203号車もトランスミッションのトラブルに泣きつつ、20位での完走がやっとだった。こうして1990年のルマンは惨敗といえる状態で終わった。
しかし、思いがけずレース終了後新しい競技規則の1年間の延期が発表され、1991年へ希望をつなぐことが出来たが、もしも1990年がRE出場可能の最後の年となっていたら、マツダのルマン挑戦は悲しい結末で終わっていたわけで、あたかも、「飽くなき挑戦」をする弱者に女神がやさしくほほ笑んでくれたような運命的なものを感じずにはおられない。マツダは最後のルマン挑戦のキップを手にしたのであった。