ポールさんは1917年フランス生まれのベルギー人、ブラッセルの大学での専攻は経営工学だが、1945年にジャーナリストとしてのキャリアーを開始された。1946年に2輪から始まったレースへの参画は1948年のスパ24時間レースへのMGによる参戦を皮切りに4輪に主軸をシフト、スパの生産車レースではパナール、オールズモビル、アルファロメオなどで11回も勝利を手中に収めた。53年、ミレミリアでクライスラーによりクラス優勝するとともにルマンへの参戦を開始、同年は1.5Lクラスの優勝と総合15位、1955年はアストンマーチンで総合2位、1957年にはジャガーで4位、1958年はポルシェ1500でクラス優勝と総合4位、1959年にアストンマーチンで総合2位などを獲得した。1960年、フェラーリでの念願のルマン優勝、クーパーでの南アフリカグランプリ優勝を機にヘルメットを脱ぎ、91歳までジャーナリストとして活躍されてきた。
この間ヨーロッパのメディアへの貢献はもちろんのこと、日本のカーグラフィック誌との関係は1966年、米国ロードアンドトラック誌ヨーロピアンエディターとしての役割は1974年にまで遡る。フェアーでどこにもおもねない、常に適切な技術的洞察を伴う記事は世界各国のファンを魅了してきた。著書『Competition Driving』(改定後は『Sports Car and Competition Driving』)、『Porsche 911 Story』などは余りにも有名だし、『いつもクルマがいた』(二玄社)も貴重な一冊だ。世界を見渡してポールさんに比肩できるモータージャーナリストは過去、現在ともに皆無といってもいいが、今後の自動車文化、技術の発展のためにポールさん二世の出現を心から願うのは私だけではないはずだ。
ポールさんとの最初の出会いは、1976年に遡る。ロータリー車のアメリカ輸出に伴う技術フォローのための4年間の米国駐在から帰任直後、海外広報に異動を命じられた私の最初の仕事が著名なジャーナリストにご紹介いただいてのポールさんの招聘プログラムだった。このときマツダは初代323(後輪駆動ファミリア)を開発中で、欧州での基盤拡充とアメリカ市場の復活を目指していた。欧州市場に対する率直なご意見や、三次試験場での目の覚める走りとそれに基づいた貴重な技術的アドバイスに関係者一同が感銘した。
以来毎年のようにご夫妻で、後年奥様の体調が長旅を許さなくなってからはポールさんお一人で来日いただき、初代626(FRカペラ)、初代FF 323(ファミリア)から3代目RX-7にいたる多くのモデルに対する貴重なアドバイスをいただくことが出来た。また「欧州での実車評価こそが大切」という進言も受け、テストチームが足しげく欧州に出向くようになり、多くの場合ポールさんの参画も得て試作段階での公道、ニュルブルクリンクなどにおける評価を実施した。また開発技術者達を対象にドライビングスクールも開いていただき、三次総合試験路建設に当たっては貴重なアドバイスも頂戴した。
初代、2代RX-7とも開発段階から評価いただいたが、『My Life Full of Cars』(英文、Haynes社刊)には2代目RX-7をシシリー島タルガフロリオコースで走らせた際に参画いただいた、ポールさん、同レースの覇者ニノバカレラさん、山口京一さんとご一緒の懐かしい写真も収録されている。3代目のコンセプトは一連のアドバイスも参考に「REベストピュアースポーツ」(REの特性を最大限に生かした最高の運動性能を誇るスポーツカー)と決定、徹底した軽量化、低重心化、ヨー慣性モーメントの低減と、馬力当たり荷重5kgの実現を目指し、開発過程で三次やニュルブルクリンクで評価いただいた。
このようにポールさんがマツダのクルマづくりに与えて下さったインパクトは計り知れないものがあり、マツダ車の欧州市場における高い評価や、現在のズーム・ズームな(楽しい)走りのルーツは一連のご指導にあったといっても過言ではない。またマツダ一社に限らず、ホンダをはじめ日本のクルマづくり全体に対して直接、間接に与えてくださった影響は計り知れないものがあると思う。
マツダにおけるポールさんの来日プログラムほとんど全てに携わり、ご夫妻とは家族ぐるみのお付き合いもさせていただいた。来日されたご夫妻を何回も家族とともにお迎えしたが、2005年、愛・地球博とリンクして実施されたミシュランビバンダムチャレンジ&フォーラムのために来日された帰路半日ほど横浜をご案内した後、今では結婚している娘夫婦も交えてのフォーシーズンズホテルでの再会が最後となった。娘がはじめてお会いした頃はまだ2歳だった。
南フランスのご自宅にも何回かお邪魔したが、大の日本食ファンのご夫妻のために、時には慣れぬ手つきで日本食を調理した。あるとき大変素敵な奥様のスザンヌさんとの出会いに関する話をうかがったが、1953年のミレミリアのプラクティス中、踏み切りで前に止まった(同じくミレミリアに参戦していた)Cタイプジャガーの助手席に座ってヘルメットの下から金髪がたれていた女性がスザンヌさんで、その数年後に結婚されたという。
一連のお付き合いを通じて心酔したのはポールさんのお人柄、ジェントルマンシップ、人に対する暖かい思いやり、フェアーで毅然とした態度、クルマとその技術に対する卓越した見識、ドライビングスキルなどだ。多くの機会に助手席に乗せていただいたが、過酷な条件下での信じられない速さに対比して、ステアリング、アクセル、ブレーキなどの操作が実にスムーズで、あたかも奥様をいたわるかのようにやさしく操る様子は多くのレーシングドライバーや自動車ジャーナリストとは比較にならないものだった。一歩でも近づきたいと今でもそのイメージを反復しているが、目標ははるかかなただ。ちなみにご夫妻と一緒に乗ったクルマの中では、信号待ちなどの間にポールさんがスザンヌさんの手の上にそっとやさしく手を重ねられるのが印象的だった。
ポールさんとルマンの結びつきは特別で、50回目の24時間レース来場を記念して主催者側から贈られた時計を見せていただいたのはもう随分前だ。マツダが出場していた頃はパドックやテントに必ず足を運ばれ、チームメンバーを激励するとともに歓迎の「味噌汁」を喜んで下さった。91年のルマンではダンロップブリッジにいたるコース内の特別ルートを深夜ポールさんの案内で、二人で歩きながら787Bの快調な追い上げを確認した。マツダの勝利をわが事のように喜んでくださったのはいうまでもない。『My Life Full of Cars』の表紙でフェラーリを繰るポールさんが着ておられるジャケットは光栄なことにマツダが91年にルマンで優勝した折のチームウェアーだ。
マツダからのささやかな恩返しは、1992年初め75歳のお誕生日に際しての、「孫や親戚の子供たちをルマンで走った車の助手席に乗せてサーキットを走りたい」という願いをかなえてあげられたことだ。優勝車787Bは日本に持ち帰っていたが、マツダのルマン挑戦をサポートしてくれたフランスのレーシングファーム、オレカに787が残存していることを確認した上で、オレカの社長に相談すると二つ返事で全面協力を約束してくれた。787の助手席(?)に急づくりのシートを装着し、親戚やお孫さんたち14名を次々に乗せてポールリカールサーキットを69ラップも走られ、「おじいちゃんは、本当は75歳ではないことが証明出来た」ようだ。奥様からいただいた悲報のお電話の中でこのことを最後まで喜んで下さっていたことをうかがい、涙が止まらなかった。私が最も愛し尊敬する恩師であったポールさんのご冥福を心よりお祈りする。