直近の『車評オンライン』では日本の自動車産業の現状に対する私の危機感と、生き残りをかけてのクルマ作りに対する発想の転換の必要性、中でも「右脳にアピールするクルマづくり」を繰り返し主張してきたが、そのためには『感性を研ぎ澄ませた、情熱あふれる、経験豊かなデザイナーやエンジニアでなければ作り上げることのできないもので、経営者のクルマへの思い入れとも決して無関係ではない。』と述べてきた。
中島繁治氏の存在を強く意識することになったきっかけは、何年か前にマーチ12SRという、ニッサンマーチのオーテックバージョンに試乗して、いたく感動したことだった。東京から広報車両を借り出し、箱根の山間路も走りまわったあと、ハンドルを誰にもゆだねたくない衝動にかられたのを今でも鮮明に思い出す。その後も何種類かのオーテック仕様のクルマに乗る機会を得たが、いずれも負けず劣らず、魅力的なクルマに仕上がっていた。ドイツの産業発展に大きな役割を果たした資格制度が「マイスター制度」であり、近年日本でも一つの分野に精通した真のプロフェショナルや匠の技を究めた人を殊遇する仕組みとして採用する企業もあると聞くが、中島氏がオーテック時代にマイスターという称号を与えられたことには十分に納得がゆく。2009年末にオーテックを退職された後も折に触れて交流させていただいてきたが、今回の『車評オンライン』では中島氏の足跡を振り返らせていただくとともに、次回には日本車の進むべき道を共に語らってゆきたい。
中島繁治氏によると、『小説「黒の試走車」などの影響も受け、クルマに対する関心が非常に高く、就職先として選んだのは「会社としては小さくても、かっこいいクルマをつくっていたプリンス自動車工業」だった。入社は1962年、「ものづくり」に対する関心が深く、希望したのは試作部門だったが、配属されたのは「走行試験課実用性グループ」だった。』という。そのころ開発が進行していたのはS50型のスカイラインで、S50型は、その後日本グランプリで総合優勝をかざり日本のモータースポーツブームに火をつけることになるスカイラインGTに発展したモデルだ。以来中島氏の「クルマづくり」のノウハウの蓄積が開始されることになる。『当時プリンスの走行試験課には実用性を評価するグループ以外に耐久走行グループ、性能グループがあったが、実用性グループにおける評価項目、評価基準などの整備はまだ十分ではなく、上司から言い渡されたことは「お客様のやることは全てやってみろ」であり、開発トップの田中次郎氏からの指示は「実用性は神の声と考えろ」だった。』という。
1965年頃からは桜井眞一郎氏のプロジェクトに関わり、C10 プロジェクト(3代目スカイライン)を皮切りにR32プロジェクト(8代目スカイライン)まで、スカイラインシリーズと深い関わりを持つことになった。『当初は静的領域の評価が主体で、例えばC10のコーナリング中の三角窓の視界へのこだわり、前方の信号の見やすさにこだわったルーフ形状、使いやすいサイドブレーキレバー形状、トランクの使い勝手やワイヤ式トラックリッドオープナーの採用、バックアップランプの保護、身長の異なるドライバーにマッチするアイポイントの実現のためのカイパー社製のシートリフターの採用などは具体的な改善事例だ。』という。またローレルと共通のプラットフォームを使いながらも、スカイラインには走りや音も含めてのスカイラインらしさを追求し、差別化もはかった。1965年に村山テストコースの一部が完成はするが、大半の評価は一般公道で行なったという。
『桜井眞一郎氏は昨今の職制でいえばチーフプロダクトスペシャリスト、チーフビークルエンジニア、プロダクトダイレクターなどの役割を併せ持ったような役割で、クルマに対して実に熱い人で、親分肌だが、理屈が通れば絶対にやってくれた人だった。桜井眞一郎氏とはいろいろな場面で直接話を交えることも多く、親しみを込めて「税務署の繁ちゃん」と呼んでくれた。意味するところは、実用性グループが発行する不具合連絡票はあたかも税金の納付書のようなもので、それにきちんと対応しない限り桜井さんといえども生産に移れなかったかららしい。』という。桜井眞一郎氏の担当以外の車種で開発に携わったクルマの中には皇室用の車両、プリンスロイヤルもあり、中島氏も公道での評価をずい分行なったが、パレード走行からいざという時の全開走行までをこなせなくてはならず、また非常に静かなクルマだったようだ。
「車体剛性」と、「操安性」は非常に重要な相対関係をもつことは皆様もよくご存じの通りだが、『そのころまではあまり注目されておらず、車体が大きくなったC110シリーズあたりから関連性も含めて注目されるようになり、R32モデルにむけては必ずしも理論的ではなく、実証的に車体剛性の強化が順次行なわれた。』という。私が開発主査をつとめた3代目のRX-7の開発過程で市場に登場したのがあのR32スカイラインだったが、早速購入していろいろな条件で評価を実施し、それまでの日本車にはないしっかりとした車体と高性能なエンジン、更には4輪駆動システムによるあらゆる走行条件下での優れた走りを実現したモデルとしてスポーツカーの世界とは方向性が大きく異なるものの深い感銘をうけ、サーキットや公道で徹底的に走りまわった思い出が鮮明に蘇ってくる。
『ニッサンが1980年代に「1990年までに走りで世界一を目指す」として開始した活動が、「901活動」であり、中心車種は国内向けがスカイライン、北米向けがZ、欧州向けがプリメーラだった。』という。伊藤修令氏に近年うかがったお話では90年代にシャシー性能世界ナンバー1になろうというシャシー設計が言い出した活動とのこと。スカイラインプロジェクトには伊藤修令氏、渡辺衡三氏などというパワフルな人材がそろっていたため、中島氏は手薄だったZの北米・欧州むけ主担代行として、『あのアンリ・ペスカロロ氏などのアドバイスもうけながら、欧州の一般道はもとより、ニュルブルクリンクなどでも徹底的に走りこんだ。目標はポルシェ928を超えることだったが、一部にやり残し感はあるものの、オートバーン上での市民権も含めて満足ゆくレベルまで持ち込むことが出来た。』という。「901活動」では国内外の有力ドライバーの支援も広範囲にうけたようだが、マツダが80年代初頭からポールフレール氏を中心に国内外の有力ジャーナリストやドライバーの支援を幅広く受けてきたことと相通じるものだ。
「901活動」の成果が盛り込まれたスカイラインR32 GT-Rに私が感銘したことは前述の通りだし、プリメーラは中島氏の友人が担当したとのことだが、『プリメーラは初期の試作段階の出来が大変悪かったので、徹底的に手を入れる必要があり、結果として非常に良いものになった。』という。イギリスで生産されて日本に輸入されていたころの初期のプリメーラの走りの質感には私も大いに感銘したことを鮮明に覚えており、総じて「901活動」は非常に意義のあるものだったことは疑う余地がない。
このような活動を通じて一段と存在感と技術の蓄積を増した中島氏は1992年1月、ニッサンとしては初めての技術主担という称号を与えられる。このとき技術主担となったのはデザインのモデラー1名、冷却システムの専門技術者1名の計3名だというが、「マイスター」と非常に近い専門技術者の処遇であろう。中島氏は1999年まで日産に在職、1999年からは当時オーテックジャパンの常務だった伊藤修令氏の引きでオーテックに移った。『当時のオーテック商品はサスのローダウンやエアロ部品の外観変更程度の外観チェンジが主体であったが、社長の相部氏から「商品アイデンティティーの向上」と「後継者の育成」を依頼され、教育のための予算も認めてくれたため、『中島学校』を開設、シャシー、エンジン、車体、空力などのあり方を学ぶためにミッドシップのマーチまでつくった。』という。そしてオーテックバージョンが次々に生まれてくることになる。
その代表例が12SRだが、つくり手の思いを如何に伝えるかに注力し、『やる以上は納得できるまでやらなければという意気込みで、広範囲な領域にわたってベストを追求した。中身は、車体剛性の向上、ダンパー、スプリングはもちろんのこと、サスペンション全体に対する見直し、圧縮比、カム形状、更にはピストンの形状にもおよぶエンジンの見直し、空力の改善、シートや内装の見直し、各ペダル踏力の調整、パワステ特性の見直し、などに及んだ。唯一出来なかったのはギヤ比の修正とリアブレーキのディスク化だった。しかし決して変えることが目的ではなく、どのような特性を実現したいかという明確な目標に基づいたものだった。』という。ちなみに12SRは当初開発目標の10倍を超える販売実績が日本のクルマ好きの人たちの期待に応えた商品になっていたことをいみじくも表していると思う。
ここで注目に値するのはエキスパートの勘にたよって一連の改善が行なわれたのではなく、中島氏が日産時代にすでに開発してきた「車両官能性能展開と重点取り組み項目」という非常にロジカルな目標設定を行った上で開発が行なわれてきたことであり、私の主張する「右脳にアピールするクルマづくり」を実現してゆく上でも非常に大きな指針となるものだと思う。以上今回はマイスター中島繁治氏の足跡を簡単に振り返ってが、次回は中島氏と今後の日本のクルマづくりのあるべき方向性に関して議論してゆきたいと考えている。来月はルマンで行なわれるマツダの優勝記念イベントの報告を予定しているので、次回の中島氏との議論は8月15日アップの車評オンラインをお待ちいただきたい。