1962 Datsun Bluebird 1200
・1945年戦争が終わって1946年7月には戦後型第1号となる試作車が完成している。イギリスのメーカーなどはそっくり戦前型を継続して生産している例もあるが、「ダットサン」に関しては戦前設計のシャシーを利用しながらも、何とか戦後型と言えるモデルを生み出そうと努力している。1946年から54年までの戦後第1期は、実質戦前型を進化させたもので、1953年には「オースチン」のノックダウン生産で技術習得を図る。本格的戦後型は1955年月登場した「ダットサン110」から始まった。これがその後日産自動車の小型車の軸となる「ダットサン・ブルーバード」に繋がる事となった。
<戦後再開・初期のトラック>
(参考01-1ab) 1946 Datsun Truck Type1121
1945年8月、第2次大戦で敗戦国となった日本は すべてを連合国の管理下に置かれ、自動車産業は1946年5月になってトラックの生産が許可され、日産吉原工場で製造が始まった。グリルは鉄板を打ち抜いただけの垂直でシンプルなものだった。(説明では「トラック」となっているが、この顔は「DA」ではないかと思われる)
(参考01-2a)1947 Datsun Truck Type2124
翌年一寸手を加え、ラジエターグリルの上半分が少し傾斜し、ボンネットサイドに通風孔が開けられている。
(写真01-3a~d)1947 Datsun Truck Type 2225 (2014-07 日産ヘリテージ・コレクション/座間)
(写真01-4abc)1948 Datsun Truck Type 2225 (2019-06 日本自動車博物館/小松市)
現存する戦後生まれの小型トラックとしては最古と思われるのがこの2台だ。「2224」型の改良型とされているが外見から相違点は見付からない。
<戦後初の乗用車・DA>
(参考02-0abc)1947 Datsun DA Sedan Prototype
1947年6月、「GHQ」は日本政府に対して1500cc以下の乗用車を年間300台に限って製造することを認めた。その2か月後の8月には、日産の戦後初の乗用車「ダットサン・スタンダード・セダンDA」(試作車)が吉原工場で完成している。
(参考02-1ab)1947 Datsun DA Sedan (前期型)
試作型の後部をなで肩に修正して生産型が生まれた。この形は実は戦前の1937年「16型バン」(写真参照)とそっくりなので、何か関係が有るかもしれない。12月には月産20台迄生産能力が向上している。(日産以外に小型乗用車を生産している所はないから、年間300台は日産のものだ)
(参考02-2ab)1948~50 Datsun DA Sedan(後期型)
戦前の「17型マスク」と「フェンダー」の金型が見つかり、顔付きは乗用車風に変わった。ボディにも手が加えられ少し大きくなった様に見える。
<DBシリーズ>
(参考03-0ab)1947 Crosley Sedan
「DB」のお手本となった「クロスレイ」は大型車のアメリカ市場では異端な小型車メーカーで、「セダン」「バン」「ホットショット(スポーツ)」の3種があった。日本にも少数輸入されている。
(参考03-1ab)1948 Datsun DB Prototype
プロトタイプはお手本の「クロスレー」に倣ってグリルが2分割だった。市販型に較べると窓枠の下縁が太く、窓が細い。
(参考03-2a)1949 Datsun DB Deluxe Sedan
市販型として最初のモデルで、グリルは6本の細いクロームラインが横一杯に広がった。窓枠は通常の形に戻され、窓の形も普通になった。このボディシェルは標準型となり、以降「DB6」迄基本的な変更はなかった。
(参考03-3a)1950 Datsun DB2 Sedan (2011-07 快進社100年展/上野国立博物館
(参考03-3b)1950 Datsun DB-2 Station Wagon
外見の変化は見られないが、エンジンの排気量が722ccから860ccに換装され「DB2」となった。
(参考03-4ab)1951 Datsun DB-4 Deluxe 4dr Sedan/Wagonette
「DB3」の市販型は存在せず、1951年8月「DB-4」が発表された。ホイールベースが95mm延びて2100mmとなり、4ドアが可能となった。
(写真03-5a~d)1953 Datsun DB-5 Deluxe Sedan (2015-07 日産ヘリテージ・コレクション/座間)
(写真03-5e~h)1953 Datsun DB-5 Deluxe Sedan (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
1953年1月エンジンの出力が21馬力から25馬力に強化され「DB-5」となった。
(参考03-6)1954 Datsun DB-6 Deluxe Sedan
(写真03-6a~d)1954 Datsun DB-6 Deluxe Sedan (1958-03 静岡市/常盤通り)
「DB」シリーズは「DB-6」が最終モデルとなった。リアウインドが拡大され「ラップアラウンド」となったが、曲面ガラスの製造限界を超えているため3枚繋ぎで対応している。A~dは現役で活躍している姿を静岡市内で撮影したものだが大切に扱われているようでとても綺麗だ。
(写真03-6efg)1954 Datsun DB-6V Delivery Van (2019-05 林コレクション/大宮)
林コレクションは個人の趣味の延長線上にあるようだが、国産の商用車やトラックなど、クラシックカーではない、他所では見られない貴重なものがたくさんある。
< スリフト >
(参考04-0ab)1950/51 Datsun DS-2 Thrift 2dr Sedan
「DA」(スタンダード)でスタートした戦後のダットサンは、アメリカナイズしたデラックス版「DB」にバトンタッチしたので、それに代わるシリーズとして1950年9月「廉価版」の「スリフト」を誕生させた。(Thrift=倹約)曲線で構成された「DB」とは対照的に、殆どが平面的で板金加工がしやすく、コストダウンを目指したもので、「富谷龍一」が設計し「住江製作所」が製造を担当した。
(写真04-1abc)1952 Datsun DS-2 Thrift 2dr Sedan (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
市販されたのは「DS-2」からで、2ドアからスタートした。外見から「ジープ」(写真参照)がお手本だったことが良く判る。ドアは前ヒンジの後開きだった。
(参考04-2a)1951 Datsun DS-4 Thrift Sedan
(写真04-2 b~f)1952~53 Datsun DS-4 T
1951年8月モデルチェンジでボディに大幅の改善が加えられ、リアにトランクルームが付き、4ドア仕様となった。そのためドアヒンジは中央の「Bピラー」に写り、前ドアは前開きに変わった。4ドアはタクシー需要に応えるための対応と思われる。後ろ姿未は「トライアンフ・メイフラワー」の面影も垣間見える。(写真参考)
(参考04-2g)1954 Datsun DS-5 Thrift 4dr Sedan
1953年2月フェイスリフトが行われ、「DS-5」となった。当初「DB」の廉価版として登場した「スリフト」だったが次第に豪華となり、「DB-2」では12万円あった価格差は「BD-4」では4万円に縮まり、「DB-5」ではその差は僅か1万円で、廉価版としての存在では無くなっていた。
< コンバー >
(参考05-1ab)1954 Datsun DS-6 Conver Sedan
「DB-5」の後継車が1954年7月登場する「DB-6」だが、ボディーもパワートレーンも一新され、名前も新たに「コンバー」と変わった。(「Conver」とは「Convenient Car」の略だそうだが、コンビニが日常語の現代とは時代の差を感じる)
(写真05-2a)1954 Datsun DS-6改 Conver Picup (1959年 静岡市本通り/国道1号線)
「DB-6」が登場して僅か数か月後には、戦後の日産としては最初の傑作モデル「110シリーズ」が誕生する。そのお陰で折角誕生した「DB-6」は僅か5か月しか造られなかったから、コレクターとしてみれば、極めて貴重な存在かもしれない。この貴重な1台を現役時代に静岡市内で撮影している。4ナンバーなので商用車として登録されており4ドアセダンを改造したようだ。この道は国道1号線で「本通り」が正式名だが地元では道幅が広いところから「十二間(けん)道路」と呼んでいた。(昔の尺貫法で1間は6尺・畳の縦の長さと同じ×12=約22メートル)真っ直ぐ西に向かった先は安倍川橋となる。
<ノックダウン生産から始まったオースチン>
(写真06-1a)1954 Nissan -Austin A40 Somerset (1957年 静岡市紺屋町/日経新聞前)
日本は自動車生産に関して昭和20年代 (1945~55) は、全くの後進国だった。手っ取り早く技術を習得する手段として、各社が外国メーカーの部品を輸入し、それを組み立てる所から始めた。一番早かったのは1951年「東日本重工」(三菱自動車)→カイザー・フレーザ」で、2番目が1952年の「日産→オースチン」だった。この後1953年には「日野→ルノー」、「いすゞ→ヒルマン」と続いた。日産では当初は「A40 」のノックダウン(全部品を輸入し組み立てのみ)から始め、3年後は部品の完全国産化を目指していたが、本国のモデルチェンジにより1954年12月から「A50」に切り替えられ、国産「A40」は1953-54年型のみである。街中で見かけた車の外観には、何処にも「日産」を示すものはなく、エンジンルームのプレートを見ない限り区別はつかない。
(写真07-1a)1955 Nissan-Austin A50 Cambridge (1959年 静岡市内/江川町通り)
1954年12月からは「A50」となり、ノックダウンから始まったが、今回は国産化の速度は速く、1955年8月には過半数が国産化された。写真の車は初期のオリジナル(本国と同じ)を保った車だ。
(写真07-2a)1959 Nissan-Austinn A50 Cambridge Deluxe (1977-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)
部品の国産化が進むと一部本国にはないものが現れた。その一つは「デラックスモデル」で、外見では幅の広い「サイドモール」が付いているが、本国では格上の「A90」に使われているものだ。
(写真07-3ab)1959 Nissan-Austin VA50 Cambridge Deluxe Van (1959-08 静岡鉄道/春日町駅付近)
日本独自のモデルとして登場したのが5ドアの「バン」だ。本国では、「A35」シリーズに「カントリーマン」として存在するが、「A50」シリーズに「バン」は存在しない。
<トラック>
(参考08-1a)1949 Datsun Truck Type3135
(参考08-2a)1950 Datsun Truck Type4146
(写真08-3ab)1950 Datsun Fire Truck TypeF4146 (2015-07 日産ヘリテージ・コレクション/座間)
(写真08-4abc)1950 Datsun Truck Type4146 (2019-05 林コレクション/大宮)
(写真08-5ab)1952 Datsun Truck Type5147 (1981-01 TACSミーティング/神宮外苑絵画館)
(参考08-6a)1953 Datsun Truck Type6147
(写真08-7abc)1953 Datsun Truck Type6147 (2015-07 日産ヘリテージ・コレクション/座間
(写真08-8ab)1953 Datsun Truck Type6147 (T25) (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
(写真08-9ab)1953 Datsun Pickup-Truck Type6147 (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
戦後の焼け跡で活躍し、少年時代の僕にとっては「日産のトラック」と言えばイメージするのは「縦グリル」付のこのシリーズだった。
<110シリーズ>
(参考10-1abc)1955 Datsun 110 Sedann
(参考10-1de)1955 Datsun K110 Convertible/W110 Estate Wagon
「110」シリーズは1955年1月発表された「DA」「DB」シリーズの後継車である。佐藤章蔵氏によるそのデザインは今までと違って外国の影は片鱗も無く、シンプルでバランスが良く、初めて外国に負けないクルマができたと感じた。このシリーズには、横バー2本の初代(110型)、ハモニカと呼ばれる2代目(112、113型)、た本数の少ない網目グリルを持つ廉価版の3代目(114、115型)、横3本で1番下のバーにヒゲのある4代目(210型)、細かい網目グリルの最終モデル(211型)と5つの顔を持つ。排気量は860cc、25馬力、発売当初の価格は80万円だった。
(写真10-2ab)1955 Datsun 110 Sedan (関西型) (1958-08 静岡市紺屋町/日本相互銀行横)
初代の「110型」は1955年1月に発売され、12月には「112型」に代わったから実質1年限りのモデルである。当時日産では、富士山麓の吉原工場では関東以北向けの「A110型」、名古屋の新三菱重工では中部・関西向けの「110型」と振り分けていた。写真の車は1958年静岡市内で撮影したものだが、屋根の雨どいが後ろまで回っており、俗に「鉢巻き」と呼ばれた関西型だ。
(参考12-1ab)1956 Datsun 112 Sedan
発売後1年の内にエンジンの騒音はじめ数十か所の改良を加えてニューモデル「112」は1955年12月に発売された。アメリカではそろそろテールフィンが目につき、派手なデコレーションが世間の風潮となりつつあった当時、この車は真っ向から虚飾を廃した「フォルムの確かさ」で評価できる車だった。その証(あかし)として毎日新聞社主催の「毎日産業デザイン賞」(工業デザイン部門)を受賞している。
(写真12-3abc)1956 Datsun 112 Sedan (1978-01 TACS ミーティング/東京プリンスホテル)
110シリーズで1番よく目にしたのはこのタイプ「112」「113」だった。グリルの形から「ハモニカ」と呼ばれた。
(参考13-1ab) 1957 Datsun 113 Sedan
1956年6月登場した「113」は外見上「112」と違いは見当たらないが、フロアシフトからコラムシフトに代わりアルミ使用による軽量化が図られている。
(写真13-3a~d)1956 Datsun 113 Sedan (2015-07 日産ヘリテージ・コレクション/座間)
このモデルからはボディが日産製に統一され「関西型」は無くなった。テールランプはまだ1つだけだ。
(写真13-4a~d)1957 Datsun 113 Sedan (1977-08 千葉市内/県庁付近)
千葉市内で開催された小規模のミーティングに参加していた「113」だが、よく見ると「左ハンドル」だ。
(参考14-1a)1957 Datsun 114 Sedan
(写真14-2abc)1957 Datsun 114 Sedan (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
「114」は1957年10月登場したが、同時に「210」(988cc)が発売され、「114」は廉価版として併売された。グリルは「115」と共通の格子状に変った。
(参考15-1ab)1959 Datsun 115 Sedan
1958年10月、マイナーチェンジで「115」となった。変更点はフェンダー上にあった方向指示灯がグリルの横に移動した。街中では1度も写真を撮っていない。
<210(1000)シリーズ>
(参考20-1ab)1957 Datsun 210(1000) Sedan
タイプ順に並べたので後になったが、発売されたのは「114」と同じ1957年10月だった。オースチンの組み立てで学んだノウハウを生かしたOHV 988cc 34馬力のC型エンジンをダットサンに投入たのが「210」(1000)だ。
(写真20-2a)1957 Datsun 210(1000) Sedan (1958-08 静岡市/江川町通り)
僕が東京に転勤したのは1959年9月の事で、「210」が発表されたころはまだ静岡に住んでいた。その頃既に「レベル」や「エアフィックス」などのプラモデルを造っていたが、初めて国産メーカー・マルサン製の「ダットサン210」を見つけた。早速組み立てたが、ボディは左右2分割で背中のところが歪んでうまく合わなかった記憶がある。これは1958年12月発売された日本初のプラモデルだったらしい。写真は静岡市内を走る「210」型で、後ろの銀行は僕の勤務先、その向こうがいつも色々な車が停まっている「中島屋旅館/グリル中島屋」だ。
(写真20-4abc)1958 Datsun 210(1000) Sedan (2012-12 トヨタクラシックカーフェスタ/外苑絵画館前)
グリルが一新され3本の横バーで構成されているが、一番下の両端四分の一に3本の細いスリットが入っているから光線によっては猫のひげのようにも見える。価格は77万5千円だった。
(写真20-7a~d)1958 Datsun 210(1000) Sedan(富士号) (2004-02 日産本社ギャラリー/東銀座)
「210」は意欲的に海外進出も視野に入れていたから、その耐久性をテストするため1958年8~9月にかけて開催されたオーストラリア1周ラリー「モービルガス・トライアル」に「富士号」と「桜号」の2台を出走させた。日産としては初の国際レースだったが「富士号」は19日間で16,000kmを完走、1000cc以下の「Aクラス」で優勝、総合でも25位となり、「ダットサン」の名を世界に知らしめた。
(参考21-1abc)1959 Datsun 1000 (211) Sedan
1958年10月「210」は廉価版「115」と同時に発売された。新しく細かい格子のグリルに代わりぐっとモダンになった様に感じた。外観ではテールランプが2段重ねになったのが変更点だ。「210」ではせっかく1000ccになったのにあまり周知されず、今回は車名に「ダットサン1000」まで取り込んでアピールを図っている。1959年8月まで、数えれば僅か10か月で、次の傑作「ブルーバード」に引き継いだのだが、僕の印象ではもっとずっと長く活躍していたように思っていたのは、多分タクシーなどがかなり長い間街をはしっていたためだろう。「211」は傑作シリーズの最後を飾り、さらに「ブルーバード」によって世界へ羽ばたいていった。エンジンは「210」と同じOHV 988cc (C型) を搭載、価格は67万5千円迄下がっていた。
(写真21-2a)1959 Datsun 1000 (211) Sedan (1957年 静岡市内/中島屋旅館横)
この場所はお馴染みの場所だが左の建物は僕の勤務先で、職員通用口を出たところがここだ。黒い塀は「中島屋旅館」で、ここは駐車可だったから多くの写真が簡単に撮れる絶好の場所だった。
(写真21-3a)1959 Datsun 1000 (211) Sedann (1958年 静岡市内追手町/市役所前)
「211」の後ろに「210」が並んで停まっている写真は静岡市役所の前で、後ろに見えるのは駿府城外堀の石垣だ。
(写真21-4a)1959 Datsun 1000 (211) Sedan (1959-12 東京駅/八重洲口)
この写真の撮影場所は背景に「京浜急行」の看板があったので新橋駅と感違いしていたが、何となく違和感を感じていた。今回詳細に確認したところ右はしに都電の停留場の案内板があり「東京駅八重洲口」とあったので場所の確定が出来た。東京駅周辺も昭和30年代半ばには、まだビルは少なかった。
(写真21-5abc)1960 Datsun 1000 (211) Sedan (1998-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)
1960年と言えばアメリカ車のテールフィン競争も下火になり、世界的にもデザインの転換期を迎えていた。僕自身は個性的でなくなったアメリカ車からだんだん興味を失っていった時期だが、ダットサンは「110」シリーズの最後を飾る車として送り出した「1000」(211) は、新しいグリルで一段と纏まった無駄のないスタイルとなった。この後ブルーバードが出現しなかったらもっと長生きしてほしかった車だ。
(写真21-7abc)1959 Datsun 1000 (211) Sedan (1988-01 TACSミーティング/明治公園)
OHV 988cc C型エンジンが判るので取り上げた。
(写真21-10ab)1958 Datsun 1000 (211) Sedan (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
この車は博物館の案内板に従って1958年型としたが、59年型の車と較べるとグリル中央の1枠だけが少し盛り上がっているような気がするのは、年式の違いか、気の所為か。
<トラック(120/220系 )>
(参考25-1a)1957 Datsun Truck Type 120
(写真25-2ab)1957 Datsun Truck Type123 (1957年 静岡市内/中島屋旅館横)
(参考25-3a)1958 Datsun 1000 Truck (Type220)
(写真25-4abc)1958 Datsun 1000 Truck (Type220) (2015-07 日産ヘリテージ・コレクション/座間)
(写真25-5abc)1958 Datsun 1000 Truck (Type220) (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
(写真25-6a) 1958 Datsun 1000 Truck (Type220) (2019-06 日本自動車博物館/小松市)
(写真25-7a) 1959 Datsun 1000 Truck (Type220) (1959年 静岡駅前)
(写真25-8ab)1959 Datsun 1000 Truck (Type220) (1978-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)
(写真25-9a)1959 Datsun 1000 LightVan (Type220) (1959年 静岡市内/中島屋旅館横)
(参考26-0a)1960 Datsun Truck 1200 (G222)
(写真26-1abc)1961 Datsun Truck 1200 (G223) (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
(参考27-1ab)1961 Datsun 320 Truck/V320 LightVan
戦後のトラックは縦型グリルの世代を経て、乗用車の「110」シリーズに並行して、横型グリルの「120/220」シリーズとなった。
<ブルーバード>
(参考30-0a~d)1959 Datsun Bluebird 1000 4dr Sedan
「ブルーバード」は「110」と同じ佐藤章蔵氏がデザインした中型乗用車して誕生し、1959年から2012年迄53年の長きにわたってその名前が受け継がれた日産を代表する傑作車だ。1000、1200、1200Dxの3種がありエンジンは、「210」から踏襲された「C1」型(水冷直列4気筒OHV 988cc 34hp/4400rpm)をベースに、ストロークを延ばして1189ccにしたのが「E」型エンジンとなった。発売時の価格は68万5千円、69万5千円だった。
(写真30-1a~d)1959 Datsun Bluebird 1000 Std. Sedan (310) (1959-08 静岡市内/中島屋旅館前)
ブルーバードが発表されたには、ダットサンが誕生してから略(ほぼ)30年経った1959年8月の事だったが、それから数日後、昼食で外に出ると目の前に止まっていたのがこの車だった。神奈川のデーラーナンバーで、メッキにはこげ茶の保護テープが張ってあり、ホイールキャップも未着装、まさに陸送の途中で一服している所と見えた。当時はまだ大型キャリアーが出現しておらず、また東名高速道路もない時代だったから、旧東海道(国道1号線)が東西の幹線道路で、旅行者は途中の都市で、食事や宿泊をしなければならなかった。リアウインドウに貼ってある「ブルーバード」の文字もまだ聞きなれない言葉だった。
(写真30-2ab)1959 Datsun Bluebird 1200 Std. Sedan (P310) (1964-06 軽井沢付近)
1968~69年は長野県内の支店に転勤していたが、当時同僚が持っていた「ブルーバード」(初代)で軽井沢迄ドライブした時のスナップショットだ。
(写真30-3a~d)1959 Datsun Blurbird 1200 Std. Sedan(P310) (2005-10 東京モーターショー/幕張)
(写真30-4abc) 1959 Datsun Blurbird 1200 Std. Sedan (P310)(2015-07 日産ヘリテージ・コレクション/座間)
1000の「310」に対して1200は「P310」の型式番号が与えられている。外見上の見分け方で、スタンダードには「バンパー・ガード」が付かないので付いていたら「1200Dx」、1000と1200の違いはトランクのバッジ以外は見当たらない。初代の共通した特徴はグリルと上の横バーの間隔が殆どないことで、次のモデルでは広くなる。テールランプは「310」「311」までは「柿の種」と言われた。
(参考31-oa)1960 Datsun Bluebird
1960年10月マイナーチェンジが行われ、出力増加と同時にフル・シンクロ化が図られ、型式は「311」となった。
(写真31-1abc)1961 Datsun Bluebird 1000 Std. Sedan (311)フルシンクロ(1961-03 横浜市内/山下公園)
横浜の山下公園で撮影したこの車のグリルには「Full」のバッジが付いている。エンジンは「C1」型で排気量988ccは変わらないが45馬力となった。登場時の価格は62万5千円で年々価格は下がっている。
(参考32-0a~d)1961 Datsun Bluebird 1000/1200 (312)
1961年8月マイナーチェンジでグリルが変わった。グリルの上の横バーが上に移動して空いた隙間は5本の短い縦バーで区切られた。テールランプは大きくなり、柿の種ではなくなった。
(写真32-1a~d)1962 Datsun Bluebird 1200 Deluxe (312前期型) (2015-11 トヨタクラシックカーフェスタ/外苑絵画館前)
写真の車はデラックス仕様なので「バンパー・ガード」が付いている。テールランプは長くなった分多機能になっている。派手さはないが落ち着いた好ましいスタイルだ。
(参考33-0ab)1962 Datsun Bluebird 1200 (312後期型)
1962年9月マイナーチェンジで、グリル上部の隙間の区切りが4分割から8分割に細かくなった。テールランプのデザインも変更されたが型式については「312」のまま変わらなかった。
(写真33-2abc)1962 Datsun Bluebird 1200 Deluxe (312後期型) (2005-03 日産本社/東銀座)
横浜に移転する以前、日産の本社は東銀座(銀座6丁目)にあった。1階にはショールームがあったので何回か足を運んだ場所だ。
(写真33-3abc)1962 Datsun Bluebird 1200 Deluxe (TAXI仕様) (2018-05 消防自動車博物館/千葉・御宿町)
房総半島の南部にある御宿町に個人収集家の運営する「消防自動車博物館」がある。消防自動車以外にも昭和のオート3輪や小型トラックなど消え去っていく実用車が多数保存されている。その中で見つけたのがこの車で「神5」のナンバーが付いているが、64年以降は「横浜」「相模」に変ってしまったので大変珍しいものだ。タクシー仕様だが非常に地味だ。タクシーだが「白ナンバー」だ。
(写真33-4a~d)1963 Datsun Bluebird 1200 Deluxe (TAXI仕様) (2008-11 トヨタクラシックカーフェスタ/外苑絵画館前)
こちらも同時期のタクシー仕様で初乗りが「70円」だったことが判る。(「ルノー4CV」のタクシーは確か「60円」だった様に記憶している)「ブルーバード」はタクシーとして大量な需要を賄ったが、特別タクシー仕様のモデルは無かったようだ。
(写真33-5abc)1961 Datsun Bluebird 1200 Fancy Deluxe (DP311L) (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
1961年2月、日本初の女性仕様車「ファンシー・デラックス」を誕生させた。そろそろ進出し始めた女性ドライバーを対象に考え出されたもので、写真の車は「クリーム/イエロー」だが「クリーム/ピンク」などもあったようだ。特別仕様の内容は「日焼け防止フロントガラス」「化粧品入れ兼ミラー組み込みのサンバイザー」「化粧用ライト」「着替え用カーテン」「ハンガー」「ハンドバッグ入れ」「ゴミ箱」「傘立て」「ハイヒール入れ」「ウインカー作動時に鳴るオルゴール」等々30を超える女性を対象とした仕掛けがあった。写真の車は案内板に従って「1961」年式としたが、グリルは1962年9月以降のものだ。
(参考41-0a~d)1963 Datsun Bluebird 1200 (2代目)
「ブルーバード」は1963年9月、初めてフル・モデルチェンジが行われ「2代目」(410系)となった。ボディが「フル・モノコック」構造となり、デザインは「ピニンファリナ」が担当した。エンジンは「C型」「E型」で初代と変わっていない。発電機が「直流」から「交流」に代わり性能向上を図っている。
(写真41-1abc)1963 Datsun Bluebird Deluxw Sedan (P410) (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
(写真41-2ab)1964 Datsun Bluebird 1200 Deluxe Sedan (P410) (2015-07 日産ヘリテージ・コレクション/座間)
世界の「ピニンファリナ」がデザインしたこの車のスタイルは「尻下がり」が基調で、日本人には好まれなかった。その結果は販売台数で「コロナ」を下回ってしまった。
(参考42-0abc)1964 Datsun Bluebird 1200 (4102代目・後期型)
1964年9月マイナーチェンジでグリルの顔付きが変わった。
(写真42-1a)1964 Datsun Bluebird 1200 SS (1964-09 東京モーターショー/晴海)
僕が若いころは自動車の写真には余計なものは入れたくない方針だった。だから本の出版に際しても周りの情景が入った写真を探すのに苦労した。モーターショーでモデル専門に撮っている人もいるが、僕は自動車を撮りに来ているのでモデルさんは要らないのだが。
(写真42-2a~e)1966 Datsun Blurbird 1300 SS (P411) (2014-11 トヨタクラシックカーフェスタ/外苑絵画館前
1965年5月のマイナーチェンジで「411」となっていたがボディは「尻下がり」のままだった。翌66年4月ようやく評判の悪かった「尻下がり」のボディ形状を改める大改造が行われた。「SS」はスポーツ・セダンを示しているが、同じモデルが「サファリ・ラリー」でクラス優勝している。
――次回はブルーバードと同時代の乗用車の予定です――