第136回 N項-3「日産・1/戦前のダットサン」

2024年10月27日

1932 Datsun type11 (ガラスの下部「ダット自動車製造株式会社」に注目)

(1)<戦前のダットサン・1>

<ダットの誕生>

(参考02-1a~f)橋本増次郎胸像 経歴他

「ダットサン」を語るにはその生みの親「橋本増次郎」から始めなければならない。1895年(明治28) 岡崎市に生まれ、東京高専工業(現・東京工大) を卒業後、農商務省海外実業練習生として1902年渡米、「マッキントッシュ社」の蒸気機関工場で働いた。帰国後は「九州炭鉱汽船」に勤務したが、そこの社長と重役が後年出資者となる「田健次郎」と「竹内明太郎」だった。1911年(明治44) 7月「田」「竹内」の他、同郷の旧友で逓信省技師を経てヒーリング商会の社長となっていた「青山祿郎」ら3人の出資受けて、自動車を造るための会社「快進社」が設立された。そこから誕生した自動車には出資者の頭文字「D」「A」「T」を併せて「DAT」(脱兎)と名付けられたのは良く知られたエピソードだ。

「快進社」から「日産自動車」まで会社の変遷

(1911)「快進社」設立 → (1926) 実用自動車と合併 「ダット自動車製造」となる → (1933-03) 国策により石川島自動車製作所と合併「自動車工業(現・いすゞ自動車)となる →  (1933-09) 戸畑鋳物(鮎川義介) が自動車工業から旧ダット自動車大阪工場をそっくり買収「戸畑鋳物自動車部」となる → (1933-12) 鮎川により日本産業と戸畑鋳物の出資により「自動車製造」新会社設立 → (1934-09) 社名変更「日産自動車」となる。ヒストリーとすれば始祖は「快進社」だが、法人登記上のスタートは1933年の「自動車製造」となるのだろう。

(参考02-2abc)出資者3名 (DATと言う車名の元となった人達)

・男爵 田健次郎1855~1930 兵庫県丹波市生まれの政治家で各大臣を歴任し台湾総督を務めた。田英夫は孫。

・青山祿郎 1875~1940 愛知県岡崎市で鈴山祿郎として生まれ17歳で青山家の養子となった。地元の高等小学校卒業後、静岡中学に入学、「東京郵便電信学校」を経て「逓信省」に入省、1904年退官後は「ヒーリング商会」「安中電機」「鉄道信号」「土浦電気」「藤倉電線」「共立電機」「明電舎」その他多くの会社の役員・相談役を務めている。学歴の「静岡中学」は僕の母校「現・静岡高校」なので60年前の大先輩に当たる。

・竹内明太郎 1860~1928 高知県宿毛市で政治家「竹内綱」の長男として生まれる。衆議院議員も務めたが、実業家としては各地で鉱山の経営に従事する。1902年石川県の遊泉寺銅山を開発したが、1917年にはそこで使う機械類を造るため鉱山の付属施設として小松鉄工所(現・小松製作所)を併設した。吉田茂は実弟(五男)

(参考02-3abc)1914 DAT 試作車/DAT 31型/1920 DAT 41型

1911年設立された「快進社」は従業員7名でスタートし、当初は英国から輸入した「スイフト」のシャシーにボディを架装した製品で経営を支えながら独自の自動車の開発を続けた。1914年水冷2気筒10hpの試作車を完成させ、上野公園で開催された「大正博覧会」に出展し銅賞を受けた。この車は「DAT」(ダット,脱兎)と名付けられ「快進社」の第1号となった。翌1915年「ダット31型」として市販をはじめた。(最初のカタログ参照、右下の西暦(1915)の上の「2575」という数字は、当時の日本人には通用した「紀元2575年」(神武天皇が即位してからの年数)と言う数え方だ。因みに第2次大戦の傑作機「0戦」(「ゼロ戦」は誤りで「れいせん」が正しい) は昭和15年(紀元2600年)に制式採用された事を表している。)

・「ダット41型」は1916年試作車が完成していたが、発売されたのは1920年からだった。

(参考02-3d~h)1925 DAT 41型 軍用保護トラック/1926 DAT 51型バス/1930 DAT 61型トラック

日本陸軍の提案で「軍用自動車補助法」が1918年5月施行された。これはイザという時に一気に大量のトラックが確保出来るように考えだされたシステムで、「製造」「購入」「維持」のそれぞれに「補助金」が交付される代わりに、有事の際は軍が徴用可能だった。この法律は意外と長く存続し1945年敗戦まで生きていた。

・「快進社」では1924年「ダット41型トラック」が検定に合格した。(02-3d)の雑誌広告では正面に「M」のように見える軍用保護自動車の「識別標識」が付いているが、「M」ではなくΛΛが2つ並んだ「山形道」と言う日本独自の標識のようだ。1923年「ダット51型」も41型と並行して造られたが、エンジンは41型と変わらず水冷 直列4気筒2262ccだった。「51型」ではバスも造られ、1930年には「61」型に発展した。

<ダットサン誕生>

(参考03-1a~d)1930 DAT 小型車プロトタイプ1号

1926年「快進社」は大阪の「実用自動車製造」と合併し、「ダット自動車製造(株)」となっていたが,実用自動車の技師長はアメリカ人「ウイリアム・R・ゴーハム」で、その助手として後年「ダットサン」の生みの親となる「後藤敬義」が付いていた。「実用自動車製造」はゴーハムが考案した3輪乗用車を生産していたが転倒し易く、これを改善するために後藤らが4輪に改造したのが「リラー号」で「ダット自動車製造」になってからも軍用トラックと同時に生産が続いていた。軍用トラックの生産が軌道に乗り経営が安定したので、小型車「リラー号」に変わる新型車の計画がスタートした、と言う説が有るが、設計者「後藤敬義」の語るところでは軍用トラックに交付される助成金の枠が厳しくなり、大型車だけでは経営の維持が難しいと判断し「小型車」の開発が始まったという。いずれにしろ、それは1928年の事で、後藤を中心に1929年末には水冷4気筒495ccのエンジンが完成し、1930年8月そのエンジンを搭載した「プロトタイプ1号」が完成している。この車は「リラー号」のシャシーをベースに開発された。          

(参考03-2a)1930 DAT 91型 プロトタイプ

「プロトタイプ1号」は「リラー号」のホイールベースを短縮した改造型の域を出なかったが、「DAT91型」は全く新しく設計された物だ。「DAT自動車」の小型試作車として扱われ、まだ「ダットソン」(ダットの息子)の名称は使われていないが、間違えなく「ダットサン」の初代となるご先祖だ。

(参考03-3abc) 1931 DATSON Type10

「DAT91」をベースに1931年8月完済した小型車「DATSON Type10」は、大型車を造っていた「DAT」の息子と言う意味で「SON」と名付けられ、印刷物にも「ダットソン」と表示された。このパンフレットの右上に「運転免許不要」と当時の免許証の呼称が記入されているのも注目。(印刷物の車は「DAT91」が使用されている)

(参考04-0a)1932 DATSUN Type11 Sedan (オリジナル)

「Type11」からは「SON」(息子)から「SUN」(太陽) に改め、日本を代表する「ダットサン」が誕生した。

(写真04-1a~f)1932 Datsun Type11 Phaeton     (2012-04 トヨタ自動車博物館 収蔵庫)

この車こそ現存する最古の「ダットサン」だ。この車の発見の経緯は僕が調べた資料からは確認できなかったが、残念なことに現在管理しているのは「日産」ではなく「トヨタ自動車博物館」だ。2014年4月から7月まで「60年代街角で見たクルマたち」と題した僕の写真展を博物館で開催した際、特別未公開の収蔵庫に入らせて頂きその際見つけたものだ。1933年鮎川義介が買収して「戸畑鋳物自動車部」に成る以前の「ダット自動車製造株式会社」のプレートが最古の身分を証明している。

(写真04-1g~l)1932 Datsun Type11 Phaeton  (2014-11 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮絵画館)

その後一般公開された際撮影したもので、1932年当時の法規では「無免許」の条件として「排気量「500cc」以下、「一人乗り」とされていた。オリジナル・エンジンは495ccだが、案内板によるとこの車は722ccとなっている。それは後年になってから1938年から使用された「7型エンジン」に換装したことが判明している。一方前列シートは左に一つのみだが、後列に2人分のシートがあり3人乗りとなっている。これでは「無免許」の条件を満たさないではないかと疑問を持ったが、実は1933年「取締令」が改正されて「4人乗り」となる前に、1932年前半「2人乗り」、後半には「4人乗り」が暫定的に運用されていたことが判った。この車は左ハンドルで、シートが左によっているから、後席は右ドアから楽に乗り込めた。「トヨタ自動車博物館」では私情抜きで純粋に歴史的評価を下しているので、ダットサンを製造したのは「DAT自動車製造」「戸畑鋳物自動車部」「日産自動車」の3段階に分類しており、「DAT」製のこの車は「日産自動車」が造った車とはしていない。

(写真05-1a~e)1932 Datsun Type11 Phaeton(正しくは1933 Type12を1年誤って公表していた時代)

1959-11 東京モーターショー/晴海

1959年のモーターショーで初めて一般に公開された際撮影したもの。モーターショーの盛況ぶりが見て取れる。

1966-02 なんでも100年/駒沢公園

テレビ番組「なんでも100年」の収録のため世田谷区の駒沢公園に珍しい車が集まった際、会社を休んで撮影した。この時プレートには「ダットサン第一号車」と表示されていた。なんの情報も持たない僕は素直に信じていた。(ホイールキャップはまだノン・オリジナルが付いている)

1973 東京モーターショー 車のあゆみ展 /晴海

最初に撮影してから14年経った1973年のモーターショーで「車のあゆみ展」として古い国産車の特別展示が行われそこに登場した。この時は後のプレートは「ダットサン第一号車」のままだったが、前プレートは「1932 (昭和7年)」と変わっていた。ここで初めて年式がはっきり表示され1932年製から「11型」と推定された。(トヨタがもっと古い車を所有したのはまだだと思われる)

(写真05-1f~i)1932 Datsun Type11 Phaeton   (2004-12 東銀座/東京本社(当時)のショールーム)

発見されてから50年以上経っているが、年式は依然「1932年型」で変わっていない。流石に「ダットサン第1号車」のプレートは外され、案内板は「発売の年に製造された初代のダットサンで、日産に残るもっとも古いモデルである」と微妙な表現に変っている。残念なことに現存する最古のダットサンは「トヨタ」の手にある。案内板でははっきりと「11型1932年」と表示しているが。「11型」を前提に言えば「10型」は「ダットソン」だから「ダットサン」としては初代と言える。「日産に残るもっとも古いモデル」とあるのは明らかに「トヨタ」が所有するもっと古い車を意識した上の苦しい表現だ。(ホイールキャップはオリジナルに変わった)

(参考05-2)1933 Datsun Type12 Sedan (オリジナル)

(参考05-2a)日産の創立者鮎川義介

鮎川義介(1880~1967) は現・山口県山口市に長州藩士の子として生まれる。(母の叔父は明治の元勲・井上馨)1903年東京帝国大学を卒業した「工学士」だが身分を隠し、一介の工員として2年間芝浦製作所で現場を体験するも満足せず、本場の技術を習得すべく1905年渡米する。「グールド・カプラー社」で「黒心可鍛鋳鉄」と言う「安価」で「複雑な形も造れ」「壊れにくい」性質を持った「特殊鋳物」について、約2年現場で働きながら研究を続け技術を身に着けた。帰国後の1910年井上馨の支援を受け30歳で北九州市戸畑区に「戸畑鋳物㈱」を設立、黒心可鍛鋳鉄を使った鉄パイプの「継ぎ手」が大ヒットする。この「黒心可鍛鋳鉄」は自動車のエンジンや足回りにも多用され「戸畑鋳物」は「ダット自動車」に部品を納入していた。1933年トラックメーカー同士が合併させられて「自動車工業(現・いすず)」となった際、新会社の主力製品は大型トラックで「軍用保護自動車」の恩恵を受けるのが目的だから、「ダット自動車」に付いてきた小型車部門(ダットサン)は必要としなかったので無償で交付した(いすゞ社史)という説と、「戸畑鋳物」が有償で買い取った(日産社史)と両社で食い違いがあったようだ。それより前の1928年、妹の嫁ぎ先だった「久原鉱業」の経営立て直しを任され社長に就任、同社を「日本産業」と改称した。その後傘下に「日本鉱業」「日立製作所」「日産化学」「日本油脂」「日本炭鉱」「日産火災」「日産生命」などを擁する一大コンツェルンに発展した。その一環として1933年12月資本金1000万円(日本産業60%、戸畑鋳物40%出資)で「自動車製造㈱」と言うダットサンを造る新しい会社が誕生した。翌1934年5月30日の株主総会で全額「日本産業」の全額出資と変わり、社名は「日産自動車㈱」となり現在に至る。

写真05-2b~g)1933 Datsun Type12 Phaeton (2011-10 ジャパン・クラシック・オートモビル/日本橋)

  2011年10月上野の国立科学博物館で開かれた「快進社100周年記念展」で初めて「1933年製12型」と正しく訂正されて登場した。この車の発見の経緯は、1953年頃日産の造形部の人が、本郷に「1932年型」のダットサンが眠って居るという情報を当時の宣伝課長だった「片山豊」氏に伝え、現物を見た片山氏が独断で購入した。レストアは旧知の「太田祐一」が経営するチューニング・ショップ「ワイドフィールド・モーターズ」に依頼し、ほぼ完ぺきに修復が行われた。(ホイールキャップだけは別物だった)太田氏は「ダットサン」と共に戦前の小型車の双璧だった「オオタ」の創立者「太田祐雄」の長男で、ライバルだった戦前のダットサンには詳しく、戦後も片山氏の依頼で「ダットサンスポーツDC-3」のボディデザインを手掛けるなど、浅からぬ因縁があった。年式の誤りについては、最初の情報が「1932年」として入ってきたとすれば先入観を持ってみればよく似たラジエターグリルが「32年」に見えたとしても無理はない。「戸畑鋳物」が「ダット自動車」の関わりを持ったのが1933年からなので、ダッシュボードの「戸畑鋳物」のプレートを理解していれば「1932年」にはならない筈だがと、判っている人が後から言うのは簡単な事だが現場ではなかなか思いつかないことだろう。それにしても50年以上気付かなかったのは長すぎるが。

(参考06-1a)1934 Datsun Type 13 Roadster(オリジナル)

(写真06-1ab)1934 Datsun Type13 Phaeton          (1990-01 TACS 汐留ミーティング)

イベントでの本人の申告は1933年となっていたが、グリル付は1934年から。フロントガラスから後はノンオリジナルで、特に切り込みのあるドア周りは1952年の「ダットサン・スポーツ」や「MG-TD」に範を採ったものと思われる。ヘッドライトをつなぐ横バーとフロントフェンダーの前縁の角度からと、ドアが前ヒンジなので13型と推定したが、改造箇所が多く、ここでは参考として紹介する。

(写真07-1abc)1935 Datsun Type 14 Phaeton  (1999-01 トヨタ自動車博物館/名古屋)

1999年にトヨタ自動車博物館で撮影したもので日産本社の展示車にも負けないほどきれいに仕上がっていた。世界的に流行したフォード譲りの「ハート型グリル」は1934年「13型」、35年「14型」の2年間使用されたが、外見上ではヘッドライトの間に横バーがあれば「13型」だが、この車は「14型」だ。写真の中央スペースは特別展示なのだろうか、2004年に訪問した際にはこの車は見当たらなかった。この当時はまだカラー・フィルム時代で、ストロボを併用していたが、奥まで光が均等に届かず最悪の仕上がりだ。

(写真07-2a~g)1935 Datsun Type 14 Phaeton  (2005-03 東銀座/東京本社・当時)

製造されてから丁度70年経った2005年3月、東京東銀座の日産本社(当時)にピカピカのダットサンがやって来た。名古屋でレストアされたクルマは、名人木村治夫さんの手で純正部品を使って忠実に再現され、新車より綺麗(?)に完璧に仕上げられていた。エンジンは側弁式722cc、15馬力の7型を搭載、14型から戦前最後の17型までこのエンジンが使われた。

(参考07-3)1935 Datsun Type14 Roadster(オリジナル)

(写真07-3abc)1935 Datsun Type14 Roadster   (1973-11 東京モーターショー/くるまのあゆみ展)

白黒写真でカラーに記憶はないが、後年撮影された「イエロー」と見ても間違えなさそうだ。最初に見てから50年以上経っているがその間6回も撮影している。日産としては自慢の車だった。最初出会った時はまだお化粧直し前で実用車としての雰囲気が残っている。

(写真07-3def)1935 Datsun Type14 Roadster     (2004-02 銀座/日産ギャラリー)

前回見てから30年以上たっているが、すっかりレストアを済ませ銀座4丁目の「日産ギャラリー」に登場した。素晴らしい仕上がりの上に、元々プロポーションの良いロードスターだから戦前のダットサンの中で一番魅力的だ。

(写真07-3g~j)1935 Datsun Type14 Roadster   (2011-07 上野国立科学博物館/快進社100年展)

2011年7月上野国立科学博物館で開催された「快進社100年展」に展示された際撮影したもので、既に完全に修復されて居るらしく何処にも変化は見られない。

(写真07-3k~o)1935 Datsun Type14 Roadster  (2013-11 東京モーターショー/東京ビッグサイト)

自慢の車はモーターショーにも目玉として登場する。この車はヘッドライトがクロームメッキされた「砲弾型」に取り換えられているがノン・オリジナルで、オリジナルは以前のものだ。

(写真07-3pqr)1935 Datsun Type14 Roadster  (2015-07 日産ヘリテージ・コレクション/座間)

外見上の変化は見られない。

(写真07-3s~v)1935 Datsun Type14 Roadster (2017-08 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)

この車の前オーナーは五十嵐平達とされている。五十嵐氏は昭和14年に16歳で運転免許を取得したが、その時教習所で運転したのが「ダットサン14型ロードスター」だったそうで、以来あこがれの的だったが1961年ようやく手に入れたとある。数年後「サンビーム・タルボ」に乗り換えるため手放したようなので、確信は無いが年代的にいえばこの車が日産の「自慢の車」となったのかもしれない。

(参考07-4)1935 Datsun Type14 Sedan (オリジナル)

(写真07-4a~d)1935 Datsun Type 14 Sedan  (2010-07 英国国立自動車博物館/ビューリー)

この写真は2007年6月イギリスの「ビューリー・ナショナル・ミュージアム」で撮影したもので、戦前のダットサンがこんなところに、と一瞬感動したが、ご覧のように階段横の狭いところに押し込められ可哀そう。もっとも、ここでは特別な車以外は皆こんなものだが・・・。面白いのはその説明内容で「サー・ハーバート・オースチンによって輸入され、特許権侵害の可能性を調べたが問題なく、そのまま登録されること無く保管された」とあり、おそらく新車状態と思われる。不思議なのはエンジンで、1935年「14型」からは「722cc」の新型に変わった筈だが「13型」と同じ「747cc」が付いているのは輸出仕様か。

(参考07-4e)1935 Datsun Type14 Coupe (試作車)

初めて登場した「クーペ」で、翌年の市販車に較べるとルーフの形がスムースではない。

―― 戦前のダットサンはあまりにも大量で2回に分割しました。次回は量産された15、16、17型です――

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