第135回 N項-2「ナッシュ」

2024年9月27日

<ナッシュ>(1917~1957)→ <AMC ランブラー>

アメリカで自動車メーカーを紹介するときは「ビッグ・スリー」と「その他」に大別されることが多い。「ナッシュ」はその他と言われる「独立系」の老舗で、1916年GMの社長だった「チャールズ・W・ナッシュ」が退任後「トーマス・ジェフリー社」を買収して誕生した。(因みに「ジェフリー社」の車は「ランブラ-」で後年この名前はナッシュでも使われた)。1954年同じ独立系の「ハドソン」と合併し「AMC」となって生き延びた。

(参考17-1ab) 1917 Jeffery 472/Nash Model 671

「ナッシュ」の最初の車は、買収した「ジェフリー」社が造っていた車をそっくり使って、名前を変えただけと思われる。

(参考22-1a)1922 Nash Model 46 2dr Sedan

発足して5年経っているが外見はまだあまり変化していない。

(写真26-1a~e)1926 Nash Model 261 Phaeton   (1977-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)

日本国内の路上で実際に走る20年代の車を見ることは極めて稀だ。元々大正末期から昭和の初めにかけて静岡のような地方都市に多くの乗用車があったとは思えないし、1934年生まれの僕が物心ついた昭和10年代にはこんな車が走っているのは見た覚えがない。たった一つ思い出すのは、小学校に併設していた「青年学校」に立派なステップを持った古いオープンカーがあり、お兄さんたちが運転の練習をする際、みんなで押し掛けのお手伝いをしたことがあり、写真の車のステップを見て 遠い記憶がよみがえった。中級車と位置付けられている「ナッシュ」だが工場の所在地に因んで「ケノーシャのキャディラック」と呼ばれるほど出来が良かった。

(参考29-01ab)1929 Nash 467 Ambassador Sedan/Nash 421 Phaeton

20年台後半の典型的な顔つきとなった。

(参考30-1a)1930 Nash Eight Model 490 Sedan

(参考32-1a)1932 Nash Model 971 Convertible

(参考33-1a)1933 Nash Big-Six Model 1127 Town Sedan

(参考34-1a)1934 Nash Big-Six Model 1220 Sedan

(参考37-1a)1937 Nash Ambassador Six Model 3728 Sedan

30年代に入り、徐々にラジエターグリルが姿を変える様子をご覧ください。

 (参考36-1a)1936 Nash 400 Model 3640 Sedan

“リアシートとトランクエリアで素早く「ダブル・ベッド」に変更できる”と、1936年(昭和11) には既に「ダブル・ベッド」仕様をセールスポイントにしている。

(写真38-1a)1938 Nash Ambassador Six Model 3828 4dr Sedan   (1960-04  霞が関/最高裁判所駐車場)

1950年代はアメリカ車の全盛時代で、世界をリードした斬新なスタイルが毎年ニューモデルとして登場するから、僕の目のそちらに魅かれがちだった。しかしふと気が付くとそれまで当たり前のように街中を走っていた戦前の生き残りの「古い車」が殆ど見られなくなっていた。そろそろ国産車が出回り始め、代替わりが進んでいたのだ。そこで思いついたのはお役所なら予算の関係で「古い車」がありそうだという事だった。これは正解でこの時「ナッシュ」の他に1936「リンカーン・ゼファー」、1937「ハドソン」、1939「デソート」の4台を撮影できた。

(参考38-2a)1938 Nash Ambassador Eight Model 3888 Sedan

最高裁判所の駐車場で撮影した車と同じ年のオリジナル。

(参考39-1a)1939 Nash Ambassador Six Model 3920 Touring Sedan

(参考40-1a)1940 Nash Ambassador Model 4088 Sedan

(参考41-1a)1941 Nash 600 Ambassador Model 4140 Touring Sedan

(参考41-1b)1941 Nash 600 Model 4146 2dr Sport Sedan

(参考42-1a)1942 Nash 600 Model 4240 Touring Sedan

1940年代前半の戦前最後となるスタイルが形成されていく過程をご覧ください。 

(参考43-1a)軍需工場の製品

第2次大戦末期の1943~45年には、アメリカの自動車メーカーは全て軍需工場に変わり兵器の生産に当たっていたから乗用車の生産は1台もなかった。ナッシュは「シコルスキー・ヘリコプター」「航空機エンジン」「プロペラ」などを造っていた。

(写真46-1a)1946-48 Nash 600 4dr Trunkback Sedan   (1961年 桜田通り/三田慶応付近)

戦後初の1946年型は各社とも取りあえず1942年型にちょっと手を加えただけで、お茶を濁したが、殆どの車種が47~48年モデルも全く同じで変化はなかったので、外見から年式の識別は出来ない。

(写真46-2abc)1946~48 Nash Ambassador 4dr Sedan  (1961年東京/横浜市内)

42年型と較べるとグリル中央の短い横バーは5本から6本になり、下の長いバーは3本から4本に増えた代わりにフェンダーの後部から消え、横バーはボディとフェンダーの継ぎ目に段差が付いた。ヘッドライトの上にあった「パーキング・ランプ」はヘッドライトの横に位置が変わり、正面からの印象に大きな変化をもたらした。

(写真48-1a)1948 Nash Ambassador Super Model 4870 Trunkback Sedan

1946~481年は外見上見分けが付かない事になっているが、モデル名ではっきりと48年型と確定されているので参考に取り上げた。

(写真49-1ab)1949 Nash Ambassador 2dr Sedan  (1949-08-14  東京/銀座) .

この古ぼけた写真は15才(中3)の僕が一人で初めて東京に自動車の写真を撮りに来た際のもので、「ワルタックス」と言う蛇腹式のカメラはブローニー(120フィルム)半裁の6×4.5センチ版(通称セミ版)16枚撮りだった。距離計はなく目測でピントを合わせるものだったが、明らかにピンボケだ。まだ東京についての土地勘は皆無で、この日は東京駅前から丸の内、銀座方面を廻っているが、皇居前に行けば車が沢山いることは知らなかった。しかし車はこの年のニューモデル「1949年型」だ。

(参考49-2a)1949 Nash Ambassador Custom Model 4978 Sedan

戦後型「ナッシュ」の最大の特徴は前輪のフェンダーに切り欠きが無いことだ。空力的に大きなメリットがあるらしいが、デメリットとしては前輪のステアー角度に制限が有りそうだし、車輪の取り外しにも影響が有りそうだ。しかしこの発想はフルサイズでは1954年までは続けられているので、相当利点があったのだろう。

(写真50-1a)1949-50 Nash Ambassador Super 4dr Sedan      (1959-04 帝国ホテル前)

1949-50年は変わっていない。お尻がふっくらして「ダブル・ベッド」のスペースにもってこいだ。

(参考50-2a)1950 Nash Ambassador Super Model 5069 2dr Sedan

前項の「4ドア」に比べて「2ドア」の場合は「ダブル・ベッド」で十分足が延ばせるか心配だ。

(参考50-3ab)1950年の広告

1949~51年この時期「ナッシュ」では車名とは関係なく「Airflyte」(エアロフライト)と言うキャッチフレーズを使っている。前輪のカバーを含め空気抵抗が少なく空力的に優れていることを強調したものだ。

・「Swing Low,Sweet Chariot」と言う黒人霊歌が大きく書かれた印刷物は、その目的が僕には理解できない。「Coming for to carry me home」と言う歌詞は「僕を故郷(天国)へ運んでおくれ」と訳されているのでそのための「素敵な馬車」がこの車ということか?

(写真51-1a~d)1951 Nash Ambassador Super 4dr Sedan      (1958年 静岡市/料亭浮月楼横)

カバーされた前輪の他に「ナッシュ」のもう一つの特徴はファストバックのようでありながら高く保たれた後部ルーフの扱いだ。これには大きな理由がある。戦前から「Bed in a Car」と称してシートを倒して簡易ベッドにすることが出来たが、1949年以降は「フル・リクライニングのダブルベッド付」をセールスポイントに加え、「逢引き用ホテル」と揶揄され批判された。

(写真52-1a)1952 Nash Statesman 4dr Sedan         (1958-05  静岡市/県庁付近)

 この年から「ナッシュ」のスタイリングに「ピニンファリナ」が加わりボディは凸型の「ノッチバック」に変わった。しかし前輪のフェンダーに切り欠きが無いスタイルはそのまま引き継がれているから「ピニンファリナ」も納得するだけの効果があったのだろう。前に並んでいるのは珍しい1949年型の「フォード」で、2台とも県庁の車だ。

(参考52-2a)1952年ナッシュの雑誌広告

ノッチバックになったので心配したが「ダブル・リクライニング・シートは「New Twin Bed」に変換できる」とスタイルは変わっても伝統の宣伝文句は忘れない。「ダブル・ベッド」は「ツイン・ベッド」に変っているが・・。

(参考52-3ab)1952 Nash Statesman 2dr Sedan/Ambassador 2dr Hardtop

「ノッチバック」になったので「2ドアタイプ」はバランスが良くなった。

(写真53-1abc)1953 Nash-Healry Sport Coupe  (2004-08 ラグナセカ/カリフォルニア)-

イギリス製のスポーツカーにアメリカ製の強力エンジンを搭載したものを「アングロ・アメリカン・カー」と呼ぶ。「オースチン・ヒーレー」などでお馴染みの「ドナルド・ヒーレー」が設計・製造を担当し、「ナッシュ」は「パワートレイン」を提供した。1951年オリジナルが誕生したが、1952年にはイタリアのデザイナー「ピニン・ファリーナ」がスタイルに手を加え市販モデルとなった。しかしこのような特殊の車が大量に売れる筈はなく売り上げは低迷し、1954年で製造は中止された。

(参考53-2a)1953 Nash Statsman 2dr Hardtop/Ambassador Custom Sedan

通常の大型モデルは52年型と変わらない。来年は「ハドソン」と合併する位だから既に余力はなかったのだろう。」

(参考54-1ab)1954 Nash Statyesman Supeu Sedan

この年「ハドソン」と合併したが、製造も販売も従来通りで、「ナッシュ」はグリルが「凸」から「凹」に変わっただけだ。

(参考55-01ab)1955 Nashtsman Hardtop

(参考55-2abc)1955 Nash Ambassador Sedan

既にモデルチェンジするだけの力は残って居ないようで、僅かに2トーン塗分けでお茶を濁している。

(写真56-1a)1956 Nash Statesman Super 4dr Sedan        (1960-01 東銀座)

(参考56-2a)1956 Nash Statesman Sedan

(参考56-3a)1956 Nash Ambassador Hard top

1954年に同じ独立系の「ハドソン」と合併したが、依然として独自のブランドで車を造っているから合理化は進んでいない。1955年からは、最大の特徴だったフロントフェンダーには控え目ながら切り欠きが入った。56年型の外見上の変化は、パーキングランプが大型化し、波型のクロームラインを追加したが、基本的には変わっていない。

(参考57-1abc)1957 Nash Ambassador Custom Sedan

遂に「ナッシュ」最後の年を迎えた。トチプル・カラーを採用し、縦目のヘッドライトや新しいグリルで見た目を変えてみたが、フェイスリフトの範囲で本質は変わらず、シリーズも「アンバサダー」のみとなり、会社の主力は小型車「ランブラー」に注がれた。結果的には「アメリカン・モータース」になってからは「ランブラー」が主力製品となり、1902年当時「ナッシュ」の前身「ジェフリー社」が造っていた「ランブラー」に先祖帰りを果たした。

(参考57-2ab)1957 Nash Ambassador Country Club

最後は小洒落た名前「カントリー・クラブ」の後ろ姿で「サヨナラ・ナッシュ!」。

・1957年を以て「ナッシュ」の名前は消え「アメリカン・モータース」(AMC)となった。

―― 次回は日産自動車・1(戦前のダットサン)の予定です ―

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