2010 Delica D:5
(00)< 戦 前 >
「三菱自動車」の創業は古く、1870年(明治3) 「九十九(つくも)商会」として土佐藩から海運業を引き継いだところから始まった。翌1871年廃藩置県により土佐藩が無くなると、当時事業監督だった「岩崎弥太郎」が経営者となり、藩船3隻の払い下げを受けて「海運」「海外貿易」を目指した。1873年(明治6)「三菱商会」となり、翌1874年には本店を大阪から東京・日本橋に移し、同時に「三菱蒸気船会社」と社名変更した。この際現在まで使用されている「スリーダイヤ」の三菱マークが制定された。これは「三菱商会」が所有する船舶の旗印として誕生したもので、「土佐藩山内家」の「土佐柏」と、「岩崎家」の「重ね三階菱」を組み合わせて作られ、ここからこれをシンボルとする「三菱」の社名が生まれた。
この年には「台湾事件」が起こり派兵のための輸送を引き受け、政府御用達らしく「郵便汽船三菱会社」と名前を変えた。その後アメリカ資本の「パシフィック・メイル社」を買収し、旧「日本国郵便蒸気船会社」の18隻も無償貸与されるなど、急速に大きくなっていった。大久保保利通、大隈重信らを後ろ盾に海運業を独占する「三菱」を快く思わない品川弥二郎、井上馨、渋沢栄一ら政府高官の主導で、1882年「三井系」を中心に半官半民で設立されたのが「共同運輸会社」で、熾烈な値引き競争は1883年から2年間も続き、最終的には運賃が10分の1まで引き下げられ、このままでは両者共倒れの恐れがあると政府が中に入って両者を合併させ、1885年「日本郵船」が誕生した。1885年2月創業者「岩崎弥太郎」が死去すると弟の「岩崎弥之助」が後を継ぎ、それまでの海運中心から「炭鉱」「鉱山」「造船」「銀行」「倉庫」など陸上の事業が中心となり、社名を「三菱社」と変更した。1884年から借り受けていた官営「長崎造船所」は1887年払い下げを受け、これが企業の中心的存在となり、後年神戸造船所が「三菱重工業」となる基礎が固まった。1803年商法が施行されると「三菱社」は「三菱合資会社」となり、弥太郎の長男「岩崎久弥」が三代目社長となった。1905年には所有する船舶をメンテナンスする必要から「三菱合資神戸造船所」が造られた他、各事業所別の分権体制が敷かれ財閥グループの姿が見え始めた。「久弥」の時代は約20年続き、1916年(大正5年) 弥之助の長男「小弥太」が四代目社長として後を引き継ぐ。1917年「三菱造船」「三菱製紙」、1918年」三菱商事」「三菱鉱業」。1919年「三菱銀行」など次々と独立・法人化し、戦前の三井財閥系列が形成されていった。この時生まれた「神戸造船所」が1934年(昭和9)「三菱重工業」と社名変更し、名実ともに三菱グループのリーダーとなっていく。話は戻るが、1917年出来たばかりの「神戸造船所」がイタリア製の「フィアット」を手本に自動車を造り上げた。純国産初と言われる「タクリー号」は1907年、「ダット号」は1914年には完成しているので、1917年の「三菱A型」が自動車業界にとってパイオニアとしての役割は果たしたとは思えないが、1921年までに22台(30台説も有り)造られたから、それなりに評価されていたと思われる。しかしその後10年余は自動車には手を出していなかったが、1932年になって大型バス「ふそうB46型」を完成させ、1935年からは国産初となるディーゼル・エンジン車が登場し、本格的に自動車製造事業を組み込んだ。
(写真00-0a~e)1917 Mitsubishi Type A(Reprica) (1973-11 東京モーターショー/くるまのあゆみ展)
モノクロの写真は1973年11月の東京モーターショーに特別展示された「くるまのあゆみ展」に登場した際撮影したもので、オリジナルは現存していないのでレプリカだ。オリジナルを造る際は岩崎家が所有していた「フィアット・ティーポ・ゼ―ロ」を手本に造られたと言われ、5人乗り、4気筒2800cc 35hp最高速度は30km/hだった。レプリカは1972年製でシャシーはジープから流用されている。カラーの写真は36年後の2009年、東京モーターショーに再度登場したもので、茶色塗装だったのがかる。レプリカはいえ、造られてから52年も経っているから立派なクラシックカーだ。
(参考)00-1a) 1932 Fusou B46 Bus
1932年造られた最初のバスは「ふそうB46」と命名された。1935年にはディーゼル・エンジン付きの「DB46」が追加され、1944年までにトラックも含め410台が製造された。
(01)< 戦 後 >
戦争に負けた日本は、強い力を持つ「財閥」は危険勢力とみなされ、1950年になると連合軍の意向で解体が指示され「三菱重工業」は「東日本重工業」(大型バス/トラック)、「中日本重工業」(小型車/スクーター)、「西日本重工業」(自動車関係なし)に3分割された。52年にはそれぞれ「三菱重工業」、「新三菱重工業」、「三菱造船」と社名変更した。1964年(昭39)には分割されていた3社が統合し、再び「三菱重工業」に戻った。
(参考01-1a)1946 Silver Pigeon C-10
「中日本重工業」が 戦後最初に手掛けた製品は、1946年の「シルバーピジョンC-10」スクーターで、丸山康次郎が戦前アメリカから持ち帰った「サルスベリ―社のスクーター「モーターグライド」が手本とされる。タイヤは不要となった戦闘機の尾輪を流用した。エンジンを始動するための「セル・モーター」や「キック」はなく、クラッチを握って駆け出し、勢いが付いたらクラッチを放す「押しがけ式」だったが、一発でかかることはめったになかった。エンジンは単気筒2ストローク112cc/3500rpm 1.5hpで、大卒初任給が500円前後だった当時39,000円だった。
(写真01-2a)1949 Mitsubishi Silver Pigeon (2012-04 トヨタ自動車博物館)
1948年の「C-11」を経て1949年「C-13」となった。性能はほとんど変わらず依然として「押掛け」のままだった。(1950年の「C-21」、からキックが採用された)
(02)< ヘンリーJ >
(写真02-1a~d)1951~52 Henry J Standard 2dr Sedan (1958年静岡市内)
1951年「東日本重工業」はアメリカの「カイザー・フレイザー」社と技術提携契約を結び、同社の小型車をノックダウン方式で(すべての部品の提供を受け組み立てる)月産30台程度生産したが、1954年本社が製造を終了し自然消滅した。日産→オースチン(1952)、日野→ルノー(1953)、いすゞ→ヒルマン(1953)に先駆けた日本で最初の技術提携だったが、三菱製とはあまり知られておらず、僕も最初見たときはアメリカ製と思った。しかし良く見れば「右ハンドル」で、輸入車ではなく国内組み立て車だ。どこにも「三菱」の痕跡は見られないのは全ての部品がアメリカ製だからだろう。「日産・オースチン」、「日野・ルノー」、「いすず・ヒルマン」と違って「三菱・ヘンリーJ」とは呼ばれなかった。
(写真02-2ab)1953~54 Henry J Corsair Deluxe (1959-04 丸の内・東京会館横)
1960年「ビッグ3」がコンパクトカーを発表し世界的大ヒットとなった。「ヘンリーJ」もほとんど同じサイズだったが時期尚早でヒットとはならず、1度モデルチェンジをしただけで1954年で生産が終了した。右ハンドルは多分「カナダ」「オーストラリア」向け部品の流用だと思われるが、後期型ではその部品は造られなかったようで、本国と同じ「左ハンドル」仕様だった。
(03)< ジープ >
(写真03-1a)1953 Mitsubishi-Jeep 2dr Delivery Wagon (CJ3B-J11) (1958年 静岡県庁前)
「中日本重工業」ではアメリカの「ウイリス」社と提携し1953年から「ジープ」のノックダウン生産を始めている。この契約は技術習得を目的としたものではなく、1950年始まった朝鮮戦争で使用する「ジープ」を日本で生産するため、アメリカの都合で持ち掛けられた話で、「ジープ」が欲しいが外貨が無く購入出来ない「警察予備隊」(現・自衛隊)にも好都合で1952年7月契約が成立した。1953年2月国内組み立て1号車「J1」が完成し54台が林野庁に納入された。9月には「ジープ」に関する「技術援助、及び販売契約」を締結したが、これは世界唯一のもので、製品名に「ジープ」を命名出来るのは本家以外は世界で「三菱」だけだ。写真の車は「ウイリスCJ3A」の国産版「CJ3B-J11」で、ワゴンタイプとしてはわが国のルーツとなる初代モデルだ。左ハンドルで、顔付きも平面の軍用ジープのまま。正面には「Willys」とあるだけで、「三菱」のマークはまだ入っていないなので1956年の完全国産化される以前に製造されたものだ。
(写真03-2a~e)1958 Mitsubishi Jeep J3 (2015-11 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮)
1956年7月から完全国産型「J3」の生産が開始された。写真の車は左ハンドル仕様だが、正面には「Willys」のロゴの前に「三菱」のマークが入った。
(写真03-3abc) 1961 Mitsubishi-Jeep J3 (2005-10 東京モーターショー/幕張メッセ)
1961年製だが初期型「J3」で左ハンドル。正面には三菱マークとWillysの文字が併記されている。
(04a)< 軽3輪自動車 >
キャビン付きの「軽3輪車」は1957年の「ダイハツ・ミゼット」が大村昆のCM で派手に登場し世間に広く知られた。
(参考04-0b)1957 Daihatsu Midget DKA
(参考04-1a)1959 Mitsubishi Leo (発売時のパンフレット)
(参考04-1b)1959 Mitsubishi Leo LT10
(写真04-2ab)1959 Mitsubishi Leo LT10 (2019-06 日本自動車博物館/小松市)
「レオ」は岡山県倉敷市の「新三菱重工業水島製作所」で造られた。戦前は「水島航空機製作所」として海軍の「一式陸攻」や「紫電改」の製造、零戦の後継モデル「烈風」の試作にもかかわっていた、高い技術を持った工場だ。戦後はオート3輪「みずしま」の製造元として知られる。「ダイハツ・ミゼット」発売以来、キャビン型軽3輪は各社が手掛け、「マツダK360」「オリエント・ハンビー」「ジャイアント・コニー」「ホープスター」などオート3輪のメーカーが進出して来た。「レオ」の発売は1959年10月だった。
(参考04-3a)1961 Mitsubishi Leo LT-10
1961年のパンフレットだが発売当初と全く変わっていない。「三菱3輪ペット・レオ」 と書いてあるが「レオペット」とも呼ばれていた。
(04b)< 4輪軽自動車 >
日本における「4輪軽自動車」のパイオニアは名古屋の中野自動車工業が1952年完成させた「オートサンダル・ロリー号」とされる。
(参考04-0a)1952 Auto Sandal
(写真05-1ab)1962 Mitsubishi 360 LT22 Pickup (2019-06 日本自動車博物館/小松市)
1961年3月4輪軽トラック「三菱360T」が水島製作所から発売された。三菱の4輪軽自動車としては「初代」となる。
(参考06-1abc)1962 Mitsubishi Minica LA20
「360 LT」シリーズの好評を受けて乗用車に変身して1962年10月デビューしたのが「ミニカLA20」だ。乗用車らしくグリルにはクロームメッキが施されているがデザインは「トラック」と全く変わっていない。
(写真06-2ab)1967 Mitsubishi Minica LA20 DX (2019-06 日本自動車博物館/小松市)
この車は1967年型となっているが、このグリルは1964年マイナーチェンジした3代目の顔だ。
(写真06-3abc)1970 Mitsubishi Minica M Hi-Deluxe (2010-11 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮)
1969年7月フルモデルチェンジがあり第2世代「ミニカ70」となった
(写真06-5abc)1997 Mitsubishi Minica Guppy (2005-10 千葉市作草部/トップマート駐車場)
(写真06-6abc)1997 Mitsubishi Minica Toppo (2006-03 千葉市作草部/スーパー・トップマート駐車場)
(写真06-7ab)1998 Mitsubishi Minica Toppo (2013-10 南船橋/ビバホーム駐車場)
(写真06-8a~d)1997 Mitsubishi Minica Town Bee (2007-02 フレスポ稲毛駐車場)
(写真06-9a~e)1998 Mitsubishi Minica Town Bee (2005-10 千葉市稲毛区/三枝整形外科前)
(写真06-10 abc)1999 Mitsubishi Minica Town Bee (2009-04 南船橋/ビバホーム駐車場)
街中で捉えた「ミニカ」のバリエーションの色々。
(05)< 国民車500からコルト、ギャランへ >
(写真07-1abc)1960 Mitsubishi 500 Standard (1960-04 駿府公園/静岡市内)
写真は新車発表会でボディには「三菱500 国民車」と大きく書かれている。1955年5月通産省から日本のフォルクスワーゲンとなる「国民車構想」が発表された。「2~4人乗り」「排気量350~500cc」「最高速度100km/h」「燃費30km/ℓ」「10万キロまで大規模な修繕を擁しない耐久性」「価格は当初15万円だったが25万円に変更」の条件を満たした小型大衆車を1958年秋までに実現すれば補助金等優遇する、というものだったが、「自動車工業会」が実現不可能と表明し、実際何処のメーカーも実現できなかった。その中でも「三菱」は価格以外は可成り構想に近くあえて「国民車」と銘打って発表したのが「500」だったが、当時の軽自動車枠は「360cc」だったから「小型車」扱いとなり税金も高かった。エンジンは空冷4ストローク2気筒49×70mm 493cc 21hp/5000rpmで、新三菱重工業名古屋製作所が開発・生産した。価格は全国統一390,000円で発売された。普通車としては軽自動車並みでではあったが、庶民にとっては高根の花だった。
(写真07-2ab)1961 Mitsubishi 500 Super Deluxe 2doa Sedan (1962-02 湯河原・菊屋旅館)
馬力不足が指摘されていた「500」は、名前はそのまま排気量を594ccにアップした「500 スーパー・デラックス」を発売した。出力は25hp迄強化されていた。車は僕の上司が個人で購入したもので、社用のセドリックと2台で湯河原方面へドライブした際撮影したもの。
(写真07-3a)1961 Mitsubushi 500 Super Deluxe (1963年 立川方面)
港区の「三田支店」に勤務していた当時、東京タワー下に「S自動車」と言う修理工場があった。時々「皇室費」などと書かれた小切手が入金されるところをみると「御料車」の修理も手掛けていたようだ。同僚がここを担当していて「三菱500」を借りてきたので、立川方面へドライブした。その時の感想は、流石!零戦の三菱だ、メカニックは素晴らしい。だが内装は殆どないに等しいのも零戦と同じだ。と変なところで折り合いをつけていた。性能さえよければ内装には金をかけない方針が見え見えだったが、結局「技術屋」のこの考えはこの車の命取りとなった。
(写真08-1ab)1962 Mitsubishi Colt 600 Dx (1990-01 JCCA汐留ミーティング)
1961年ライバルとなる「パブリカ」がトヨタから発売された。こちらは最初から「国民車構想」を無視した実用性を優先した構想から700ccのエンジンを搭載していた。「三菱500」がショーの際の前評判ほど売れなかったのは、「スタイリングや簡素すぎる内装」「馬力不足」が原因と思われた。そこで1962年6月「500」をマイナーチェンジし、エンジンは600ccのまま新たにモダンなスタイルのボディを載せ、名前も一新して「コルト600」が誕生した。フロントノーズが延ばされ、見た目が大分変わった。 .
(09-1ab)1963 Mitsubishi Colt 1000 4dr Sedan (2019-06 日本自動車博物館/小松市)
自動車メーカーとしてのラインアップを考え、三菱としては「中型車」に相当する「コルト1000」が1963年7月誕生した。初の「4ドア・セダン」で、エンジンはこれまた初の水冷4気筒OHV 977cc 51hp/6000rpmだった。セダンながら可成りの高性能で翌年の日本GP では大活躍する。
(写真09-2a)1964 Mitsubishi Colt 1000 (1964-05 第2回日本GP/鈴鹿サーキット)
1964年日本GPでレースに登場し圧勝した。先頭の⑰⑱⑲3台が「コルト1000」で、TⅢクラスで優勝した。
(写真09-3a)1965 Mitsubisi Colt 1000 Sport Prototype (1964-09 東京モーターショー/晴海)
日本GPでクラス優勝した勢いに乗って造られた「スポーツ仕様」だったが、試作のみで市販はされなかった様だ。
(参考10-1ab)1965 Mitsubishi Colt 1500 Dx
「1000」の兄貴分として2ℓの「デボネア」との間を埋めるため「1500」が造られた。「1000」との格差を示すため「四つ目」が採用されている。
(写真11-1ab)1966 Mitsubishi Colt 800 2dr Sedan (1965-09 東京モーターショー/晴海)
ライバル「パブリカ」に続いてダイハツ「コンパーノ」、マツダ「ファミリア」など800cc級が出現し、「コルト」もそれに対抗して用意したのが「800」だ。水冷2ストローク3気筒843ccのエンジンを持ち、国産初のファストバックボディは、2ドア5人乗りだった。2ストロークの採用は大衆車としてのコストとメンテナンスを考慮したものだったが、2ストロークは軽自動車のイメージが強く不評だった。
(写真12-1a~e)1968 Mitsubishi Colt 1000F 2dr Sedan (2013-11 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮)
1966年、不評の2ストローク・エンジンに変えて、「コルト1000」用の4ストロークOHV 977ccエンジンを、「800」のボディに搭載し「1000F」として登場させた。
(写真13-1abc)1960 Mitsubisi Colt Galant AⅡGS (2018-08 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)
1969年東京モーターショーでデビュー。初代は「コルト・ギャラン」を名乗る。エンジンは三菱初のSOHCで1.3 ℓが「AⅠ」に、1.5 ℓが「AⅡ」に搭載された。
(写真13-2ab)1971 Mitsubishi Colt Galant Custom 1.6 ℓ Sedan (2019-06 日本自動車博物館/小松市)
1971年のマイナーチェンジで丸目4灯に変った。
(参考13-3ab)1975 Mitsubishi Galant 2000 GS-Ⅱ
1973年6月フル・モデルチェンジで2代目となった。「コルト」は付かず唯の「ギャラン」となった。
(写真13-4abc)1988 Mitsubishi Galant VR4 Turbo (2018-11 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮)
「3代目」(1976~80)、「4代目」(1980~85)、「5代目」(1983~99) を経て、写真の車「6代目」(1987~92)」が誕生した。「VR-4」は三菱の看板車種として当時のハイテク機能をフル装備し、」世界ラリー(WRC)でも6回優勝している。
(写真13-5abc)1992 Mitsubishi Galant VR4 (2024-04 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)
1992年「篠塚健次郎」仕様のWRC 参加車だ。10月31日から11月2日にかけて行われた「コートジュボアール・ラリー」で優勝している。因みに「VR」とは「ビクトリー・ランナー」の意味で、ラリーに勝つために造られた車だ。
(写真14-1a~e)1971 Mitsubishi Colt Galant GTO MR A53C (2007-04 トヨタ自動車博物館)
1969年のモーターショーに「コルト・ギャランTX-12」とした登場した2ドア・ファストバックのプロトタイプが、翌年、殆どそのまま「ギャランGTO」として市販が始まった。当時としては非常に洗練されたスタイルで、特に最後尾が一寸跳ね上がった「ダックテール」は日本初登場で注目された。MRのエンジンは4気筒DOHC 76.9×86mm 1597cc 125hp/6800rpmで最高速度200kn/hが可能だった。「GTO」と言うネーミングは「Gran Turismo Omologate」の略で、GTレースに出場するための認証を受けている証(あかし)となるマークだが、「高性能車」と同意語だ。
(写真(15-1ab) 1973 Mitsubishi Galant Coupe FTO 1600GSR (2019-06 日本自動車博物館/小松市)
「GTO」に遅れる事1年、1971年11月弟分の「FTO」が誕生した。弟分と言っても「GTO」とは全く別物でボディはファストバックとノッチバックの中間的な「セミ・ノッチバック」2ドア5人乗りのみで、初代のエンジンは商業車向けに開発された1.4 ℓ だったが、1973年に1. 6 ℓ が採用され,写真の車はそれのツインキャブ仕様「GSR」だ。「FTO」は丸型ヘッドライトの筈なので、角形に改造されているのか。「FTO」とは「Fresco Turismo Omologate」の略で、直訳すれば「フレッシュ・ツーリズム承認済み」となるが初めて聞く言葉で意味不明だ。あえて意訳すれば、「新鮮な感覚のGTOの弟分」と言いたかったのではないか。1971~75年でモデルチェンジすることなく生産は終了した。
(写真16-1abc)1981 Mitsubishi Mirage 1600 GT (2012-12 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮)
1978年3月登場した「ミラージュ」は三菱初の「FF」車で、エンジンは横置き直列4気筒SOHC 1.2ℓ、1.4ℓ、1.6ℓ の3種があった。「ランサー」と共に長期にわたって三菱の小型車枠を担って来たベストセラーだ。写真の車は1978~83年に造られた初代 前期型で1.6 ℓ 仕様だ。
(写真17-1a~d)1994 Mitsubishi FTO (2008-08 南船橋/ビバホーム駐車場)
1971~75年存在したギャラン・クーペ「FTO」の名前を継いでいるが、車としては後継車ではない。唯同時期に存在した「GTO」の弟分としての位置づけは以前と同じだ。ミラージュの4代目(1991~95)をベースとしており、前輪駆動でこの車のエンジンはV6 DOHC 24バルブ1998cc 200psが搭載されている。
(写真18-1abc)1999 Mitsubishi GTO Twin Turbo (2011-12 南船橋/ビバホーム駐車場)
初代「ギャランGTO」は1970~78年で生産を終了していたが、1989年の東京モーターショーで「三菱・HSX」として出展された車が1990年10月から「三菱GTO」として市販が開始された。シャシー、エンジンは「ディアマンテ」をベースにGTO用に手が加えられている。最初から北米市場をターゲットに企画されており、エンジンはV型6気筒DOHC 24バルブ ツインターボ 280psと強力なものが搭載され、基本的には「4WD」仕様である。写真の車は1998年以降の最終型だ。
(06)< ランサー >
(写真19-1ab)1974 Mitsubishi Lancer 1600 GSR 2dr Sedan (2019-06 日本自動車博物館/小松市)
「コルト」シリーズは1966年「1000」が「1100」となり、更に68年「1200」となっていた。65年から追加された「1500」は69年で姿を消した。唯一残っていた「1200」も1970年12月で販売を終了したので、「ギャラン」以下の小型車は空白状態が続いていた。新シリーズ「ランサー」はその穴を埋めるため、1973年2月登場した。エンジンは1200、1400、1600の3種があったが、写真の車はラリー競技用のホットモデル「1600 GSR」だ。
(写真19-2abc)1981 Mitsubishi LancerEX 1400 GL (2013-11 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮)
1979年「ランサー」は2代目となった。スタイルはがらりと変わってすっきりしたのはイタリア人デザイナー「アルド・セッサーノ」が関与したと言われる。
(写真19-3abc)1998 Mitsubishi Lancer GSR Evolution V (2005-11 千葉市稲毛区/市立千葉高校付近)
「エボリューション」は「ランサー」をWRCに参加させるための「ホモロゲーション取得用車両」として造られた車だ。ベースとなった車により4世代に分かれる。第1世代「エボⅠ~Ⅲ」(1992~95)、第2世代「エボⅣ~Ⅵ」(1996~99)、第3世代「エボⅦ~Ⅸ」(2001~05)、第4世代「エボⅩ」(2007~15)となる。写真の車は「V」のマークが見えるので1998年型で、レーシング仕様は「RS」だがこの車は街乗り用の「GSR」だ。エンジンは直列4気筒DOHC 16バルブ ターボ1997cc 280ps/6500rpmが搭載されている。
(写真19-4abc)1999 Mitsubishi Lancer EvolutionⅥ Tommi Makinen Edition(2024-04 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)
1999年の「WRC]で大活躍した「エボリューションⅥ」で、「トミ・マッキネン」は⑦番のこの車で第1戦「モンテカルロ」、第2戦「スエーデン」、第4戦「ポルトガル」、第9戦「ニュージーランド」、第12戦「サンレモ」と5回の優勝を挙げ、ドライバーズ・チャンピオンを獲得している。
(写真19-5ab)2005 Mitsubishi Lancer Evorution Ⅸ (2005-10 東京モーターショー/幕張メッセ)
2005年WRCに参加した車でこの年は「エボⅨ」に相当する。実際に参加したのは2台で、⑨は「ハリ・ロバンペック」が、⑩は「ジル・パニッツイ」と「ジャンルイジ・ガリ」が交互に乗っており、3人の名前が同時に書かれているのは展示用の車だろう。
(写真19-6-1abc)2006 Mitsubishi Concept X (2005-10 東京モーターショー/幕張メッセ)
2005年の東京モーターショーに登場した「コンセプトX」は、次期「エボリューション」のプロトタイプだった。だから試作車の「X」ではなく、「エボⅩ」のネーミングだったようだ。
(写真19-6-2abc)2007 Mitsubishi Lancer EvorutionⅩ GSR-Premium (2008-10 南船橋/ビバホーム駐車場)
(写真19-7abc)2009 Mitsubishi Lancer EvorutionⅩ GSR TC-SST (2011-05 千葉市稲毛区)
実際に市販されたのがこれだ。殆どそのままに近い形で量産されている。我が家の近くで撮影した2台だ。
(写真19-8abc)2015 Mitsubishi Lancer EvoprutionⅩ Final Edition (2024-04 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)
「エボリューション」シリーズは2015年「エボⅩ」が最後で、この車は最終モデルとなった。
(07)< デボネア >
(写真20-1ab)1963 Mitsubishi Debonair Prototype (1963-10 東京モーターショー/晴海)
直6 OHV 1991ccのエンジンを持つ三菱系のフラッグ・シップだったが、 地味で人気が無かった。1964年7月発売以来、22年間基本形は変わらず、1986年初めてフル・モデルチェンジが行われた。人気が無かったのにロングセラーだったのは日本中に一杯あった三菱グループが受け皿で、「デボネアは三菱系の重役専用車」と言われた。財閥系の会社はグループ意識が強く、三井グループの火災保険会社に勤務していた僕の兄も電気製品など高い買い物の際は三井系の物を優先していた。
(写真20-2a~d)1984 Mitsubishi Debonair Executive SE 4de Sedan (2008-11 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮)
発売以来20年経っているが、新車発表時と殆ど変わっていない。」
(参考20-3a)1986 Mitsubishi Debonair 3000 Royal Extra
22年ぶりに登場したニューモデルの「デボネア」は、「3000ロイヤル・エクストラ」が421.5万円と高価だった。僕は街で一度も出会っていない。
(参考20-4a)1992 Mitsubishi Debonair Exceed
今回は早めに(と言っても6年経っているが)1992年フル・モデルチェンジが行われた。現物を見ていないので判らないが、どの程度高級感が出ていただろうか。
(写真20-5ab)2000 Mitsubishi Proudia (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
「デボネア」の後継車として2000~01年に生産された。エンジンは2種あり写真の車はV8 DOHC 4500cc 280ps付きだが、V6 3500cc240psもあった。相変わらず「三菱グループの重役専用車」的存在で、2年間で1228台しか作られなかったが、車としては丹念に造られた高級感のある仕上がりで、共同開発した韓国では好評を得ており、10年近く製造された。
(08)< パジェロ >
(参考21-0a)1973 Jeep-Pajero Prototype
「パジェロ」の名前が最初に登場したのは1973年秋の東京モーターショーで、レジャー用のオフロードカー・ブームの前兆を察知した「三菱」は、手持ちのオフロードカー「ジープ J52」に手を加え、大きく派手な「ロールバー」、当時まだ珍しかった「ハイバックチェア」、「フロント・スポイラー」まで付けたスペシャルカーに仕上げた。しかしあくまでも「ジープ」の派生モデルであって、機構的には後年の「パジェロ」に繋がるものではない。
(参考21-0b)1979 PajeroⅡPrototype
次に登場したのは6年後の1979年の東京モーターショーで、「パジェロⅡ」だった。今回は「ジープ」とは関係ない部品から造られた。一説には「ジープ」との契約で基本形を大きく変更する改造は出来なかったためとも言われる。外形に「ジープ」の面影は全く無いが、大きな「ロールバー」を持つオープンタイプは引き継がれた。
(参考21-0cd)1982 Mitsubishi Pajero (初代モデル)
「パジェロ」シリーズの第1世代は1982年から91年までの10年間造られた。ベースとなったのは1トン積みのピックアップ・トラック「フォルテ」の4WDが採用された。写真の車はソフトトップを上げた姿だが、これを下げればプロトタイプの「パジェロⅡ」に可成り近い姿だ。最初の完成車「バン」は「トラック」として登録され、その後「ワゴン」が完成すると「乗用車」として登録された。この経過から見ると、後年の「パジェロ」イコール「パリ・ダカ」と評価されるラリー車は想定しておらず、レジャーカー以外に実用車としても売り込みを図っていたようだ。
(写真21-1abc)1985 Mitsubishi Pajero Turbo (2024-04 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)
第1世代は1885年までが前期型となる。この車はターボエンジン付きの「メタル・トップ・ワゴン」だ。
(写真21-2a~e)2002 Mitsubishi Pajero Montero (2024-04 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)
第3世代は1999年から2006年まで造られた。三菱のファクトリードライバーだった「増岡浩」は2002、2003年と「パリ・ダカール・ラリー」に2連勝しているが、201番のこの車は2002年優勝した際の実車だ。
(写真21-3ab)2004 Mitsubishi Pajero Evolution MPR10 (2003-10 東京モーターショー/幕張メッセ)
2004 パリ・ダカールラリーは1月1日から18日までかけて11,000キロを走破する過酷なレースだった。「三菱パジェロ」は2001年から既に3連勝し絶好調だったがこの年も「スタファン・ペテランセル」が優勝し連勝を延ばした。最終的には2007年まで7連勝し、「パジェロ」と言えば「パリ・ダカ」を連想するイメージを植え付けた。優勝車は203番で写真の車は実車ではない。
(09)< デリカD:5 >
(写真22-2a~d)2010 Mitsubishi Delica D:5 (2010-12 南船橋/ビバホーム駐車場)
「デリカ」と言う名前は1968年600キロ積みの「小型トラック」として誕生した。しかし,「デリカD:5」がベースとしたのは「小型トラック」ではなく、2001年から市販している中型SUV「エアトレック」(2005年からアウトランダーと名変)を選んだ。最初に姿を見せたのは2005年の東京モーターショーで「コンセプトD:5」として展示されたが、翌年「デリカD:5」と正式に命名された。(因みにD:5は「デリカの5代目」を表している)2007年1月から市販が開始した。 写真の車は3ナンバーなので 4WD 2.4 ℓ ICターボ付きと推定した。
―― 次回は「光岡自動車」の予定です