片山豊の105年の生涯は、まさに自動車に生きた人生だったといえるだろう。日産自動車を退職した後でも、自動車が片山を離さなかった。片山が作り、売り、そしてサービスを提供した自動車とそのオーナー達は、片山が会社を辞めても走ることをやめず、最後まで慕っていた。そして片山は、その自動車を愛する人達を愛した。これほどまでに自動車を愛し、自動車を愛する人に愛された人を、私は見たことがない。片山にとって自動車は「仕事」の対象ではあったが、人と仕事という関係から大きく逸脱していたように見えた。片山の友人は、あらゆる国のあらゆる自動車メーカーの自動車好きの人たちであったのである。今回は、これまでのおさらいも含め、片山の足跡を簡単に振り返ってみたい。なお、それぞれの詳細はバックナンバーに詳しいので参照いただければ幸いである。
■将来の日産社長の思惑は戦争で霧散する
さて、入社間もない頃の片山は、周囲にどのように映ったのであろう。「鮎川義介の遠縁であり、遠からず社長になると思っていた」というのが、戦前の日産で同僚であった荒木貞發(さだあきら)の回想である。しかし、これまでに述べてきたように、それは敗戦で消滅してしまう。
戦後、鮎川は多くの実業家と同様に、進駐軍により事業への復帰が禁止され、リーダーと資金源を失った日産自動車は、国策銀行であった日本興業銀行(興銀)の傘下に入ることを余儀なくされた。その時、興銀から派遣された取締役が後の社長の川又克二であった。川又は1953年の労働争議(日産大争議)では、第二組合を起こした宮家愈(まさる)とともに乗り切り、後に宮家が「近代的労使関係」と称した緊密な関係により、日産を戦後復興の流れに乗せた。
■モーターショーの開催/軽スポーツカー開発/スポーツカークラブ運営など、今日につながる活動を実践
その中で、通常の労使関係とは異なった、日産と組合の関係に反対意見を唱えていた片山は組合からは距離を置き、次々と戦後の日本自動車産業を象徴する事業を提案し、実践し始めた。この連載の第3回、第4回及び第5回に述べたように軽自動車枠の提案と実践、メーカー合同の自動車ショウの開催、そしてスポーツカーの開発とスポーツカークラブの推進である。これらは誰からの指示でもなく全て片山の感覚と思考から生まれたもので、時代をはるかに先取りしていたものといえるだろう。実際に片山は、戦後の日々をフライングフェザーの開発、自動車ショウの推進、そして休日には友人たちとスポーツカークラブを運営していた。そして片山が手がけたこれらのすべてが後の日本自動車産業の根幹として今日まで続いている。また、海外レースへの進出については、第5回で述べているので参照願いたい。
■アメリカにおけるダットサン車販売の多大なる功績
片山は次なる舞台として、米国に自動車事業の舞台を求めた。片山にとってはこの“狭い会社環境”からの開放であった。米国で“解放された”片山は独自のパーソナルなやり方で販売網を組織し、傘下のディーラーたちと親密な関係を築き上げた。連載第5回と第6回で述べたように、当時、日本製の自動車を買うという“冒険”を受け入れたアメリカ人には、手厚いサービスと部品供給を絶やさず、さらに、その車で地域の草レースに出走することを助けた。機会があるごとに地方のディーラーを直接訪問し、何か問題がないかと尋ねた。ディーラーたちを集めた会合では、彼らに「あなたたちが先に儲けなさい、我々はその次で良い」、と発言し彼らの度肝を抜いた。そして片山の言葉を信じたディーラーたちはダットサンを売ることによって各地で着々と販売地盤を拡大し、地域の“金持ち”になった。筆者は幾度となく、その頃から続くディーラーとその子孫たちから「自分たちは片山の言う通りダットサンを売ることによって今の地位を築けた、本当に感謝している」と聞かされたものだった。
米国事業における当時の日産の“大いなる誤解”は、片山が17年をかけて作り上げた米国における販売網とサービスネットワーク、レースにおける実績、そして米国日産が積み上げた内部留保金などはそのまま“ありがたく”引き継げば、そのままで誰が片山の後を継いでも米国事業は順調に伸びるものと考えていたことだった。片山が引退し、次期社長が赴任した後、日産の内部では会社幹部と組合上層部との間では暗闘が徐々にヒートアップしていくのにつれて、米国日産の事業もゆっくりと傾き始めていくのであった。
■ハルバースタム著『覇者の奢り』により片山の功績が広く紹介される
さて、日産自動車の一般の社員には、米国で活躍する片山の様子は、どのように伝わっていたのであろうか。片山と同年代あるいはその部下にあたる年代の人々は、ほぼ全て物故し今となっては直接の証言を得ることは難しい。
当時の社内では、誰か“名のない人”がアメリカで快進撃を続けていたことは分かっていたのだろうが、それが片山であり、その自動車にかける情熱を知っていたのは、会社や組合の幹部を除けば、定期的に米国に送り込まれた一部のエンジニアたちに限られていたという。広く片山の存在が知られることになったのは、第8回で述べた『覇者の奢り』の刊行であった。
片山は引退後もアメリカのユーザーやディーラーたちから強い支援を受けていた。1990年代には、全米の日産ディーラーの広告に片山のイメージが取り入れられ、片山の等身大の切り抜き写真がディーラーに配られていた。片山が日産にいようといまいと、彼のイメージが米国のユーザーを動かす力となっていたのであろう。そして片山は米国自動車殿堂者に推挙された。これには当時のアメリカ自動車業界のオピニオンリーダーであったオートモティブニュース(Automotive News)誌の編集長であったキース・クレインを筆頭とする自動車ジャーナリストたちの強力な支持があったものと筆者は想像する。片山は戦後の宣伝課長時代に日本のジャーナリストたちと強い絆を作り上げていたが、同様に米国内のジャーナリストたちとも良好な関係を築いていたからである。そして彼らの下には、各地でダットサンを売ることにより“アメリカンドリーム”を実現した、各地方の起業家たちが多数いたのである。やがて日産本社の歴史アーカイブにも、片山の功績が“遠慮がちに”紹介されるようになっていった。
1980年代のNHKドキュメンタリー「自動車」に続き、2001年には経済評論家の財部誠一と片山の共著の『Zカー』が刊行され、30年以上前の米国における片山の業績が公になるとともに、カルロス・ゴーンの日産の復興が世間の耳目をさらっていた。川又克二は1986年にすでに物故しており、2003年には次の社長であった石原俊も鬼籍に入った。組合を率いた塩路一郎が逝ったのは2013年であった。このような中で片山は一人“生き残っていた”ことになるが、過去の功績を声高に喋ることはなかった。しかし、要請に応じ、高齢になった後も米国時代の事業開発について語り続けた。
■そして、筆者から見た「片山豊」とは
2015年に片山が逝って間もなく、自動車の電動化が急速に進み、2024年には電動自動車をメインにする中国が日本を抜いて自動車輸出国になった。世界は急速に電気自動車の時代へとハンドルを切ったように見える。
片山が活躍した1960年代はガソリン自動車の時代であり、アメリカがとにもかくにも強く、当時のソ連と対抗して世界に軍治力、経済力とそれに基づく“公平さ”を標榜した時代であった。そして、黒人やラテン人種が人口の約20%以下で、圧倒的な“不平等”と戦っていた。そのアメリカの民主主義も、大統領選挙のたびに揺らぎをみせるようになる。
しかし筆者は、片山が自動車に込めた思いと、自動車を愛する人たちに向けた誠実さ、事業に対する情熱、自由への憧れなどの精神は、どのような世の中になろうとも価値を失わないものと思う。大変不思議なことではあるが、片山はその生涯を通じて、これらの“精神的価値”の化身となって日本からアメリカに渡っていったのだと思う。
次男である筆者が、あえて片山を第三者の視点で見て、その特徴を端的にいえば「日本人には稀な個の確立した人」ということになるだろう。第3回で紹介したように、26歳のとき、陸軍近衛師団の上官に向けて「自分は兵隊に向いていない、衛生兵になって負傷者を助けたい」とはっきりいうことができたのも、明確な“個”があったからであり、日産の組合と会社幹部による「近代的労使関係」に対しても、それに流されず組合は会社側と堂々と戦うべきだ、と自説を主張したのも片山の“個”がなせる業だった。
これは片山が慶應義塾で学んだこととも関連があるように筆者は考えている。自由な雰囲気の教育と、米国遊学で得た友人との交友で、片山の個人としての確立に大きく影響をうけたものと想像する。当初望んでいた帝大には入れなかったが、帝大で学べば官立大学の本来の役割である公務員育成という大義名分に巻きこまれ、否が応でも周囲から官の圧力が存在したであろうから、このような特徴を備えることはなかったかもしれない。
最後に筆者が生まれた頃の両親のエピソードを紹介して、連載の結びとしたい。終戦時に疎開していた伊豆の漁村に、9月になって米軍が上陸するといううわさが流れたとき、周囲の村民は殺されることを恐れて裏山に逃れたが、片山と妻の正子が「もう戦争は終わった、米軍が非道なことをすることはない」と説いても誰も聞く耳を持たなかったという。妻正子は村人がひとりもいなくなった海岸で、4月に生まれたばかりの筆者を抱えて日向ぼっこをしながら真っ赤に日焼けした米国海兵隊が上陸するのを眺めていたという。