1965年(昭和40年)には片山豊が米国日産の社長となり、ロスアンゼルスから全米の販売を統括することになった。ダットサンブランドは徐々に全米に浸透し始め、毎日通りを走るダットサンの数も“パラパラ”から“続々”へと変化していった。片山の家族が渡米した直後には、ロスアンゼルスの通りでダットサンを見つけることは稀であったが、4年ほど経つとちらほら見かけるようになり、ダットサン410の後継車である510が発表された1967年には、路上でダットサンを見かけることは当たり前になっていた。
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トヨタは1957年頃から対米輸出を計画し、コロナを「ティアラ」と改名して販売した。当時のトヨタ車も日産と同様で、パワー不足とサービス体制の不足で販売は伸び悩み、1960年代初期はランドクルーザーを中心とした販売体制で、苦しい時期を過ごさねばならなかった。当時のトヨタの北米販売は、西部を中心に日系人の所長が担当していたが、その後事業が順調になるにつれて、トヨタ本社からの派遣者に引き継がれていった。
ホンダは1960年代から二輪車の北米輸出を始め、当時米国ではどちらかというと“アウトローが乗るイメージ”だった二輪車を、「You meet the nicest people on a Honda」というキャッチフレーズで、スーパーカブなどの販売をしていた。当時のアメリカンホンダの本社は、米国日産と同じ通りの向かい側で、まもなく北米トヨタの本社も近くのトーレンスに置かれ、1960年代にはロスアンゼルス南部に日本の自動車会社が集結した感があった。
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片山が当初から意図していた、販売網の構築とサービス体制の拡充は類を見ない速さで進展していた。アメリカ各地に大規模なパーツ倉庫が設けられ、その在庫管理は当時最新鋭のIBM360で行なわれるようになっていた。片山は戦時中に自分で短波ラジオを組み立てて密かに海外放送を聞くほどエレクトロニクスに親しみ、タイプライターも学生時代に習得したこともあってか、コンピュータの導入には積極的であった。
また、片山が力を入れていたアマチュアによるスポーツカーレースの奨励は、ディーラーのレース参加も促進し、東部コネチカット州のディーラーであったボブ・シャープは、1967年から1975年の8年間で6回アメリカスポーツカークラブのナショナルチャンピオンをダットサン車で獲得するなど大活躍をした。1971年には俳優のポール・ニューマンを、ボブ・シャープ自身のダットサンレーシングチームに引き入れ話題を集めていた。西海岸では、ピート・ブロックの率いるBREがセダンレースで大きな戦果を挙げ、ジョン・モートンはダットサン510を駆って1971年のトランスアメリカセダンレースで9連勝した。ダットサン車のレースにおける目覚しい活躍とともに、販売実績も着実に上昇していった。1975年、遂にダットサンは合計約29万台の販売実績をもって全米輸入車で1位となり、そのタイトルをフォルクスワーゲンから奪取した。1960年に始めた片山の“アメリカ大冒険”は、15年後に遂にそのピークを迎えたのである。
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1972年、北米日産本社もこれまでの事務所近く、ロスアンゼルスを東西南北に分けるフリーウェイの交差点に新社屋を構築した。新社屋の開所式で参加者に配られたパンフレットが著者の手許にある。表紙には「日産」「ダットサン」の文字と、初代ダットサンから現時点のモデルの写真が、ホイールの形にまとめられ、中には当時の川又克二日産自動車社長のメッセージ、次いで片山のメッセージが述べられていた。ここで片山は、全米10か所の地域のヘッドクオーターにあるそれぞれのパーツ倉庫と、円滑なサービス提供のための訓練が、今日の地位を気づきあげたことを述べ、ディーラーとオーナーとの血の通ったコミュニケーションがこれからも重要である、と述べている。また、製品を全米に販売することのみで売り上げを増やし、サービスを怠って消えていった過去の会社とは異なり、北米日産は当初からオーナーに手渡した車の10年あとのことを考えてビジネスを進めてきたことを述べている。
片山が事務所に掲げた朝比奈宗源師による「誠」の意味を「Truth and honesty(真実と正直)」 と説き、この思想に基づくビジネスを展開したと述べている。
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1975年には間島博が片山の後の社長となり、片山は会長職に就いた。北米日産は、1980年までに販売実績を50万台に引き上げる長期目標を立てていた。1973年に経験したオイルショックは、多くの消費者を小型車に引き寄せたが、すでにガソリン価格は1973年の倍となっており、国内価格のインフレは止まる気配が見えなかった。
1977年に片山は68歳を迎えており、当時の日産の定年をはるかに超えていた。片山の米国滞在期間は17年、当初2年間の市場調査予定を15年超えていた。片山への退職を告げた川又と石原俊に対し、片山は「あなたたちはいつ辞めるのか」と聞いたが、その答えは無かったという。とにかく片山は米国の職を解かれ、1977年に日本に帰った。
日本に用意されていた仕事は日産子会社の広告代理店の社長職であった。米国での販売の第一線で活躍した後、日本に戻った片山の気持ちを想像するのは難しい。翌年になって日産から藍綬褒章の打診があった。永年の輸出事業に対する国の褒賞だという。自身の仕事に対して会社から表彰されたことのない自分が、国から褒章を受けるのは筋違いとして、片山はこれを一度は断った。しかし日産はどうしても受けてくれという。これを断ると次に日産にこの褒章がまわってこないかもしれない、というのがその理由だった。これからの日産の後輩のことを想い、片山はこれを受けた。
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片山が帰国した2年後の1980年に、日産はダットサンブランドの使用を中止し、日産に統一した。日産が自動車産業に参入した当初から40年以上続く、世界ブランドであり、片山が鮎川から授かったダットサンブランドは、世界中で廃止されていった。その頃、日産はライバルのトヨタに見られるような勢いが徐々に見られなくなっていた。これをいち早く察知したのはアメリカの自動車雑誌で、1983年の『Car & Driver』11月号には以下のような記事が掲載された(筆者翻訳)。
【片山豊はどこへ行ってしまった?】以前日産は他社の後を追うことに飽き足らず、日本の自動車界を創造力でリードした時期があった。これには片山の力が大きかったといわれる。日本でスポーツカークラブを戦後創立し、1958年の豪州ラリーに参加した片山は、普通の日本人の枠では捉えられない男だった。1960年に日産は一年に1000台しか売れないアメリカへ片山を追い出した。片山の専門は宣伝だったが、アメリカでは丈夫が取り柄のダットサントラックから基礎を固め、欧州車の良いエッセンス全て取り込んだダットサン510を作らせてアメリカ人の日本車に対する認識を改めさせた。そして1970年には渾身の力作240Zを送り出したのだ。しかしその後日産は世界的な大企業へと変身し、片山の居場所は無くなってしまった。その後の日産は信頼性はあっても特徴のない車ばかり作り、その創造性は金融だけに発揮されていた。幸い1978年にはカリフォルニアに国際デザインセンターを建てるなど良い方へ向かおうとしている。しかしこれから我々が日産に期待するのは片山のように車を愛し理解している人間だ。もしも240Zが片山の創造力から生まれたのならば、またその力が必要なのだ。
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当時日産は「グローバル10」と名付けたメキシコ、イタリア、イギリス、ドイツなどへの投資を繰り返すことで戦線拡大を図り、結果として大きな負債を重ねていた。社長の石原と、これを批判する組合のトップ塩路一郎との争いも最高潮に達しており、会社幹部は経営どころではなかった。何十年も続いた社内闘争により日産の活力は大幅に削られていた。一方、片山は広告代理店の狭い社長室で、やるせない思いでこれを見ていた。