第140回 N項-7「日産・5」スポーツカー

2025年2月27日

1952 Datsun Sports DC-3

(1)<ダットサン・スポーツ DC-3>

*戦前の「ダットサン」には「ロードスター」や「クーペ」はあったが、「スポーツカー」は存在しなかった。従って日産自動車のスポーツカーの歴史は1952年出現した「ダットサンスポーツDC-3」から始まった。

(写真1-1ab)1953 Datsun Sport   (1960年 港区内)

50台しか造られなかった日産自動車初の「スポーツカ」を現役時代に街中で捉えた貴重な写真だ。本来はオープンカーだが寒い時期で幌を上げサイドもカバーされているので本来の姿はイメージできない。

(写真1-2a~g)1952 Datsun Sport DC-3   (1970-04 CCCJコンクール/東京プリンスホテル)

名前には「スポーツ」と付いているが、実態は戦前のトラックのシャシーに、太田祐一がデザインした「MGに似た」オープンボディを載せただけのものという資料があり、エンジンは乗用車の「スリフト」と同じ D10型 水冷直列4気筒860cc 20hp/3600rpmが搭載され、 最高速度は70km/に過ぎなかった。お手本となった「MG」は、米国では「TC」「TD」が大量に輸入されていたが、日本では「TC」は関東では1台しか知られておらず、街で見かけるスポーツカーと言えばすべてが「MG-TD」だった。

(写真01-3ab)1952 Datsun Sport DC-3  (1977-04 TACSミーティング/筑波サーキット)

この車が発表された際、高校生だった僕は静岡で見ている。その時の印象はこのダッシュボードを見て「MGそっくりだ」と思った事を覚えている。写真は筑波サーキットで並みいる外国製スポーツカーに交じってコース入りを待つ「ダットサン・スポーツ」。

(写真01-4)1952 Datsun Sports DC-3  (2011-07 快進社100周年展/上野国立科学博物館)

情報は色々あり、どれが本当か判断に迷う。この項の説明では「シャシーは戦前のトラック」で、販売台数は「20台」とあるが、シャシーは乗用車DB-4(スリフト)、生産台数は50台が正解らしい。

(写真01-4abc)1952 Datsun Sports DC-3 (2004-02 日産本社ギャラリー/東銀座)

(写真01-5abc)1952 Datsun Sports DC-3 (2015-07 日産ヘリテージコレクション/座間)

50台限定で生産され1台は日産が動態保存していると言われた車がこれだ。

(写真01-6abc)1952 Datsun Sports DC-3 (2019-05 林コレクション/大宮)

林コレクションのレストアを待つ車の中に「ダットサン・スポーツ」があった。この車を含めて僕は50台の10%に相当する5台を写真に収めている。参考に添付したトラック「Type5147」は1951年モデルチェンジでホールベースが2150mm(DC-3と同じ)と言うデータがあるので、戦前のトラックのシャシーを利用したという説は誤りのようだ。「DATSUN20」のバッジも含め、このトラックは「DC-3」とそっくりだ。

(2)ダットサン・スポーツ S 211>

(参考02-0a)1957 Datsun Sports 1000 Prototype-1 (ショウモデル)

日産初のスポーツカー「DC-3」から5年後の1957年5月、可成りスポーツカーらしくなった「ダットサン・スポーツ」を名乗るショーモデルが日比谷公園で開かれた第4回全日本自動車ショウで発表された。写真は1958年度版の年鑑に掲載されたもので、最初のショウモデルは市販型とは細部が異なる。

(参考02-0b)1958 Datsun Sports 1000 Prototype-2 (市販モデル)

1958年10月、第5回全日本自動車ショウは後楽園競輪場で開催された。昨年に続き「ダットサン・スポーツ1000」が再登場した。去年のショーモデルの反響を踏まえ市販を視野に入れたプロトタイプで、細部は翌年市販された初期型と変わらないようだ。シャシーは「110」シリーズ最終型で同時に発表された「211」から転用され、エンジンも同じ988cc「C型」を2バレル・キャブで34馬力まで強化し、最高速度も115km/hとなっている。

(写真02-1a)1959 Datsun Sports 1000 (S-211)  (1960-01 銀座・日東紡ショールーム)

「S211」は1959年6月から生産が始まったが60年1月までに僅か20台しか造られなかった。途中からサイドにメッキモールが付き2トーンとなった。デザインは「DC-3」に続いて太田祐一氏が担当したが、この車の最大の特徴はボディに「FRP」(ガラス繊維強化プラスチック)が使用された事で、日本では1956年発売された「フジキャビン」で初めて使われたが、まだ一般には実用化されて居なかった素材だった。写真は銀座にあった繊維会社のショールームで撮ったものと記憶していたが、後年、使用されたのが日東紡製の「FRP」と知ったので場所を確定できた。

(写真02-2a~e)1959 Datsun Sports 1000 (S-211) (1961-02 港区六本木/俳優座劇場前)

この車は右ハンドルで日本国内向けに製造されたものだ。しかし僅か7か月、20台でモデルチェンジし、次のモデルはこの車を左ハンドルにしてアメリカ輸出を目指したものだった。当時はまだ国内ではスポーツカーの需要は少なく、その上数少ないその購買層には外車崇拝の雰囲気が強くあり、国産スポーツなんて、と言う風潮が一般的だったからだ。国産車の性能が「日本人」に認められるようになるのは、第1回・第2回の日本グランプリで大活躍した1963~64年以降の事だったと思う。造られた20台の多くは市場調査のためアメリカへ輸出されてしまったので、国内には数台しか無かった筈だ。写真の車はその中の1台で、現役のナンバー付きだ。価格は東京渡し79万5千円で、ブルーバードは69万5千円だった。   

ダットサン・フェアレデー/フェアレディ(SPL -212, 213)

(参考03-0)1961 Datsun Fair Lady (SPL-212)

資料はアメリカ版「輸入車ガイド」からの抜粋で、1961年には「Fair Lady」は1996ドルで売られていたことが判る。

(写真03-1abc)1960 Datsun FairLady SPL-212 (1997-10 ラ・フェスタ原宿)

1960年1月モデルチェンジで誕生した「SPL-212」の中の「L」はLeft-Handerの表示で、全て左ハンドルの輸出専用として造られた。不思議なことに当時の法規では輸入車の左ハンドルはOKなのに、国産車の左ハンドルは車検が通らなかった。だからこの車を国内で走らせるとすれば外車として再輸入するするしかなかったのかもしれない。写真の車は、後年趣味の対象としてマニアの下に買い戻されたものだろう。外見は同じように見えるがスチール・ボディとなり、エンジンは「ブルーバード」と同じ「E型」(1189cc)を2バレル・キャブ仕様で48馬力に強化、最高速度は132km/hとなった。この車は後年名車として世界に知られる「フェアレディ」の最初のもでるで、名前の由来はミュージカルからで、名付け親は当時の川又克二社長という事はよく知られているが、命名された時の名前は「フェアレディ」ではなく「フェアレデー」だったそうだ。

(写真03-2a~d)1960 Datsun Fairlady (2-19-04 ジャパン・クラシック・オートモビル/日本橋)

写真の車は白/赤の2トーン塗分けだが、前項の車とは反対の配色で印象が全く変わる。シートは狭いながらもしっかり4人乗りだ。生産期間は1960年1月から10月までで台数は288台とされた資料がある。

(写真03-3a~d)1961 Datsun Fairlady (SPL-213) (2015-07 日産ヘリテージ・コレクション/座間)

1960年10月モデルチェンジで「SPL-213」となった。見た目にはモデルチェンジと言うほどの大きな変化はないが、エンジンは圧縮比を上げるなど改良されて出力が48馬力から 60馬力に大幅にアップしている。生産台数は本稿では「217台」と説明されているが、「1962年の生産終了までに525台造られた」と言う資料もある。それが「212+213」の総数なのか、「213」は生産期間が2年なので約2倍なのか、どれが正しいのか判らない。

<ダットサン・フェアレディ1500 (SP310)

(写真04-0abc)1961 Datsun Fairlady 1500 (SP310-ⅠPrototype) (1961-10 全日本自動車ショー/晴海)

「フェアレディ」の2代目として1961年10月の第8回 全日本自動車ショー(晴海)に登場したのが、本格的スポーツカー「フェアレディ1500」(SP310)だ。写真は初めて一般に公開された際撮影されてもので、市販車との違いは「3角窓が無い」「フェンダーにフレアーが無い」「バックミラーが無い」「ホイールの穴が丸くない」など細かい点だけで、プロトタイプ(ショーモデル)としては極めて完成度は高い。

(写真04-1ab)1963 Datsun Fairlady 1500 (SP310-Ⅰ) (1966-04 渋谷区・神宮前)

シャシーは型式からも推定されるように、ベースは「初代ブルーバード」(P310)を強化したものが使用されているが、エンジンは「セドリック」と同じ「G型」直列4気筒 OHV 1488cc をベースに、高速対応カムシャフトに変更するなど71馬力迄強化され、最高速度は150kn/hが可能となった。写真の車はフェンダー・ミラーが左にも付いているので1962-63年に造られた初代の後期型(63年)と推定した。

(写真04-2ab)1963 Datsun Fairlady 1500 (SP310-Ⅰ) (1977-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)

この車はフロントのエンブレム「DATSUN」の下にラインがあり、三角窓が固定式、リアトランクに把手あり、など初代の特徴を備え、左右両方に「フェンダー・ミラー」があるので1963年だ。(62年は右側だけ)

(写真04-3~e)1963 Datsum Fairlady 1500 (SP310-Ⅰ)  (2007-04 トヨタ自動車博物館)

博物館に展示されているこの車は年式がはっきりしている。初代の最大の特徴は変則3人掛けシートだが、よくある3人掛けは「2+1」と呼ばれる大人が座るには窮屈なものが多い。そこで「横向きシート」のアイデアが生まれ、大人でも余裕で座れるスペースを確保している。それほど必要と思えない3人乗りに拘ったのは、まだ実用性にも配慮し、スポーツカーには徹し切れていなかった証拠だろう。1962年10月から64年7月までに2,164台造られた。

((写真04-4abc)1965 Datsun Fairlsdy 1500 (SP310-Ⅱ) (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

英国内で撮影したこの車は「右ハンドル」なので、対米モデルと違って、外見は基本的には国内版と同じに見える。初代のセカンド・モデル「SP310-Ⅱ」で細部に変更がみられる。その特徴はフロント・エンブレム「DATSUN」の文字が独立した分割式となり、三角窓は開閉可能、リアトランクの開閉は「プッシュボタン」と変更された。初期型最大の特徴だった「第3シート」は廃止され、本気でスポーツカーに変身した。1964年8月から65年4月までに4,742台造られた。

シルビア

(参考05-0abc)1964 Datsun Coupe 1500 Prototype  (1964-09 東京モータ-ショー/晴海)

(写真05-1ab)1964 Datsun Coupe 1500 Prototype  (1964-09 東京モーターショー/晴海)

1964年9月、今年から外国車も参加することになって全日本自動車ショーから「東京モーターショー」と名前を変えた第11回モーターショーに登場したのが「ダットサン・クーペ 1500」だ。フェアレディのシャシー、エンジンに垢ぬけたクーペ・ボディを載せたもので、当時として珍しい「GT仕様」はモダンな印象を受けた。基本デザインは「日産デザイン室」によるもので、あまり洗練されたスタイルゆえにドイツ人「ゲルツ」の関りを云々されたが、彼との契約は「基本スタイル完成後」なの助言を与えた程度と言われる。

(写真05-2ab)1965 Nissan Silvia Coupe (CSP311)  (1965-11 東京オートショー駐車場/晴海)

1965年4月市販が開始され「日産シルビア」(CSP311)と命名された。(ダットサンではなかった)エンジンはフェアレディに合わせ「R型」1595cc 90ps/6000rpmに変わり、最高速度は178km/hが可能だったが、価格は120万円と高価で初代は1968年6月までに554台造っただけで姿を消した。

<ダットサン・フェアレディSP311 (1600) / SR311 (2000)

(写真06-1abc)1965 Datsun Fairlady 1600 (SP311-1)   (1980-05 TACSミーティング/筑波サーキット)

1965年5月、先月の「シルビア」に続いて兄弟分「フェアレディ1600」(SP311)が登場した。ある紹介記事に「シルビアの機構を大幅に取り入れたフェアレディ1600がデビュー」とあったが、発売のタイミングが後発だとしても、あくまでもベースは「フェアレディ」で、派生モデルが「シルビア」と見るのが常識ではないかと僕は思う。外見ではグリルが格子から「横バー」に変わり、タイヤの変更により「フェンダーの張り出し」が大きくなった。-

(写真06-2ab)1966 Datsun Fairlady 1600 (SP311)  (1966-05 第3回 日本グランプリ・予選/富士スピードウエイ)

スポーツタイプの車が活躍の場を得たのは、1963年鈴鹿サーキットが出来て、国内でも本格的なレースが始まってからだ。その中でも最大のイベントが年1回開催されるJAF主催の日本グランプリで第1、2回が鈴鹿で開かれ、第3回は新設の富士スピードウエイで開催された。写真の車は、ポルシェ、ロータス・エランMGミジェット、トヨタS800、ホンダS800などが出場した「グランド・ツーリングカー・クラス」の「フェアレディ1600」で、このクラスでは高橋国光、粕谷勇がぶっちぎりの1、2位を獲得した。

<ダットサン・フェアレディ・SPL311(輸出モデル)>

(写真07-1ab)1968 Datsun Fairlady 1600 (SPL311-Ⅱ)  (2004-08 カリフォルニア州/カーメル)

対米輸出モデルをアメリカ国内で捉えたのがこの写真だ。場所はカリフォルニア州カーメル市内で、後方にお土産のバッグを買った「COACH」の店が写っている。グリルは国内では「2000」に使われているものだが、後方には「1600」のバッジが有るので、それに従った。オプション或いは改造によって変えられた可能性もあるが、輸出モデルは資料が少なく確認はできない。フロントグラスに補強ワイヤーが無いので1968年型とした。

(写真07-2a~e)1968 Datsun Fairlady 1600 (SP311-Ⅱ)   (2015-07日産ヘリテージ・コレクション/座間)

対米輸出モデルの特徴として「左ハンドル「バンパー・ガード付き」、68年型の特徴として「フロントグラスの補強ワイヤーが無い」「ワイパーの取り付け位置が両端から端と中央に変わり、左ハンドル用にセット」、排気量はリアに「DATSUN 1600」のバッジあり。と全て確認が取れた。ラジエターグリルについては国内版「1600」と同じものが付いており、これがオリジナルかも知れない。

ダットサン・フェアレディS

(写真08-1ab)1966 Datsun Fairlady S  (1966-05 第3回 日本グランプリ・予選/富士スピードウエイ)

⑫番は、1966年 第3回日本グランプリのメイン・イベントに出場した「フェアレディS」(プロトタイプ)で、「プリンスR380」「トヨタ2000GT」「ポルシェ・カレラ6」などが出場した中で、プラクティスではポール・ポジションを獲得したが、決勝ではエンジン不調でリタイヤした。この車のエンジンは直6 DOHC 1992cc 190hp/7600rpm (B680X)で、一説にはヤマハの息がかかっているのではないかと言われる謎のエンジンだ。これが本当なら「トヨタ2000GT」と兄弟とも言える。後ろの2台はその「2000GT」だ。

<ダットサン・フェアレディ2000 (SR311-Ⅱ)

(写真09-1abc)1967 Datsun Fairlady 2000 (SR311-Ⅰ) (1969-02 第2回 東京レーシングカーショー/晴海)

前年の日本グランプリで登場した2000ccのスペシャルエンジンとは異なる、市販型の直4 SOHC 1982cc 145ps/6000rpm(U20型)を備えたニューモデル「フェアレディ2000」(SR311) が新たに加わった。最高速度は205km/hで国産初の200キロ超えと本格的スポーツカーの性能を備えた。第2世代の「フェアレディ」は外見が似ているので紛らわしいが、大別して「1500/SP310」、「1600/SP311」、「2000/SR311」の3つに分かれる。

(写真09-2ab)1968 Datsun Fairlady 2000 (SR311-Ⅱ)   (1973-08 銀座5丁目)

銀座で捉えた「フェアレディ2000」だ。基本的には自動車主体がモットーの僕の写真としては珍しく人がたくさん写っているが、今見るとこの方が情景が判って楽しい気もする。

会場(写真09-3abc)1968 Datsun Fairlady 2000 (SR311-Ⅱ   (1970-03 第3回 東京レーシングカーショー会場前/晴海)

「SR311」は67年、68年、69-70年の3種のバリエーションがある。相違点は①「ワイパー」67年 付け根が両端、68-70年 端と中央。②「フロントグラス」67年 中央に補強ワイヤー有り、68-70年 ワイヤー無し。③「フロントグラス」68-70年 5センチ高くなった。④「三角窓」67年 上部の幅広い、68-70年 幅狭い。⑤「ボンネット・エアインテーク」67年 狭い、68年 広い、69-70年 中間。⑥ライセンス・ランプ」67-68年 下から投光、69-70 左右から。

(写真09-4a~d)1969 Datsun Fairlady 2000 (SR311-Ⅲ)  (1973-03 横浜市内)

この車はライセンスランプが左右から照らすタイプなので1969年型と判定した。当時中野に住んでいた僕の足は、花柄シートの「ホンダ・ダックス70」だった。この車で何回か横浜まで足を延ばした。しかし全く土地勘が無い僕は何処をどう走ったか記憶はない。この写真には横に船が写っているので海岸沿いであることは確かだ。

(写真09-5ab)1969 Datsun Fairlady 2000 (SR311-Ⅲ)  (1982-05 TACSミーティング/筑波サーキット)

(写真09-6ab)1970 Datsun Fairlady 2000 (SR311-Ⅲ)  (1981-05 TACSミーティング/筑波サーキット)

この2台はホイール以外は全く同じだ。前車のナンバーは「311」で車の型式を示しているが、後車のナンバーは「19-70」で年式と認識した。

(写真09-7ab)1968 Datsun Basilic (SR311改) (1985-09 大阪クラシックカー・フェスティバル/大阪万博公園)

SRシリーズの最後に1980年代のイベントで見つけた大変良く出来た、面白い改造車をお目にかけよう。ベースは「フェアレディ2000」で、テールランプにその面影が見える。現代の車を使ってクラシック風に仕上げる場合、決定的な弱点はラジエターの位置が車軸より前にあることで、基本的なプロポーションが確保できないことだ。この車の細部はクラシックカーには拘っていないようだから、モダン・クラシックとして、それなりに完成した仕上がりと言える。

   ― 次回は「フェアレディZ」の予定です ―

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