第134回 N項-1「N.J.」「ネイピア」「ナルディ」「ネッカー」「NSU」

2024年8月27日

  • 1961 NSU Sport Prinz Coupe

(01)< N J >/<ニッケイ・タロウ>/<コンスタック>(日)

戦後、法律上の小型自動車とは1948年1月から施行された「運輸省令第36号」の定めるもので、「小型自動車第一種」は排気量が1500cc (4サイクル)、1000cc (2サイクル)で前2輪により操向する4輪車、3輪車だった。このほかに第二種から第四種までありこれらは前一輪操向とされていたから2輪、3輪という事になる。この段階で「軽自動車」に相当するものは「小型自動車 第四種」で、排気量は150cc (4サイクル)、100cc (2サイクル)だったがまだ4輪車は想定されていなかった。1950年7月車輛規定の一部改正で「2輪自動車以外の自動車」と言う種類が新設され「3輪,4輪の軽自動車」が法的に誕生した。排気量も300cc/200ccに増加した。次に改正されたのは1951年8月「車輛法施行規則」で排気量が360cc/240ccまで増加した。1954年10月2サイクル、4サイクルに関係なく排気量は360ccに統一された。戦後最初に登場した4輪の「軽自動車」は1951年発表され52年から発売された名古屋の中野自動車工業の「オートサンダル」で、2番手は1949年から開発が始まっていた「フライング・フェザー」が、50年には6台の試作車を完成させていたが、市販の開始は55年になってからだったから、1953年から市販した「NJ」の方が早かった。

(01-1)< N J (日本自動車工業) 1953~55

(参考01-0a~d)1953~54 N J(雑誌広告、パンフレット)

「NJ」と言う車名の由来は、赤坂溜池のフィアット・ディーラー「日本自動車」の頭文字と言う、ごく単純な物だった。当時の制度では「スクーター免許」で運転出来る事も、維持費が安いこともセールスポイントで、車両価格は30万円だった。

(写真01-1ab)1953~54 NJ 360    (1959-10 第6回 全日本自動車ショー/晴海国際貿易センター)

全部で80台程しか造られなかったこの車を、写真に収められたのはラッキーだった。僕は自動車ショーに行った時は入場する前に必ず駐車場を一通りチェックするようにしているが、この時はフィルムを節約して2枚しかとっておらずリアエンジンの後ろ姿はない。

(参考01-1cd)1954 N J

写真に収めていない後ろ姿を確認するために外部資料を利用させていただいた。

(参考01-1e)1954 N.J. (モーターファン記事)

(01-2)<ニッケイ・タロウ>(日本軽自動車工業)1956~57

1955年「日本自動車工業」は拠点を埼玉県川口市に移し、社名も「日本軽自動車」と変更した。リアエンジンだった「NJ」の後継車としてフロントエンジン・リアドライブの車を誕生させ、車名は「ニッケイ・タロー」と名付けた。しかし僅か2年余りで倒産してしまった。

(参考01-2a~d)1956-57 ニッケイ・タロウ ピックアップ、ロードスター、ライトバン、(広告パンフレット)

フロントエンジン化により色々なボディが載せ易くなった結果、「ロードスター」の他、実用性の高い「ピックアップ」「ライトバン」も造られたが、総生産数は157台しか造られなかった。

(参考01-2ef)1957 ニッケイ・タロウ LA-1 ライトバン

当時の感覚で評価すればバランスの取れた軽自動車とは思えないほどの完成度だ。価格は395,000円で「スズライト」や「スバル」とほぼ同じだった。

(01-3) <コンスタック>(日建機械工業)1958~61

(参考01-3a)1958 コンスタック (パンフレット)

この車を造った「日建機械工業」は、「NJ」「ニッケイ・タロー」にエンジンを提供していた機械メーカーだったが、倒産した「日本軽自動車」を引き継いで、「ニッケイタロー」のピックアップとライトバンに少し手を加えただけで 1958年「ニッケン・コンスタック」として販売を開始した。当時の業界は弱小メーカーが多数存在しており次々と倒産が発生すると、関係会社が支援して第二会社を設立し延命を図るという例が多く見られ「コンスタック」もその例だ。延命効果は長く続かず、1961年までに100台程生産しただけで「コンスタック」の製造は終了した。ただし、「日建機械工業」は片手間にやっていた「自動車造り」を止めただけで本業には変わりなかった。

(02)<ネイピア/Napier>(英)

日本では殆ど知られていない「ネイピア」だが、20世紀初頭からレース活動していたから英国では高性能車として知られていた。自動車メーカーとしての誕生は1900年だが、そのルーツは古く、1808年祖父「デイビット・ネイピア」が蒸気機関による印刷機を造りあげたところから始まる。1867年からは2代目となる「ジェイムス」が後を継ぎ、コインの製造や切手、紙幣を印刷する精密機械に切り替えたが業績は不振で、1895年倒産寸前の会社を3代目「モンタギュー・ネイピア」が引き継いだ。1870年生まれの「モンタギュー」はアマチュアながらモーターサイクルレースに関わっていたから、元々機械屋の素質を生かしてエンジンやメカニックについてもかなりのノウハウを持っていたと推測される。それを裏付けるエピソードとしてレース仲間の「セルウイン・エッジ」(ダンロップ支配人)から彼の所有する1986年型「パナール」の「舵棒」を「ステアリング・ホイール」に変更し、潤滑系の改良を依頼された。この機会に自身の設計した直列2気筒8馬力で電気点火のエンジンに載せ替えることを提案し、その結果著しい性能アップに感銘した「エッジ」は、ダンロップの元上司だった「ハーベイ・デュ・クロ」と協力して会社をつくり「ネイピア」に自動車造りを始めさせた。1900年3月最初の車が完成している。

(写真02-1abc)1902 Napier Gordon Bennett 40hp 6.5Litre (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

初期の「ネイピア」が活躍した「ゴードン・ベネット・カップ」は1900年から1905年まで開催された最初の国際レースで、初めて「ナショナル・レーシング・カラー」が制定された。(この時、赤はアメリカで、イタリアは黒だった)この年はパリ-インスブルック間565kmの公道レースで、6月26~28日の3日にわたって行われ、6台がエントリーし、イギリスの「ネイピア50hp」に乗る「セルウイン・エッジ」が優勝した。 (写真の車は40hpなので優勝した車ではないようだ)

(写真02-2abc)1903 Napier Gordon Bennett 45hp 7.8Litre  (2010-07 イギリス国立自動車博物館/ビューリー)

前年の優勝により1903年はイギリスがホスト国となったが、イギリス国内では公道レースは禁止されているため隣国「アイルランド」で開催された。この年は「イギリス」「フランス」の他「ドイツ」「アメリカ」からも参加があり12台となった。優勝したのはベルギー人「カミーユ・ジェナッツイ」の乗る「メルセデス60hp」だった。

(写真02-3ab)1904 Napier Gordon Bennett 80hp 6.4Litre (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

武骨であまり見栄えがする顔ではないが、よく見ると年々少しずつ変化しているのが判る。馬力も徐々に増えている。

(写真02-4a~g)1904 Napier L48 (Samson 15Litre) (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)

創生期と言うのは試行錯誤を繰り返しで徐々に「スタンダード」が確立していく段階だ。良いと思ったら試してみる、人のやらないことを取り上げる、だから現代の常識で見ればとんでもない変わった仕掛けも出てくる。写真の車は「冷却水」を熱伝導の良い「銅パイプ」で空気にさらして冷やそうという発想で、可成り効果が期待出来そうだ。

(写真02-5a~f)1933 Napier-Railton 24Litre (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)

「ネイピア」の自動車造りは1924年で終了した。しかし会社が倒産した訳ではない。この会社は航空機のエンジンも手掛けており、第1次世界大戦中の1916年にはW型12気筒「ライオン」エンジンを完成させ、航空機の大半がこのエンジンを搭載するほどのベストセラーだった。同時にこのエンジンは陸上速度記録にも利用され、「マルコム・キャンベル」の「ブルーバード」や、「ヘンリー・シグレーブ」の「ゴールデン・アロー」で速度記録を樹立している。「ネイピア」社は1924年で自動車造りは止めており、1933年製のこの車には実はその「ライオン・エンジン」を搭載した速度記録車だ。ドライバー「ジョン・コブ」の依頼で、「リード・レイルトン」が設計し、ブルックランズ・サーキットの近くでレーシングカーを手掛けていた「トムソン&テイラー」社が製造を担当した。エンジンの基本設計は1916年だったが、この航空機エンジンは「ネピア・ライオンⅦ-D」となっており、それなりに改良が続けられてきたものだろう。W12気筒 23,944cc 580hp/2586rpmで、1935年「ブルックランズ・サーキット」で樹立した230.84km/hの周回記録は現在まで残っている。

・僕はこの車に英国で2回出会っている。目の前にするとその迫力に圧倒されるほど存在感がある。この車の前輪にはブレーキが付いていないが、そのほか「バックギア」も付いていないらしく、後ろに下がる時はみんなで押していた。前に進むことしか考えていなかったようだ。

(03)<ナルディ>(伊)

「ナルディ」と言えば、自動車通ならすぐ「ステアリング」を連想する。同じイタリアの「モモ」と並んでマニアの心をくすぐる「部品メーカー」だ。しかし「部品メーカー」でも、「町工場」でも自動車を造ってしまう素地がイタリアにはあることは、「ミッレ・ミリア」に参加する名も知れない「小型車」の群れを見れば納得する。

(写真03-1a~d)1954 Nardi-Crosley  (1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)

この車は名前から推定して、アメリカの小型車「クロスレー・ホットショット」がベースとなったものだろう。

(写真03-2ab) 1954 Nardi LM 750 (2006-10 ラフェスタ・ミッレミリア/幕張)

こちらは本場イタリアで「ミッレ・ミリア」に参加するために造られた「フィアット600」ベースの車だろう。日本で開催された「ラフェスタ・ミッレ・ミリア」で撮影した。

(04)<ネッカー>(西独)

「ネッカー」と言うあまり聞き慣れない名前には「ドイツ」と「イタリア」が深く関わりあっている。ドイツの「NSU」社は1920年代には2輪車と4輪車を造って居たが、1929年4輪部門をそっくりイタリアの「フィアット」社に売却した。「フィアット」はそこで本国と同じ車を生産し「NSU-Fiat」のブランド名で販売していた。戦後もしばらくはイタリアから輸入した車を「NSU-Fiat」としていたが、1957年本家の「NSU」社が4輪車も手掛けるようになって「NSU」のブランド名を巡って争いとなり、結局「NSU-Fiat」が譲って社(車)名を「ネッカー」と変更した。因みに「ネッカー」の名前は工場のある「ハイルブロン」の近くを流れる「ネッカー川」が語源となった。

(写真04-1a)1963 Necker 1200 Spider (19065-11 後楽園スポーツカー・ショー)

この車はイタリアの「フィアット1100」を1221ccとし、ミケロッティのデザインで「カロセリアOsi」が製造したものだ。ドイツ仕様だから車名は「ネッカー1200」だが、日本で展示されるときは、馴染みのある「フィアット1200」となっている。本国イタリアでは「Osi 1200」となる。

・戦後しばらくは可成り大量の「フィアット」が「NSU-Fiat」「ネッカー」と名前や姿を変えてドイツ国内に販売された。イタリアと言う国は第2次世界大戦の開始時は「日独伊・三国同盟」と言って日本、ドイツ側だったが1943年7月無条件降伏をし、44年10月ドイツ、45年7月日本に対して宣戦布告し連合国側に寝返ったから第2次世界大戦が終わった時点では「戦勝国側」にあった。だから「敗戦国・ドイツ」に対しては可成り有利な立場にあったことは想像できる。

(写真04-2a~e)1963 Necker 1200 Coupe    (1966-07 原宿・表参道)

表参道で見つけた「ネッカー 1200 クーペ」だ。流石「ミケロッティ」のデザインには一点の破綻もなく、背景の街並みに溶け込んでいる。室内を見れば直角に立っているステアリング・ホイールからはスポーティを身上とするイタリアを感じる。

(写真04-3abc)1963 Necker 1500 TC Coupe    (1969-11 東京オートショー・駐車場/晴海

この車についての情報が殆どなく唯一確認できたのがドイツ語版「Autos in Deutschland 1945-1966」の一枚の写真だった。写真には「NSU-Fiat 1500 TS」となっているが、本文には間違えなく「ネッカー1500 TS」と記載されている。この時期のフィアットは3種類があったようで、イタリア製の「純正フィアット」、ドイツ製の「NSU-フィアット」、ドイツ製の「ネッカー」が存在した。

(写真04-4ab)1966 Necker 1500 TS 4dr Berline (1965-11 東京オートショー/晴海

この車はグリルのアレンジが少し変わっただけで「フィアット1500」とほとんど変わらない。

(05)< NSU >(西独)

「NSU」の誕生は古く19世紀まで遡る。1884年「ネッカー川」と「ズルム川」が合流する街「ネッカーズルム」で、編物機械を造る会社として誕生した。社名の由来は「Neckar」と「Sulm」の頭文字から採ったものだ。1892年には「オートバイメーカー」となり1905年からは「自動車」の製造も始めた。しかし1929年の世界的大恐慌で経営が苦しくなり、自動車部門はイタリアの「フィアット」にそっくり売却し1934年には経営権も移り、以後1957年まで独自で自動車は造っていない。

(写真05-1ab)1914 NSU 8/40   (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ)

ドイツの博物館にも戦前の「NSU」は多くは所蔵されておらず、僕のアルバムには4気筒2100cc 30hpのこの車が1台あるだけだったが、記録としては1919 5/15 (1230cc)、1919  8/24 (2100cc)、1919  14/40 (3610cc)、1925  5/25 (1309cc)、1925  8/40 (2088cc)、1928  6/30 (1567cc)、1928  7/34 (1781cc)、と大中小3種の品揃えで対応していた時代もあった。工場を売却した当時の1931~32 10/52 (2516cc) モデルは、そのまま「NSU」として市場に出ているが、それが1933~34年には「NSU-Fiat 2500」と名前を変えている。1934年には自動車部門は「フィアット」に買収され工場の経営権が移ると、以後は「NSU-Fiat」として小型フィアットの 製造工場となった。

(写真05-2ab)1944 NSU Kettenkrad HK101 (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ)

第2次大戦中はアメリカの「ジープ」に対抗する軍用車両が各国で工夫され、ドイツではVWの「キューベルワバーゲン」や「シュビムワーゲン」(水陸両用)が知られているが、「BMW R-75」(サイドカー)と並んで戦争映画によく登場する特殊3輪車がNSUの「ケッテンクラート」だ。正式には「クライネス・ケッテンクラフトラート」と言い「小型装軌式オートバイ」と訳す。オート3輪の後輪がキャタビラになっている「半装軌車」と呼ばれるタイプで、落下傘降下させ小型砲の牽引するため採用したものだが、不整地での走行性能を買われ全軍に配備された。軍の制式名は「Sd.Kfz 2」で1941~44年で8345輌が造られた。最高速度は時速70キロと意外と早い。

(写真05-3ab)1951 NSU 351 OS-T (2008-01 シュパイヤー科学技術館/ドイツ)

第2次大戦後は日本と共に敗戦国として連合国に占領されていたドイツだが、瓦礫の中から立ち上げたバイク造りは、下地の無かった日本と違って、長年の歴史と経験を持っていたから、写真のサイドカーも立派なものだ。

(写真05-4a)1954 NSU Quickly 51 ZT (2008-01 シュパイヤー科学技術館/ドイツ)

庶民にとって最も手軽に購入出来る動力の付いた乗り物は「モペット」だ。「NSU クイックリー・シリーズ」は1953年から68年までに「N」をベースに「T」「L」「S」などのバリエーションを生みながら約100万台が販売された。案内板に表示されている「51 ZT」は型式ではなくエンジンの詳細を示すもので「5」は50cc、「1」は1気筒、「ZT」は2サイクルを示している。

(写真05-5ab)1951 NSU PrimaⅢ (2008-01 VWアウシュタット博物館/ウオルフスブルグ本社)

ドイツでは2輪の「スクーター」よりも3輪の「キャビン・スクーター」が主力だと思っていた。この2輪スクーター「NSUプリマⅢ」は案の定、イタリアの「ランブレッタ」のライセンスによるものだった。

(写真05-6abc)1956 NSU DelphinⅢ  (2008-01 シュパオヤー科学技術館/ドイツ)

この車は499ccで、1956年8月「ボンネヴィル」に於いて「ヴィルヘルム・ヘルツ」によってオートバイの絶対記録340.2km/hを樹立している。

(写真05-7abc)1965 NSU DelphinⅣ  (2008-01 シュパイヤー科学技術館/ドイツ)

この車は名前の通り「ドルフィンⅢ」の後継車で、「ヘルツ」が時速400km/hを目指して開発した。浮き上がりを抑えるためサイド・ウイングが取り付けられ、試乗では満足できる結果が得られたが、雨にたたられ、結果は出せなかった様だ。

(写真05-8abc)1957 NSU-Fiat 600 Jagst  (2008-01 ドイツ国立博物館/ミュンヘン)

この車は1957年製で旧「NSU」が「ネッカー」と名前を変えた年だ。手元のドイツ版資料によると、輸入されたイタリア製は「フィアット600」、国内で造られた車は「NSU-Fiat Jabst」と呼ばれ、まだ「ネッカー」とは呼ばれていないが、「新・NSU」の作品ではない。

(参考05-9abc)1958 NSU PrinzⅠ/1961 NSU PrinzⅢ

フィアットに売却してしまった「NSU」と言う名の「4輪車部門」を取り戻そうと考えたのは、自前でこの車を完成させたからだ。1957年9月の「フランクフルト・ショー」でデビューし、翌1958年月から発売された。直列2気筒583cc 2ドア4人乗りサルーンで、シリーズⅠ、Ⅱ、Ⅲと進化しながら1962年まで造られた。

(写真05-10abc)1961 NSU Sport Prinz Coupe  (1961-06 第2回外車ショー/晴海)

サルーンと並行して2シーター、ファストバックの可愛い小型スポーツタイプが発売された。「スカリエッティ」のデザインで「カロセリア・ベルトーネ」がボディを仕上げた。エンジンは直列2気筒583cc (598cc)で、1968年までに2万台以上が造られた。日本には1961年輸入されている。

(写真05-11abc)1961 NSU Sport Prinz Coupe  (1962-08 渋谷駅付近)

この車が日本に何台輸入されたかは知らないが、運よく街中で出会っている。場所は現在の「首都高速3号線」が渋谷で山手線を跨いだ辺りで、高速道路のため買収され空き地となっていたから格好の駐車場となっていた。1964年の東京オリンピックを目前に東京の街は大改造中だった。この写真を撮った時100メートルほど坂を下ったところでは、まさに「主都高速3号線」が繋がろうとしており、背景には「東横百貨店」も見える。

(写真05-12abc)1962 NSU Prinz 4 2dr Sedan   (1962-01 第3回東京オートショー/千駄ヶ谷体育館)

1961年9月「NSUプリンツ」はモデルチェンジし、2代目となった。車をぐるっと1周クロームラインで取り巻く流行のスタイルを採用している。一般的には「フラット・デッキ」と呼ばれるが、クロームで巻いているのは「コルベアタイプ」を加える必要がある。4人乗りにはやや窮屈だった居住性は少し改善されたがエンジンは空冷 直列2気筒OHV 598ccと変わらなかった。

(写真05-13a~d)1971 NSU Prinz 4L 2dr sedan  (2011-11 トヨタ博物館クラシックカーフェスタ/神宮)

「NSUプリンツ4L」と言う形式名から「L」はデラックスかと思ったら、案内板によると現代では当然ついているものが殆どついていない「スぺシャル簡易モデル」のようだ。

(写真05-14abc)1964 NSU Prinz 1000 2dr Sedan  (1965-11 東京オートショー駐車場/晴海)

1963年秋のフランクフルト・ショーで一回り大きい「プリンツ1000」が登場した。空冷直列4気筒OHV 996cc43hp/5500rpmエンジンをリアに搭載していた。写真の車は標準タイプのセダンだが十分戦闘力はあった。

(写真05-15ab)1967 NSU Prinz 1000 TT 2dr Sedan  (1966-11 東京オートショー/晴海)

新しいOHC4気筒エンジンは、周りがまだプッシュロッドを採用していた時代には一歩進んでいたから戦闘力は高く、当時盛んにおこなわれていた「箱型車」によるスポーツレース向けに造られたのが「TT」モデルだ。1967年からはプリンツの名が取れてNSU1000となったこの車のエンジンは1085cc55hp/5800rpmと変わっている。「1000TT」は楕円形の2つ目の筈だがこの車はアメリカ仕様か?

(写真05-16a)1967-71 NSU 1000 TTS   (1999-08 ラグナセカ/カリフォルニア)

「TT」を更にバージョンアップしたのが「TTS」でこの写真では良く判らないが、リアトランクの蓋は熱を逃がすため常時少し開いたままになっている。

(写真05-17abc)1965 NSU 1200 TTS 2dr Sedan  ( 1977-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)

(写真05-18ab )1967 NSU 1200 TTS 2dr Sedan  (1977-04 TACSミーティング/筑波サーキット)

「TT」シリーズは1177ccの「1200」迄進化し1971年まで造られた。後ろのトランクは金具の具合から推定すると完全に閉まることは想定していないようだ。

(写真05-19ab)1964 NSU Wankel Spider  (2008-01 ドイツ国立博物館/ミュンヘン)

この車こそ世界で最初の「ロータリー・エンジン」で走った自動車だ。ロータリーエンジンについての詳しい説明は省略するが、往復運動のレシプロエンジンとは全く違った発想から、小型で振動が少ない画期的なエンジンが誕生したと関心を示したメーカーは100社を超えたが、技術提携やライセンス契約を結んだ20社の中でも車として完成させることが出来たのは「シトロエン」と「マツダ」だけだった。(シトロエンは試作のみで市販はしなかった)

・「フェリクス・ヴァンケル」(1902~88)が「ロータリー・エンジン」の研究を始めたのは1951年からで、1957年2月「試運転」に成功したが解決しなければならない問題点は多く、1959年「一応の完成」を見たが、「実用」までにはまだ数年を要した。このエンジンを載せるための車は「取りあえず」手持ちのスポーティな車としてベルトーネの「シュポルト・プリンツ・クーペ」を選んだ。おそらく多く生産する見込みがない車のために新しく車を造る費用はかけられなかったのだろう。

(写真05-20ab) 1967 NSU Wankel Spider   (1966-11 東京オートショー/晴海)

(写真05-21abc)1968 NSU Wankel Spider  (1967-11 東京オートショー/晴海)

日本には1966年秋のモーターショーに初登場し2年続いて翌年も展示された。この種の車の外見は年式による変化は殆ど見当たらないが、価格は158万円から170万円にあがっていた。

(写真05-22abc)1969 NSU Ro80 4dr Sedan  (1968-11 東京オートショー/晴海)

(写真05-23a~d)1970 NSU Ro80 4dr Sedan  (1969-11 東京オートショー/晴海)

この車はロータリーエンジン搭載市販車の第2号だが、「NSU」としては最後となった車だ。初めての4ドア中型車で、新しく造られたボディは空力特性に優れ、グラスエリアの広いモダンなスタイルを持っていた。2ローター・エンジンは497.5cc×2 115ps/5500rpmで、フロントにオーバーハングして搭載され前輪を駆動したから、室内のスペースは十分だった。日本にも少数輸入された。

(写真05-24a~d)1977 NSU Ro80 4dr Sedan (2008-01 VWアウシュタット博物館/ウオルフスブルグ本社)

「Ro80」はエンジンだけではなくすべての点で先進的だった。ボディは空力特性に優れ、サスペンションは4輪独立、ブレーキはフロントがインボード式の4輪ディスク仕様で、パワーステアリングを備えており、当時の中型車としては贅沢な仕上がりだった。だから1968年にはヨーロッパにおける「カー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるほど高い評価を受けた。しかしこの車には重大な欠点があった。「耐久性」だ。完全とまで言い切れないエンジンを始め、高回転エンジンの遠心力に耐え切れないトルクコンバーターが損傷し、油圧系統を壊すなど、未経験がなせるトラブルに見舞われた。これらの対応に追われて経営が傾き、1969年にはフォルクス・ワーゲンに吸収された。1977年4月まで何とか生産され10年間で37,204台と意外に多く造られている。

(写真05-25a~e)1977 NSU Ro80 4dr Sedan (2008-01 ドイツ国立博物館/ミュンヘン)

「NSU」の命取りとなった「Ro80」だが、自動車の歴史の上では燦然と輝く1等星のエポック・メーキングな車であることは間違えない。だから「ドイツ国立博物館」には1886年 Benz Patent Wagen(世界初の3輪車のオリジナル)と共に、誇り高きドイツの文化遺産として展示されている。

―― 次回は「ナッシュ」「日産・1(戦前のダットサン)」の予定です ――

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