「光岡自動車」は10番目に認定を受けた、日本で一番小さい「自動車メーカー」だ。製品の大部分は大手メーカーの市販車をベースに、過去にヒットした英国車のそっくりさんに変身させ、独特の日本風の名前を付けて製品とする、極めて遊び心の豊かな集団で、富山市にある。創業者は「光岡進」(1939~ )で、元々は「富山日産」「富山日野自動車」でセールスマンをしていたが、1966年日野がトヨタと業務提携し乗用車部門が無くなったのを潮に退職し独立することになった。創業当時は富山市内で「板金・塗装」「自動車整備」から始まったが、同時に中古車に目を付け、昔鍛えたセールスの腕を生かした「中古車販売ビジネス」を始め、「BUBU」と言う店舗名で全国展開するまで発展させた。このままだったら「光岡自動車」は生まれず、「BUBU中古車販売」グループで終わったかもしれないが、自動車造りの夢の実現を目指し、1979年「光岡自動車」を設立し、開発部門を置いて本格的に車造りを始めた。
<第1章・BUBU50誕生> (1982~ )
(参考00-0ab)1982 BUBU シャトル50
「BUBU50」シリーズの誕生に当たっては、同じ富山市内の「タケオカ自動車工芸」と共同開発したと記録されていた。「タケオカ」は元々看板屋でFRPの成型も手掛けていたというから、ボディ担当だったのか。「タケオカ」が当時自動車に関してどの程度経験を持っていたのかは不明だが、シリーズの製造は「タケオカ」が担当し、販売を「光岡」が担当した様だ。
(参考01-0abc) BUBU発売時のパンフレット
「BUBUシリーズ」は「シャトル50」「501」「502」「503」「504」「505-C」「Boy」「Lime」が造られた。因みに「BUBU」は子供が自動車の事を「ブーブ」と言うところからヒントを得たという。
(参考01-1a~d)1982 BUBU 501
空冷2サイクル49cc 5hp、3輪1人乗り、最大のセールス・ポイントは「2輪免許、原付免許で運転可」だった。最高速度は時速30キロだったが、キャビン付きは雨にも強く、近距離の移動手段としては魅力のある乗り物だった。
(参考01-2abc)1982 BUBU 502
「502」は荷物運搬用で、用途に合わせた単純明快なスタイルを採用している。完全に四角な箱で車が3つついているだけだが、かつて誰も考え付かなかった最大容積を確保している。
(参考01-3ab)1982 BUBU 503
「501」と同じ3輪乗用車だが、こちらは前1輪と変わっている。
(参考01-4ab)1982 BUBU 504
「504」は写真でみると4輪のようだ。1人乗りは変わらないが、荷物を積むスペ大分広くなった様に見える。
(参考01-5a~e)1985 BUBU 505-C
「光岡」が最初に手掛けた「そっくりさん」がこの車だ。目標にしたのは大胆にも憧れの車「ジャガーSS100」だった。可成り念入りに造られたようで、細かい点まで完成度は高い。残念なのは「小さすぎる」事だけだ。
・それまでの「BUBUシリーズ」は1982年から造られたが、「505-C」は1985年発売だ。実は1985年には道路交通法が改正され、「BUBUシリーズ」(ゼロハン・カー)は2輪免許、原付免許では運転できなくなり、手軽で便利なだけでは売れなくなってしまった。そのため考え付いたのが「面白い形」をセールスポイントにする「光岡」の原点が誕生したのではないか、と僕の勝手な推察です。
<第2章・そっくりさんの 始まり>
(参考02-1ab)1987~89 BUBUクラシック SSK VWタイプⅠがベース
外見からは一寸想像つかないが資料では「BUBUクラシックSSK」のベースは「VWビートル・タイプ Ⅰ」となっている。とすれば「リアエンジン」で、ボンネットに排気管は見当たらない。資料ではお手本は「ベンツSSK」となっているが、実際は「SSK」ではなく、「光岡」の先輩に当たるアメリカのそっくりさん・メーカーが「ベンツSSK」を真似て造った「エクスカリバーⅡ」を参考にしたものと思われる。(僕がアメリカのスモールイベントで撮影した「エクスカリバーⅡ」と酷似している)
(参考02-2abc)1987~89 BUBU 356スピードスター VWタイプⅠがベース
「BUBU 356」は言わずと知れた「ポルシェ356」のそっくりさんだ。この車のベースが「VWビートル・タイプⅠ」と言うのは誠に正しい選択だ。元々「ポルシェ」の先祖は「ビートル」だから、シャシーもエンジンもそのままで、無理なく変身できる。但し前半分は「356A (1955~59)」と同じだが、後ろ半分はそれ以前の「プレA」と呼ばれる「356 (1948~55)」のテールランプが配置されている。
(参考03-1abc)1991~93 Dole(ドーラ) SSK オープンタイプ フォード・マスタングがベース
前出VWベースの「SSK」と違って、こちらの「SSK」は長いホイールベースを持つ本格的な大型車で、お手本は本物の「メルセデス・ベンツ」と見て良い。ベンツのこのシリーズは「S」スポーツ、「SS」スーパー・スポーツ、「SSK」(スーパー・スポーツ・クルツ(短い),「SSKL」(スーパー・スポーツ・クルツ・ライヒト(軽量)と進化して行った。ネーミングとしては「SSK」が一番響きは良いが、ショート・ホイールベースなので、この車のお手本は大型の「S」か「SS」が妥当だろう。
(参考04-1abc)1990~93 Le-Seyde(ラセード)SSKオープンタイプ 5代目・日産シルビア(S13) がベース
「ラセード」はその豪華さから「光岡」を印象付ける役割を果たしたと言える。自動車に詳しくない人でも、名前を知らない人でも1度見たら記憶に残るだけの「インパクト」を与えた。ベースは「日産・シルビアS13」(5代目)で、エンジンとフロントアクセルは、ホイールベースを900mm延長した新しいフレームにそのまま取り付けられ、モノコックボディは切断され前後に分けられた。当然モノコックとしての強度は問題だが、この場合はシャシーが有るので単なる補強材として扱われた。大改造を行ったこの車の製作によって得たノウハウは、その後の光岡の製作活動に大きく貢献した。500台限定で発売されたが4日で完売した。
<第3章・そっくりさん 軌道に乗る>
(写真05-1ab)1993~02 Byuto(ビュート・美遊人) 日産・マーチがベース/ジャガーMk2モデル
「ビュート」は本格的に量産された最初のモデルで、街中で一番目にする機会が多く、お手本の「ジャガー」に似ている「そっくり度」も抜群に高い。初代は1993年から02年までに9500台が造られ、2代目、3代目、4代目と現在まで続いている「ベストセラー」で、向こうから走ってきた時はとっさに「ジャガーだ」と思ってしまう程だ。
・このシリーズのネーミングは最初に「美・遊・人」(美しく・遊ぶ・人)の発想があり、それに英語の「View」(風景)を重ねたとあったが、「Viewto」ではなく読みやすいローマ字表記「Byuto」となったようだ。
(参考06-1ab)1996~00 Zero One(ゼロワン) ロータス・セブン・モデル
「ゼロ・ワン」は光岡にとって記念すべきエポック・メーキングな車となった。シャシーから自製したこの車が運輸省から「型式認定」を受け、「光岡」が当時日本で10番目の自動車メーカーとして認められたからだ。1994年完成した初期型はパワートレインをマツダ・ユーノス・ロードスターから流用した1.6 ℓ仕様だったが「型式認定」は自動車メーカー」でないこと、「規模が小さい」ことなどで受け付けられなかった。1996年1.8 ℓに変わり、再度申請してやっと審査を受ける事が出来て「E-MS01」として認定されたという経過がある。「ロータス・セブンMk1」が元祖だが、実際は数ある「ロータス・もどき」の中から「バーキン」を選んで参考としたようだ。約350台が造られた。
(参考07-1a)1996~01 GalueⅠ(ガリュー・我流Ⅰ) 日産・クルー・サルーンがベース/ RRシルバークラウドモデル
フロント・グラスから後は殆どベースの車のままのようだ。顔付きの造作は一通り部品は揃っているが、最も肝心なラジエターグリルからは「ロールス・ロイス」は連想されない。あまりにも恐れ多くて似すぎないように一寸遠慮したのだろうか。ボディはエッジの立った本物とは比べるべくもない全く別物で、もしロールスロイスを真似ようとしたならば達成度は低い。
(参考07-2a)2005~10 GalueⅢ(ガリュー我流Ⅲ) 日産・フーガがベース
「ガリュー」はなかなか評判が良かったようで、ベース車を変えながら2020年まで造られ続けた。この車は2005年から10年まで造られた 第三世代で、日産「フーガ」がベースとなっている。この車もボディには殆ど手が加えられていないので、このシリーズのコンセプトは「顔付きを変えるだけ」と割り切っている様だ。グリルの造形については合格点だ。引っ込んだヘッドライトについては無理やり探し出したのが2004年「100EX」で、年代的にはヒントを与えた可能性はあるが・・・。
(写真08-1a)1996~12 Ray(レイ・麗)>(2005-10 千葉市内) 初代はマツダ・キャロル(3代目)がベース
我が家の近くで見つけた軽自動車「レイ」だ。お手本が何かは資料には書かれていなかったが、僕のコレクションから見つけ出したのは「ライレー・エルフⅢ」で、間違えないだろう。
<第4章・マイクロカー>
「マイクロカー・シリーズ」は創業当時の「BUBU・シリーズ」の再来で、第2世代ともいえる。1998年7月「MC-1」「K-1」「K-2」が発売され、99年月「MC-1T」「ME-1」、2002年10月「ME-2 (Convoy88)」、05年8月「K-3(マイクロタイプF)」、06年11月「K-4」まで続いたが、2007年8月で約10年にわたる生産は終了した。「K」シリーズは自分で組み立てる「キット」で販売されるので、「K-1」の完成した姿は「MC-1」と変わらない。
(参考09-1abc)1998 Motsuoka MC-1c
(参考09-2a~e)1998 Mitsuoka MC-1
(参考09-3a~e)1999 Mitsuoka MC-1T
(参考09-4a)1999 Mitsuoka MC-1T EV
(参考09-5abc)2002 Mitsuoka ME-2(Convoy 88)
<Kシリーズ/組み立て・キット>
(参考10-1ab)1998 Mitsuoka K-1
(写真10-2a~e)1998 Mituoka K-2 メッサーシュミットT500タイガー
(写真10-3abc)2005 Mitsuoka K-3/タイプ F
(写真10-4ab)2006 Mituoka K-4
<第5章・改造車・シリーズ>
(写真11-1a)1998~04 Ryoga (リョーガ・凌駕) 日産・プリメーラ/ジャガーSタイプがモデル
フロント・フェンダー先端のつなぎ目は、ベースとなったプリメーラのヘッドライトのラインがそのまま使われている。なるべく手を加える箇所を減らし改良コストを抑えるための工夫だろう。この車は改造車とは思えないほど均整がとれており、高級感もベースの車を上廻っている。
(参考12-1ab)2000~04 Mitsuoka Yuga(ユーガ・優雅) 日産キューブがベース/ロンドン・タクシー
原型からは予想も出来ないほど鼻ずらのこんもりした形が再現され、出来栄えは「満点」だ。ロンドン・タクシーは、前モデル「FX-3」までは助手席の場所が荷物置き場だったから、そのあと乗り込み易いように後ドアは前開きだった。お手本の「FX-4」もその流れを受け継いで「観音開き」となっているが、「ユーガ」の後ドアは後開きのままだ。
・1958年まで英国では「タクシーの助手席は荷物置き場とする」と決めた法律が存在した。当時の「FX-3」を参考添付した。
(写真13-1abc)2004~08 Mitsuoka Nouer(ヌエラ)・初代 ホンダ・アコードがベース
ホンダ車をベースにした初めての車が「ヌエラ」だ。この車の印象はジャガー系だがはっきりどれとは決めかねっる。ヘッドライトは「Sタイプ」から影響をうけているように思われた。ただジャガーのサルーン系には細身で下すぼみのグリルは存在せず、一番似ているのは「デイムラーV8」だった。
・「ヌエラ」と言う意味不明のネーミングは「ニュー・エラ(New era)」から造られた造語で意味は「新時代」を表す。「ニュー・エラ」→「ニュエラ」→「ヌエラ」となったのだろうか。この車には漢字名が付いていないが、実は日本には古く平安時代か「鵺(ぬえ)」と名付けられた妖怪が知られているので、僕としては漢字名をつけるなら「鵺良」(ぬえら)としたい。
(参考14-1abc)2008~18) Himiko(ヒミコ・卑弥呼) マツダ・ロードスターMX-5 (3代目) がベース
数多い「光岡」製品の中で、最もスポーティーな車がこの「ヒミコ」だろう。お手本のジャガーのスポーツカーシリーズでは「XK150」が頂点だったが、それをやゝモダン化した顔を持っている。ボディの大胆な塗分けはヨーロッパ車にはよく見られる手法だが、日本では「ブガッティT57」が知られている。
(参考15-1a)2009~13 Mitsuoka Cuto(キュート・貴遊人) 日産・マーチ(K12)がベース/後半分は変わりなし。
大ヒットしている「ビュート」の姉妹車として登場した「ジャガーマークⅡ」のそっくりさんだ。フロント以外には殆ど手が加えられていないコストを抑えた普及版だ。
(参考16-1ab)2010~12 Liku(ライク雷駆) 三菱・i-MiEVがベース
年代を追って見てくると、だんだん改良箇所が少なくなって上手にコストを抑え、イメージチェンジを図っている感じを受ける。この車についてはヘッドライトにも手は加えず、正面に「M字型」の簡単なグリルを付けただけのように見える。
(参考17-1ab)2014~21 Mitsuoka Ryugi(リューギ・流儀/初代) トヨタ・カローラアクシオEXがベース
違和感なくまとめられたこの車は、改造車としての出来栄えは「満点」だ。「グリル」「ヘッドライト」「バンパー」以外には殆ど手を入れていないように見えるが、オリジナルデザインかと思われるほど「高級感」がある。資料にはグリルは「RR・シルバークラウドⅡ」がお手本とあったが、当時並行して造られていた「ベントレー・Sタイプ」が正解だろう。
(参考18-1a)2018~22 Mitsuoka Rock Star(ロックスター) マツダ・ロードスターがベース/コルベットタイプ
殆どの車は「顔付き」を変えるだけでそっくりさんに仕立ててきたが、「ロックスター」がお手本にした「コルベット」は後ろ半分も「コルベット」そのものだから、今回は後にも力を入れて改造している。しかしコスト削減については十分配慮されており、金のかかるリトラクタブルのヘッドライトは見送られ、補助ライトのようにさりげなく付いているのがベース車のヘッドライトだ。
(参考19-1a)2020~ Mitsuoka Buddy(バディ) トヨタRAV4がベース
2020年登場した「バディ」は「光岡」初の「SUV」車だ。僕自身は1980年代の自動車事情についてはあまり詳しくないので、「シボレー・ブレイザー」がわが国でどのくらい人気があったのか判らないが、お手本にするほどたくさん輸入されたのだろう。そっくりさんの「バディ」も納期待ちとなる程売れている様だ。
<最終章・自社製スーパーカー/オロチ>
この車にはベースとなった車はない。という事は「自前のシャシーを使って造られた車」という事だ。その結果「ゼロワン」に続いて「型式認定」を与えられた2台目の車となった。「オロチ」の誕生には弱小メーカーならではの「苦労」と「意地」があった。「光岡」として東京モーターショーへの出展を希望するも、主催する「自動車工業会」からは会員でもない「光岡」は、部品メーカー扱いを受け中々実現しなかった。しかしその後新聞社の主催で開催された「大阪モーターショー」で出展が可能となり、そこでの「光岡」の人気が認められて、ようやく2001年の東京モーターショーへ出展することが出来る事になった。「ガリュー」や「ビュート」だけではインパクトが足りない。「スーパーカー」を展示して度肝を抜いてやろう、との発想から社内でアイデアを募集したところ、抜群のインパクトを持って採用されたのが「青木孝憲」がデザインした車だった。この時の名前は「大蛇」とかいて「ダイジャ」と読んでいたが(スケッチ参照)
青木が「オロチ」と読むことを見つけ光岡社長に伝え、神話「ヤマタノオロチ」に繋がることから「オロチ」に変更された。このアイデアを基にショーに展示する車が造られることになった。
(写真20-1b)2001 Mitsuoka Orochi (オロチ・大蛇) Prototype・1 (2001-10 東京モーターショー/幕張)
この段階では市販予定は全くなく、時間もないので下回りは「ホンダNSX」を利用し、その上に細部を手直しした「ショー・モデル」(スケッチ参照)を載せる方法が採られた。アイデア募集の際の社長の指示が「優等生は駄目だ。不良と言われようが人がドキッとするような悪魔の根源のようなものを造れ!」だったから、この車は後(のち)の市販車に較べるとの目つきが悪い。しかし、ショーでのこの車の反響は物凄かった。
・写真は2001年のモーターショーで僕が撮影したもので、露出不足もあって非常に出来が悪いが貴重な資料なのであえて掲載した。紫色の塗装はあまり類を見ないが、僕の記憶では当時「紫色」のイメージはちょい悪の人が好む色だったような気がする。
(写真20-2a~e)2003 Mitsuoka Orochi(オロチ・大蛇)Prototype・2 (2003-10 東京モーターショー/幕張)
この車は2003年の東京モーターショーに2回目の「オロチ」として登場した。2001年のショーに展示した際の反響の大きさに自信を持ち、本格的に市販を前提として造られた車だ。そのためには最優先で「保安基準」を満たした上で、オロチのデザインイメージをキープしなければならず、01年のショーモデルは白紙に戻し全く新しい「オロチ」の開発が始まった。自前のシャシーについては「フェラーリ・テスタロッサ」を参考にして造られた。外見で一番変わったのはヘッドライトで、2005年から発売予定でその車のプロトタイプとして説明されていた。
(写真20-3a~e)2005 Mitsuoka Orochi(オロチ・大蛇) Nude-Top Roadstar (2005-10 東京モーターショー/幕張)
発売予定だった2005年になっても市販体制が整わず、「市販車」をモーターショーに展示することが出来なかった。しかし「オロチ」の開発は続いていることを主張するためインパクトのあるロードスター「オロチ・ヌード・トップ」が製作され、ショーに展示された。跳ね上げたドアがアピールポイントだ。
(参考20-4a~e)2007 Mitsuoka Orochi(オロチ・大蛇)市販モデル
「オロチ」は「光岡・ABA-MSP1型」として国土交通省から型式認定を受け、当初の予定より1年遅れた2006年10月市販が発表され、翌日より予約受付が始まった。400台限定の完全受注生産で、ボディカラーは約300色が用意された他に特別色の配合も可能だった。完全手作業で仕上げるため最初の車が納車されたのは2007年4月だった。パワートレインは国内で入手可能な最大排気量のV型エンジンとして「トヨタ・3MZ-FE」というアメリカ向けのものを提供してもらう事が出来た。V6 DOHC EFI 3311cc 233ps/5600rpm 5速AT 販売価格は9,345,000円だった。因みにホイールの「8本のスポーク」は「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」に繋がっている。
・この車は厳密にいえば「スーパーカー」ではない。「ファッション・スーパーカー」とも呼ばれるが、これはこの車の本質を表している。開発の狙いの一つに「乗り心地が良い」「誰でも運転できる」があった。「フェラーリ」や「ランボルギーニ」などを日本で日常使用した場合、時速300キロの高性能は宝の持ち腐れであり、居住性も運転の難しさも街乗り向けではない。だから日本の国内で、誰でも運転出来て、乗り心地が良く、しかも周りから見れば「スーパーカー」のように見える注目度の高い車として誕生したのが「オロチ」だ。
(写真20-5abc)2007 Mitsuoka Orochi(オロチ・ 大蛇)(2017-01 東京オートサロン/幕張メッセ)
市販された400台の中でも初期に生産された車と思われるが、ホイールはオリジナルではない。「SphereLight」(スフィアライト)はヘッドライトやフォグランプ、テールランプなどを扱うメーカーで、車はレーシング仕様ではない。
(参考20-6a)2009 Mitsuoka Orochi Kabuto(オロチ・カブト/大蛇・兜)
2008年9月、翌年のモデルが発表された。メカニカル的な変更はなく、内外装の仕様変更に留まったからモデルチェンジではない。従来300色から選択が可能だったボディカラーはオプション扱いとなり、基本的にはメーカー指定の標準色から選ぶことになったが、その分価格は抑えられた。この年5台限定でスペシャル・バージョン「兜」(カブト)が造られた。「鎧兜」(よろいかぶと)をイメージしてエアロパーツを付けたと説明されているが、僕にはそれが何処なのか判らないから「鎧兜」のイメージは湧きにくい。
(参考20-7a)2018 Mitsuoka Devilman Orochi(デビルマン オロチ・大蛇) 限定1台
「オロチ」の販売は2007年4月から始まり2014年12月で終了していたが、この車は光岡が所有していた極上の中古車に手を入れて2018年9月にたった1台だけ完成させた特別な車だ。それは「デビルマン」で知られる漫画家「永井豪」氏の画業50周年として2018年1月から配信されているアニメ「DEVILMAN crybaby」の中で、主人公の「飛鳥了」が乗る車として「オロチ」が登場するのがきっかけで、偶々「光岡自動車」も創立50周年に当たることから特別記念モデルが1台だけ造られ、抽選で希望者の手に渡ることになった。カラーリングのデザインはアニメのアート・デレクター「阿閉高尚」と、オロチのデザイナー「青木孝憲」が共同で行った。
・(最後に)「光岡自動車」と言うメーカーは、殆どの製品は大手メーカーが造った車に少し手を加えて、全く違ったイメージに作り替えてしまう才能を持つ、極めてユニークな会社だ。この全容を伝えるべく、全車種を網羅し「ベースとなった車」「光岡の製品」「モデルとした車」の3者を並べてその完成度を楽しんでもらおうと企画した。しかし生産台数が少なく、街中で出会う機会が少ないため、僕の撮影した写真だけでは全容が伝えきれないので、今回に限り外部からの資料を多く使用させていただいた事をご了解ください。
―― 次回から「N-項」に入ります ――