1994年に開幕した全日本GT選手権(JGTC)では、影山正彦がR32 GT-Rを武器にドライバー部門で初代チャンピオンに輝き、同じく影山正彦の1号車「カルソニックスカイラン」を投入したHOSHINO RACINGがチーム部門でチャンピオンを獲得するなど、まさにNISMOがサポートするニッサン勢が国内のGTレースで猛威を発揮していた。そして、翌1995年の同シリーズでもタイトル争いの主導権を握ったのはニッサン勢だった。
設立2年目を迎えた全日本GT選手権には、1993年の全日本GT選手権レースより活動を行ってきたニッサン勢に加えて、TOYOTA TEAM TOM’Sやトヨタチームサード、TOYOTA TEAM CERUMOなど、トヨタ系の主力チームがトヨタ・スープラ(JZA80)で正式参戦を開始した。さらに国内の名門チームがフェラーリF40、ポルシェ911GT2を投入するなど、より激しい競争が予想されていたことも影響したのだろう。このハイレベルな戦いに備えて、ニッサンのワークス活動を担うNISMOはニューマシンを開発。開幕戦に合わせてスカイラインR33型のGT-Rをベースとした「R33 GT-R」を投入していた。
前年までの「R32 GT-R」は、グループAと同一の4WD仕様に加えてFR仕様がラインナップされており、R33 GT-RにNISMOがFR仕様のマシンを開発。エンジンはR32 GT-Rと同様に直列6気筒のRB26DETTが搭載され、独自のチューニングが施されていた。さらに、スペンションもマルチリンクからダブルウィッシュボーンに変更されるなど大幅なアップデートが行われていた。
同マシンのデビュー戦となったのは開幕戦の鈴鹿サーキットで、NISMOがいち早く55号車「JOMO R33」を投入。あいにくデビューウインこそ逃したが、55号車の鈴木利男/飯田章が予選で2位につけたほか、決勝でも2位入賞を果たし、表彰台を獲得した。
ちなみに開幕戦の鈴鹿ラウンドを制したのはHOSHINO RACINGの1号車「カルソニックスカイライン」の影山正彦で、ハセミモータースポーツの3号車「ユニシアジェックススカイライン」の長谷見昌弘も予選で1位につけるなど、R32 GT-Rも猛威を振るっていた。
第2戦の富士スピードウェイではハセミモータースポーツ、HOSHINO RACINGもR33 GT-Rにスイッチしており、予選で8位に出遅れた3号車の長谷見昌弘が2位、予選で11位に出遅れた55号車の鈴木利男/飯田章が4位に入賞。さらに第3戦の仙台ハイランドレースウェイでは3号車の長谷見昌弘が予選で2位につけたほか、決勝では1号車の星野一義/影山正彦が2位入賞を果たすものの、R33 GT-Rの初優勝はお預けとなっていた。
R33 GT-Rにとって歓喜の瞬間が訪れたのは、第4戦の富士スピードウェイだった。この夏の高速バトルではR33 GT-Rが本領を発揮。予選の最上位は3号車の長谷見昌弘の4位に留まっていたのだが、決勝では長谷見昌弘がR33 GT-Rでの初優勝を獲得した。さらに55号車の鈴木利男が2位に入賞したほか、NISMOの10号車「ジョンソンスカイライン」を駆る飯田章が3位入賞を果たすなど、R33 GT-Rが表彰台を独占した。
こうしてパフォーマンスを証明したR33 GT-Rは第5戦のスポーツランドSUGOでも上位争いを展開していた。1号車の星野一義/影山正彦が予選で2位、決勝でも2位に入賞している。さらに最終戦となる第6戦のセントラルパークMINEサーキットでもR33 GT-Rはトップ争いを左右しており、予選で3号車の長谷見昌弘がトップタイムをマークしたほか、決勝では1号車の星野一義/影山正彦が3位で表彰台を獲得した。
この結果、開幕戦の鈴鹿サーキットを制した影山正彦がドライバーズ部門で2連覇を達成。「R33 GT-Rはボディがちょっと大きくなって、ホイールベースも長くなったので、ドライビングは難しかった印象がありますね。俊敏性が落ちて曲がりづらくなったので苦労しました。それにトヨタからスープラが出てきて厳しかったけれど、なんとかアジャストすることができて、タイトルを獲得することができました」と影山正彦は当時を振り返る。さらに長谷見昌弘がランキング2位、鈴木利男がランキング3位につけるなどニッサン勢のドライバーが上位に名を連ねた。 チーム部門では惜しくもタイトル獲得を果たせなかったが、それでもHOSHINO RACINGがランキング2位、ハセミモータースポーツが同3位、NISMOが同4位につけるなどニッサンの主力チームが相次いで上位でフィニッシュしていた。