第133回に引き続き、1927年~1928年に発行された「THE SATURDAY EVENING POST」誌に掲載された自動車広告のうち、パッカードの広告を紹介する。特に注目していただきたいのは、1924年にGMとデュポン(DuPont)が「Duco」の名前で発表した、吹付塗装が可能な速乾性のニトロセルローズ系ラッカーの登場によって、塗装に要する時間の劇的な短縮とボディーカラー選択の自由度が広がったことによる、この頃の多彩なカラーバリエーション、ツートン/スリートンカラーなどのカラーコンビネーションに注目してほしい。1926年のパッカード・エイトシリーズではアッパーボディー、ロアボディー、ホイール、フェンダー、窓枠、サイドストライプなどの色を選択できるサービスが提供されていた。
1924年以前の塗装はどのような状況であったかというと、フィッシャー(Fisher Body Co.)、ブリッグス(Briggs Mfg. Co.)などのボディーメーカーは、ボディーの組み立ては4~5時間で完成することができたが、塗装に3~8週間かかっていた。塗料は細かく砕いた顔料を透明なワニス(Varnish)にまぜて色をつけた。スプレー塗装はできずハケによる手塗りで、最後は透明なワニスで仕上げ、自然乾燥した。ハケ目を残さぬよう塗るなど、塗装には高度な技術を要した。最も乾燥が早かったのがカーボンベースの黒のワニスで、1週間で完成できたという。そして黒は紫外線に強く、ほかの色より長持ちした。
しかし、苦労して丹念に手入れをしても、ワニスの寿命はせいぜい2~3年だった。塗りたては非常に深みがあり、輝きを放っているが、やがてワニスは酸化と化学変化によって黒ずんでしまう。色彩は不明瞭になり、透明なシーラーコートは黄色く変色し、表面はひび割れ始める。カスタムボディーをまとった高級車のなかには、毎年コーチビルダーに送り返して塗装をし直すオーナーもいたようだ。
T型フォードを大量生産していたフォードにとって、塗装に1週間かけるのは我慢できず、焼き付けエナメルを採用した。スプレー塗装はできるが250℉(232℃)で4.5時間焼き付けが必要であった。木骨フレームのボディーでは焼損や割れが発生して使えず、木骨のないフェンダー、フード、ラジエーターシェルなどに採用された。しかも、ギルソナイト(Gilsonite:天然アスファルト)を顔料とする黒色のみであった。当時黒いフェンダーのクルマが多かったのもそのためかもしれない。
フォードがとった解決策は、一回の吹付量を1/6に減らして焼き付け温度を250℉⇒165℉(74℃)に下げ、これを6回繰り返すことで木骨フレームのボディー塗装をおこない、塗装時間を3日に短縮している。
塗料の革新によって華やかになったクルマのボディーカラーを、フランク・クエイル(Frank Quail)の作品で展開したパッカードの広告を堪能してほしい。
1927年5月28日号に掲載された1927年型パッカード フェートン。広告のテーマは「バランス」で、コピーは「パッカードが自動車で言う「バランス」とは、無音で振動のない走行を保証する部品の機械的なバランスをはるかに超えたものである。パッカードの顧客は、それを当然のことと考えている。」で始まる。
1927年6月25日号に掲載された1927年型パッカード クラブセダン。広告のテーマは「カラー」で、コピーは「自然界には、美しく調和のとれた色の組み合わせがあふれている。鳥、花、夕焼け空は完璧なお手本であり、すべて完璧なセンスで鮮やかな配色への道を指し示している。しかし、現代の自動車における色彩の流行を満足させるためには、色合いや色調の選択にどれほどの芸術性が要求されることか!
パッカードには、長年の経験と芸術的な判断力を持つ人物で構成された特別な色彩委員会がある。彼らは、今日のパッカード・シックスに多種多様な色彩を与え、見る者を魅了する標準的なカラーコンビネーションを生み出している。そして彼らは、パッカード・エイトを購入する人たちの特別な要求にアドバイスする。
シックスでもエイトでも、パッカードのカラースキームの魅力とセンスの良さは、その永遠の美しさと同じくらい確かなものです。パッカードでは、車の色と仕上げを維持するための特別な作業にも、パッカードの好事家を魅了する色合いの選択にも、細心の注意と努力を惜しまない。パッカード車の不朽の輝きほど素晴らしいものは、世界中どこを探してもない。」
1927年7月9日号に掲載された1927年型(7月1日から1928年型を生産開始しているが、これは1927年型と思われる)パッカード コンバーティブルクーペ。ボディー架装はディートリッヒ社(Dietrich Inc.)による。広告のテーマは「シンプリシティ」で、コピーは「シンプルさ。10年以上前、パッカードはボディーラインの現代的なトレンドだけでなく、今日普遍的に求められているデザインの徹底的な単純化も始めた。それ以来、パッカード車の機械的なシンプルさは、その有名な美しさと同様にコピーされ続けている。」で始まる。
1927年7月23日号に掲載された1928年型パッカード ランナバウト。2シーターだが、ランブルシートに2人乗れる。広告のテーマは「サービス」で、コピーは「サービス。パッカード・サービスは、工場での厳格な管理の下、標準的な料金で、どこでもご利用いただけます。」ではじまり「パッカードのサービスは、パッカード・エンジニアリング部門の図面から始まる。利便性、アクセシビリティ、シンプルさ、これらの点には、パッカード車の設計において並々ならぬ配慮がなされている。」などとある。
1927年8月6日号に掲載された1928年型パッカード フェートン。2シーターだが、広告のテーマは「不朽のスタイル(Enduring Style)」。コピーは「不朽のスタイル。過去6年間に製造されたパッカード車を区別するわずかな外観上の違いを指摘できるのは専門家だけである。パッカードは、年式や走行距離に関係なく、常にパッカードとして際立っている。その理由は簡単だ。パッカードは、モーターカー・デザインの不朽のスタイルを作り上げたのだ。パッカードは、豪華な室内空間と美しくほっそりとしたエクステリア・ラインという難しい組み合わせを実現した。パッカードには、毎年急激な変更を加える理由がない。」ではじまる。
1927年8月20日号に掲載されたパッカードの384.8cid(6306cc)直列8気筒Lヘッド、9ベアリング、109hp/3200rpmエンジン。広告のテーマは「エンジニアリング」。コピーは「パッカード エンジニアリングの優位性は、陸上、空中、水上で何度も証明されてきた。スピードボートの偉大な記録は、パッカードエンジンを搭載したフリートボートによって保持されている。陸軍と海軍は、飛行船、爆撃機、高速戦闘機など、国防に不可欠な精密モーターをパッカードに求めてきた。そして世界の高速道路では、スマートなデザインでも最高速度でも、パッカードに勝る標準車はない。」ではじまる。
1927年9月2日号に掲載された1928年型パッカード カスタムエイトフェートン。1928年型では6気筒と8気筒モデルの識別がフードのサイドパネルで容易にできるようになった。6気筒は1927年型と同様ルーバーであったが、8気筒モデルにはベントドアが採用された。
1927年9月17日号に掲載された1928年型パッカード カスタムエイト セダン・リムジン。ドライバーシートとコンパートメントの間にはパーティションが付き、ノンカスタムモデルでは最も高価(4550ドル)で、最も重い(4860lb=2204kg)モデルであった。
1927年10月15日号に掲載された1928年型パッカード カスタムエイト オールウェザー・タウンカー。コピーには「オールウェザー・タウンカーは、最も興味深い提案のひとつである。運転席のルーフを取り外し、レザートップとクォーターを折り返すことで、クローズドからオープンに簡単に変更できる。」とある。ボディーの架装はディートリッヒか? カスタムモデルで、価格は6975ドル。5910ドルの6気筒モデルも選択可能であった。
1927年10月29日号に掲載された1928年型パッカード シックス 2パッセンジャークーペ。ボディーの架装はパッカードのボディーショップで行われた。価格は2350ドル。ランブルシートも装着可能であった。
1927年11月26日号に掲載された1928年型パッカード コンバーティブルクーペ。価格は2425ドル。
1927年12月3日号に掲載されたパッカードの「インスタント給油システム」の広告。31人の男と題するコピーは「31人の男では、5歳の子供があなたの車の手入れをするように、普通の車に素早く注油することはできない。あなたがパッカード(インスタント給油システム付)を持っているならね。
定期的な手入れが必要な31カ所のシャシー・ポイントには、毎朝、運転席からハンドブレーキをかけるのと同じくらい簡単な操作で、適量のオイルが1滴ずつ注がれる。
パッカードの “インスタント “給油システムは、各給油ポイントに正確に計量されたドリッププラグがあり、隠し配管によってダッシュ上のオイルリザーバーに接続されている。便利なプランジャーを一回引くだけで、各ポイントにオイルが供給される。こうしてパッカードは、シャシーの手入れを怠ることが事実上不可能なほど簡単にし、パーツの摩耗を実質的になくし、精度を守る。
摩擦は品質も価格も問わない。シャシーの潤滑を “瞬時に”行うのは、現代のクルマの特徴である。なぜ、時間と金銭の大きな犠牲を払わなければ、精度を保つことができないのか?パッカード・オーナーとして、精神的にも金銭的にも快適さを享受してみませんか?
パッカードのシャシー給油システムは完全に内蔵された機能であり、その徹底した出来映えは他のどの車にも見られない。どのパッカード・ディーラーでも、それがどのようにきしみやガタつきから解放されるのか、乗りやすく快適なステアリング操作、メンテナンス費用の削減、車の長寿命化とリセールバリューの向上をもたらすのかを、喜んでお見せすることでしょう。」とある。
国産車でも1960年代初めごろまでは、シャシー周りではキングピン、ステアリングのボールジョイント、ユニバーサルジョイント、スプリングのシャックルなどには定期的にグリースアップが必要で、必要カ所にはグリースニップルが付いていた。グリースがんが車載工具についていた車もあったように記憶する。そして、パッカードと同じような仕掛けがオプションで装着可能であった。
1927年12月10日号に掲載された1928年型パッカード スタンダードエイト クーペ。価格は3750ドル。ルーフ先端がウインドシールドの前方に大きく張り出してバイザーとなっているのに注目。
1927年12月24日号に掲載された1928年型パッカード ディートリッヒ コンバーティブルセダン。1927年11月に開催されたニューヨーク サロンで発表されたモデルで、ボディーデザインはディートリッヒ社(Dietrich Inc.)が行い、ボディー架装はマーレイ社(Murray Corp.)のデトロイト工場で実施された。価格は8気筒エンジンを積んだホイールベース143in(3632mm)のシャシーに架装されたモデルが6895ドル。288.6cid(4729cc)6気筒81hp/3200rpmを積む、ホイールベース126in(3200mm)のシャシーに架装されたモデルは5830ドルであった。
1928年1月7日号に掲載された1928年型パッカード エイト クラブセダン。価格はカスタム4950ドル、スタンダード3750ドル。ワイヤホイール(6本)は85ドル、スペアタイヤのデュアルサイドマウントは110ドルのオプションであった。
1928年1月21日号に掲載された1928年型パッカード エイト 7人乗りセダン・リムジン。価格はカスタム5250ドル、スタンダード3850ドル。1928年型パッカードのカタログモデルでは最も重く(カスタムで4900lb=2223kg)高価なモデルであった。同じボディーでパーティションのないセダンは100ドル安であった。
1928年2月4日号に掲載された1928年型パッカード シックス 5人乗りセダン。クローズドモデルでは最も安価なモデルで、最も安いフェートン、ランナバウトよりわずか10ドル高い2285ドルであった。広告のコピーに「パッカードは、デザイン、素材、仕上がりのどれをとっても、今日のパッカード・シックスより優れた車を製造したことはない。しかし、たとえばセダンは、世界最大の販売台数を誇る真の高級車であるため、現在では7年前の導入価格の半額以下となっている。」とあるように、1921年型5人乗りセダンの価格は4950ドルで、約2.2倍であった。
1928年2月18日号に掲載された1928年型パッカード シックス 2人乗りコンバーティブルクーペ。オプションでランブルシートの装着も可能であった。価格は2425ドル。
1928年3月17日号に掲載された1928年型パッカード カスタムエイト フェートン。価格は3975ドル。オプションのクロームディスクを履く。
1928年3月31日号に掲載された1928年型パッカード エイト コンバーティブルクーペ。
1928年4月14日号に掲載された1928年型パッカード カスタムエイト ランナバウト。パッカードのなかで最も高価なランナバウトで3975ドル。ちなみにフォードの1928年型ロードスターなら、ランブルシート付が480ドルで買えた。ただし、ホイールベース103.5in(2629mm)、200.5cid(3286cc)4気筒40hp/2200rpmエンジン付きだが。
1928年4月28日号に掲載された1928年型パッカード エイト 7人乗りセダン。
1928年5月12日号に掲載された1928年型パッカード シックス 7人乗りセダン・リムジン。6気筒81hp/3200rpmエンジンを積む、ホイールベース133in(3378mm)のシャシーに架装され、パーティションを備えたリムジン。価格は2785ドル。
1928年5月26日号に掲載された1928年型パッカード カスタムエイト クラブセダン。価格は4950ドル。ディートリッヒから似たようなセミカスタムもあるが、価格は6210ドル。6気筒を積むシャシーに架装されたモデルは5145ドルであった。
1928年6月9日号に掲載された1928年型パッカード カスタムエイト 7人乗りセダン。価格は5150ドル。
1928年6月23日号に掲載された1928年型パッカード カスタムエイト フェートン。価格は3975ドル。
1928年7月21日号に掲載された1928年型パッカード カスタムエイト フェートン。トノーシールドを装着し、トランクをトップと同じ素材でカバーしている。
1928年8月4日号に掲載された1928年型パッカード エイト 4人乗りクーペ。価格はカスタム4950ドル、スタンダード3750ドル。
1928年8月18日号に掲載された1928年型パッカード エイト 7人乗りセダン・リムジン。価格はカスタム5250ドル、スタンダード3850ドル。
1928年9月1日号に掲載された1929年型パッカード デラックスエイト 5人乗りトノーカウル スポーツフェートン。384.8cid(6306cc)8気筒105hp/3200rpmエンジンを積む、ホイールベース145.5in(3696mm)のシャシーに架装され、価格は4935ドル。トノーカウルはリアドアを開けると、自動的に上に跳ね上がる仕掛けであった。1929年型では6気筒エンジンモデルは廃止され、すべて直列8気筒となった。1929年型はバンパー形状の変更と、ヘッドランプがドラム型から円錐状の近代的な形になったことで容易に識別できる。
1928年9月15日号に掲載された1929年型パッカード エイト 5人乗りセダン。価格は2285ドル。ショートホイールベース126.5in(3213mm)のシリーズには、1928年型6気筒モデルと同じ、ルーバー式のフードサイドパネルが採用されていた。
1928年9月29日号に掲載された1929年型パッカード エイト 5人乗りセダン。前段と同じモデルだが、オプションのデュアルサイドマウントスペアタイヤ(130ドル)を装着している。標準のスペアタイヤは1本なので、スペアタイヤも1本追加購入が必要となる。
1928年10月13日号に掲載された1929年型パッカード デラックスエイト 7人乗りセダン・リムジン。価格は5985ドル。ホイールベース145.5in(3696mm)のシャシーに架装されたモデルで、1929年型パッカードのカタログモデルでは最も重く5410lb(2454kg)、最も高価なモデルであった。
1928年10月27日号に掲載された1929年型パッカード カスタムエイト 5人乗りクラブセダン。ホイールベース140.5in(3569mm)のシャシーに架装されたモデルで、価格は3750ドルであった。
1928年11月10日号に掲載された1929年型パッカード ルバロン オールウエザーカブリオレ。ホイールベース145.5in(3696mm)のシャシーにルバロン社(LeBaron-Detroit Co.)が架装したカスタムモデルで、価格は6950ドルであった。
1928年11月24日号に掲載された1929年型パッカード デラックスエイト 7人乗りセダン・リムジン。
●パッカードの盛衰
1927~1928年にかけてのパッカードの広告を紹介したが、この頃のパッカードは絶頂期にあったと言えよう。ラグジュアリーカー市場の半分ほどのシェアを占め、ルバロン(LeBaron, Inc.)、ロールストン(Rollston Co.)、ジャドキンス(John B. Judkins Co.)、ウォーターハウス(Waterhouse & Co.)、ダーハム(Derham Body Co.)、ディートリッヒ(Dietrich. Inc.)、マーフィー(Walter M. Murphy Co.)などのコーチビルダーたちが腕によりをかけて架装した素晴らしいカスタムカーを世に送り出してきた。
コーチビルダーや弱小自動車メーカーの衰退を招き、アメリカの自動車産業が大きな転換期を迎えた原因の一つが1929年に起こった大恐慌であろう。この不況を機に人々のクルマに対する価値観が大きく変化したのと、デザインの変化、モノコックボディーの採用などによる構造的な変化が、コーチビルダーの入り込む余地を狭めてしまったと考えられる。
1926年6月、アメリカ独立150年を記念してフィラデルフィア万国博覧会が開催され、会場に設けられた7万台収容の巨大な駐車場が自動車の大衆化を物語っていた。しかし、万国博は折からの世界不況の影響で入場者数は650万人ほどで、1915年に開催されたサンフランシスコ博のおよそ1/3に過ぎなかった。そして、「暗黒の木曜日」と言われる1929年10月24日に株価が大暴落。その後いったんは回復したが、5日後の「悲劇の火曜日」と言われる10月29日に再び大暴落し、大恐慌となった。その後の4年間で米国のGNPは30%ダウン、失業率は25%に及んだという。こうして米国の「ローリングトゥエンティーズ(Roaring Twenties):狂騒(あるいは狂乱)の20年代」は終焉を迎えた。
乗用車の販売も1929年には約445.5万台であったが、1930年には約291万台、1931年には約203.8万台、1932年には最悪の118.6万台にまで落ち込んでしまった。
パッカードの販売台数も大恐慌直前の1929年型は約5万5000台であったが、1933年にはわずか4800台ほどに激減してしまった。1935年型では約3万2000台に復活しているが、これは高級車メーカーとしてのプライドを捨て、価格が1000ドル前後のモデル120(ワントゥエンティー)で中価格帯の市場に参入したことによる。さらに1937年型では価格が800~900ドル程度の6気筒モデルを発売し、販売台数は約12万3000台に達している。
1941年12月7日(日本時間12月8日)、アメリカは日本軍による真珠湾奇襲攻撃によって対日戦に突入。1942年2月にはすべての民需用車両の生産は禁止され、1945年7月1日に禁止令が解除されまで3年5カ月続いた。パッカードが生産再開したのは1945年10月だが、本格的に稼働したのは1946年6月であった。市場は新車に飢えており、売り手市場に乗じたパッカードの1948年型の販売台数は14万6400台強の新記録に達した。しかし、その後はじり貧となり、スチュードベーカー社と合併した1956年には2万9000台弱となり、スチュードベーカーのボディーをベースにした1957年型は4809台に落ち込み、1958年7月13日、1958年型を2622台生産したところで、1899年創業以来59年間続いた暖簾をおろした。