1954 Mercedes Benz 300S Cabriolet A
<第1世代~戦前の名残・フェンダーを残した時代>
・今回の対象は、僕がカメラを持って街中を歩き回っていた時期と重なるので、殆どが現役で活躍していた生の姿を捉えたもので、「モノクロ」が多くなった。
・戦後しばらくはベンには小型「170」、中型「220」、大型「300」の3種類しかなかった。エンジンの排気量は1767cc、2195cc、2996ccで、ディーゼルもスポーツカーも含まれる。今回の対象はこの3つのエンジンを持つ車のバリエーションを集めた。
(01)<170> 170V・170D 1947-55 (W136)/170S 1949~55 (W136Ⅳ、W191)
日本と同じく第2次世界大戦で敗戦国となったドイツだったが、ダイムラー・ベンツ社は1947年6月から戦前最後の小型車「170V」(W136)そのもので、戦後をスタートした。1949年5月戦後モデル「170S」(W136Ⅳ)が誕生したが、まだ社会情勢が中型・大型車を受け入れるだけ復興していなかったから、「220」(W187) が誕生した1951年6月まで約6年間は「170」系の小型車一種で会社経営を支えてきた。
(写真01-1a~d) 1948 Mercedes Benz 170 V Limousine (1970-04 CCCJ コンクール/東京プリンス・ホテル)
最初からあいまいで恐縮だが、この車はナンバプレートの「TK-M1948」(高山-メルセデス1948年)のアピールに従って1948年型とした。とすれば戦前から続く「170V」となる訳だが、どこから見ても1952-53 「170 Vb」に見える。誤解を招かないように信頼出来る「170V」の資料を添付した。
(写真01-1ef)1947-50 Mercedes Benz 170 V Combi (W136 戦前型) (2000-05 ミッレミリア/ドーモ広場)
戦前タイプの「170 V」は、ボンネットのベンチレーターが細かい縦のスリットで区別できる。街中で見かけても決して古臭い印象は受けなかった。
(写真01-2abc) 1951 Mercedes Benz 170 D Diesel(W136Ⅰ) (2008-01 ベンツ博物館)
戦前タイプの「170V」のディーゼル版がこの車で、排気量も外観も変わらない。唯一の識別点はリアのスペアタイヤの「「DIESEL」の文字だけだ。
(01-3ab) 1952-53 Mercedes Benz 170 Vb Lomousine (W136Ⅵ) (1957年静岡市内 青葉通り)
早い時期から静岡市内で見かけていた車だ。1960年からは、小型車枠が2000ccとなったが、この時点ではまだ1500cc迄なので「3」ナンバーだ。排気量は戦前型「V」の1697ccから「Va」以降は1767ccに増加した。
(写真01-3cd)1952 Mercedes Benz 170 Vb Limousune (1985-09 大阪万博公園)
関西で開かれるイベントには、東京では見られない車が出てくるのではないかとの期待で何回か遠征した。当時転勤で諏訪におり車で大阪に向かったが、大阪では環状線の駅を見つけても土地不案内で自分の位置が確認できず、太陽の位置で方角の見当を付け、北方にある「万博公園」を目指した。実は昔読んだ「撃墜王 坂井三郎空戦記録」に、負傷して殆ど視力を失った坂井が約4時間かけて「ラバウル」にたどり着いた時のエピソード(太陽で方角を知る)を思い出していた。
(01-3e~i)1952 Mercedes Benz 170 Vb Limousine(1970-04 C.C.C.Jコンクール/東京プリンス・ホテル)
この車はイベントで見つけたオリジナルを良く保っている車だ。この当時は既に小型車枠が2000cc迄に代わっているので「5」ナンバーとなっている。
(写真01-4abc) 1949-52 Mercedes Benz 170 S Limousine (W136Ⅳ) (1966-05港区飯倉付近)
「170S」は「170V」の後継車ではなく1949年5月から併売されており、ホイールベースは変わらないが、丸みを帯びたボディは少し大きくなった。最大の特徴はリアに立派なトランクが付いたことだ。
(写真01-4de)1952-53 Mercedes Benz 170 Sb Limousine (W191) (1966-06 表参道/原宿)
リアウインドウが大きくなりトランクのヒンジが消えた。「170S」のエンブレムが付いた。
(写真01-4k~q)1949 Mercedes Benz 170 S Cabriolet A (W136Ⅳ) (1985-01 TACSミーティング/明治公園)
ファストバックの「クーペ」も良いが、何と言っても「カブリオレA」の見た目が一番好きだ。だから見つけるとやたらと写真を撮ってしまう。そんなわけで、この項枚数が多いのにお付き合いください。
(写真01-4rs)1949-52 Mercedes Benz 170 S Cabriolet A (136Ⅳ) (2001-05 ブレシア/ミッレミリア)
幌を畳んだこのクリーム色の車はイタリアで撮影したものだ。ミッレミリアのスタートは車検場のビットリア広場から歩いて10分ほどのところにある「ベネチア通り」で、そこへ向かう途中で見つけた。キャビンが小さい分、幌を畳んでもこの程度に収まり、後方の視界も確保されている。
(01-5a~e)1952-53 Mercedes Benz 170 Db (W136Ⅵ)(1958年静岡市紺屋町)
ディーゼルの「Dシリーズ」は、ガソリンの「Vシリーズ」と同時進行で(エンジン以外は共通で)進化を進めたから、V=D、Va=Da、Vb=Db、S=DS、S-V=S-Dと続いた。前、横からでは見分けがつきにくいが、後ろのスペアタイヤに「DIESEL」と入っているのではっきり区別できる。
・車が停まっている場所は静岡の老舗旅館「中島屋」の塀の前だが、この道路の反対側が僕の勤務先だったから3階から写真を撮る事が出来た。 ,
(写真01-5f) 1952-53 Mercedes Benz 170 Db (W136Ⅵ) (1957年 静岡市内)
静岡市内で撮影した「太陽生命」と書かれたこの車は、ナンバープレートから東京で登録された車で、本社から巡回して来たところか、静岡支社に貸与されていたのか判らないが、この時一度しか見ていない。宣伝カーとして屋根にスピーカーを付けてあるので「8」ナンバーの「特殊用途車」(改造車) 扱いだ。
(写真01-6a~d)1952-53 Mercedes Benz 170 DS Limousine (W191 ) (1961-12 港区・麻布新網町2丁目)
「170S」のディーゼル版でスペアタイヤは新設されたトランク内に収納された。
・場所は町名変更で現存しないが、一之橋と麻布十番の中間あたりにあった朝日自動車の修理工場だ。
(写真01-7abc) 1953-55 Mercedes Benz 170 S-D (W136Ⅷ) (1988-11 神戸ポートアイランド/モンテ・ミリア)
170系としては最後となったモデルだが、「S-D」の名前が示すように旧モデル「D」「S」シリーズを合体してコストダウンを図った普及型・廉価版で、「180」シリーズが登場した後の1955年まで生産が続けられた。
(02)<220>(W187) 1951~55
中型車として新しく誕生した「220」だが、実は「170S」のシャシー、ボディが流用されている。という事はもしかしたら1949年6月の「170S」発売時点で「220」の発売も視野に入れて開発されていたが、社会情勢から時期尚早と判断され見送られたのかもしれない。ボディの後半は「170S」と変わらないが、長い6気筒エンジンを搭載するためボンネットは延長されている。車格は後年の「Sクラス」に相当する。
(写真02-1a~d) 1951-55 Mercedes Benz 220 Limousine (W187) (1957年 静岡市内)
静岡市内で何回も見かけた初代の「220」だ。②③は同じ場所で背景の石垣は駿府城の外堀、銀行は当時の「日本勧業銀行」で、その後「第一勧銀」となり「富士銀行」などと合併して「みずほ銀行」となった銀行の前身だ。
・外見上「170」と一番の相違はヘッドライトで、それまでは独立してボンネットの横についていたのが、フェンダーに埋め込まれため、幅が広くなり、僕の第一印象は「間延びした」「のんびりした」穏やかな雰囲気を持った車だった。アメリカ車は40年代後半には埋め込みヘッドライトは当たり前で、僕も見慣れている筈なのにどこか印象が違うのはその高さで、フェンダーの一番高い位置にあるアメリカ車に対して、「ベンツ」は幾分低い位置にあるのが「のんびりした」印象を与えるのだろう。ナンバープレートを見ると静岡ナンバーの普通車はまだ3桁どまりのようだ。
(写真02-1ef)1951-55 Mercedes Benz 220 Limousine(W187) (1958年 静岡市内)
全く同じ「220」がもう1台静岡市内にあった。ナンバープレートは上下2段の新方式だから最近登録されたものだろう。場所は「江川町通り」で、前方の交差点の向こうは静岡鉄道の「新静岡駅」だ。
(写真02-1gh)1951-55 Mercedes Benz 220 Limousine (W187) (1977-01 TACSミーティング/東京プリンス)
初代の「220」は1951年6月から55年8月まで約4年造られたが、その間外見上の変化は確認できない。
・エンジンは直6 SOHC 80×72.8mm 2195cc 80ps/4850rpm、最高速度140km/h、価格は「リムジン/DM 11,925」「カブリオレA /18,860」「カブリオレB /15,160」「クーペ/ 20,850」だったが、リムジンは「170S」のDM 10,100より僅か高いだけで大変お買い得だった。生産台数はリムジン16,154台、カブリオレ/クーペ2360台、合計18,514台だった。
(写真02-2a-d)1951-55 Mercedes Benz 220 Cabriolet A (W187) (1960-09 港区内)
この写真は僕が初めて出逢った「220カブリオレA」だ。修理工場の外に置かれていたことは確かだが、この場所がどこだったのかは全く記憶にない。フィルムの前のコマが麻布鳥居坂にあったドイツ大使館前だからそこから赤坂溜池へ向かう途中のどこかだと思う。僕は珍しい車を見つけて感激した時は、場所とか、その時の状況は50~60年経った今でもはっきり思い出せるのだが、この車に関しては、感激しない筈はないのだが何の記憶もないのは不思議だ。当時土曜日は東京タワー近くの勤務先から、自転車で麻布、六本木、赤坂溜池と走り回っていたが、無計画で何処をどう走ったか判らないから、狭い裏通りの住宅街の一角にあったこの修理工場の場所も記憶になく2度と訪問することはなかった。
(写真02-2d~g) 1951-55 Mercedes Benz 220 Cabriolet A (W187) (1962-04 渋谷駅付近)
この車を見つけたときは本当に嬉しかった。場所は渋谷駅の東口(山手線内側)で、後ろの都電は、赤坂見附から青山通りを通って渋谷行の⑨番だ。1962年という時期は1964年の「東京オリンピック」を目前に、東京では高速道路の整備がはじまり、この場所は現在「首都高速道路3号線」となり、間もなく山手線を跨ごうかという地点だ。すでに買収の終わった場所は更地となり青空駐車場となっていたが、この場所が不整地でごみごみしているのはそんな事情からだ。
(写真02-2hij)1952 Mercedes Benz 220 Cabriolet A (2008-11 トヨタ・クラシックカー・フェスタ)
ダイムラー・ベンツ社にはコーチワークを専門とする部門「カロセリエ・ジンデルフィンゲン」があり、基本的には全ての車はここで造られた。だからお洒落な「カブリオレ」も外部に発注する必要が無かった。車にはその証である「ジンデルフィンゲン」のバッジが付いていた。
(写真02-2kl)1951 Mercedes Benz 220 Cabriolet A (1987-01 TACSミーティング/明治公園)
お洒落な「カブリオレA」は明るいアイボリーのこの車が僕は一番好きだ。蒸気機関車では「C57」が「貴婦人」と呼ばれているが、瀟洒なこの車を僕は「貴婦人」と呼びたい。
(写真02-2m)1952 Mercedes Benz 220 Cabriolet A (1978-01 TACS ミーティング/東京プリンスホテル)
「多摩56」のナンバーを持つこの車の前に置かれている説明によると、「220 カブリオレA型」「排気量 2195ccとある。以前から不思議に思っていたのだが、どうすれば2.2 ℓ を「5」ナンバーで登録できるのか教えて欲しい。
(写真02-3a-e) 1951-54 Mercedes Benz 220 Cabriolet B (W187) (1960-01 東銀座)
当時の東京には多分1台しかなかった「220カブリオB」がこの車だ。1962年4月創刊された「CARグラフィック」は「ベンツ特集」だったが、その中の「オーナー告知版」で紹介されており、オーナーは著名なな服飾デザイナー伊東茂平氏となっていた。スタイルの格好良さでは「A」に一歩ゆずるが、実用性は断然こちらの勝ちで、内張りを持つ幌を上げれば、リムジン並みの居住性を備えた上にオープンも可能だ。
(03)<300/300S >
(写真03-1abc)1952 Mercedes Benz 300 Limousine (W186) (2008-01 ベンツ博物館
戦前のフラッグシップ「770グローサー」には遠く及ばないが、戦後僅か6年で堂々たる大型リムジンが誕生した。流石に長い伝統に支えられたメーカーだ。上限の「3リッター」は、もしかすると、敗戦国に対して連合国側(GHQ)が規制をかけたのかもしれない。
・(初代のデータ)エンジン形式M186、6気筒 85×88mm 2996cc 圧縮比6.4:1 115PS/4600rpm 最高速度160km/h、生産台数5,245台、価格(Limo)19,900DM, (Cabrio)23,700DM、
(写真03-1a~e)1 1951-54 Mercedes Benz 300 Limousine (W186) (1957年 静岡市内)
初代「300」には三角窓が無ないのが特徴だ。バンパーにオーバーライダーは付かないのが、オリジナルだがこの車は前だけ付いている。
・この車は静岡市から40キロほど東の富士山の麓にある、さる製紙会社の社長さんの車と聞いている。静岡県内で多分1台しかなかったこの車にはこの後出会う機会はなかった。社長の車は派手で豪華な「アメリカ車」と決まっていた時代に、この車を選んだ社長のセンスに乾杯! すでに灯ともし頃で、残照が黒いボディーに写り綺麗だ。この時のカメラは初代の「アサヒ・ペンタックスAP」で、標準レンズが58ミリと異常に長かった。(50ミリが普通)狭い場所で自動車を撮るには適さないが、十分広い場所では歪が無く良い感じに撮れた。
(写真03-2ab) 1954-55 Mercedes Benz 300b Limousine(W186Ⅱ/Ⅲ) (1982-01 TACSミーティング/神宮絵画館前)
三角窓が付き、バンパーにはオーバーライダーが付いた。フェンダー上のウインカーが大型になった。リアのナンバープレートの下に「300」のバッジが入った。リアウインドウには変化なし。エンジンは「M186」で変わらないが圧縮比を6.4から7.4に上げ出力は125ps/4500rpm 最高速度は163km/hとなった。
(写真03-2c~f)1954-55 Mercedes Benz 300b Limousine (1958年 紺座7丁目・交詢社通り)-
この車は以前「b」か「c」で迷ったが、今回窓の大きさではっきり「b」と確定した。
・場所は銀座6丁目と7丁目を分ける「交詢社通り」で、バックの雰囲気とも良く合っているので僕のお気に入りの1枚だ。栄枯盛衰の激しい銀座界隈で昔の面影を求めるのは至難の業だが、今は無きキャバレー「ソワール」の跡地は左後方の薬局と、右隣りの北海道新聞が健在で確認できた。
(写真03-3ab) 1955-57 Mercedes Benz 300c Limousine (W186Ⅳ) (1967-05 表参道/原宿)
モデル名は「W186Ⅳ」で基本的には変わらないが、リアウインドウが広がった。リアの「300」のバッジがナンバープレートより上に位置が変わった。エンジンの仕様は「b」と変わらないが、オートマチックの装備で重量が増加し、最高速度は160km/hとなった。
・道路の向こう側は日本初の高層集合住宅「同潤会アパート」で、2007年「表参道ヒルズ」に生まれ変わっている。
(写真03-3c~f)1957 Mercedes Benz 300c Limousine(W186Ⅳ) (2011‐10 ジャパンクラシックオートモビル/日本橋)
非常に良好なコンディションが維持されているこの車はさる有名企業が新車当時からずっと所有しているもので、ナンバープレートは1955年「上下2段」に変更された当時のものがそのまま継続されている。(最初は東京に限って道府県表示の漢字が付かなかった)
(03-4ab) 1957-62 Mercedes Benz 300d Hardtop Limousine (W189)(1960年 赤羽橋/モービル給油所)
「ローマ法王」や「エジプトのナセル大統領」などのパレード用に、ホイールベースを100ミリ延ばした「スペシャル・カブリオレD」(実質は「F」)が数台造られた。これにスチールのトップを固定して、ハードトップとしたのが「300d」となって、1957年11月から62年3月までに3,142台が造られた。
・外交官、領事官等の自動車の登録番号票の様式は1952年5月に制定され、外交団は「外」、代表部は「代」、領事団は「領」で、青地に白文字と決まった。(大・公使館の長の場合は「外」の文字を白色の円で囲む。)
・写真の車とは全く関係ないが、これら「外」「領」など外交官の車は治外法権で、日本の法律が及ばないので、駐車違反を平気で繰り返す悪質なものも見たことがあり、無駄と知りながらも、「これでもか」と白墨でマークを付け続ける取り締まり担当者の口惜しさがその本数に垣間見られた。
(写真03-4cd)1957-61 Mercedes Benz 300d Hardtop Limousine (1961-03 横浜港大桟橋)
アメリカのマッカーサー前・駐日大使が退任し、船で帰国するという情報を知り仕事を休んで見送りに行った。と言うよりは、見送りに来る各国の「偉いさん」が乗ってくる車をハントするのが目的だった。目的はほぼ的中し、この車は「外」が円で囲まれた「ドイツ大使」の公用車だ。
(写真03-4efg)1958 Mercedec Benz 300d Hardtop Limousine (1977-01 TACSミーティング/東京プリンス)
小雪の舞う「第2回 東京自動車クラブ・ニューイヤー・ミーティング」は、まだクラシックカーを他人様(ひとさま)にお見せする機会が少なかったから、ここぞとばかり自慢の名車、愛車が多数参加した記憶に残るイベントだった。R・R ファントムⅢ、ベントレー3.5 ℓ、アームストロング・シドレー、アルヴィスTA14、ぺガソZ102、ブガッティ・ブレシア、マセラティ5000GT、リンカーン・コンチネンタルMkⅡその他多数。-
・窓を下げれば中央の窓枠は消え「ハードトップ」となる。300dは横から見ると流石に長い。
」
(写真03-5a~f) 1955 Mercedes Benz 300Sc Coupe (W188Ⅱ) (1962-03 港区一橋付近)
知る人ぞ知るベンツの最高峰「300 S」だが、それと知らなければ唯の300シリーズのクーペかと見過ごしてしまう。当時1台しかなかった筈の(ビルマから亡命していた要人が乗っていたとか、力道山が300SLの他に300Sも所有していたという説も有るが信用出来ない)この車に出会ったのも偶然で、昼休みに勤務先の近くをカメラ持参でパトロールしていた時、一之橋近くで見つけた。まさに出発寸前だったが、「この車が何者かを知っている」若者と認めて頂いたようで、撮影が終わるまで出発を待って下さった。この車は初代オーナー米軍将校を経て、2代目は松竹大船の若手三羽烏として売り出中の映画俳優「高橋貞二」だったが、1959年11月横浜市内で事故を起こし亡くなった。3代目が撮影当時の関口氏(CARグラフィック創刊号・オーナー告知板による)で、この写真から約50年後の2010年、11年のイベントに元気な姿を見せた。塗装は変わり、イベントの出展者の名前も変わっていたが、ナンバーの「3せ7236」は昔のままだった。
・「300S」は1951年のパリ・サロンでデビューし、1952年6月から市販された。55年8月までが前期型、55年9月から58年4月までが後期型となる。この車には三角窓があり後期型だ。
(写真03-6a~d) 1952 Mercedes Benz 300S Roadster (W188) (2000‐05 サンマリノ/ミッレミリア)
「ミッレ・ミリア」はブレシアをスタートし、ローマで折り返す周回コース「1000マイル」(Mille Miglia)を3 日かけて走破する公道レースだった。1927年から 57年までは本気のレースだったが、57年の大事故で中止となっていた。20年後の77年危険度の少ない「タイム・トライアル」方式で復活したのが今日まで続いている。参加車の第1日目は昼間車検を受け、夜8時15分から10時にかけてスタートするので、この日は近くの「フェラーラ」泊となる。我々は「サンマリノ」迄先回りをしているので好みの場所で車を待つことになる。大部分が通過すると、バスで高速道路を使って追いかけ、途中からは参加車に交じって同じ道を走ることもあった。
・写真は昨夜泊まった「サンマリノ・ホテル」の前で、車はナンバープレートから1952年型と推定した。「300S」には「クーペ」「ロードスター」「カブリオレA」3種のボディが用意されていたが、この車はランドー・ジョイントが無いので「ロードスター」だ。
(03-7a~e) 1954 Mercedes Benz 300S Cabriolet A (W188) (2008-01 ベンツ博物館/シュトットガルト)
当時の頂点に立つ「300S」は、戦前で言えば「540K」に相当する位置付けだ。エンジンの排気量は2996ccで他の「300シリーズ」と共通だが、出力は175psに強化され、ホイールベースも2900mmと150mm短縮し操縦性の強化を図っている。スポーツカーとしては「300SL」があるので、豪華な「高性能GT」だ。外見の特徴は①ラジエターグリルの位置が奥に後退し深く折れている、②ヘッドライトのクローム・トリムが太い。最高速度は180km/hが可能だった。価格も抜群で、後期型の36,500DMは「300SL」の29,000DMより+126%、「300c」の22,000DMより+166%も高かった。9,450DMの「180」なら約4台買えた。生産台数は前期型・560台、後期型・200台だった。
―― 気合が入り多く張り付けすぎたので、予定の「300SL」は次回に先送りとなりました。――