第6回 アメリカ渡航と現地法人の設立

2023年8月27日

原科恭一常務が片山豊にささやいたのは、市場調査を目的とした2年間の米国駐在だった。米国にはすでに元外務官僚の輸出担当部長が派遣されており、細々と輸出市場開拓を始めているとのことだった。この時、片山にはまだ先の計画はなかったが、取りあえず、この“息苦しい雰囲気”から脱することが必要と感じていた。
とはいえ、自身が本社からいなくなれば、自分の息のかかった部下たちが今後社内で困るであろうことは目に見えていた。片山はマスコミ関係の知人たちに自身の渡米を告げ、必要とあれば部下たちの受け入れを頼んで回った。昭和34年(1959年)は日本中にテレビが爆発的に広がり始めた時期で、各社とも広報関係の幹部人材を求めており、片山は数人の部下を開業しつつあったテレビ会社などにうまく滑り込ませることができた。片山が若いころから無意識に広めていた友人の輪が役に立ったといえる。

訪米するとなると、当然ながら家族のことも考えなければならなかった。長女は大学卒業間近で婚約者がおり、長男は大学に入りたてながら5年先のオリンピックに向けた強化選手となっていた。次男は翌年に中学校を卒業予定で、次女は中学一年生であった。妻の正子は10歳までアメリカで過ごし、高校の英語教師免状を持っていたので、言葉や生活の心配もなかった。取りあえず下の二人の子供を米国に連れてゆくこととし、上の二人は当時70歳の妻の母に委ねることとした。
片山はこの時になって初めて、実の母が昔言い聞かせてくれたことを呼び起こしていた。母が幼い片山の手を引いて連れて行った占い師は「この子は鉄関係の仕事が向いている」と言い、さらに「海外に行くかもしれない」そして「政治家にはならないほうが良い」とも言った。政治との関わりについては、戦前の一時ある遠縁の政治家の秘書にならないかと誘われたことがあったが、断っていた。そのお陰で今がある、と片山は思っていた。別に“海外”で“鉄関係の仕事”で上手くゆくと思ったことはなかったが、自動車の輸出は全くその占い師の方向に沿っていた。

片山にとって大学時代以来、二度目の渡米は飛行機だった。途中給油をハワイで行ない、ロスアンゼルス空港に着いたのは昼過ぎだった。空港では日産駐在員の十河和吉と、輸入代理店をしていた丸紅の若槻信成が待っており、片山をダウンタウンの日産事務所へ連れて行った。事務所はビルの7階にあり、窓からはほとんど街の様子も見えなかった。元外務官僚で所長の宇野は、英語は喋れるが、ビジネス経験には乏しく自動車についても明るくなかった。
翌日連れていかれたのは北にあるウール・バートンという男の経営する小さな自動車ディーラーで、そこにダットサン1000が一台所在無げに置かれていた。ここが北米西部の販売拠点だった。
宇野やウール・バートンから聞いた話からは、片山は活気が感じられず、何とも歯がゆかったという。丸紅の若槻もこのクルマではアメリカで勝負できない、と公言しており、何もかも八方ふさがりといえた。
北米東部の販売はルビー・シボレー社のルビー夫妻が担当することになっていた。車が荷下ろしされるロング・ビーチ港に行くと、埠頭近くの広場に数多くの輸入車が野晒しになっているのが目に入った。1950年代からアメリカでは欧州からの輸入車ブームが始まったものの、サービスが悪く、取り換え部品の調達がままならないために、売れ残った欧州車が埠頭の広場に放置されていたのである。これ以降、片山には埃にまみれて放置された輸入車の姿が“悪夢”となって何度も現れることになる。
一方ドイツのフォルクス・ワーゲンは低出力で狭いボディーにもかかわらず、高い信頼性をもとに輸入車トップの座を占めていた。片山が数年前にオーストラリアのラリーで経験した、パーツとサービスの重要性が改めて感じられた。

数カ月を過ごした米国における販売活動の現状は、全く悲観的だった。
片山の見解は以下の4つだった。
1)現在の車では米国市場で売るには不十分、迅速な改善が必要
2)販売体制が出来ておらず、それを構築する意欲も薄い
3)サービス体制が不十分
4)パーツ供給が不十分

これをもとに片山が考えた基本方針は次の三つだった。
1)販売に責任を持つ北米法人の設立
2)輸入販売権を商社から取り戻す
3)強力な販売網の構築

もちろんこれらを構築しても、売るべき自動車=商品が市場に適応していなければならず、それを支えるサービスとパーツ供給体制も必須だったが、片山には自信があった。片山が好まない経営者と組合の関係を除けば、日産の屋台骨を支える技術者達は、健全で意欲的だったと知っていたからであろう。片山が自動車の企画から販売、宣伝までを直接実施した経験から、良い自動車ができるのは時間の問題だと考えていた。要はそれまでにどれだけの販売網とサービスパーツ供給網を構築するかが、片山にとって最大の関心事だった。
始めは会社設立に躊躇していた本社も、意外とすんなりとそれを認め、当初100万ドルの設立資金が認められたのは1960年の夏だった。米国市場を東西に分け、東部を川添惣一、西部を片山がそれぞれの副社長として担当し、社長を常務の石原俊が務める体制となった。片山が1960年2月に渡米して半年が過ぎていた。

販売網の構築のためには、強いリーダーシップを持った現地人マネジャーが必要だと片山は考えていた。ある日、ロスアンゼルスの自動車ショウで大柄な男がダットサンを熱心に見ているのが片山の目に留まった。その男はレイ・ホーエンと自己紹介し、後日折り入って相談したいと申し出た。片山はレイと面談し、彼がルノーのセールスマネジャーであること、できれば日産で働きたいとの希望を知った。レイは元ジープで有名なウイリスで働きその後ルノーへ移ったと言い、片山の観察では営業経験も豊富で堅実に見えた。また彼がフリーメイソンのネクタイピンをしていたのを片山は見逃さなかった。片山はレイに当面の西部地区のセールス方針を提示してほしいと依頼し、彼を雇うことを決めた。

間もなくレイから提示されたのは西部地区を6つの区域に分け、各区域に一人のセールスマネジャーを置く体制だった。アメリカ西部は西海岸に人口が集中しているが、その他の地方は人口密度が低く、人口密度の高い東部とは販売方法が違って当然だった。
ダットサン1000の後継車は1200㏄エンジンと、3段のトランスミッションを備えた210型であった。自家用車がようやく売れ始めた日本では人気が出始めていたが、米国で走るには非力で、室内も狭かった。米国市場での競争力を得るためには、もう少しパワーがあり、4段トランスミッションのついた、ルーミーな車が必要だった。
しかし、乗用車以外に目を向けると、同時に売っていたダットサントラックは意外にも大好評だった。トラックなので無理なスピードは出さず、丈夫で壊れない点が西部の農家に評価され始めたのである。特にオレゴン州やワシントン州の果樹園農家では樹の下をゆっくりと走りながら摘果するのに適しているとして、地味ながら信頼を高めていった。当時日本のトラックは正規の積載量の二倍積んでも壊れないことが求められると言われており、頑丈に作られていたのだ。トラックから広まった信頼は段々と乗用車にも広がり、西部でダットサンが売れ始めたのはこのような背景があった。

アメリカでクルマを売り始めるうえで、片山には二つの方針があった。ひとつは“ダットサン”のブランドネームで売ること、もうひとつは、基本的に単一価格で売ることであった。ダットサンというブランドネームは、片山が日産自動車に入社した年に大量生産の始まった、日産の主製品名であった。元々“ダット号”として日産の前身のひとつ、快進社で作られた乗用車は、創業した橋本増治郎が三人の支援者、田健治郎、青木禄郎、竹内明太郎の頭文字から“DAT”と命名したもので、後に橋本の事業を引き継ぎ、小型乗用車を計画した鮎川義介が“小型のDAT”すなわち“DATSON”と考え、ソンは損に繋がるのでSUNに変更したブランドネームである。片山は鮎川の意志を継続するものとして、米国で売るには新たな西欧風ニックネームを付けることなく、すべてダットサンで統一した。
もうひとつは単一価格である。米国では顧客を引き付けるために、販売モデルの一番安い値段を店頭に表示し、商談が進むにつれエアコンやラジオ、カーペットなどを追加していく売り方が主流だった。片山はこのやり方は「詐欺に近い」と常々考えていた。安い値段に引き寄せられてディーラーに買いに行っても、最後にはその何割も高い値段に釣りあげられるのである。
片山はダットサンに必要な全ての装備を付け、その状態で売価を提示する方針を堅持した。この方針がどこから出たかはっきりしないが、著者は片山豊の父が生前務めていた三越の伝統にヒントを得たと考えている。江戸時代に開業した三越の前身である越後屋呉服店は、それまでの商習慣である掛値販売を一切やめ、正札販売で大成功を収めた歴史があったからである。すべての商品を単一価格とすることによって、売る側も、買う側もごまかしなく商品の価値を評価することができた。

日本から輸入するモデルは、1200㏄の210型から大幅にデザインを改良した310型(日本名:ダットサン・ブルーバード)に改良されていった。このモデルのデザインは社内デザイナーの佐藤章蔵で、この時代から日本の自動車も世界の潮流にもまれるようになりつつあった。度々の片山からの要請で、その後エンジンは1300㏄に拡大され、トランスミッションもフロアシフトの4段となって使い勝手は改良されたもののパワー不足は解消されなかった。
1964年、米国に登場したダットサン410型は、片山が5年以上前に羽田空港で出迎えたピニン・ファリーナに、後に日産が基本デザインを委託したものである。当時のピニン・ファリーナの流れを組むデザインであったが、デザイン解釈の錯誤からなのか、後ろから見ると尻が下がったように見える、と国内の評判は芳しいものではなかった。エンジンは1300㏄が引き続き採用され、410型でモノコックボディーが初めて採用された。

片山が片時も忘れなかったスポーツカーは、戦後の日産では、昭和27年のDC-3から始まり、5年後には210型のシャシーにFRP製のボディーを載せた212型が作られた。さらに昭和37年(1962年)には全く新しいSP310型(日本名:ダットサン・フェアレディ)が発表された。エンジンは1500㏄のセドリック用をツインキャブレター式とし、シャシーは310型のものをXフレームで補強したものだった。
片山はすぐさまこれを輸入し、“ダットサンスポーツ”として販売するとともに、アメリカスポーツカークラブ(SCCA)が主催するレースに出場するアマチュアレーサーへの支援を始めた。片山の基本的な考え方は、会社がレースに出て勝利することよりも、アマチュアの手が届く値段で機材を提供し、彼らにレースを楽しんでもらいたい、というスタンスだった。 1960年から片山が始めた日産車の米国輸出事業は、ダットサントラックの成功から始まり、改良を続ける乗用車、手軽にレース参加できるスポーツカーへと拡大し、当初の2年間の市場調査という渡米目的はとっくに忘れられていた。

1960年、渡米直後のダウンタウンの日産事務所で執務中の片山豊。
1964年頃、郊外の日産新社屋の外で、ダットサントラックと顧客。左が片山豊。
1967年頃のディーラー会議。前列中央が片山豊で、その向かって右は川添惣一、右端は広報担当部長のメイフィールド・マーシャル。片山の左は全米営業部長のレイ・ホーエン、その左は次長のボブ・リンク、左端は広報担当の安部章二。
1971年、片山豊誕生パーティー。右は妻正子。
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