第5回 全日本自動車ショウ開催と豪州ラリーへの挑戦

2023年6月27日

片山豊が戦後、自動車製造とともに考えていたもうひとつの活動は、自動車メーカー合同の自動車ショーであった。すでに欧米では毎年メーカー合同の自動車ショーが行なわれ、自動車が第二次世界大戦後の消費経済をけん引する役割を示しつつあった。それに比べると、日本では戦前から業界新聞社が地域の興行権を持ち、各地で行なわれる新車お披露目会を開催するには、これらの新聞社の了解を得ることが前提となっていた。これでは自動車会社が独自の個性を尊重した自由な広報活動をするのが難しい感じた片山は、自動車メーカー各社の宣伝部に話を持ち込み、共同で自動車ショーを行なうための基盤づくりを始めた。毎月7日に各社宣伝担当課長の会合を行なうことで合意し、その会合は「七日会」と名付けられた。

七日会で討議された合同で自動車ショーを開催する構想に関しては、いろいろな問題が指摘された。そのひとつは各社とも同じ時期に新型車を発表することはできないというもので、当時の苦しい開発状況を反映していた。またこれまでに興行権を持っていた業界新聞に対する遠慮もあり、誰がその交渉にあたり“鈴をつける”かが問題だった。
最終的には片山が当時の自動車工業会会長で日産の社長だった淺原源七の協力により、当時の日刊自動車新聞社の木村正文社長との面談の機会を得て、そこで合意を取り付けることができた。この合意に基づき昭和28年(1953年)秋に上野公園で“ゼロ回目の自動車ショウ”が予行演習として行なわれ、筆者も父・豊に連れられて見学した記憶がある。昭和28年の上野公園にはまだ浮浪者や傷痍軍人などが多く見られ、戦争の跡が色濃く残されていた。

翌昭和29年、公式に第1回となる「全日本自動車ショウ」は日比谷公園を舞台に4月20日から10日間にわたり開催された。後にまとめられた自動車工業会の記録によると“254社が参加し、展示車両も267台を揃えた。うち、乗用車は17台。このころの車種勢力はトラックが主体で展示車の多くはトラック・オートバイなどであった。それでも10日間の会期中に54万7000人の来場者を集めた。これが潜在需要につながると、業界は、国産車の未来に明るい希望をもつことができた”とある。会場は第4回まで日比谷公園が使用され、第5回は後楽園競輪場、第6回以降は晴海の東京国際見本市会場に移された。入場料は3回目から一部期間が有料となり、料金は20円であった。入場者数は、1959年の晴海の第6回では約60万人だったものが、その4年後には100万人を超える盛況となり、自動車ショーは着実に“戦後の奇跡”といわれる日本の復興を反映するものとなっていた。

自動車ショーの開催が軌道に乗り、国内のスポーツカークラブの活動も一段落すると、日産における片山の仕事は目に見えて減ってきていた。社内に目を向ければ、昭和32年に川又克二が社長の座を得た。これには大株主の日本興業銀行で同期の中山素平理事の支援も大きかったといわれる。また、社長就任には、当時の組合から距離を置いていた片山を含む“旧日産派”の抵抗もあったという。片山のポジションも宣伝課長から業務部長となったが、担当すべき業務ははっきりしなかった。

昭和32年、トヨタがオーストラリアを一周する「モービルガス・ラリー」と呼ばれる壮大なラリーに参加するというニュースがあった。これを聞いて片山の冒険心に火が付いた。自動車ラリーはすでに国内でSCCJの会員と数多くの経験があり、これなら海外でも戦えるのではないかと考えた。急いで資料を求め、トヨタにも相談に出向いた。トヨタの関係者は惜しげもなく情報を提供してくれたという。
片山が、“ダメ元”で書いた昭和33年の豪州ラリー参加の稟議書は、本人が拍子抜けするほどにあっけなく承認されたという。しかしながら、ドライバーは会社指定者という条件が付き、ラリー経験のあるSCCJ会員から選抜するという片山の思惑が外れ、ややがっかりであったそうである。ドライバーは組合の意向も踏まえ決定されたという。
参加車は2台、これに各2名のドライバーと現地人のナビゲータの都合3人が乗り込み、豪州一周約2万キロを走るのである。会社から指名されたドライバーは車両試験課や整備課の技術者が含まれており、皆30代の若さであった。片山はこの4人と共に、ダットサンで日本中を走り回ってトレーニングを行なった。当時は国道であっても砂利道が多く、これを走ることでダットサンの耐久性を確認することが必須だったからである。同時に異なった部門から選ばれたメンバーの意思疎通を図るのも重要な目的だった。

ラリーでは片山がマネジャーで、各出発点でチームを見送ると別ルートで目的地に先回りし、彼らを出迎えるとともに必要な宿泊などの手配を行なうなどの役割を担った。現地入りした片山が感じたのは、英語が不得手な日産メンバーが片山を信頼してついてきてくれたことで、当初危惧していたチームワークは全く問題がなかった。片山は現地入りするときにNHKから16㎜のカメラとフィルムを多数託されており、ラリーの中継点から日本にフィルムを送り、何回かNHKのニュースでそれが放映された。

昭和33年8月20日から9月7日まで行なわれたこのラリーでは、途中大雨による洪水などのトラブルもあったが出発67台の内34台が完走し「ウサギより亀で行こう」の合言葉で走った日産の富士号と櫻号はAクラス1位と4位に入った。総合成績ではフォルクスワーゲンが1位で、富士号が25位、櫻号が34であった。1000㏄以下のダットサンが属するのが“Aクラス”で、最高のクラスととらえられたのか、日本ではあたかも総合優勝と受け止められたような歓迎ぶりだった。片山はきまりが悪かったが、大きな事故もなく隊員が完走できたことは何よりも嬉しかった。
帰国した片山達はそれから後ほぼ1年間にわたり日本各地の日産ディーラーを巡り、記念イベントを繰り返した。これを終えて片山が会社に戻ると、ラリーの勝利は組合の成果によるものという空気が醸成されており、さらに片山の持ち場には別人が座っていたのである。皮肉なことに片山が企画して遂行し、成功した豪州ラリーの勝利は、片山を会社組織から“はじき出す”ような結果となっていた。

そんな片山に手を差し伸べたのは、常務の原科恭一であった。昭和33年の秋、ピニン・ファリーナが米国からの帰りに友人のレーサーと1週間日本に立ち寄るという出来事があった。英字新聞でこれを知った片山が羽田に迎えに出ると、ピニン・ファリーナは他に新聞記者が来ないことで不機嫌だったが、片山は日産本社訪問と工場見学の約束を取り付け、原科常務へファリーナとの付き合いを託した。これは後にブルーバード410やセドリックなどのデザイン原案をピニン・ファリーナが行なうことに繋がった。
この頃、片山は原科からアメリカに市場調査に行かないか、という打診を受けていた。片山のすべき“仕事”がなく、就くべき“ポジション”のないことを危惧した原科の計らいであった。アメリカに行くこと自体、片山自身で考えたことはなかったが、学生時代に数カ月遊学したことや、アメリカ人の友人のことなどが頭をよぎった。妻の正子がアメリカ生まれで言葉に困らないことも判断にはプラスに働いた。正直いってアメリカでどれほどのことができるか自信はなかったが、このまま日本にいても何もできるわけではなかった。2年間の期限でアメリカの市場調査に行くということで一応の社内手続きが進み、2度目の訪米に向かったのは1960年の春であった。

この頃、日本国内では自動車に関する注目が大いに高まり、片山達が火をつけた国民車構想や軽自動車が次々と実用化され、自動車に乗ること自体が“ファッション”となりつつあった。ホンダが欧州のオートバイレースで常勝するようになり4輪車への展開が噂される時代となっていたが、ホンダが実際に4輪車(360㏄の軽トラック)を発表したのは、鈴鹿サーキット完成とほぼ同時期の昭和37年であった。また戦後から大きな改良もされなかった道路事情は、時代を反映して急速に改善されるようになり、名神高速道路が初の自動車専用道路として開通したのは昭和38年であった。このような時代に国産自動車をアメリカに輸出しようとするのはほぼ無謀に近かったが、片山は本来楽天家であり、本人の努力とは別の、生まれつき備わった“運”にも助けられてここまで導かれてきたといわざるを得ない。

昭和28年に上野公園で開催された“ゼロ回目の自動車ショウ”。 中央奥が片山豊で手前が光夫(筆者)。
浅草仲見世を歩くピニン・ファリーナ(右)。
昭和31年、第3回全日本自動車ショウの空撮写真。
^