第128回 1928年フォード モデルAの広告

2023年4月27日

 今回は、高島鎮雄さんから頂戴した史料の中から、1928年に発行された「THE SATURDAY EVENING POST」誌に展開されたフォード モデルAの広告6点を紹介する。

 1908年10月に発売されたフォード モデルTは、マイナーチェンジを受けながら造り続けられ、1927年5月に生産終了するまでの19年間に1500万台以上がアメリカの街を埋め尽くした。

 モデルAはその後継として1927年12月に公表されたが、従来のフォードとは大きく異なる新しい発想のクルマであることから、モデル名は振出しに戻って「A」が与えられた。広告は魅力的なイラストをちりばめてモデルAの特徴、すばらしさをアピールしている。おそらくモデルA最初のカラー広告ではないだろうか。

 しかし、発売前の熟成が十分でなかったのであろう、発売後1年以内に驚くほど多くのランニングチェンジが実施されている。

 広告は見開き2ページだが、広告文も読めるよう1頁ずつ分割して載せている。

1928年6月9日号の広告

「新型フォードは、美しさ、速さ、安全性、静かな快適性と同様に、新型車のロングライフと経済性も重要であるとして、耐えられるように造られてきました。」のコピーとともに、冒頭に「美しいラインと塗色を持っていますが、ラインと塗色の美しさが、今のクルマに必要なものだと考えられるようになったからです。」と、モデルTとは全く違うコンセプトで造られたことを強調している。あとは鋳物やプレス部品に代えて鍛造部品を増やしたこと、10年の経験を生かした電気溶接の活用など具体的な内容を紹介している。「新型フォード車の特徴」として、スチールボディー、美しい低いライン、塗色の選択、55~65mile/h(89~105km/h)(最高速度)、40馬力、驚異的な加速、4輪ブレーキ、新型横置きスプリング、Houdaille製ハイドロリックショックアブソーバー、燃費20~30mile/gallon(8.5~12.8km/L)、Triplex飛散防止ガラスのウインドシールド、信頼性と低維持費を列記している。

 登場するイラストは、左ページにはフェートン(395ドル)、インストゥルメントパネルには速度計、燃料系、電流計、イグニッションスイッチ、中央にランプが付く。右ページにはランブルシートを標準装備するスポーツクーペ(550ドル)と後姿はベストセラーの2ドア(フォードではTudorと称する)セダン(495ドル)。初期のフェートンとロードスターには外側のドアハンドルが無かった。モデルAは有名な「Blue oval logo」をエンブレムとして装着した最初のモデルであった。

1928年8月4日号の広告

「現代の自動車に求めるもの、必要なものはすべて揃っています。」のコピーをつけて具体的な説明をしているのは前記広告と同じ。興味深いのは「5年前、3年前、1年前、これほど素晴らしいクルマをこれほど安く造ることは不可能だったでしょう。それが今日可能なのは、クルマと同様に注目すべき新しい機械、新しい製造方法、新しい生産経済が開発されたからにほかならない。」とあり。さらに「ヘンリー・フォード自身も言っています: “私たちは自分たちで鉄を作り、自分たちでガラスを作り、自分たちで石炭を採掘しています。しかし、これらの品目や事業から利益を得ることはない。私たちの唯一の利益は、私たちが販売するクルマにあるのです。”」とある。筆者は1970年にフォードのルージュ工場(Rouge Manufacturing Complex)を見学したが、巨大な工場で鋼材からガラスまで内製しているのを見て圧倒された記憶が残る。

 登場するイラストは左ページにはロードスター(385ドル)、右ページにはスポーツクーペと2ドアセダンが載る。初期のロードスターには外側のドアハンドルは無かった。また、初期のモデルはイラストのような赤いゴム質でできたステアリングホイールを装着していたが、1928年中にゴム複合体の黒いステアリングホイールに変更されている。

1928年9月1日号の広告

「ボンネットの中を覗いて、新型フォードのメカニカルな美しさを確認してください。」のコピーで始まるこの広告では、エンジンとブレーキ部品の加工精度、組み立て精度について紹介している。

 エンジンは新設計の200.5cid(3286cc)直列4気筒Lヘッド40hp/2200rpmだが、エンジン周りでも早々と設計変更が行われている。まず、カムシャフトベアリングは当初5点支持であったが、3点支持に変更され、シリンダーブロックも同時に変更された。キャブレターは当初Zenith またはHollyのダブルベンチュリーであったが、シングルに変更された。エンジンマウントも4点支持から3点支持に変更され、フロントクロスメンバーとエンジンマウントブラケットも同時に変更されている。当初、5ブラシのPowerhouseジェネレーターと、スターターモーターはフォードが開発したAbell製であったが、1928年5月までにうまく作動しないことが発覚し、ジェネレーターは3ブラシに、スターターモーターはBendix製に変更された。

 クラッチも当初は乾燥多板式であったが乾燥単板式に変更されている。トランスミッションはH型シフトパターンの選択摺動式3速MTを積む。

 登場するイラストは左ページにベストセラーの2ドア(Tudor)セダン。右ページにはロードスターが載る。ロードスターのボディーはBudd(The Budd Co.)またはBriggs(Briggs Mfg. Co.)から供給されていた。

1928年9月29日号の広告

「新型フォードの乗り心地の良さには、かなり注目すべきものがあります。」のコピーで始まるこの広告では、新しい軽量の横置きスプリングやHoudaille製ハイドロリックショックアブソーバーなどサスペンションについて紹介している。モデルTではオプションであったワイヤホイールは、モデルAでは全車に標準装備された。

 登場するイラストは、左ページ上部に4ドア(フォードではFordorと称する)セダン(570ドル)、左下にビジネスクーペ(495ドル)、右ページには2ドアセダンが載る。4ドアセダンの発売は6カ月遅れて1928年5月であった。

1928年10月27日号の広告

キャッチコピーは「新型フォードは、非常にシンプルで効果的な潤滑システムを備えています」。オイルポンプによるエンジンの潤滑システムを紹介している。現代と大きく異なるのは、エンジンオイルの交換は500mile(805km)毎にやらねばならず、シャシーのグリースアップも500mile毎に必要であった。またトランスミッションとデフは5000mile(8047km)毎のオイル交換に際し、ケロシンによる洗浄が必要とある。

 登場するイラストは、左ページにはスポーツクーペが載り、キャプションには「特に新型フォードは、快適性、安全性、信頼性、操作性の良さから、女性が運転するのに適したクルマと言えます。」とある。右ページには4ドアセダンと2ドアセダンが載る。

1928年11月24日号の広告

コピーに「完全密閉型6ブレーキシステムの安全性は、新型フォードの優れた特徴です。」とあるが、6ブレーキシステムとはなんだ?と思って読んでみると、モデルTでは後輪だけについていたブレーキが、モデルAでは4輪すべてにブレーキが付き、後輪2輪は独立して作動する非常用/パーキングブレーキとなるので、合わせて6ブレーキシステムと称しているようだ。メカニカルブレーキであったが、セルフセンタリング機能を備えており、調整も左ページのイラストに示された方法で簡単に行うことができた。ただし非常用/パーキングブレーキの調整はディーラーに任せるよう記されている。

 この一連の広告では非常用ブレーキレバーが中央のシフトレバーの脇にあるので、すでに設計変更済みだが、発売時にはレバーはドライバーの左側にあり、フットブレーキを踏んだ状態で引くとブレーキを固定するだけで、単独で作動することはなかった。そのことを重視したペンシルベニア州では、このブレーキが安全でないとして、モデルAを販売禁止にした。そこで急遽設計変更されたのである。

 登場するイラストは、左ページ上部には2ドアセダン、下方に4ドアセダン。右ページにはオプションのランブルシートを装着したロードスターが載っている。

1928年型フォード モデルAのカタログ

これはカラーカタログだが、これとは別に「A new kind of motor-car beauty」のタイトルでモノクロの写真を使った22ページのカタログが発行されている。

◆1928年終盤に登場したフォード タウンカー

1928年も終わろうとしていたころ、一般常識では高級車のシャシーに架装されるフォーマルなボディーをまとったモデルAが登場した。エドセル・フォードのアイデアだと言われる。広告文の冒頭には「新型フォード タウンカーは、フォーマルな外観で、極めて端正なラインを備えています。親しみやすいサイズ、うれしい利便性、そして文句のつけようがないセンスを備えたパーソナルカーです。」とある。1928年には1200ドルで89台生産された。この広告は「The price is $1400, f.o.b. Detroit, Michigan」とあるので、200ドル値上げされた1929年型のもので、ボディー架装はBriggs社で行われ913台生産された。ほかのモデルAの2倍以上高価なクルマであったが、キャディラックにフリートウッドがボディーを架装した同じタイプのクルマは5500ドルもしたので、1/4の投資でリッチな気分に浸れたのであろうと想像する。

◆1928年終盤に登場したフォード ステーションワゴン

これも、1928年も終わろうとしていたころ登場したモデルAベースのフォード ステーションワゴン。このタイプのクルマは以前から存在したが、カーメーカーが自ら手掛け、ステーションワゴンと名乗った最初のクルマであろう。広告文の冒頭には「新型フォード ステーションワゴンは、大邸宅やカントリークラブ、田舎や海辺に別荘を持つ家族のニーズに応えるために開発されました。軽トラックの頑丈さと乗用車の柔軟性と快適さを兼ね備えているため、このような用途に特に適しています。」とある。

 木の部分はミシガン州にあるフォードのアイアンマウンテン(Iron Mountain)工場(原木の栽培からウッディボディーの製造まで一貫して行っていた)で加工し、デトロイトのMurray社(Murray Co.)に送って最終組み立てを実施した。1928年にはパイロットモデル5台が生産されたが、1929年には量産に移り、695ドルで4959台生産されている。Murray社のキャパシティを超えた分は、クリーブランド州のBaker社(Baker-Raulang Co.)で架装されている。クルマは8人乗りで、2列、3列目シートは脱着可能であった。

 しかし、ステーションワゴンの需要はなかなか伸びず、1950年代中ごろまでは生産量の1~2%であった。爆発的に伸びたのは1950年代後半で、1950年代終わりには16~18%を占めるようになった。理由はスチールボディーの採用によるメンテナンスフリー化、戦後のベビーブームに伴う需要増、生活様式の変化、メーカーの拡販活動など、いろいろ考えられる。

シボレーの台頭

 1927年12月に発表された1928年モデルAは、すぐにセンセーションを巻き起こした。フォードの資料によると、最初の1週間で約1,000万人がこの新型車を目にしたという。そのため、多くの都市では、新型フォードを見るために並んだ人々の交通整理のために警察を派遣しなければならないほどであった。しかし、熱狂と需要の一方で、生産は遅れていた。1928年2月の時点で、アメリカとカナダにあった生産拠点35のうち生産開始できたのはわずか7拠点にすぎず、基幹工場であるルージュ工場に新しく設置されたモデルAの組立ラインは、1929年の半ばまでフル稼働できなかった。多くのディーラーは展示用のモデルAすらなかなか入手できなかったと言われる。しかも、1927年5月にモデルTの生産も終えており、フォード以外のブランドも併売しているディーラーはまだしも、フォード専売のディーラーは売る新車が入手できず苦境に立たされたという。

 これを好機ととらえ、躍進したのがシボレーであった。それまでフォードの牙城を崩せず苦戦していたが、フォードの混乱を機に一気に躍進し、それ以降フォードと互角にシェア争いをするようになった。参考までに1920年~1935年までのフォードとシボレーの生産台数と市場占有率の推移を表にまとめてみた。

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