<MGA前史> (1949~55)
(写真01-1)1960 MG TC Special
・1949年の「ル・マン24時間レース」に「MG TCスペシャル」として登録された奇妙な車が登場した。登録したのは熱心なアマチュア・ドライバー「ジョージ・フィリップス」で、この年は、19時間過ぎまでは順調に走り続けたが、突然コース上でストップ、メカニックがコース外に押し出して修理したのちスタンドに戻った。この行為がルール違反となり失格となった。しかし翌1950年は見事完走し、総合18位、クラス2位、性能指数部門でも13位を獲得した。
(写真01-2)1951 MG EX135 Record Breaker
・この快挙に注目した「MG社」はファクトリーとして全面支援を決定し、「TD」をベースにしたスペシャルを製造するため、速度記録車「EX135」で実績を持つ主任設計者「シドニー・エネヴァー」が指名され、エアロ・ダイナミックなボディをデザインした。
(写真01-3abc)1951 MG TD Special「EX172」(UNG400)
・それが1951年の「ル・マン」を走った「EX172」(UMG400)で、すでに「MGA」の面影が80%以上完成している。中身のシャシーは殆ど「TD」のままで、エンジンもチューンされてはいるが70hp程度なのに、そのボディの空気抵抗の低さから、ストレートでは116マイル(約187キロ)に達した。レース3時間目にバルブ・トラブルでリタイアという結果に終わったが、空力ボディのテストとしては十分な成果が得られ大成功だった。ただこの車のシャシーは「TD」のままだったから、低くなったボディに対してドライバーはフレームの上に乗った高い位置のシートに座り、上半身はボディからむき出しになっていた。
(写真01-4ab)1951-52 MG EX175 (MGA Prototype)
「ル・マン」で空力の効果を実証した「EX172」を基にした次期モデルが「EX175」で、シャシー・フレームの中央部を外側へ湾曲させ、ドライバーはその中に落とし込むことで低い位置を確保した。この車は1951-52年にかけて開発され、「EX172」より更に市販「MGA」に近い形で完成していた。この車こそ「MGA」の元祖と言えるモデルだ。しかし丁度その頃「オースチン」との合併で「BMC」を立ち上げた時期と重なり、内部調整に追われ新型車への切り替えは見送られ、当面の対策として排気量を増やした「TF1500」が送り出された。
(写真01-5ab)1951頃 MG TF 試作モデル
・古典的なスタイルにこだわってきた「MG」は、少し近代化した「TF」にしてもまだまだ空気抵抗は大きく、100マイルに達するには大幅な馬力アップが必要だった。詳細は不明だが、「TF」の空気抵抗を少しでも減らそうと試みたのではないかと思われる写真2枚がこれだが、結果的には「MGA」の出現によって実現しなかった。
(写真1-6a~h)1954 MG EX179 Record Breaker / 1955 MG EX182 LeMans Model (MGA Prototype)
・1954年6月次期モデルが「EX182」(MGA)となることが発表された。開発の責任者は引き続き「シドニー・エネヴァー」が当たり、「EX175」をベースに、それから発展した速度記録車「EX179」も参考にされた。1955年秋の「市販車」の発表予定に先立って、6月に開催される「ル・マン24時間レース」に3台のプロトタイプを出走させ、事前のPR効果を狙った。レースの結果、㊶番は完走し、総合12位、クラス5位。㊷番は6時間目にコースアウトしリタイア。(64)番は総合17位となっている。「EX182」は4台造られたが、ボディ・パネルはアルミ製で、エンジンは特製のシリンダーヘッドに変えられ82hpまで強化されていた。ギアボックスもレース仕様で外見は市販車と変わらないが、中身は、全然別物の「レーシング・カー」だった。
< MGA > (1955~62)
≪MGA1500≫ (1955~59)
・1955年9月MG社は市販車として「MGA」をデビューさせた。1951年の「ルマン」に登場したMGA」を予感させる「EX172」から、4年経ってようやく市販が実現された。使用されたBタイプ・エンジンは直列4気筒OHV 73×89mm 1489cc 68ps/5500rpだった。
(写真2-1a~d)1955~59 MGA 1500 Roadster (1959-04-10 銀座御幸通りにて)
写真の車は僕が初めて見た「MGA」だ。店頭の張り紙を見ると「皇太子御成婚慶祝サービスセール」と書かれており、当時の昭仁親王(現上皇)と正田美智子様の御成婚当日撮影したものだ。この車の第一印象はピンと張られた幌の格好良さだった。ナンバープレートは1951年から制定された横1列で「A」の記号は米軍関係者を示している。
(写真02-2ab)1955~59 MGA 1500 Roadster (1959年 港区内にて)
この車もナンバープレートに注目だ。「領」の文字は「領事館」用で、白地に青文字と決められている。(因みに大使館用は青地に白文字)
・各国の「大使館」は基本的には首都(東京)に置かれ、それ以外の主要都市に置かれる「在外公館」が「領事館」である。とすれば東京には「領事館」は存在しない筈だから、東京都内で「領」ナンバーを見る機会は極めて少ないという事になる。
(写真02-3a~d)1955~59 MGA 1500 Roadster (1960-01 銀座5丁目数寄屋橋〉
この車のナンバープレートは1958年10月から改正され駐留軍人、軍属の私有自動車に割り振られた「E、H、K、M」に該当する。車を運転して来たこの外国人は、そのまま車を降りて姿を消した。場所は東京のど真ん中有楽町の数寄屋橋脇である。しかし古き、良き時代の1960年代初めには、特別な場所を除いては何処でも車が止められた。
(写真02-4ab) 1955~59 MGA 1500 (改) Roadster (1960年 港区一橋付近にて)
他人(ひと)と同じでは気が済まない人は何処にも居るようで、この車もひと手間かけて、グリルを取り外しただけですっかり印象を変えている。改造とまではいかないから、いつでも元に戻せるだろう。
(写真02-5ab)1955~59 MGA 1500 Roadster (1980-11 富士スピードウエイ)
この車は初期型「MGA」の原型がしっかり守られている。立派な駐車場があるのに何でこんな草原に停めているかというと、ここはヘアピンカーブのすぐ近くだからだ。
(写真02-6ab)1955 MGA 1500 (1981-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
レーシングスクリーンにロールバーまで備え、やる気満々のこの車のステアリングはノン・オリジナルだ。
(写真02-7abc) 1955 MGA 1500 Roadster (1984-01 TACSミーティング)
「MG」は英国製だから本来「右ハンドル」の筈だが、初期に国内で見られた車は殆どがアメリカ向けに造られた輸出仕様の「左ハンドル」だった。
(写真02-8a)11955~59 MGA 1500 Roadster (2001-05 ミッレミリア/フータ峠)
美しいブリティシュ・グリーンに塗られたこの車だが、大変残念なことに背景の新緑に埋もれてしまい目立たない。後ろに見える人がみな後ろ向きなのは、その先がミッレミリアの参加車が通るフータ峠だからだ。
(写真02-9abc)1957 MGA 1500 Roadster (2010-07 ビューリー博物館付近/イギリス)
イギリス国内で撮影したこの車は「本国仕様」の右ハンドルだ。博物館を見た後、昼食をとったレストランの付近を少し歩いた所で見つけた「ビューリーガレージ」という中古車販売店だ。日本では見た事のない鮮やかな「ブルー」だが、「レッド」「ホワイト」「ベージュ」「グレー」の5種がカタログ標準色だった。
(写真02-10ab)1956 MGA 1500 Roadster (2009-10 ラフェスタ・ミッレミリア/表参道)
この車はグリルを網目に変えてある。
(写真02-11ab)1957~59 MGA 1500 Hardtop (1960-03 日比谷シャンテ)
1957年新しく「ハードトップ」が誕生した。幌を上げたロードスターに比べると、非常にすっきりしており、トップを外せばオープンにもなれる点、使い勝手はベストだと思う。正面に見えるのは宝塚劇場で、その向かえは帝国ホテルだ。
(写真02-12a) 1956~59 MGA Fixedhead Coupe (1960-09 港区虎ノ門付近)
モノクロ写真時代ロードスターは沢山撮影したが、クーペはこの1台だけだった。国内に入っていた数が少なかったのだろう。
(写真02-13abc)1957 MGA Fixedhead Coupe (2009-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮
当然の事ながら、トップは固定されているから「Aピラー」に継ぎ目はない。ハードトップに比べるとキャビンは小さいようだ。
≪Twin Cam 1600≫ (1958~60)
(写真03-1a~d)1958~60 MGA Twin Cam (1962-08 横浜・山下公園付近)
「MGA」が誕生した1955年、MG社はこの車を使ってファクトリーとしてレースに参戦することを決め、その車のため2種のツインカム・エンジンが製造された。一つはオースチンがゼロから全く新しく作り上げたもの、もう一つは「MGA」「モーリス」などが使っていたBタイプ・エンジン(OHV 1489cc)をベースにツインカムに改造されたものだったが、3年後量産に当たっては後者が採用された。一般に「ツインカム」は「1600」と認識されているが、58年発売当初は普通の「NGA」と同じ1489ccでスタートし、その後レース基準に合わせ1588ccに拡大された。
・撮影場所は。横浜の山下公園近くの埠頭で、英国ナンバーのままの車が、今上陸したばっかりという感じで置かれていた。船積みで輸入する方法に詳しくはないが、木箱で梱包して送ると聞いたことがあるので、もしかして後ろの木片は壊した箱の残骸か。これから輸入のための通関手続きに入るのだろうか。
(写真03-2abc)1958 MGA Twin Cam (2013-11 トヨタ自動車クラシックカー・フェスタ/明治神宮)
この車はプログラムから58年型と確認できたが、ボディには「Twincam」以外に数字の表示はなく排気量は不明だ。
≪ MGA 1600 Deluxe ≫ (1959~61)
(参考03-3ab)1959/61 MGA 1600 Deluxe MkⅠ/MkⅡ
「ツインカム」は当初2500台生産を予定していたが、オイル漏れや、信頼性の低さから意外と評判が悪く2100台余りしか売れず、余った「スペシャル・シャシー」に標準のOHV「1600cc」エンジンを積んだ「1600デラックス」が約400台造られた。残念ながら、僕が撮影した「MGA」の中には「デラックスモデル」は1枚もなかったのでインターネットから転用させていただいた。特徴は「ツインカム」と同じセンターロックの「穴空きディスクホイール」を履いている所だ。
≪MGA 1600 Mk-1≫ (1959~61)
(写真04-1abc)1959-61 MGA 1600 Mk-1 Hardtop Coupe (1961-03 港区・一ノ橋付近)
1959年「ツインカム」の誕生に当たってエンジンを1489ccから1588ccにアップしたが、OHVの標準エンジンもそれに合わせて変更され「MGA 1600」となった。(1961年MkⅡが誕生するまではMkⅠは付かなかった)エンジンが強化されてお陰でMGとしては初めて「100マイル」を超えた記念すべきモデルとなった。
・「1500」との相違点はテールランプが2段なった事と、ボンネットの丸いエア抜きの後ろに1600の文字が入った事だ。
(写真04-2ab)1959-61 MGA 1600 Mk-1 Roadster (1961-03 横浜・山下公園付近)
この車はボディサイドに一本のクロームラインがはいっており、リアフェンダーにはストーンガードが付いている。改めて確認したが、僕が撮影した多くの「MGA」の中でこの車以外には1台も見つからなかった。これが年式の違いによるものか、グレードの違いか、それともこの車だけに特別装備なのかは解明できなかった。
(写真04-3abc) 1960 MGA 1600 Mk-1 Coupe (1982-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
この車は専門家の手で大幅に改造されたレース仕様だ。テールランプの形から「1600 MkⅠ」と判定した。
(写真(04-4a~e) 1959 MGA 1600 Mk-Ⅰ Fixedhead Coupe (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
この車全体は「MGA1600」だから、博物館の案内文が間違えではないが、1959年型なのに何故か1961年以降の「MkⅡ」のグリルが付いている。年鑑で確認したが1961年版ではグリルはまだ後退していなかった。62年の年鑑で「MkⅡ」が登場し後退したグリルに代わっている。ボンネットの空気穴の後ろとリアトランクの1600の文字、2段になったテールランプは明らかに「MkⅠ」を示しており、1959年型に61年6月登場した「MkⅡ」のグリルを付けたのだろうか。
≪MGA 1600 MK-Ⅱ≫ (1961-62)
(写真05-1a~e)1961~62 MGA 1600 Mk-ⅡRoadster (1962-04 JR立川駅前)
1961年6月「MGA 1600 MkⅡ」が誕生した。排気量が1588ccから 1622cc にアップし93ps/5500rpmとなったが変更の範囲が「1600」以内だったので、そのまま「1600 MkⅡ」となり、以後前モデル(1588cc)は「MkⅠ」と呼ばれている。
・撮影場所はJR 立川駅前で、立川、横田などの米軍基地関係者の車を狙って何回か足を運んだ。
(写真05-2ab) 1961-62 MGA 1600 Mk-ⅡRoadster (1977~04 TACSミーティング/筑波サーキット)
「MkⅡ」の外見上の変更点は、「一段奥に引っ込んだ縦線のグリル」、ボンネットとトランクの1600の文字に「MkⅡ」が 追加された、「テールランプが横長になった」の3点だ。
(写真05-3ab)1961-62 MGA 1600 MK-ⅡRoadster (1985-04 TACSミーティング/筑波サーキット)
ホンダ・コレクションホールの車が「MkⅠ」なのに縦線が後退した「MkⅡ」のグリルを付けていたのと反対に、この車はテールランプから明らかに「MkⅡ」なのに「MkⅠ」のグリルを付けている。グリルの取り換えは多分何本かのボルトを外すだけだろうから、こちらの方が好きだったのだろう。
(写真05-4a)(1956 MGA 1500 (グリルのみ1600Mk-Ⅱ (1980-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
この車はプログラムによると排気量1489ccとあったので「MGA 1500」だが、グリルは「1600 MkⅡ」のものが付いている。まさか前の車の人と交換した訳ではないだろうが、この種の改造が行われると分類する際紛らわしく厄介だ。
(写真05-5abc)1961 MGA 1600 Mk-ⅡRoadster (2011-11 トヨタ自動車クラシックカー・フェスタ/明治神宮)
トランク上の「1600 MkⅡ」がはっきりわかる。
≪MGB ≫ (1962~67) 1798cc
(写真06-1a~d)1962 MGB Roadster (1964-09 東京モーターショー/晴海)
「MGA」は好評の内に7年で約10万1千台が造られ62年で生産が終了した。同年6月それを引き継いだのが「MGB」で、完全なモノコックとなりスタイルも一新した。「MGA」は50年代の丸みを持ったデザインだったが、「MGB」は60年代らしく直線と曲線を織り交ぜたモダンなデザインとなった。それまでは大きなグリルをもった MGだったから、最初見た時はちょっと物足りない印象を受けたのはこちらが時代遅れだったからだ。
・場所は晴海のモーターショー会場の外で、売店で売る飲み物はまだ「リアカー」が活躍している。
(写真06-2ab)1964 MGB Roadster (1977-01 東京プリンスホテル)
雪の降るイベントとだったが、この時は珍しい車が多く、またカメラ写りもよくモノクロ時代のベストとして印象に強く残っている。露出は多分「オート」で撮影していたはずだが、降る雪が適当にぶれているのでシャッターは20~25分の1秒と思われる。当時のフィルム感度は常用する「SS」がASA100(現ISO100)だったから絞りがf5.6だったらその位になるだろう。(因みに現在僕が使っているデジタルカメラは感度をISO 12,500に設定しているので、雪や散る花びらを流し撮りする際は低感度に設定変更が必要だ)
(写真(06-3a) 1962~67 MGB Roadster (1966-07 原宿・表参道付近)
我ながら綺麗によく写って居る。何も言うことなし。
(写真06-4ab)1962-67 MGB Roadster (1980-01,81-01 TACSミーティング/明治公園)
色違いの「MGB」が2台並んでいた。「MGB」のエンジンは引き続きBMCのBタイプで、4気筒OHV 80.3×88.9mm 1798cc 96ps/5400rpmとなった。「MGB」シリーズは1962年から80年まで18年間も造られ、その間大きな変化もなく約52万台と大量に作られた。
(写真06-5a)1962-67 MGB Roadster (2017-07 宇都宮・ブレシア廃車置き場)
“夏草や つわものどもの 夢の跡” と思わず口ずさんでしまいたくなる情景だが、置かれている場所はレストアではぴか一の「ブレシア」だから、チャンスがあれば在りし日の姿に戻る可能性は残っている、と信じたい。
≪MGB MKⅡ≫ (1967~69) 1798cc
(写真07-1abc)1969 MGB MkⅡRoadster (1976-08 つま恋リゾート/掛川)
1974年5月開業したばかりの会員制の「ヤマハレクリエーションつま恋」(現・つま恋リゾート彩の郷)に2年続けて家族全員で行った。勤めていた銀行がメンバーで職員が利用できたからだ。会員制の施設というのは何となく特別扱いで気分が良かった。写真はその時駐車場で撮影したもので、グリルがすっかり変わり黒塗りとなってMGのバッジがグリルの中に取り込まれた。
≪MGB MKⅢ≫ (1969~80)
(写真08-1a~d)1974 MGB MkⅢ Roadster (2019-04 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)
「MkⅢ」についてはあまり情報が無いが、排気量が1790ccに増えている。「MKⅡ」で黒塗りとなったグリルは元に戻っている。
(写真08-2a)1975 MGB MkⅢ Roadster US仕様 (19809-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
1974年になるとアメリカでは衝突安全基準が設けられ、ポリウレタン樹脂製の大型で武骨なバンパーの装着が義務付けられた。この車の場合は比較的似合っている方だ。
≪MGB GT≫ (1966~68)
(写真09-1abc)1967 MGB GT 2+2 Coupe (1966-11 東京外車ショー/晴海)
「MGB」に2+2シートを備えた「MGB-GT」は1965年誕生した。テールゲートを持つファストバック・クーペは、性能は「MGB」と変わらず、+2シートを倒せば広い荷室となる使い勝手の良さもあり、現代は最も普及しているこのタイプは50年前にすでに「MGB」で採用されていた。1965年11月の外車ショーにはまだ展示されて居らず、日本へのデビューはこの写真を撮影した66年11月だった。
(写真09-2ab)1967 MGB GT 2+2 Coupe (1984-07 TACSミーティング/富士スピードウエイ)
前半分はロードスターと全く変わらない。
(写真09-3ab)1968 MGB GT 2+2 Coupe/1968 MGB MkⅡ (1985-11 SCCJミーティング/筑波)
+2シートのため延長したキャビンもファストバック・クーペとしてスポーティさを損なっていないから、レースコースでロードスターと並んでも、見劣りをしない。
(写真09-4abc)1969 MGB GT 2+2 Coupe (1977-04 TACSミーティング/筑波サーキット)
ハッチを上げればこんな楽しい使い方も出来る。
≪MGB GT MkⅡ≫ (1967~70)
(写真10-1abc)1970 MGB GT 2+2 MkⅡ (1980-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
ベースの「MGB」がMkⅡとなったので、当然「GT」も同じ顔付きのMkⅡとなった。その他テールゲートの「MG」バッジの両側にあった「MGB」と「GT」の文字が無くなった。
≪MGC/MGC GT≫ (1968~69) 2912cc
(写真11-1ab)1969 MGC Hardtop (1968-11 東京オートショー/晴海)
「MGA」「MGB」と続いた後の「MGC」だから、普通に考えれば「Cシリーズ」と思いがちだが、結果は「MGB」に3リッターエンジンを積んだ強化バージョンで終わってしまった。(成功すればシリーズ化したのかもしれないが、最終的には「シリーB」の「モデルC」というポジションに収まった。)
・見た目は大人しいが爆発的な底力を持っているくるまを「羊の皮を被った狼」と例えるが、4気筒1.8 ℓの「MGB」のエンジンを、6気筒 3 ℓのオースチン・ヒーレーのエンジンに変えてしまったのがこの車だ。元々が早そうな車だから「羊」とは言いにくいが「犬の皮を被った狼」くらいか。車というものは馬力だけが大きくなっても全体のバランスが取れていなければ性能は上がらない。4気筒に変えて6気筒エンジンを無理やり詰め込んだ結果は当然フロント・ヘビーで、極度のオーバー・ステアだったから評判は芳しくなく、僅か2年で姿を消した。
(写真12-1a~d) 1968 MGC GT 2+2 Coupe (2007~06 ビューリー博物館/イギリス)
「MGB」の3リッター版は、「GT」シリーズにも試みられた。オースチン・ヒーレーの場合もボンネットに膨らみがあるが中央部のみでもっと幅が狭い。「MG」の場合ほぼ全体が盛り上がっているのは、シャシーとの折り合いが悪く低い位置に嵌め込む事が出来なかったか、と素人の推察。それでも収まり切れない分、向かって右にさらにバルジが追加されている。
(写真12-2a~d)1968 MGB GT 2+2 Coupe (2009-11 トヨタ自動車クラシックカー・フェスタ/明治神宮)
2年で生産中止となったが、それまでに約9,000台が造られた。日本にも4台が正規輸入されており、現代では世界的に希少モデル扱いされている。
≪MGB GT V8≫ (1973)
(写真13-1abc) 1973 MGB GT V8 2+2 Coupe (1984-07 TACSミーティング/富士スピードウエイ)
1968年大馬力を目指した「MGC」は、準備不足で失敗に終わったが、その要求は根強いものがあり、1973年周到な準備をした上で再び挑戦したのがこの車だ。エンジンは「ローバー3500」用OHV 90°V8 3532cc 137ps/5000rpmが選ばれた。このエンジンはアルミ合金が多用され、軽量化が図られていると同時に、コンパクトに仕上がっており「MGB」のエンジンルームにすんなりと収まっており、ボンネットにバルジは見られない。足回りをはじめ全体がこの車のパワーに相応しいレベルに強化されている。この車には「ロードスター」はなくすべてが「GT」である。約2,600台造られたが1973年のみで、日本には2台が正規輸入されている。
<MG ミゼット> (1961~79)
「ミゼット」は戦前の「MG」を代表する小型軽量のスポーツカーの伝統ある名称だ。戦後「MGA1500」以降、「中型」となってしまった「MG」に、再び戦前のイデオロギーを引き継いだ小型軽量の「ミゼット」を復活させたのがこのシリーズだ。幸い同じ「BMC」傘下に手頃な車がすでに存在していた。1958年誕生していた「ヒーレー・スプライトMkⅠ」(かに目) がそれだ。その車がモデルチェンジをして「MkⅡ」となった1962年、顔だけ変えた「MGミゼットMkⅠ」が誕生した。この関係から「スプライト」と「ミゼット」のシリーズの表示は常に1つずれている。
≪MGミゼットMkⅠ≫ (1961~64)
(写真14-1a) 1961 MG Midget MkⅠ(1961年 赤坂溜池/日英自動車ショールーム)
ある日赤坂溜池の「日英自動車」のウインドウを覗いたら、発表されたばかりの「「MGミゼット」が鎮座していた。全身が写ったもう1枚は、後ろに下がって撮ったためガラスに背景が写り込んでしまい、この1枚しか使い物にならなかった。まだ雑誌にも紹介される前の車に遭遇することもあったりするのは「同時進行」時代の楽しみだった。
(写真14-2ab)1962 MG Midget MkⅠ (1962-01 第3回東京オートショー/千駄ヶ谷・東京体育館)
モーターショーの歴史は国産車の進化と裏腹の関係にある。第1回東京モーターショーは1954年開催されたが輸入車は参加が認められず、やむを得ず輸入車だけでショーを開催しようとした1960年には、都内での開催は国産車に悪影響を与えるからとの理由から監督官庁から行政指導があり神奈川県の「江の島」で開催されている。その理由は唯一つ「外車にはかなわない」という劣等感からだった。現在では考えられないが、当時の日本車と言えばまだまだ発展途上で、外車と一緒には並べる自信が無かったからだ。(因みに、「トヨタ」は「トヨペット・スーパー」、日産は「ダットサン・DB6」が最新型で「クラウン」「ブルーバード」はまだ誕生していない。)
・そんな経緯があって、第3回の東京オートショーはJR 中央線「千駄ヶ谷」駅前にあった「東京体育館」で開催された。
(写真14-2c)1964 MG Midget MkⅠ (1963-11 第5 回東京オートショー/晴海)
1963年になると国産車と同じ会場の「晴海・貿易センター」で開催出来るようになった。この翌年からは国産車、輸入車合同で同じ会場で同時開催に変わった。
(写真14-3abc)1961-64 MG Midget MkⅠ (1966-04 原宿・表参道)
1枚目の画像で後方に交差する大きな通りが「明治通り」だから表参道の原宿駅に近いところだ。表参道は現在と違ってブランドショップが集う若者の街ではなく、キディランドや骨董品店など外国人を相手にする店があり珍しい車を求めて何回も足を運んだ僕の「猟場」の一つだった。
(写真14-4ab)1961~64 MG Midget MkⅠ(1982-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
(写真14-5ab) 1963 MG Midget MkⅠ (1985-01 TACSミーティング/明治公園)
イベントで撮影した2台の「MkⅠ」だが全く違いが無い。スポーツカーではドアノブの見当たらない車が有るが、ドアの内側に手を入れて紐を引くことになっている。
(写真14-6a)1962 MG Midget MkⅠ (1986-03 TACSミーティング/筑波サーキット)
「ミゼットMkⅠ」は1961年の誕生時は948ccだったが、62年10月からは1098cc となった。(社内の形式名は「AN1」から「AN2」となったが「MkⅠ」は変更なかった。)
≪MG ミゼットMkⅡ≫ (1964~66)
(写真15-1abc)1964 MG Midget MkⅡ (1965-11 後楽園スポーツカーショー)
1964年3月ミゼットはMkⅡとなり型式は「AM3」となった。エンジンの排気量は「MkⅠ」の後期型と同じ1098ccだが、圧縮比を上げ出力は55psから59psにアップした。
(写真15-2abc)1964-66 MG Midget MkⅡ (1977-04 TACSミーティング/筑波サーキット)
外見上の変化としては、フロントウインドウが直線からカーブしたものに変わり、中央にテンション・ロッドが付いた。三角窓が付き巻き上げ式のサイドウインドウと、ドアノブが新しく付けられた。
(写真(15-3ab) 1966 MG Midget MkⅡ (1985-01 TACSミーティング/明治公園)
グリル周りに変化はなく、前から見ただけでは区別がつかない。
≪MGミゼットMkⅡ ロングノーズ≫
(写真15-4-1~3)1964~66 MG Midget MkⅡLongNose (1989-01/12 千葉市内にて)
我が家の近くで発見した「ロング・ノーズ」に改造された「ミゼットMkⅡ」で、最初は夜、オープンだったが翌日は幌がかかっていた。2回目はハードトップを付けた姿で登場した。何時も停まっているわけではなく、初回は正月、2回目はその年の年末だったから、息子さんの里帰りかもしれない。(参考に添付したのは、この車のお手本となったと思われるワークス・チームのレーシングカー)
≪MGミゼットMkⅣ≫ (1970~74)
(参考16-1ab)1974 MG Midget MKⅣ
・その後も「ミゼット」は進化を続け、1966年には排気量が1275ccの「MkⅢ」となった。(写真なし)
・続いて1970年には見た目が大きく変わった「MkⅣ」が登場した。ラジエターは黒塗りとなり、ボンネットとボディ・ウエストのクロームラインが消えた。バンパー・ガードには黒いゴムが付き、リアバンパーは2分割になった。
≪MGミゼット1500/1500 Black Bumper≫ (1975~79/77~79)
(写真17-1ab)1978 MG Mjdget 1500 (1979-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
(写真17-2ab)1978 MG Midget 1500 (1980-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
(写真17-3ab)1978 MG Midget 1500 (1982-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
・1975年「ヒーレー・スプライト」は製造中止となり、同時にミゼット」には「スピットファイア」の1.5 ℓのエンジンが与えられた。73.7×87.5mm 1493cc 65ps/5500rpmとなり、小型軽量を目指した当初の構想から徐々に逸脱し初代の「MGA 1500」に追いついてしまった。
・1977年には北米安全基準を満たすための「5マイル・バンパー」と呼ばれるブラック・ウレタン製の武骨なバンパーが「ミゼット」にも取付けられた。軽快さを大きく損なうもので当時はすごく違和感を感じたが、今見れば軽快さこそ無いが、そこそこ纏まっているかなとも思える。わが国には1978年になって初めて輸入された。
<MG 1100 /1300 (ADO16)> (1962~67/67~71)
空前の大ヒットとなった「ミニ」(ADO15)の基本構造を踏襲し、居住性を向上させるため一回り大きいサイズを持ったのが「ADO16」だ。設計は「ミニ」と同じ「アレックス・イシゴニス」で、1962年8月4気筒1098ccのエンジンを持つ「モーリス1100」が最初に誕生した。続いて62年10月ツインキャブ仕様の「MG1100」が発表され、以下続々と兄弟が誕生する。1963年9月「オースチン1100」、63年10月「バンデンプラス・プリンセス」、65年9月「ウーズレー1100」「ライレー・ケストレル1100」と、様々な性能と内装持つ6種が提供されることになった。因みに「ADO16」とは「Austin Drawing Office No.16」を表している。
(写真18-1ab)1965、68 MG 1100 Sports Saloon (1965-09 大英博覧会、1967-11 東京オートショー/晴海)
「MG1100」が誕生した1962年頃、僕は転勤で長野県にいたため、62∼63年の「外車ショー」は見ていない。63年11月のショーでは6兄弟のうち「MG1100」だけが紹介されていた記録が残っているので、これがわが国で最初の登場だろう。僕が最初に撮影したのは発表されてから3年後の1965年だった。2枚目はそれから2年後の67年のオートショーで撮影したものだが全く変化は見られない。
(写真18-2abc)1962~68 MG 1100 Saloon (1965-11 東京オートショー駐車場/晴海)
この写真は画質が荒れている。原因は現像オーバーによる濃すぎるネガのせいだ。モノクロ時代は撮影が終わって自宅に帰ると、「タンク」に巻き込んで現像するわけだが、指定された温度、時間を守り、現像むらを防ぐため時々攪拌すれば、確実に現像される。しかし独身寮で冷蔵庫が無い生活では季節によって指定温度20°を保つのが難しかったり、疲れて寝込んで攪拌を忘れたりいろいろ障害があった。しかし現像オーバーの本当の原因は、折角撮ってきた写真が現像不足で薄かったらどうしようという恐れから、どうしても濃い目のネガを造ってしまう心理が働いていた事も事実だ。
(写真18-3ab)1962~68 MG 1100 Saloon (1966-07 千代田区紀尾井町)
当時は赤坂見附から弁慶橋を渡って「紀尾井町」に入ると別世界だった。ホテルニューオータニは既に完成していたが、清水谷公園や歌舞伎の名優宅、有名音響メーカーの社長宅などお屋敷が連なり、通りは静まり返っていた。この日は露出と現像が適正だったので良いネガが仕上がった。カメラはまだオートマチックではないから、露出は「勘」できめ、ピントは手動だった。
(写真18-4abc)1968 MG 1100 Saloon (1985-11 SCCJ ミーティング/筑波サーキット)
「1100」の後ろ部分が良く判るので、次項の「1300」と比較されたい。
(写真19-1ab)1967~71 MG 1300 MkⅡSaloon (1977-04 TACSミーティング/筑波サーキット)
(写真19-2ab)1967-71 MG 1300 MkⅡSaloon (1985-01 TACSミーティング/明治公園)
1967年には「ミニ・クーパー」と同じ排気量(1275cc)のエンジンが搭載され、「1300 MkⅡ」となったが、車種は2ドアのみに限定された。68年の合併により「BLMC」と組織が変わると車種の整理が始まり、71年で「MG 1300 MkⅡ」は生産が打ち切られた。「1100」との外見上の識別点はトランクに「1300」と「MkⅡ」の文字が入った事と、「テールランプが傾斜し」その分「フィンガ短くなった」ことで、前からでは見分けが付かない。
・余談だが同じ「ADO16」仲間の「ヴァンプラ・プリンセス」はベビー・ロールスと呼ばれるほどの高級仕上げを誇り、最後のDO16として 1974年まで生き残った。その後何十年か経って、突如ヴァンプラ・ブーム が起こり、多くの車が並行輸入されたのがいまだに記憶に残っている。
<MGメトロ> (1982~90)
(写真20-1ab)1982 MG Metro 1300 (1984-10 TACSミーティング/富士スピードウエイ)
「1100/1300」が消えた後、1973年BMLCは「ADO67」の開発ナンバーを持つ「オースチン・アレグロ」(1100、1300、1500、1750)を投入したが、これには「MG」版は無かった。この後「ADO88」の開発が進められていたが、1977年方針が変わり「LC8」として開発されたのが「メトロ」となった。完成したのは1980年で、「ADO15」(ミニ)のパワートレインが踏襲され、エンジンは998cc、1275ccの2種が用意された。「オースチン」ブランドからスタートした「メトロ」は、1982年になるとスポーティな「MG」と、高級車志向の「バンデン・プラ」ブランドが追加された。
(写真20-2abc)1985 MG Metro 6R4 Racing Car (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)
「メトロ6R4」はグループB仕様のレーシング・カーで、「6」は6気筒、「R」はラリー、「4」は4WDを示している。エンジンは新設計の「V64V」で、90°V型6気筒DOHC 24バルブ2991cc 380~410ps/8500rpノンターボが後部に縦置きされている。写真で見るように室内の半分を占めるほど存在感がある。戦績は1985年シリーズの最終戦「RAC」でデビューし3位、86年「1000湖」7位、「サンレモ」4位程度の実績しか残せなかったのは、ポテンシャルは高かったが信頼性に問題があったようだ。規定に従って200台が造られたが、そのうち20台がワークス・チーム用で残りの180台はプライベートチームに渡り、一般には市販されなかった。
―――― 次回は「モーガン」を予定しています ―—