片山(旧姓:麻生)豊が大学を卒業するころ、鮎川義介は買収したダット自動車を日産自動車として再出発させるため横浜市子安に工場を建設し、稼働準備を進めていた。豊が鮎川の会社で働くことは本人の希望であり、すんなりと決まったが、当時は自動車を作る会社というものが世間では理解されず「豊さんは昔の駕籠かきのような仕事に就いた」と周りの年寄りたちが話していたという。昭和10年(1935年)4月に入社し、その月の12日にダットサンの一号車が製造ラインを離れた。当時の日産自動車は社員約200名で、その約9割が工員、残りが事務職で、上役には久原房之介の長男の久原光夫がいた。会社に入っても新人教育も何もなく、豊は毎日工場を歩き回ってダットサンが作られるすべてのプロセスを見学したという。豊が入社当初からやりたかったのは宣伝・広報の仕事だった。当時の常識では宣伝はいわゆる“チンドン屋”のすることとされ、希望者もなかった。しかし豊は会社を代表して自社製品を世の中に知らせることの重要性に早くから気づいており、嬉々として見習い社員ながら自分の仕事を作り上げていった。
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その年の暮れに豊は徴兵され、父がかつて所属した近衛師団の輜重大隊に属することとなった。入隊してまず困ったのは体に合う制服も靴もなかったことである。これらが到着するまでの間に、豊は上官の青島中尉から呼び出しを受けた。大学時代に軍事教練の出席日数が不足していることを指摘されたのである。豊はこの時「自分は兵隊に向いていない、それよりも傷を負った兵士を助ける看護兵になりたい」と告白した。小柄で色白の青島中尉はそれを聞いて怒ることもなく何かを考えるようであったと豊は回想している。
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その数日後豊は突然軍医から呼び出され「目が悪いので即刻入院」と告げられた。目は近視と乱視であったが特別に悪いことはなく、軍医からは何の説明もなかった。二週間ほど病院で過ごした後、突然除隊を命ぜられたのは昭和10年の暮れであった。どうしてこのようなことになったのか豊は親戚に聞いて回ったが、手をまわして除隊工作した者もおらず、不思議なことであった。豊は日産に復職し、それまでの仕事をつづけた。しかし世の中は段々と戦争への傾斜を深めていた。翌昭和11年は2月26日に大事件が起こった。いわゆる二・二六事件である。豊にとって衝撃だったのは、自分がかつて属していた近衛師団輜重大隊も参加していたことである。そしてその事件の三日後、元の上官であり、結果として自分を助けてくれた青島中尉は、結婚して間もない妻と自決したのである。
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日本で初めての常設レース場で行われた全日本自動車競走は、このような背景の下で昭和11年に新設された多摩川スピードウエイで、第1回のレースが6月に開催された。当時このレースについて日産でも情報は得ていたが、工場のメカニックたちが余った部品を集めてレースカーを作るような趣味的な対応であったと聞く。一方のオオタ自動車は当時の欧州のレーシングマシンと比べてもそん色のない国産レースカーを準備しており、国産2社の対決はオオタの圧勝に終わった。その数ヵ月あとに第2回レースが行なわれ、日産は短期間に準備万端整えて臨んだ。しかし、オオタはレーサーの故障などで出走できず、日産としては、満足できない勝ち方とはいえ商工大臣カップで優勝した。アジアで初めての常設サーキットとしてスタートした多摩川スピードウエイであったが、その後2回のレースを行なったのみで、重なる戦禍の中でレース活動どころではなくなっていった。
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豊は昭和11年の暮れに入り婿の形で片山正子と結婚し、麻生姓から片山豊となった(ここからは、豊ではなく片山と表記することにする)。当時の日産は華々しくダットサンの量産を始めたものの販売実績は伸びず、社員向けに低価格でダットサンを販売するという苦しい時代であった。片山も新婚旅行に車内販売で買ったダットサンで出かけたという。昭和12年には日中戦争が勃発し、戦争が拡大しつつあった。昭和14年には満州自動車製造が設立され稼働を始めた。片山も満州自動車に移転し、現地工場を建設するプロジェクトを担当したが、現地で横暴にふるまう関東軍との対応に辟易し、昭和16年には満州を離れ東京支社での勤務となった。その後の太平洋戦争は昭和20年8月に終戦を迎えることになるが、片山自身もそのように予想していた。
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日本が真珠湾を奇襲攻撃することで始まった太平洋戦争は、片山の予想通り完全な敗戦で終わった。日本を占領した連合国軍により日産自動車の母体であった日産コンツェルンは解体され、日産自動車は日本興業銀行が事実上の大株主となって運営されることとなり、鮎川義介は“退場”した。これで“自分が社長になる”という流れは完全に断ち切られたが、片山は「かえってさばさばして気持ちが良かった」と語っている。戦前のままの軍部が生き残って事業を左右することは耐え難かったし、ともかくも駐留軍によって大幅に自由が認められたことは片山にとって気持ちが良かった。経済は疲弊していたが、やがて自動車がこれまで以上に便利に使われる時代が来ることは明らかに見えた。
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戦後に片山が考えたことは三つあった。ひとつは自動車産業界挙げての自動車ショウの開催。二つ目はスポーツカーによる“自動車スポーツ”の普及。三つ目は戦前夢に見ていた小型自動車の開発・製造であった。メーカー主体の自動車ショウの開催は、各社の足並みをそろえるのに苦労し、実現したのは昭和28年に上野公園で開催された予行演習のショウからであった。自動車スポーツは少し早く、昭和25年に駐留軍将校を中心としたスポーツカークラブオブジャパン(SCCJ)が発足し、片山と数人の友人が参加していた。スポーツカークラブは戦前にもあったが、戦争によってなくなり戦後に再開するクラブはなかった。戦前に自動車で遊ぼうというのは、いわゆる大金持ちの世界であったが、戦後は比較的廉価な英国の大衆スポーツカーが英米兵達に持ち込まれたため、ハードルがかなり低くなった。とはいえやはり一般大衆には手が届かなかったのも事実である。昭和30年頃までには、それまで主体となっていた欧米人の多くが帰国し、片山と友人たちは日本人主体のSCCJを同年12月14日付で再構築し片山が会長となった。初期の会員には当時のSF作家の北村小松、戦前からモータースポーツを支えていた野沢三喜三、大和通孝、日産の社員で慶應出身の松林清風、慶應自動車部のメンバーの島田誠一、中村正三郎や佐藤健児等の若手らがいた。副会長には旧SCCJからの会員だったJ.L.ジョンソンなどの外国人メンバーも含まれていた。
この時点で、日本においてアマチュアによるモータースポーツに真剣に取り組もうとしていたのはSCCJだけで、米国スポーツカークラブ(SCCA)の規則を翻訳し、制定するなど組織化に努めるとともに各種のラリーやジムカーナを都内外の各所で精力的に行なった。明治神宮絵画館前広場や横浜市日吉の慶應義塾キャンパス、伊豆長岡のヒルクライムコース、千葉県白井の飛行場跡地などである。自動車レースは戦後には公営ギャンブルとしてのレースが始まっていたが、アマチュアによるクラブ主体のスポーツカーレースは常設レースコースが自由に使えないという点で大きな問題があった。これが解消されるには1962年に完成した鈴鹿サーキットでの開催を待つしかなかった。
日産自動車に入社した昭和10年頃の片山豊。
帝国ホテルで行なわれた結婚式披露宴。前列左から2番目が片山豊、その右が正子で友人に囲まれて着座している。
昭和11年、多摩川スピードウェイで行なわれた第2回レースに出場した日産チームによる記念撮影。後列左端が片山豊。
満州時代。右から2番目の帽子姿の人物が片山豊。