第124回 軍用JEEPの民生用への転換

2022年12月27日

 いまから81年前の1941年12月8日、日本軍による真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争が勃発した。軍の暴走に端を発する無謀な戦争であった。新聞やラジオは戦果を勇ましく発信し、日本軍の損害はいつも少なく伝えられた。多くの国民はそれを信じて歓喜したが、実際の戦況は惨憺たるもので、多くの有能な若者たちがむごたらしく死んでいった。そして4年後の1945年8月15日、日本は完膚なきまでに叩き潰され戦争に負けた。

 今回は、第2次世界大戦/太平洋戦争で大活躍した「JEEP」(生産台数はウイリスMBが36万1349台、フォードGPWは27万7896台、合計63万9245台)が、軍用から民生用に変身したときの史料を紹介する。

◆民生用JEEPを紹介した広報資料

 1945年7月19日、「発表—戦後の ‘JEEP’」のタイトルでプレスリリースが発行された。

 リリースの最初の頁には、「世界中で多くの異口同音に問われる質問、“戦後のジープはどうなるのか?” は、今週(7月18日)トレド近郊の農場で答えが出た。その答えはこうだった。”戦後のジープが出るだろうではなく、すでに出来上がっている“ 

戦後のジープは、数カ月にわたる徹底的な研究と実験の結果、秘密裏に開発され、設計と製造を担当したウイリス・オーバーランド・モーターズによって一般に公開された。この日は、社長のチャールズ・E・ソレンセン(Charles E. Sorensen)が所有する2,000エーカー(809万4000 ㎡:東京ドーム173個分)の広大な農場で、「カウンティーフェア(郡共進会)」方式の特別なプレス・デモンストレーションが行われた。

 ピース・ジープは、「軽量トラック、トラクター、移動動力装置、乗用運搬車の基本機能をうまく組み合わせた史上初の車」と同社関係者は説明した。

 戦後のジープは、同じウイリス・オーバーランド社が開発した軍用ジープによく似ており、このスカウトカー(斥候車)を連合軍の最も汎用性の高い兵器とした自動車コンセプトを体現しているが、農場、工場、鉄道基地、鉱山、油田、木材キャンプ、その他の平時における追求のための独自の価値を世間に示すものであった。

 パワー、重量、サイズ、四輪駆動、信頼性、堅牢性のユニークなバランスという軍用ジープが象徴する革命的なコンセプトは、24時間、1年中、世界中で人類に奉仕するために平時にも適用されています。」とある。

 民生用ジープの主な変更点は、パワーテイクオフ(PTO)を装着、トランスミッションのギア比変更、トランスファーケースとアクスルのギア比変更。農場で使用する場合、車速は毎時3~7.5マイル(4.8~12.1km)の低速が必要であり、道路上では60マイル(97km/h)で走行できなければならない。新設計のエンジン燃焼室に変更、冷却効率を高めるためラジエーターシュラウド追加、クラッチの大型化、ハンドリング性能向上のためステアリングリンケージの変更、シャシーフレームの剛性向上、リアショックアブソーバーを斜めに装着し、水平なフロアを確保、ギアシフトレバーをステアリングコラムに移動、すべての規制値に適合するよう7インチ径のヘッドランプ採用、テールゲートを開閉可能とし、オートマチック・ウインドシールドワイパー採用などであった。

上はプレスリリースの最初の頁と添付されていた写真。

 注目すべきは、民生用ジープの発表が、日本が無条件降伏する1カ月も前に行われたことである。

 対日戦争に勝利することを早くから確信していた米国政府は1944年の終わりごろには自動車メーカーに対し、戦後の新型車の開発再開を許可しており、1942年に発効した民生用乗用車の生産中止令が、1945年7月に解除されるとほとんどの自動車メーカーは戦前の1942年型に若干手を入れ1946年型として生産を再開した。ウイリス・オーバーランド社も例外ではなく、1944年には既に軍用ジープMBを民生用に仕立てる作業に着手、CJ-1A(Civilian Jeep-1A)を完成していた。1945年7月にシリーズCJ-2Aとして発表し、1945年末までに1823台生産している。

その頃、日本は何をしていたかというと、戦争のやめ方を知らない、学習しようともしない政治家や軍のリーダーたちによって、本土決戦を決意され、時間稼ぎのために沖縄がまず悲惨な地上戦に巻き込まれた。国民を守るどころか総玉砕だと狂気の沙汰としか思えない号令をかけ、リーダーたちは長野県、松代に穴を掘って大本営を疎開させて身を守る算段をしたのです。何か始めたら、たとえ失敗だと分かっても、絶対やめないのは今も変わっていない。もし日本に冷静な判断ができる資質と知性を持ったリーダーがいて、早く戦争をやめていたら原爆の被害もなく、100万人以上の人が死ななくて済んだと思う。

真珠湾奇襲攻撃から81年たったいま、「他より良さそうだから」などとのんきな国民に選ばれた、政治を家業と考えているのではないかと思われる政治屋たちが暴走を始めた。筆者は、2013年5月、M-BASE No.19に「近頃、戦争体験のないのんきで好戦的なひとたちが国会ではしゃいでいる。暴走しなければよいが。心配だ。」と記したが、心配が現実のものとなってきた。

筆者は敗戦のとき8歳。3月10日の東京大空襲では炎に囲まれ、一時は逃げるのをあきらめたが、勇敢な巡査の誘導で助けられ九死に一生を得た。5月25日夜、世田谷区笹塚の街が真昼のように明るくなったつぎの瞬間、焼夷弾が雨あられのごとく降りそそいできた。必死で逃げる目の前2メートルほどのところに、ズボッズボッとたくさんの焼夷弾が突き刺さり、青白い火花を噴水のように噴出した。直撃を受けなかったのは幸運であった。そして敗戦後は食べるものが無くひもじい思いをさせられた。戦争の悲惨さは体験しないと分からないと思う。

筆者が太平洋戦争から得た教訓は、国土の狭い日本は戦争をしたら負けるということ。資源がないうえ、基地は簡単に攻撃され、兵器、弾薬工場は簡単に壊滅され補充ができない。軍備を増強し、敵基地攻撃能力を持ったとしても、それだけで抑止力になるとは思えない。どこにどれだけあるか分からない敵基地を一気に破壊することなど不可能であり、国民を守るためなどと言っているがあてにできない。このままだと、やがて核武装だの、徴兵制度復活などと言い出すだろう。

資源のない日本で唯一の資源は人だ。いま必要なのは軍拡ではなく、人の教育だ。それと非正規雇用者を無くして国民が安心して、安定した生活を送れるようにすること。これが少子化対策の決め手となろう。政治屋は家業の繁栄を画策する前に、国民の幸せについてもっと真剣に考えるべきだと思う。

「‘JEEP’の企画」と題した冊子

 

「ジープの設計と性能の原則は、世界が知る限り最も過酷なテスト・・・何十億マイルもの戦場での使用で劇的に証明されています。」とあり、用途については「ピース・ジープの用途は万国共通。超多機能で、現代的な4つのマシンが1つになったようなものです。まず、軽トラクターであり、どんな軽トラクターの作業もできます。それから、良い軽量トラックです。それはあなたがクルマを必要とするときに、軽い実用的なモーターカーとなります。最後に、特殊なリアエンドのパワーテイクオフによって、さまざまなパワーデバイスを動作させるモバイルパワーユニットとなります。」と記されている。

「ライトトラクターとしての4-in-1ユニバーサルジープは、効率的かつ経済的に仕事をこなし、Manure spreader、16-inch single bottom plows、single disk plows、double tandem disc harrows、two-row corn planters、seeders、five-row rotary hoes、corn binders、silo fillers with cutter、ensilage harvesters、side delivery rakesなど様々な農機具の操作でテストされ、証明されている。」とあり、写真でいくつかの作業の様子を紹介している。

「4-in-1 ユニバーサルジープは、自動車史に残るユニークなパワーモビリティの組み合わせを提供します。通常の農作業には経済的なパワーを提供し、さまざまな特殊作業をこなすことで農家の負担を軽減します。」とあり、写真でいくつかの作業の様子を紹介している。

「4-in-1 ユニバーサルジープは、軽トラクター、移動式動力装置、実用的な乗用車の働きをするほか、軽量トラックとしての役割も果たします。」とある。

「4-in-1 ユニバーサルジープは、4-in-1性能の一部として、実用的な乗用車としての役割を果たします。従来の自動車が行けるところならどこでも、また行けないところでも、それなりに快適に乗った人を運ぶことができるのです。ほとんどどんな天候でも食料品を運ぶことができ、悪路にもかかわらず子供たちを学校に送り届けることができます。」とある。

「ジープのパワーの源は、ウイリス社のエンジニアが長年の研究開発によって生み出した4気筒60馬力のジープエンジンである。世界大戦という最も過酷な試験で証明されたこの素晴らしいパワープラントは、故障すれば乗った人の死を意味するようなジープを何十億マイルも走らせてきたのです。北アフリカの砂、イタリアの深い泥、ロシアの氷雪、南太平洋のもつれたジャングルで、兵士たちを安全に運んできたのです。確かに、これほど過酷なテストを受けたエンジンは、自動車の歴史の中でも他にないだろう。」とある。ジープに搭載したエンジンは戦前からウイリス車に積まれていた実績もある。

裏表紙には「世界中の何百万人もの人々にとって、”JEEP “はWILLYSを意味する」とあり、ウイリスというブランドを訴求している。

民生用JEEP初のフライヤー(カタログ)

 1945年に発行された、はじめてスペックの載った民生用ジープのフライヤー。

スペックは、134.2cu.in(2199cc)直列4気筒Lヘッド、圧縮比6.48:1、60hp/4000rpm、105lb-ft(14.5kg-m)/2000rpmエンジン+3速MT+トランスファーケース(ギア比1:1/2.43:1)を積み、駆動方式は4WD。サイズはホイールベース80in(2032mm)、全長122.75in(3118mm)、全幅59in(1499mm)。タイヤは6.00×16 4-ply。オプション部品としてPTO、助手席、リアシート、ボディートップ(前/後)、ヒーターなどがあった。

1945年に発行されたJEEPの広告

コピーは「戦争のために生まれ、平和のために準備する」。

コピーは「トラックとして、トラクターとして、ランナバウトとして、モバイルパワーユニットとして使える“ユニバーサルジープ”」。

コピーは「ユニバーサルジープの働きと節約」。

コピーは「ジープが中西部の農場に侵入。戦後の可能性を示す」。「そう、私たちの農場に数日間、本当に本物のジープがやってきたのです。私たちの地方では、これまでで最大の出来事だったと思います。」

そして戦争が終わると確信して、「ウイリス工場では、いまも戦時中のジープが生産されている。しかし、戦争の終わりはだんだん近づいてくる。戦後、私たちがウイリス・スカウトカーから学んだプライスレスな事柄が活かされる日を心待ちにしている。」とある。

コピーは「ウイリス、世界で最も多目的な自動車を製造」。

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