第2回 生い立ち

2022年12月27日

片山豊が生まれたのは明治42年(1909年)9月15日、場所は静岡県周智郡気多という天竜川支流近くの村だった。父の麻生誠之が王子製紙気田工場長として赴任した先の土地である。先に豊の兄の誠夫が生まれており、次男であった。妹の民子、三男の三郎はその後の赴任地で生まれた。当時の気多は東海道線を掛川で降りてから馬車や籠などで北上し、川を人足に背負われて渡る田舎であった。母の聡子は京都育ちの公家の娘で、結婚後初めて赴任した僻地では毎日が驚きに満ちていたようだ。

父の誠之は埼玉の豪農の長男で、進歩的だった父の理十郎が福澤諭吉に直接面談して息子の入塾を申し込み、慶應義塾理財科を明治34年に卒業。豊が生まれたのは誠之が三井銀行から王子製紙に移って間もないころだった。慶應で誠之は柔道部に所属しており、当時の師範は講道館四天王の一人、山下義昭であったと伝えられる。福澤諭吉が生涯居合を健康法として研鑽したことで武術に理解があり、柔道も早くから塾生の間で行われていた。
気多での生活は長くは続かず、誠之一家は間もなく次の赴任地、王子製紙の苫小牧工場へ向かう。ここで豊は父の乗る馬の前鞍で朝早く海岸を走る快感を経験した(父は近衛師団の輜重<しちょう>大隊で乗馬の訓練を受けていた)。後日かかわった自動車のスポーツ性に通じる「人馬一体」の心地よさは、この時に豊の心に深く刻まれていたと豊は後に語っている。
この後誠之は王子製紙の子会社である台南精糖の役員として台湾に渡り、豊も台湾に連れて行かれたがそこでマラリアに罹り、帰国して祖父母と埼玉で生活することを余儀なくされる。6歳の頃であった。その後誠之は帰国し鎌倉材木座に居を構え、豊も父母と一緒に鎌倉での生活を始めた。鎌倉の家は駅からは離れていたが光明寺という古刹裏手の高台で、庭から遠く稲村ケ崎が望める邸宅であった。ここでの豊の記憶は、試作品のセメント用紙袋を海岸に持ち出し、下男に海岸で砂を入れさせ、落として耐久性を試す父の姿であった。
大正11年(1922年)の夏、豊は虫垂炎が悪化して重い腹膜炎に罹る。たまたま鎌倉訪問中であった東大病院の塩田医師に依頼し、自宅で緊急手術を受け、一生をとりとめた。これ以降豊は一度も入院することも無く、乗り物酔いもすることの無い偉丈夫になった。その翌年の9月、休暇中の豊が家に居たとき大きく地面が揺れ、周りに砂埃が立ち込めた。遠くに見える稲村ケ崎の海水が一斉に沖に退き、海底が見えたと思うとその先から真っ黒な海水の壁が押し寄せてくるのが見えた。これが関東大震災だった。自宅の一部が傾いたものの崩壊はせず、怪我人も出なかったが、自宅前の豆腐川と呼ばれる小川の水が玄関近くまで逆流し、庭には海岸の住人が避難して来た。続く余震のなかその晩は庭の仮設テントで過ごした。東京に仕事の相談で出ていた誠之は戸塚経由徒歩で翌日無事生還し、一家は無事の再会を喜んだ。この時の誠之の記録は約80年後に鎌倉市から出版された関東大震災の記録集に詳しい。
豊が16歳の頃に父は王子製紙を退職し、三越百貨店に移る。この異動には慶應と王子製紙の先輩であった鈴木梅四郎の力が強く作用していたらしい。鈴木梅四郎は経営者であっただけでなく、当時の会社内だけで提供されていた医療を広く安く民間に提供するなど社会事業家の面もあった。誠之は三井銀行から王子製紙へ移ったものの、社長で慶應の先輩でもあった藤原銀次郎と意見の相違もあり、一時退職して仕事を探していたとき鈴木に三越の仕事を紹介されたようで、取締役営業部長として入社した。昭和に入り景気も安定し、当時の三越は上流階級の通う高級デパートとして隆盛を迎えつつあった。

豊の母聡子は京都の子爵梅渓通治の三女で、姉、妹と弟の4人兄弟であった。姉の文子は大阪の豪商藤田伝三郎の跡取りの藤田小太郎に嫁ぎ、妹は池坊の家元に嫁いでいた。藤田家に嫁いだ文子は夫を早く亡くし、東京藤田家の当主となって後に義父伝三郎の遠縁である久原房之介や鮎川義介の事業を援助することになる。久原房之介は明治2年(1869年)長州萩生まれの実業家で後に日立製作所の母体となる久原鉱山を興し政治家へ転身した。鮎川義介は明治13年生まれ、久原房之介の義兄(妹が房之介の嫁)で帝大卒業後に戸畑鋳物(日立金属)を興し、のちに日本産業と呼ばれる一大工業コンツエルンを興し戦後は政治家に転身した。二人の実業家は旧長州(山口県)出身を足掛かりにして実業から政治の世界へ進み、戦後まで大きな影響力を振るった。
豊は設立二年目の県立湘南高校に進むが、この時に一生を決めることになるブリッグス&ストラットンに出会ったことは第一回に描いたので省略する。

大学受験で東京帝国大学工学部を目指したが一度目は失敗し、翌年父と同じ慶応義塾理財課に合格したものの、豊は落ち着いて勉学する気にならなかった。工学部へ行けなかったことで、目的としていた自動車の設計・製造から遠ざかった気がしたのだ。漫然と大学に通う中、太平洋航路で翻訳のアルバイト学生を募集するという話を兄の誠夫から聞いた。当時の太平洋航路は往復に二カ月近く必要で、これに応募すると大学を一年留年することになる。豊は父の了解を得、首尾よくこのアルバイトに合格した。夏休みを大幅に超えたこのアメリカ遊学中、豊はひとつの気づきと生涯の友人を得た。これまでは「自分が技師にならなければ」と思い込んでいたが、「自動車の設計は技師にまかせて、自分はそれを統括すればよい」と考えたのである。これで何か自分の前に道がスーッと開ける様な気がした。
そして帰路の船内で北海道大学の英語教師として赴任する生物学者のマイルス・L・ピールと友人になったことだ。ピールはミシガン州の出身で、キリスト教徒の無教会派の無抵抗主義者でもあった。ピールとは北海道を旅しただけでなく、中国へも一緒に旅をした。
大学に戻るとアメリカ帰りということで英語会に入り、父の了解もあってYMCA活動に参加した。当時の学生の主な心配は日本がいかに戦争を避けてアジアで存続してゆくかであり、中国でも大学生同士で盛んにその議論がされたという。大学でのもうひとつの出来事は渡辺忠恕という3年後輩の友人と知り合うこととなった。渡辺は日本人宣教師とフィンランド人の妻の長男で、弟は後に音楽家となった暁雄がいた。

そしてこの多様な学生時代に後に75年連れ添うことになる妻正子との出会いがあった。正子は津田英学塾の学生でYWCA活動にも参加しており、また当時盛んであった日米学生会議にも参加するなど控えめながらも活動的であった。正子の両親は明治末に米国に渡り、結婚した片山源一・千代夫妻で、正子は三人姉妹の長女、父源一はすでにそのころ他界していた。正子は10歳まで米国で過ごし、当時排日運動が活発となったのを機に一時日本に帰国し、母千代の夢であった津田英学塾に進んだのである。豊はアメリカ生まれながらも日本的な容姿の正子に一目ぼれした。正子が忘れたペンを正子の家に届けたときには結婚相手としてはっきり意識していたと思われる。
豊は幼少期から恵まれた環境で過ごし、病気で一時の躓きがあったもののそれ以降は健康に恵まれ、数多くの善意の友人に囲まれた学生時代を過ごすことができた。後に片山豊のことを深く調査して日米の自動車産業史”Reckoning”(『覇者の驕り』)を書いたDavid Halberstam(デイヴィッド・ハルバースタム)が、片山の育った背景と行動を知り、彼こそ真のリベラルである、と感嘆したのはこのような背景であった。

豊(左)と父誠之(中央)、マイルス・ピール(右)(昭和9年頃と思われる)

左から母聡子と豊、その後ろに父誠之、叔母貞子(後に池坊に嫁ぐ)(大正初期)

豊と兄誠夫(大正初期)

豊(左)、渡辺・シーリ(中央)、渡辺忠恕(右)(戦後すぐと思われる)

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