第13回 本格的な国産ミニバン時代のスタート

2022年12月3日

「ミニバン」という名称が使われるようになった経緯を考える場合、それは国別に考察しなければならないだろう。イギリスにおいてはオースチンミニのパネルバンがズバリ「ミニバン」と呼ばれ1960年に登場。日本においては1962年全日本自動車ショーにおいて軽規格で柳(宗理)工業デザインによる、ガスデン・ミ二バン試作車が展示され、これが日本初のミニバンと命名された事例と考えられるが量産には至らなかった。

その後は一般的なライトバン、パネルバン、ステーションワゴンなどと呼ばれていたが、新たに「ミニバン」の呼び名がアメリカで発生した。1983年までに生産されてきたクライスラーのフルサイズのプリムス・ボイジャー、ダッジ・キャラバンの双子車が1984年にミニバンとして生まれ変わって誕生したのである。それまでの観音開き6~8枚ドアの大柄(全長4.5~5.8m、全幅2m程)のボディの5.2~5.9リッタ−車が、日本でいう中型(全長4.4~4.8m、全幅1.8m程)のボディの2.2~3リッタ−車となり、これがミニバンと呼ばれるようになった。

いつの時代もミニバン的フォルムのクルマは、第1回で紹介したルノーエスパス、またはGhia Mini Maxなどを見ればわかるようにウエッジ=流線型が目立っているが、実際には通常のセダンの変わり型が多く出現してきた。時代的には1984年前後のことだが、なんと米国製ミニバン誕生に影響を与えたと思えるのが、日産の旧プリンスの技術陣が開発して1982年に発売された、両側ピラーレスボディでアピールした日産プレーリーだろう。北米ではスタンザとして販売されTVCFなども流され注目を集めた。

これがクライスラーのミニバンに影響を与えたと思えるほど、コンセプトは似ていた。その後は三菱シャリオが北米に上陸(米国名コルト・ビスタ)して、ダッジ&プリムスブランドのミニバンの下位モデルとして人気を集めた。

そうした中、日産プレーリーが1988年にモデルチェンジ、横長になったカタログは角丸カットの凝った仕上げで注目を集めた。ミニバンが台頭する中でワンボックス勢も4WDに力を入れ、日産バネットラルゴ、三菱デリカ、トヨタハイエース、マツダボンゴなどが欧米仕様を意識したグレードを追加してゆく。

そして大型かつユニークなスタイルのミニバンとして1990年に発売されたのがトヨタのエスティマだった。卵をイメージさせる独自の奇抜で前衛的なボディに、傾斜して全高を低めたエンジンをミドシップに搭載するニューカマーとして注目を集めた。車格的に3ナンバーになるため、ワンボックス商戦ではバネットセレナの先行策として小型車枠のエミーナ/ルシーダで対決して人気を得てゆくことになる。

こうしてワンボックスやミニバンの新しい時代がスタートするが、多くの人達は広さを求めるのか……新たなるスタイリングにするのか? 迷うことになる。メーカーも同様で各種ラインナップを揃えざるを得ない1990年代に突入するのである。

アメリカにおけるミニバンの始まりはクライスラー社のプリムス・ボイジャーなどとされるが、既に北米上陸を果たしていた日産のプレーリー(現地名スタンザなど)のコンセプトに類似していることがわかり、そのルーツとも思える。当時のアイアコッカ社長はフォード時代にマススタングを生んだが、ミニバンにも熱心でイタリアのカロッツェリアギアと組んで前衛的モデルを数多く開発し続けた人物であり、このボイジャー発表会でも大アピールした。

1982年8月発売開始。「夢のクルマ、革新的なクルマ「プレーリー」は、あのスカイラインの日産プリンスがお届けします。」と表紙に謳ったコピーは、日産プリンス自動車販売で制作された、プリンス店向けの初期カタログにのみ掲載された。ユニーク機能が評価され、フランスの「オートモビル」誌賞を受賞した。

プレーリーの最大の特徴は、左右ピラーレスの後部スライドドアを採用したことで、その先進性がわかる。デザインが同時期の初代マーチやスタンザなどと共通するイメージがあったためか、いわゆる“高級感”の表現に乏しく、さらにピラーレスでボディ剛性が大丈夫? といった購入動機上の不安要素があり、人気が出るには至らなかったようだ。

5ナンバー系は左からSS―RV―JWとならび、4ナンバーの商用エステートNVのラインナップを紹介。乗用車系はフラットになるシートに加え、3列シートの8名乗りを用意して大家族用にアピールしていた。

“自動車雑誌”調の精密イラストで解説した、凝った内容のペ−ジ。右側に各モデルのシートアレンジが詳しく描がかれて、購入動機の要因になったと思われる。回転対座や3列目シートなどのアレンジが今日も続いていること考えると、進んでいたミニバンといえそうだ。バックドアはリアバンバーまで開くように工夫されていたが、1985年以降に強度アップのためバンバー上部から開くドアに改善された。

商用専用の4ナンバー車のみのカタログも制作された。これは初期のものでフェンダーミラー装備。左右ピラーレスで積載も自在にできた。米クライスラーもピラーレス構造によるボディ剛性を考慮して、この部分は参考にしなかったが、その他のボディの機能はよく似ていた。

商用バン最初期型NVは1500ccのみの設定でシンプルな外観、内装を持つ。発売10ヵ月後の1983年6月にエクストラを追加するなどして、徐々に豪華さが与えられ、充実したクルマ造りが実施されていった。

三菱シャリオは日産プレーリーに続き1983年2月に日本で発売。北米では1983年8月よりクライスラー社向けにダッジ&プリムス部門のコルト・ビスタとして出荷された。欧州ではスペースワゴン、スペースバンなどと呼ばれた。このカタログは1984年に4WD車が追加された時のものである。

シャリオ4WD車はなんと1984年第3回ファラオ・ラリーに日本チーム(日本初のパリ・ダカールラリー参戦者で現THE銀座RUN開催者の根本純氏が乗車)として初出場、フランス参戦のパジェロの総合6位の対し総合22位と健闘、無改造4WDガソリンクラスに優勝して、優れた耐久性を示した。

搭載エンジンは2000シリウス電子キャブレター仕様110ps、1800シリウスターボ135ps、1800サターン105ps、1600サターン92psの4タイプ。サスペンションは2WDがフロント・ストラット+リア・トレーリングアーム独立懸架、4WDはリアにアウターアームとエクステンションロッドを加え剛性を高めている。

4WD登場以前の発売当初のラインナップは、1600ccME(注文生産)が4×2の計8速方式のMT。その他1600ccMFは5MT、1800ccのMTとMXは5MT(MXは注文生産)と3速ATが選択できた。全車3列シートが基本となる。

角ばったスタイルが特徴的だった日産プレーリーが1988年9月、丸いラインの新型に生まれ変わった。カタログもこのボディ形状を表すかのように、角丸加工した凝ったものになる。上は表紙と裏表紙で上からの俯瞰と、下の1~2ページ目の見開きで「セダンの新しい考え方です」のコピーに、「家族・友人・趣味・仕事 ちょっとすすんだニューバランス。NEWプレーリー誕生。」とのキャッチフレーズが並ぶ。こんなセダンが欲しい……と開発されたことをアピールし、メーカーの想いを感じさせるカタログだった。

スタイリングに気配ったスマートなデザインになるボディは、センターピラー付きの丈夫な構造となった。しかしサスペンションをブルーバード系の前後ストラット方式を採用したことで、3列目シート部がサスペンションのスプリングに占められ、シートの幅を十分に確保できなくなってしまう。このため1995年にはリア・ストラット部を変更し、居住空間を改善した。4WDはビスカスカップリング付センターデフとしてATやLSD機能を実現、加えてフルタイムアンチスキッド4WASを実現した。

日産のワンボックス系も進化はとまらず1989年6月にバネットラルゴを改良。CA20型2000NAが88ps、CA18ET型1800ターボ120ps、LD20T・Ⅱ型2000ディーゼルターボ79psを搭載。2&4WDに5MTと4ATと最高峰の技術を投入していた。

インテリアもメカニカルに構成。左がグランドサルーン、右がグランドクルージングでメーターのグラフィックとステアリング形状で差別化をはかっていた。

外装をプレーン化してマニアックにしたグランドクルージング。バンパーや灯火類が専用パーツで構成されているのが特徴。なおアルミホイールはディーラーオプションで標準パーツではなかったため、装着率は低いと思われる。

この時代のワンボックス車は4WDが脚光を浴びていた。日産の場合は乗用車の流用部品も多くエンジン、サスペンションなどに反映されているため、価格面でタウンエースに揃えられることが多かった。

グランドサルーン4WDディーゼルターボ2000は4AT で253.1万円。プレーリーではアテーサ4WDもほぼ同じ価格帯で、2WDでは約100万円もダウンするお買い得なグレードもあり、4WDの普及率は高くなるまでに至らなかった。

グランドクルージング4WDガソリンターボ1800は4ATかつパワフルだけに262万円。セカンドシートが2名仕様で2+2+3の定員7名、3名仕様で2+3+3の定員8名となる。

オーテックジャパンのカスタムも健在で「ウミボウズ」4WDディーゼルターボ2000は4ATで238.5万円から。受注生産車で依然、際立った存在となっていた。装着パーツも数多く揃えられキャンパーの先駆車となっていた。

アドベンチャーマシンとして、パジェロに伍した人気を持つようになったデリカスターワゴンも刻々と進化。1989年9月発行のカタログには「デリカ4WDに、待望のクリスタルライトルーフ新登場」と明記、エクシードに追加された。

搭載エンジンは4D64型MPIガソリン2350cc、115ps、4D56型ディーゼルターボ2476cc、85ps、G63B型ガソリン1997cc、91psの3タイプ。ミッションは4AT、5MTを組み合わせ、4WDには前輪にオートフリーホイールハブシステムを採用。サスペンションはフロント・ダブルウイッシュボーン+トーションバーに、リア・リーフを組み合わせている。

4WDの上級モデル群にはスカイライトルーフ付きを設定、価格245万円。デリカ4WD伝統の高い車高は2m超えもあるので、運転時は要注意の道路もある。4WD廉価版にはXLなどがあった。

デリカスターワゴンの2WDエクシードは安全対策でフロントバンパー部にまでフレームを伸ばして対衝撃性を万全なものとしている。この時代のデリカは2400~2500cc主体で販売。廉価車は4ナンバーのバンが主体で価格158.8万円。

1990年5月登場のエスティマ(estimable=尊敬すべき、の造語)は、アメリカで市場が増えつつあったミニバンとして投入するべくに開発されたもの。デザインもアメリカトヨタ・デザイン・スタジオ=キャルティ=CALTY Design Researchが卵形=“EGG on a Box”をテーマにしたもので、欧米向けはプレビアと命名。その特異さから月版目標2000台と少なかった。画像はカタログ表紙+1~2ページ目で、特異なデザインのカタログだった。

ウエッジシェイプのボディはCd値0.35と流麗なものとしていた。本来は開発を進めていた2サイクルエンジンを搭載する予定であったが、開発がうまくゆかず、急遽4バルブDOHCの2TZ型、2438cc、高性能135psエンジンを傾斜させ高さを抑えてミドシップに搭載、4ATを組み合わせ、スポーティ・ワンボックスのジャンルを築いた。

ウエッジフォルムの中に独特のドライバーを包み込むコクピット部は特異感を与えたが、未来志向に溢れるものだった。シフトレバーは左コラム式。乗って目立つワゴンとしてカタカナ職業の人達の人気を集めた。

ドライバーズポジションは通常の低い車高のセダンのフロアをグンと高めたもので、乗降する時以外は違和感がないように工夫されていた。シート間はウォークスルーを実現、3列目シートを左右両壁面に折りたたむ方式も他車にヒントを与えた。

4バルブDOHCの2TZ型、2438ccを75度倒してシリンダーをほぼ水平配置したミドシップエンジン。4輪ディスクブレーキはスピードセンサーを組み込み、4輪ABSを実現。さらには4WDも可能にするなど、最新鋭の機能を盛り込んでのデビューだった。

ラインナップはシンプルで、2WDは296.5万円、4WDは324.5万円。ツインムーンルーフは各10.5万円高で、ほぼハイエースやキャラバンの上級グレードの価格帯に設定されて登場した。なお北米仕様はスライドドアの位置が左右逆で、フューエルリッドの位置も異なっていた。

1991年6月登場のバネットセレナ。デザインと機能開発はコニーを経てチェリーキャブ、バネットなどを手がけた愛知機械工業が担当。コニー360同様にシート下にエンジンを搭載する伝統のメカニズムを継承したミニバンの登場だった。

1990年5月に、ハイエースの特装車として発売されたカスタムキャンパーがマイティ。各種専用パーツ、専用カラーリングが特徴。フロントガードのシビエ・フォグランプは標準装備で、専用ウインチなどがオプション設定されての受注車だった。

ハイエースのマイティは、日産のオーテックジャパンのカスタムに影響されてのものといえたが、デリカなどの本格派にも近づけようと、ディーラーで対応できる部品や専用品を制作する一方で、サイドテント、シャワーや冷温蔵庫などがオプション設定された。

そしてマツダもキャンパーブームにようやく開眼してか、遅ればせながら1993年9月にアフリカの都市名を持つ「ワウー」をカタログ表紙に盛り込んだボンゴ特装車をラインナップした。

ワウーはLSDノンスップデフ、アンダーガード+トランスファーガードを装着する硬派アドバンチャー用ながらも、ようやくのツインエアコンを標準装備。2000ディーゼルターボ車で価格238.1万円に設定、デリカスターワゴンより安価であった。

^