今回は、長野県岡谷市の鳥居平やまびこ公園の中にある「プリンス&スカイラインミュウジアム」を訪問する機会を得たので、展示車の一部とそれらのカタログを紹介する。
上の2点はミュウジアムのパンフレット。設立は1997年4月で、今年は創立25周年という節目の年となる。日本車初の単一車種の自動車博物館設立のきっかけとなったのは、1996年に開催された「旧車ミーティング」で、全国の旧車自慢と自動車ファンが押し寄せ大盛況を博し、なかでもスカイラインフリークたちは、美しい展望とみどり豊かな自然に魅せられ、ぜひともこの地に自動車博物館をと熱望。眼下に広がる諏訪湖の先にそびえる八ヶ岳連峰が描くスカイラインがネーミングに合致することから、故櫻井眞一郎が設立のバックアップに名乗りをあげ実現したという。彼は初代名誉館長に就任している。現在の名誉館長は8代目R32の開発主管としてGT-Rを復活させた伊藤修令。顧問にはR33およびR34の開発主管を担当した渡邉衡三が就任している。ただ、このミュウジアム、冬季は閉館しているので訪問する方は注意が必要。
上の2点はミュウジアムと芝がきれいに整備された広場。年2回開催されるイベントはこの広場で行われる。眼下には諏訪湖、はるかかなたには八ヶ岳連峰が美しいスカイラインを描く。
「コレクター必見! 数・珍しさ共にどこにも負けない自信あり!!」と豪語するミニチュアカー・ミュウジアムもある。
現在の所蔵車両配置図。現在の所蔵車両は35台。
その一部をカタログとともに紹介する。
◆初代および2代目スカイライン
初代スカイラインは1957年4月に発売された、1.5L 60馬力エンジンを積んだ6人乗りセダンであった。デラックス(ALSID-1型)は120万円、スタンダード(ALSIS-1型)は93万円。その後、2度の値下げで、1959年8月にはそれぞれ108万円と87万円となったが、1957年の事務系大卒初任給は1万2700円ほど(日本経営者団体連盟・調査資料より)で、庶民にとっては高根の花であった。
1963年11月に発売された2代目スカイライン1500デラックス(S50D-1型)は大胆にダウンサイジングされ、全長は375mm短い4100mm、全幅は185mmも狭められ1495mmの5人乗りセダンであった。デラックス発売から5カ月後の1964年4月に1500スタンダードが発売されている。価格はデラックス73万円、スタンダード62万円。1964年の事務系大卒初任給は2万1500円ほどに上昇しており、このころからわが国のモータリゼーションの普及、マイカーブームが芽生えてきた。
1960年代に入ると、通産省(現経済産業省)主導で乗用車の自由化対策が論じられ、会社別に車種を整理、規制するという噂が流れた。そこで、経営陣は1車系では経営戦略上不利になると判断し、2代目グロリアは大型豪華仕様に、スカイラインは小型経済仕様にして2車系化を図った。
上の4点は初代スカイライン(ALSID/S-1型)のカタログ。後発メーカーというハンディキャップをクリアするため、世界で通用する性能と品質を備え、高速でも安全かつ快適に走行でき、しかも、当時の悪い道路状況でのタクシー使用にも耐えるという、非常にタフな目標を掲げて開発されたクルマであった。アメリカンスタイルをうまく取り込んだ近代的な外観に、バックボーントレー式フレーム、ド・ディオンアクスルなど、当時最高水準の性能を誇った。FG4A-30型(GA30型)1484cc直列4気筒OHV 60ps/10.75kg-mエンジン+4速Tを積む。1959年10月にFG4A-40型(GA4型)70ps/11.5kg-mエンジンに換装されALSID/S-2型となった。
◆スカイライン2000GT-A
1965年9月に発売された2000GT-A(S54A-2型)は、エンジンを調整の難しい3連ウエーバーから、グロリア・スーパー6用のシングルキャブ付きG7型105ps/16.0kg-mに換装して、扱いやすくしたモデル。長いフロントフェンダーにはGT-Aの証である青いGTバッジが付く。最高速度170km/h。価格80万円。
上の3点はスカイライン2000GT-A(S54A-2型)のカタログ。ヘッドライトの光芒がコーナーを照らし、ワインディングロードを駆け上がるクルマ。ドライバーの至福の表情が目に浮かぶような表紙。走り方によっては、山道では1.5LのS50系より燃費が良かった。ステアリングホイールはGT-Bのウッドリムに対し、GT-Aでは濃い茶色の樹脂製リムであった。バケットシート、フロントのディスクブレーキは付いていたが、GT-Bとの大きな違いは、ブレーキのバキュームブースター、後輪のトルクロッドが付いていなかった。
◆2代目グロリア3台と1956年8月に発売されたプリンストラック(AFTF-7型)
手前は2代目グロリアのオープンカー。カタログモデルとしては生産されていないが、1964年の東京オリンピックなど、主にパレードなどに使うため、特装メーカーで数台造られている。
2番目は、1964年の東京オリンピック開催に際し、95台提供されたグロリア・デラックス(S40D-2型)の1台。1962年9月に発売されたS40D-1型はG2型1862cc直列4気筒OHV 94psエンジンを積んでいたが、1963年9月に発売されたS40D-2型ではレギュラーガソリンでも無理なく走れるよう、圧縮比を8.5から8.0に落とし、出力を91psに落としている。ボディーカラーはオリンピックのオフィシャルカラーであったソリッドのライトブルーが採用されている。最高速度145km/h。価格は108万円。
手前から3台目は、1964年5月に発売されたグロリア6ワゴン(V43A-1型)。プリンス初の6気筒エンジンであるG7型1988cc直列6気筒SOHC 100psを積む。リアシートは前後に100mmスライドできたが、これは国産車初の仕掛けであった。テールゲートはガラスを電動でゲート内に下げたあと、下ヒンジで開く。積載量は3名+400kg、あるいは6名+250kg。最高速度140km/h。価格は82.5万円。グロリアには4気筒エンジンのワゴンは存在しない。
4台目は、1956年8月に発売されたプリンストラック(AFTF-7型)。最初のプリンストラックAFTF-1型が発売されたのは1952年3月であった。その後、1956年10月に発売された最後のAFTFである8型が発売されるまでの4年半の間に7回ものマイナーチェンジを行っている。その間エンジン出力は45馬力から60馬力になり、最高速度は80km/hから95km/hにアップしたが、価格は85万円から75.5万円に下がっている。
上の4点は、1963年9月に発売された1.9L 4気筒エンジンを積むグロリア・デラックスのカタログ。
上の4点は、1964年5月に発売されたグロリア6ワゴン(V43A-1型)のカタログ。
上の2点は、1956年8月に発売されたプリンストラック(AFTF-7型)のカタログ。
◆初代スカイラインGT-Rの誕生
1969年2月、最初のGT-RであるPGC10型が発売された。1966年8月1日にプリンス自動車工業は日産自動車に吸収合併されたため、プリンスの名前は落とされて「ニッサン・スカイライン2000GT-R」となった。S54-B型の後継と言えるモデルで、「R」はレーシングマシーンを意味する。
上の2点は、ニッサン・スカイライン2000GT-Rのカタログ。搭載されたS20型1989cc直列6気筒DOHC 24バルブ 3連キャブレター(ミクニソレックスN40PHH×3基)160ps/7000rpm、18.0kg-m/5600rpmエンジンについて、カタログでは「純血のプロトマシーン〈ニッサンR380〉のエンジンを搭載、高性能をそのまま引き継ぎました」「あのニッサンR380のエンジン(GR-8型)をデチューンしてもこのエンジンのなおまだあまりある強烈なパワーと、・・・」とあるが、実際には全くの別物で、GR-8型、GR-7型などのレース用エンジンで得たノウハウを織り込んで、量産に適するよう新たに設計されたエンジンである。0-400m加速16.1秒、最高速度200km/hの俊足であった。発売当初はウエーバーキャブ(45DCOE型)がオプション設定されていた。価格は150万円。登録台数539台。
◆レース仕様ハードトップの2000GT-R
展示車両は、1972年3月のフジ300kmスピードレースから、同年9月のフジインター200マイルレースを久保田洋史のドライビングにより3戦連続表彰台という輝かしい戦績をもつクルマ。
GT-Rは1969年5月3日のJAFグランプリから、1972年3月20日のフジ300kmまで、わずか2年10カ月の間に通算50勝という偉業を達成した。これは50勝を記念して発行された「グラフ日産プリンス」No. 3。
GT-Rの通算50勝を記念して発行されたポスター。
日産プリンス自動車販売発行の「オート専科」No. 3に載った、1971年日本GP用レース仕様の2000GT-Rの特徴をイラストで紹介した頁。レース仕様のSR20型エンジンは絶えず改良が加えられていた。
1971年9月発行のカタログに紹介されていたレース仕様の2000GT-R。レース用エンジンSR20型は、ルーカス製フューエル・インジェクションを装着し、各部のチューニングによって255ps/8600rpmを発生したと言われる。1972年10月、富士スピードウェイで行われたマスターズ250kmレース予選で、はじめて2分を切る、1分59秒72のベストタイムを記録した。
1970年11月3日、第5回フジT.T.(ツーリングトロフィー)レースでGT-Rが34勝目をマークした日のピットクルーの活躍。日産自動車創立40周年記念として発行された1974年版企業カレンダーは、チェコスロバキア生まれのドイツ人で、自動車画家の巨匠、ウォルター・ゴチュケの目の覚めるようなすばらしいオリジナルの作品12枚で構成されていた。自動車企業カレンダーでは5本の指に入る逸品であろう。
◆2代目スカイラインGT-R
1973年1月、「Rが甦った、不死鳥のように。」というキャッチコピーとともに、2代目GT-R(KPGC110型)が発売されたが、当時、深刻な社会問題となってきた排出ガス規制への対応が難しく、同年4月、わずか197台を生産してストップしてしまい、プリンス自動車が開発したS20型エンジンを積んだ最後のモデルとなった。4代目スカイラインが「ケンとメリーのスカイライン」と呼ばれたことから「ケンメリGT-R」の愛称で呼ばれる。この後、3代目GT-Rの誕生まで16年も待つことになる。
上の6点は、2代目GT-Rのカタログ。後日、日産プリンス自動車販売から全く同じ内容の13.3cm×11.5cmのミニカタログが、特別限定縮刷版として発行されている。ワンピースの黒いメッシュグリル、前後輪についたオーバーフェンダー、後端部についたエアスポイラーで「R」の存在をアピールする。エンジンはS20型160馬力、4輪ディスクブレーキ、インストゥルメントパネルは基本的に2000GTと同じだが、メーターパネルは木目調からアルミに、ステアリングホイールは革巻きリムのナルディ・タイプ、タコメーターはフルスケール1万回転。ラジオ、ヒーター、時計、シガーライターはオプション。フロントシートはリクラインしない本格的なバケットシート。最高速度200km/h。価格は162万円。
◆6代目スカイライン2000ターボGT-E・S ポール・ニューマン・バージョン
1981年8月に発売された6代目スカイラインのイメージキャラクターにレーサーとしても有名な俳優、ポール・ニューマンを起用。1983年10月、2000ターボGT-E・S ポール・ニューマン・バージョン(KHR30J/HR30J型)が発売された。
上の3点は、1983年10月発行のスカイラインGTのカタログから。コピーは「ポールが考えた、特選GT。彼の洗練されたセンスがスカイラインに求めたものはハード&リッチの世界。ポール・ニューマン・バージョンいま誕生。」とある。GTシリーズの最上級スポーティー車として設定されたモデルで、2ドアハードトップと4ドアセダン、それぞれ5速MTと5速ATの選択が可能であった。ポール・ニューマンのサイン入りステアリングホイール、シート、ステッカーなどの特別仕様をはじめ、8ウェイ電動マルチバケットシート、ダイバーシティFM受信システム、195/60R15 86Hタイヤ、6JJ×15アルミロードホイールなど、豪華装備を採用している。価格はハードトップMT車(KHR30JFT)217.6万円、セダンMT車(HR30JFT)212.1万円。AT車は+10.3万円。
◆スカイラインAUTECH VERSION
1992年4月、櫻井眞一郎が社長に就任していた株式会社オーテックジャパンから発売された特別仕様車「スカイライン オーテックバージョン」。
上の4点は、スカイライン オーテックバージョンのカタログ。市街地走行からスポーツ走行まで安全で楽しい高質な走りを実現することをテーマに量産車のGTS-4をベースに開発され、新開発のRB26DE型2568cc直列6鬼頭DOHC 24バルブ220ps/6800rpm、25.0kg-m/5200rpmエンジン+4速E-ATを積み、運動性能と乗り心地のバランスをはかったサスペンションの専用チューニングと大容量ブレーキの採用、アルミ製フード採用による軽量化、開口部の大きい横桟型ラジエーターグリルと専用フロントバンパーによる冷却効果の向上、専用アルミロードホイール、専用タイヤ205/55R16 88V(ブリヂストンEXPEDIA S-01)、専用シートとトリム生地などを採用し、個性的なクルマに仕上げている。価格は418.8万円で、ベースのGTS-4(323万円)よりGT-R(451万円)に近かった。
◆カルソニック・スカイラインGT-R Gr. A 仕様 No. 12
1989年8月、16年ぶりに復活を遂げた3代目GT-Rは、1990年3月、20年におよぶ永い沈黙を破りサーキットに復帰した。そして、西日本サーキットで行われた、全日本ツーリングカー選手権グループA開幕戦において、約4万1000人の観客が見守る中、目にも鮮やかなブルーのカルソニックNo. 12が全マシンを周回遅れに引き離し、見事チェッカーフラッグを受け、衝撃的なデビューを飾った。その後も、グループAが終了する1993年最終戦までの4シーズンを無敵の快進撃で勝ち進み、29連勝という輝かしい記録を残している。
日産自動車が発行したモータースポーツダイジェスト「VICTORY LANE」1990年11月号に載った、雨の中を疾走するグループAレース仕様のカルソニック・スカイラインGT-R。1990年3月に500台限定発売された「スカイラインGT-R NISMO」をベースにチューニングが加えられたワークスカーで、RB26DETT型エンジンは550ps/50kg-mまで強化され、車両重量は1260kgでGT-R NISMOより140kg軽量化されていた。
上の3点は、1991年7月にNISMO(Nissan Motorsports International)から発表された「スカイラインGT-RグループAレース仕様車」のカタログ。ニッサンワークスカーと全く同じ仕様で、RB26DETT型エンジンの出力は550ps以上/7600rpm、50kg-m以上/6000rpm、トリプルプレートクラッチと日産製5速MT(FS5R30A)を積み、車両重量1260kg以上、ホイールとタイヤは10JJ×18+265/680-18。価格は5500万円。
◆GT-Rのテストカー2台
左は5代目GT-R(BNR34型)ニュルブルクリンク走行実験車。4代目GT-R(BCNR33型)発売から半年後の1995年6月、早くも次期GT-Rの開発がスタートした。「究極のドライビングプレジャーの追求」という目標達成のため、ニュルブルクリンクで走り込みを重ねた車両である。ラップタイムは発表されなかったが、目標はR33GT-Rヨリマイナス10秒であったという。このクルマの呼称は「ステルス」。
右のクルマは5代目GT-R(BNR34型)先行試作車。R33 GT-R V・specをベースに、前後にドライカーボン製ディフューザーを装着、リアスポイラーをR34相当に変更、タイヤを245/40ZR18に変更、リアフェンダーおよびリアピラー内部の構造補強などを加え、1996~1997年ごろ主に栃木、北海道試験場にて実走による過酷なテストに活躍した車両。このクルマの呼称は対外的には「ステルス」だが、テストを担当したドライバーたちは「カラス」と名付け親しまれていたという。
◆11代目スカイライン(V35型)セーフティーカー
2001年6月、11代目スカイラインが発売されたが、同年7月にNISMOでセーフティーカー用として改造されたクルマ。基本的に市販車と変わらないが、4点ロールバー、4点式フルハーネスシートベルト、ヘッドランプおよびテールランプにフラッシュライト取り付け、ルーフランプ(黄色・緑色)などが追加装備されている。2001年8月から2004年3月まで富士スピードウェイにて、2004年4月から2008年3月までスポーツランド菅生にて、セーフティーカーとしてSuper GTなどで活躍した。