(01)<マーコス>(英)(1959~72)
「マーコス」は「ジェム・マーシュ」(Jem Maresh)と「フランク・コスティン」(Frank Costin)によって1959年誕生した。車名の「Marcos」は両者の名前を繋げたものだ。経営を担当する「マーシュ」はドライバーとしても知られているが、元々はエンジニアでオースチン・セブンのチューニングパーツの製造・販売をしていた。一方、設計を担当する「コスティン」の方は、第2次大戦中大活躍した万能双発戦闘時「デハビランド・モスキート」の開発に従事しており、エンジンとプロペラ以外は木製と言われたこの飛行機の経験は「マーコス」にも活かされた。
・「マーコス」の試作1号車は1959年完成し「ザイロン」と名付けられたが、この車のシャシーはベニヤ合板で造られていた。前半分はカニ目の「オースチン ヒーレー・スプライト」にそっくりで可愛いが、後ろ半分はなんとも不釣り合いで、「醜いアヒル」と綽名された。1960年から市販されると、空力に優れ、木製の軽い車体は993ccの非力エンジンながらレースでの戦闘力は高く、後年名ドライバーとなった「ジャッキー・スチュアート」などもこの車で育った一人だ。(生産台数6台)
(参考 01-0abc) 1959 Marcos GT Xylon
・1961年デニス/ピータ・アダムス兄弟が設計陣に加わり、「ザイロン」の改良の改良型「ルートン・ガルウイング」を完成させた。この車は1964年鈴鹿サーキットで開催された「第2回日本グランプリ」に2台が参加した。英国本国では1リッタークラスでは数々の実績を挙げていた「マーコス」だが、日本では全く知名度が無かったこの車は、「Marcos」として届け出たにも拘らず、主催者側が「Marco」が2台で「s」が付いていると勘違いして車名「Marco」としてプログラムにも記載されてしまった。
(参考01-1ab) 1964 Marcos GT Luton Gullwing
・1964年アダムス兄弟の手で「醜いアヒル」から脱皮した新しいスマートな「マーコス1800GT」が誕生した。シャシーは依然として木製フレームの改良型だが、エンジンはボルボ製1780cc 114psで従来の約2倍となったが、装備の充実で重量が増加し性能的には変わらなかった。ただ車の性格としてはレース志向からロードゴーイイングGTとなり、レース目当ての従来の顧客層は離れたが、逆にアメリカ輸出が好調だった。
(写真01-2ab)1964 Marcos 1800 GT (2001-05 モンツア・サーキット/イタリア)
・その後「1800GT」はコストダウンのため次々とエンジンを取り換え、67年にはフォード・コルチナの1498ccを、68 年には1599ccを搭載した「マーコス1500GT」「1600GT」が誕生した。並行して1968年にはフォード・ゾディアック用の6気筒2994ccを搭載した豪華版「マーコス3リッター」が造られた。この車は1971年まで造られたが、1969年秋にはレースを目的としないこの車には軽量だがコストと手間のかかる木製フレームは必要ないと判断され、ボックス断面の鋼管スペースフレームに変更された。
(写真01-3ab)1969 Marcos 3-Litre (1977-04 TACSミーティング/筑波サーキット)
・この車の名前については「マーコス・ミニ」と「ミニ・マーコス」の両方が使われているが、ミニの改造車だから、本稿では「ミニ・マーコス」とした。一般に知られたのは「ミニ」の変わり種として誌面に紹介されてからだろう。1966年から製造が始まったこの車は、もちろんベニヤ合板とFRPによるモノコック構造の特徴を備えており、重量は僅か480kgで、空力的にもオリジナルよりかなり優れていたから、かなりの性能向上が期待できた。オリジナルの「ミニ」の面影は全く想像できないが、たった1か所ドアの外付けヒンジにその面影が残されている。「850GT」と「1300GT」の2タイプがあり、「ミニ」(848cc)と「ミニ・クーパー1300S」(1275cc)のエンジンが使われた。1966年のルマン24時間レースで完走して15位に入り世間をあっと言わせた優れものだ。後年「LM」と名付けたモデルも発売されている。写真の車は日本に最初に輸入された「ミニ・マ-コス」だ。
(01-4abc) 1969 Nini-Marcos 1300GT (1977-04 TACSミーティング/筑波サーキット)
・ミニ・マーコスは1965年から 96年までにMk1からMk5まで変化した。残念ながら僕の手元にはその変化を確認できるだけの資料がないので詳細不明のまま4台登場させた。微妙に細部が異なるが年式による違いなのか、レースのため改造されたのかは判らない。
(写真01-4e~h)ミニ・マーコスいろいろ
・「マーコス」には「マンティス」と名付けられた車が2種ある。これらについては資料が少なく確認できていないが、年式から推定して「マンティスXP」が先で、「マンティス 4シーター」を後とした。この車は1968年の「グループ6・レース」と「ル・マン24時間レース」のために造られたものだが、実は「マーコス」が造ったものではなく、かつて「マーコス」に在籍後、独立していた姉妹会社「アダムス・ブラザース」に依頼して造られたものだ。見た目からは想像が付かないが、この車もシャシーはベニヤ合板製でサイドシルが深く、ドアがガルウイングなのは「ベンツ300SL」と同じ理由だ。ミッドシップに搭載されたエンジンはF1用の「レプコ・ブラバム」(3リッター)で当初は「マーコス・ブラバム」と呼ばれていたようだが、レストア後はいろいろのエンジンが載せられるためか「マーコス・マンティスXP」と呼ばれているようだ。1968年5月26日の「スパ1000キロ・レース」は大雨で71周予定が17周で水浸しとなり走行を止めた。「ル・マン」も出走予定だったが学生運動が激化して秋まで延期となり結局参加できなかった。
(写真01-5a~d)1968 Marcos Mantis XP (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)
・「マーコス」は今でも造られているが、本稿では最初の倒産1972年までを一区切りとした。1970年登場して71年で幕を閉じた最後の車がこの「マンティス4シーター」だ。この時期になると「マーコス」も鋼管スペース・フレームとなり、エンジンはトライアンフTR6用の6気筒2.5リッターを搭載している。2シーターのスポーツカーで伸びてきたメーカーとしては、次の段階として家族も載せられる「4人乗り」が造りたくなるようで、そこで登場したのがこの車だった。しかしボディは「マーコス・ブラバム」(マンティスXP)の素晴らしいデザインをした「デニス・アダムス」が担当したとは思えない程、直線主体のせいか古臭く感じ、2台の「マンティス」のどちらが先か迷った原因の一つだ。評判もあまり芳しくなかったようで、2年間で僅か32台しか造られなかった。
(参考01-6a) 1970 Marcos Mantis 4seater Coupe
(02)<マーモン>(米)(1902~33)
自動車としての「マーモン社」の設立は1902年とされるが、このファミリーには物造りの長い経験があり、1851年の「マーモン・ローラー・ミル」(製粉機)から始まっている。自動車造りの中心となったのは創業者の孫にあたる「ハワードC.マーモン」で、カリフォルニア・バークレー校で工学を専攻し、このファミリー企業の主任設計者となった時は若干26歳だった。最初に造った試作エンジンが「V2気筒」で、2台目が「V4気筒」と続き、「V6」「V8」と、次々と発売される市販車はいずれも「V型」で、しかも最後の「V16」は特に有名だったから、「マーモン」は全部「V型」エンジンかと思って調べた結果は添付した(参考資料) の通りで、1909年から1932年まですべては直列の4、6、8気筒だったのは意外だった。車のグレードとしては高級志向で、価格も高く1915年で較べてみると「マーモン」3250~5000ドル、「パッカード」3750~5000ドル、「フォード」390~975ドルとなっていた。この方針が仇となって1920年代後半の不景気から販売不振となり、最後となった超豪華「V16」も発売時期が世界的大恐慌の真っただ中という最悪のタイミングで1933年幕を閉じる事になった。しかしこのファミリー企業は中々しぶとく、1931年にはハワードの息子「ウオルターC.マーモン」が「アーサーW.ヘリントン」と共同で新会社「マーモン・ヘリントン社」を設立しトラック、軍用車両など景気の影響を受けにくい分野で生き残りをはかり、戦時中は装甲車や、グライダーに積んで奇襲作戦に使う軽戦車まで造った。戦後も競合の少ない分野として.トロリーバス迄造っていた。
(参考 マーモン・エンジン一覧表)
・「マーモン社」はインディアナ州「インディアナポリス」にあった。「インディアナポリス」といえば世界3大レースの一つ、通称「インディ500」といわれるレースが行われる「インディアナ・モーター・スピードウエイ」のある町だ。100年を超える伝統あるこのイベントは毎年5月に開催されるが、第1回は1911年に行はれ、40台が参加した中で、地元の「マーモン」が優勝した。レースは2.5マイルのオーバル・コースを200周する500マイル(約800キロ)で争われ、優勝した「マーモン/レイ・ハミルトン」の平均時速は74.602mph(約120km/h)だった。エンジンは1910年から市販されていた「モデル32」の直列4気筒に2気筒プラスした6気筒で、排気量は477Cu.in(約7800cc)48.6hpだった。
・写真の車は上部が前に出たゆがんだ画像で、初期のレースの写真ではよく見られ現象だが、これはカメラの構造によるものだ。シャッターには大別して「レンズ・シャッター」と「フォーカルプレーン・シャッター」があり、後者は細い隙間がフィルムの上を通過して露光を与える構造になっている。写真の車の場合は「下から上」に移動したもので、シャッターの隙間が車輪の下の部分を通ってから上の部分に行くまでに、車が進んだ分だけ歪みが生じているわけだが、いかにもスピード感が出ている。余談だが120キロで走っているこの車は1秒で約33米(3300センチ)進む。前輪の歪みは下と上の位置の差で約33センチある。このシャッター速度は33/3300=1/100秒と推定される。(フィルムの感度が上がれば早いシャッターが切れるのでこの歪みは小さくなる)
(参考02-0) 1911 Marmon Indy 500 Racer
・「マーモン」は1926年までは3000ドル以上の高級車のみだったが、1927年に至って「リトル・エイト」というホイールベースの短い8気筒を2000ドル以下でリストに載せた。翌28年には「モデル68」という8気筒だが114インチの車を1300ドル台で登場させた。それでもまだ足りなく1929年遂に廉価版「ルーズベルト」の登場となる。セダンとクーぺは「マーモン」としては思い切って1000ドルを切る995ドルまで値を下げたが、一番安い「フォード」は半額の450ドルだった。「ルーズベルト」はその後30,31年と造られ、最後は950ドルまで値を下げたが人気は上がらなかった。
・写真の車は戦前新車で輸入され、戦後一時官庁で使用されたこともあったが、廃車後はCCCJ会長濱氏の下にあり、その後小牧基地に勤務する米人に譲渡され、リムジンボディを現在のようなトウアラーに改造された。最終的には小松市の日本自動車博物館に収蔵されている。当初は1930年製となっていたが、何故かその後1932年製と表記が変えられている。しかしこの車は1929 年から31年までに造られたものなので、32年というのは納得できない。(参考に改造前の箱型のポスターを添付した)
(写真02-1ab)1930 Marmon Roosevelt (1979-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)
・「マーモンV16」は「キャディラック」と共に、世界でたった2つの16気筒・市販車だが、発売時期に恵まれず、経営的には倒産を早めることになった徒花(あだばな)だった。しかし、この車があったことで後世に「マーモン」の名を遺した功績は大きく、実らない「徒花」ではあったが決して「無駄花」ではなかった。この車の企画が始まったのは日本の文献では1928年とあるが、僕の手元にあるアメリカ版の資料では1926年となっていた。この時期マーモンは「ミッドウエスト・エアプレーン・カンパニー」という別会社を造っており、「V16」はここで秘かに開発されたらしい。いずれにせよ「ハワード・マーモン」が「V16」を造ろうと思った原点は、1917年フランスの航空機エンジンの技術視察団の一員として「ブッガティU-16」(並列16気筒)と出会った時とされている。それ以来彼の「ドリームカー」としてずっと温めてきたこの車を造ろうとしたのが、1920年代後半だったのが不運だった。もしアメリカが大戦の戦後ブームに沸いていた20年代前半(バブル時期)だったら華々しい展開があったことは想像できる。「マーモン」が感銘を受けた「ブガッティ」だが「V16」の実現に当たって影響を受けたのは「16気筒」と「アルミ」を多用したことだけだった。ブガッティは直列8気筒を2台並べ2本のクランクシャフトを持つが、マーモンは45°V型で1本しかない。バルブもOHCに対してプシュロッドで済ましている。エンジンの排気量は491cu.in.(8043cc)だった。一般にお披露目されたのは1931年1月のニューヨーク・モーター・ショーで、4ドア、4ライト(窓)とあるので後年「Style149」となった車のプロトタイプとみられる。ボディのデザインは全てが「ウオルターD.ティーグ」によるもので、8種が用意されカタログに載せられていたが、有名なコーチ・ビルダー「ロ・バロン」の手で入念に作られる、いわゆるセミ・カスタムだった。発売期間は1931~33年の3年間だが年式による外見の変化はない。標準モデル5人乗りセダンの価格は、発売時の1931年は5200ドル、32年は5700ドルだったが、最後の33年には4825ドルまで値下げしていた。
(写真02-2)1933 Marmon V16 Le Baron Victoria (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
(参考) 8種のカタログ・モデル 生産台数は推定390台で、タイプ別には図面上から①Style140 5-Sedan/109台、②Style141 2-Coupe/19台、③Style143 5-Victoria/34台、④Style144 2-Conv.Coupe/44台、⑤Style145 5-Conv.Sedan 47台、⑥Style146 7-Sedan/63台、⑦Style147 7-Limousine/15台、⑧Style149 5-Club Sedan/56台、その他3台はシャシーのみで売られたから別のボディが載せられた。
・このモンスターが戦前2台も日本に輸入されていた。最初の車は、「ピアスアロー」や「アルビススピード20」などを所有していた「李鍵公」殿下が発売直後の1930年購入されたものだが、戦後消息を聞いた事は無いので戦災で焼失してしまったと推定される。最後は黒塗りの車で年式は定かではないが見た目は1930年型と変わりはない。オーナーは北海道の大きな百貨店の経営者との事だった。
(参考02-2fg)日本に輸入されたマーモンV16
(03)<マートラ>(仏)1964~69
自動車メーカーとしての「マートラ」の誕生は、1964年「ルネ・ボネ」が、ミサイルで知られる「アンジェン・マートラ社」の自動車部門としてその傘下に組み込まれた時からだ。しかしこの車の前身を辿(たど)れば、1938年「ルネ・ボネ」と「シャルル・ドーチェ」の2人が造った「DB」がそのルーツだ。しかし1962年に至って両者の意見が対立し「DB」は解体し、「D」(シャルル・ドーチェ)は別会社「CD」を作って去り、残った「B」は自分の名前「ルネ・ボネ」を社名として会社を相続した。1963年誕生したのが、一般の市販車としては世界で初めてのミッドシップ・エンジンの車「ルネ・ボネ ジェット」だ。エンジンは1963年からスポンサーとなった「ルノー」の4気筒996cc/1108ccを積んで、63,64年のル・マンに挑戦した。しかし結果は芳しくなかったため翌年の提供が見込めなくなった。この窮地を救ったのが「マートラ」だった。「マートラ(正式には「アンジェン・マートラ社」)は実業家「マルセル・シャサニー」が持って居た企業グループの中核となる会社で、「ルネ・ボネ ジェット」のボディのためのFRPを供給していた「ジェネラル・ダアプリカシオン・プラステイク」もその傘下にあったという関係だった。ミサイルの先駆者として成功した結果、闊達な資金を保有していたから、グループには各分野の企業が集まっていた。だからその中に自動車メーカーを加え、更に充実を図るべく危機に瀕している「ルネ・ボネ」を救済したわけで、1964年10月「マートラ・ボネ」と名前を変え傘下に組み込んだ。翌月「マートラ・スポーツ」と名前を変え「アンジェン・マートラ社」の自動車部門として再スタートした。
(写真03-1abc)1966 Matra Jet (1989-10 第5回モンテミリア/神戸ポートアイランド)
写真の車は1966年型とされているので「マートラ」になってからのもので、ボンネットの先端には「Matra Sports」と入っているが、ボディサイドには「Rene Bonnet」と旧名もしっかり入っていた。
(写真3-2abc)1966 Matra Jet (2008-01 VWミュージアム/ドイツ・ウオルフスブルグ)
この車も表示には1966年製造とある。前項と同じ年式だが細かい相違点がありこちらの方が新しいように感じた。ボンネットの先端には文字は無く、替りにバッジが付いている。バンパーは無いがオーバーライダーが付いている。タイヤにホイールキャップがある。「Rune Bonnet」の文字は見当たらない、などだ。ミッドシップに積まれたエンジンが良く見えるが、通常はカバーが付いたとしても「騒音」「熱気」「臭気」からは逃れられなかっただろう。
(写真3-3abc)1970 Matra 530A (1970-03 第3回東京レーシングカー・ショー/晴海)
・前項の「マートラ ジェット」は高価なうえにかなりマニアックな車で一般市場向けでは無かったことを踏まえ、新たに企画されたのが「M530」だった。ミッドシップのレイアウトはそのまま踏襲されたが、実用性を重視したスポーツカーを目指し、ミッドシップでありながら、なんと2+2の4シーターを実現してしまった。そのためリアホイールは後に下げられホイールベースは長い。エンジンはスペースを取らないドイツ・フォード15M用のV4 OHV 1699ccがコンポーネントごと採用された結果、リアシートの後ろの僅かな隙間に収まり、その後ろには独立した立派なトランクがある。1970年1台輸入されたのみで、その後正規輸入が図られたが、安全基準が障害となり実現しなかった。因みに親会社のミサイルの最高傑作の名は「R530」なので、「M530」はそれにあやかったものと思われる。
(04)<マイバッハ>(独)1909~1966
戦後自動車に興味を持った僕にとって、「マイバッハ」という名前には全く無縁だった。色々調べたが戦前我が国に輸入された形跡は見つからなかったし、戦後になってもクラシックカーのイベントでも一度も見た事は無かった。しかし戦前の「マイバッハ」は、「ホルヒ」「メルセデス」と並ぶドイツの3大高級車だった。創立者の「ウイルヘルム・マイバッハ」は1846年シュツットガルトの北にあるハイルブロンという町で家具職人の家に生まれたが、早くに両親を失い9歳から「兄弟の家」という孤児院に引き取られた。約10年後ここに機械科長としてやってきたのが若き日の「ゴットリー・ダイムラー」で、ここで働く有能な少年「ウイルヘルム・ダイムラー」に目を付けた。とあるので孤児院「兄弟の家」は経営資金を得るために工場も併営していた様だ。当時昼間はここで働き、夜は夜学で物理と絵を学んでいたが、さらに上級の学校へ進学できたのは「ダイムラー」の強い後押しのお陰だ。ダイムラーは2年後「カルルスルーエ機械会社」に幹部としてスカウトされるが、その際「マイバッハ」も一緒に転職させ、このあと「マイバッハ」は1900年「ダイムラー」が亡くなるまで良き共同研究者として彼を助けた。1872年「ドイツ・ガス機関会社」を設立し4サイクル・エンジンの開発を目指していた「ニコラス・オットー」と「オイゲン・ランゲン」」は、有能な技術者として「ダイムラー」の招へいを図り、「マイバッハ」と抱き合わせという条件で実現した。この時「マイバッハ」は27歳だった。この後10年間は「ダイムラー」と共にこの会社で開発に従事し4サイクル・エンジンについては一応の完成を見るが、この間の詳細は本項第50回「ダイムラー」(ドイツ)を参照されたい。1882年「ドイツ・ガス機関会社」を辞めたあと、エンジンの小型化に成功し実用化の第一歩が世界初のエンジン付き2輪車、続いて4輪車通称「スチール・ホイール」を完成させる。これらの成功を経て1890年「ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト」を設立した。これが現在の「メルセデス・ベンツ」の始祖である。この前後には1899年「リーメンヴァーゲン」1899年「フェニックス6hp」などが造られ、1900年「ダイムラー」が亡くなると、1907年まで「マイバッハ」が変わって指揮を執った。その間に1900年「メルセデス35hp」、1903年「シンプレックス」など,数々の「メルセデス」を送り出した。1907年「ウイルヘルム・マイバッハは」ダイムラー社を去り、息子の「カール・マイバッハ」(28歳)も父の後を追う。1908年「ツエッペリン伯爵」が大型飛行船のためのエンジンを探していることを知り手紙を送り協力体制が決まった。ここまでは父親の仕事だったが、ここから後の「マイバッハ」については「カール・マイバッハ」が主役となる。1909年飛行船会社の子会社として「ツエッペリン」と共に設立した「航空機発動機会社」は第1次大戦後「マイバッハ発動機会社」と名前を変え、1921年ここから「マイバッハ」最初の自動車「W3」が誕生した。マイバッハが1922年から42年までの20年間に造った車の種類は別表のように一桁とごく少ない。会社のモットーは「絶対的な簡単操作」「絶対的な高級実用性だった。
・「W3」の最大の特徴はペダルコントロールの2速ギアボックスで、常用の1速と、登坂用ゲレンデ・ギアだった。現代のオートマも同じように「D」と「L」の2速だが、「D」は機械が自動的にシフトしてくれる実質3~4段変則だ。しかし「W3」の場合は「絶対的な簡単操作」を最優先した結果「常用1速」にすべてを任せることにした。エンジンは6気筒5.8 ℓ, 72ps/2200rpmで、2.6トンもあった車を始動出来たとしても、極めて緩慢な動きしか想像できない。始動時は登坂ギアを使用したのでは?と疑いたくなるが、シングル・スピードと呼ばれた事実はあるようだ。この位の車に乗る人は自分で運転しないだろうから「運転しやすさ」よりも「実用的な走り」のほうが大事と思うのだが・・・。(さすがに改善の必要を感じ「W5-SG」からは「シュネルガング」と呼ばれるレバーとアクセルで作動する「半自動無音変速装置」を開発した。プロペラ軸と同心の主軸と、同速で回転する副軸があり、主軸がどのギアを選択していても異なるギア比の副軸と組み合わせられるので、本来の2倍の変速数が得られる)
(参考05-0c)1922-28 Maybach W3 22/70 ps
・1922年「W3」、1926年「W5」に続いて1929年に発表された3番目のモデルは、従来の6気筒から一気にV12 気筒を採用した「DS」シリーズだ。この車については2つの疑問がある。博物館で購入した「オフィシャル・カタログ」に記載されていたデータでは、「1929年」「DS7」とあり、実車の正面には「Zeppelin」のバッジがついている。①1929年製なら「マイバッハ12 DS」で、1930年から造られた「DS7」ではなく「Zeppelin」は名乗っていない。②「DS7」なら「1930~34」年製の筈だ。
(写真05-1a)1929 Maybach Zeppelin DS7 Limousine by Hermann Spohn (2003-02フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)
・「DS7」はエンジンの排気量7リッターをあらわす。ギアボックスは3速×2(シュネルガング)の6速となった。この車は「ランドウレット」と呼ばれるスタイルで、運転席のみ屋根付きで、後部席はパレードの際オープンにできる極めて特殊な高級車だ。この車が造られた1930年という時代は世界恐慌の真っただ中で、多くの高級車メーカーが姿を消していった不景気の中でもこのような車の需要はあったのだろうか。
(写真05-2abc)1930 Maybach Zeppelin DS7 Landaulet (2008-01 ジンスハイム科学術館/ドイツ)
・この車は「DS8」でエンジンは8リッターとなった。この博物館の基となったのは「シュルンプ兄弟」のコレクションだが、当時からブガッティ・ロワイアルをはじめ、名だたる高級車は薄暗い夜景の設定で展示されているので、写真を撮るには極めて条件が悪い。この当時はまだフィルムの時代で、カラーフィルムの感度はASA200(最近のデジタルカメラISO200相当) しか無かったから,絞り開放で、シャッター速度25分の1秒が限界だった。露出不足は覚悟の上だが、ピントが甘くブレもあり残念な結果だ。
(写真05-3ab)1934 Maybach Zeppelin DS8 Drophead Coupe by Graber (2003-02 フランス国立自動車博物館)
・この車も前項と同じV12、8リッターの「DS8」シリーズの1台で、中でも一番お洒落な車だ。「スポーツ・カブリオレ」と名付けられたボディは、リムジンと同じシャシーに、ぐっと低められたキャンバス・トップがスポーティさを演出している。2トーンの配色も今まで見たことのない変わった色だ。ランドウ・ジョイントの後端が一段と低くなっているのは、裏張りをした厚い屋根をオープンにした際格納するスペースを確保するための配慮で、後方視界を確保するためだ。
1934 Maybach Zeppelin 8Litre Spohn tourer (1995-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
・1929年12気筒「DSシリーズ」が発表されたが、大型6気筒の「Wシリーズ」は「W6」(6995cc/5184cc)となり1937年まで併売された。そのほかに1935年には一回り小さい「SWシリーズ」が追加された。1935~36年「SW35」(3435cc)、1936~38年「SW38」(3791cc)、1939~41年「SW42」(4170cc)をもって戦前のマイバッハの乗用車は幕を閉じた。12気筒「DS8」が38,500RM、「W6が26,500RM、だった時に、「SW38」は13,800~23,700RMとお手頃?だった。カブリオレの屋根を下したとき、収納に配慮しない設計だと、このように後方視界を著しく阻害する。
(写真05-4ab) 1938 Maybach SW38 Cabriolet by Glaser (1995-08 モンタレー・コンベンションホール・オークション)
・最後に戦後一時復活した「マイバッハ」を取り上げてこの項を終わりとしたい。 1952年「カール・マイバッハ」が現役を引退し、ダイムラー・ベンツが株式の50%を所有することになったが、1966年にはその傘下に組み込まれた。1997年ベンツの「Sクラス」をベースにしたコンセプトカー「メルセデス・ベンツ・マイバッハ」を東京モーターショーで発表し、往年の高級車「マイバッハ」の復活の兆しを見せた。
(参考05-5a)1997 Mercedes Benz Maybach
・それか5年を経て2002年ようやく待望の「マイバッハ」が復活し、ショート・ホイールベースの「57」と、ロングホイルベースの「62」の2モデルが登場した。モデル名の由来はヨットで使われている命名法と同じように全長の概数で実寸は「57」(5,723mm)、「62」6,165mm)だった。エンジンはSOHC 水冷V12 Twin-turbo 5513cc 550ps/5250rpmの M285型が搭載されている。
(写真05-6a~d)2004 Maybach 62 Zeppelin (2003-10 東京モーターショー/2007-05 銀座・並木通り)
・2009年には100台限定の「ツェッペリン」なども登場したが期待したほどには人気が上がらず2013年で「マイバッハ」ブランドは打ち切りとなり、それ以降は「メルセデス」のサブネームとして「メルセデス・マイバッハ」として何とか名を残している。
―― 次回からは「マセラティ」が何回か続く予定です ――