過去120年ほどの間、クルマを動かすのはガソリンエンジンが主役であったが、近ごろそのスターの座を奪おうとしているのが電気モーターである。やがて街を走るクルマのほとんどが電気自動車になるのではないかという一大変革期を迎えようとしている。わが国では敗戦直後のガソリンの入手が困難な時代、比較的余裕のあった電気を使おうと電気自動車が流行りかけた時代があった。当時の電気自動車「たま」については「M-BASE」第2回に紹介している。
アメリカでクルマが造られ始めた20世紀初頭、草創期のアメリカ車には多くの電気自動車が存在した。当時のガソリンエンジンを動力とするクルマの操作は現代の様に簡単ではなく、操作が簡単で静かな電気自動車は女性に絶大な支持を得ていた。
今回はその頃の電気自動車の広告のいくつかを紹介する。
これは1907年のスチュードベーカーの広告で、ガソリン車と共に、右下には電気自動車(Electric Stanhope Model 22 B)が載っている。1902年にスチュードベーカーが最初に発売したのは電気自動車で1912年まで続いた。ガソリン車の発売は1904年であった。電気自動車の生産2号車はトーマス・エジソンに買い上げられている。最高速度は23km/h、1充電での走行距離は65kmほどであった。1906年には「電話ボックス」と揶揄されたクーペモデルや450kg/1100kg/2000kg積みトラックも生産されたが、1902年~1912年の間に生産されたスチュードベーカー製電気自動車はわずか1841台であった。ガソリン車には丸ハンドルが装着されているが、EVにはまだティラーハンドル(舵棒)が使われている。
上の2点は1909年ベーカー・エレクトリックの広告で、上段のモデルは「Queen Victoria」でティラーハンドルだが、下段の「Runabout」には丸ハンドルが採用されている。上段の広告コピーは「自動車界の貴族たち。ベーカー・エレクトリックは、最も安全で、最もコントロールしやすく、最もシンプルな構造で、他のどのエレクトリックカーよりもスピードと燃費に優れています。ベーカー・エレクトリックは、品質と効率性を重視し、エレガントなデザインと完璧な機械性能を求める、こだわりのある人々に選ばれています。」とあり、下段の広告コピーには「1909年の電気センセーション。ベーカー・エレクトリック・ランナバウトは、異例のスピードと100マイルの走行距離(1充電走行距離161km)を誇ります。高速で、騒音もなく、混雑した道でも簡単にコントロールできます。」とある。
ベーカー・モータービークル社(The Baker Motor Vehicle Co.)は1899年にウォルター C. ベーカー(Walter C. Baker)によって設立された。クルマの生産は1900年に2シーターの電動バギーでスタートしている。
上の2点は1909年のベーカー・エレクトリックのカタログから抜粋したモデルラインアップ。実に多くのモデルが用意されており、ティラーハンドルから丸ハンドルに変わる過渡期であったようで両者が混在している。参考までにモデル名を列記すると、1列目は「Queen Victoria P Chassis」、2列目は、左から右へ「Straight Front Coupe」「Queen Victoria P “Special” Chassis」「Extension Front Coupe」、3列目は「Runabout」「S Coupe」「Roadster」、4列目は「Brougham」「Landaulet」「F Coupe」、5列目は「J Victoria」「Surrey」「Suburban」、6列目は「Stanhope」「Imperial」「Light Express Wagon」。残念ながらこのカタログにはスペックの記載は無い。
これは1911年に発行されたベーカー・エレクトリックの広告。コピーに「ベーカー・エレクトリックの社会的プレステージは、最高のものを求め、それに対価を払う女性たちによって長年にわたって洗練された使われ方をしてきた結果です。その優美なデザインは、このクルマに際立った個性を与えています。騒音のないシャフトドライブと贅沢な乗り心地は、社交用に最適です。」とあるように、おそらくアメリカ車初となるシャフトドライブが採用された。
これは「LIFE」誌1912年5月2日号に掲載されたベーカー・エレクトリックの広告。コピーは「この国で作られた最高値のエレクトリックだけど、維持費が一番安い。長い目で見れば、断然お得なのです。」とあり、イラストの下には小さく”シャフトドライブを世に知らしめた一台”とある。
これは1912年に発行されたベーカー・エレクトリック トラックの広告。1907年に450kg~5トン積トラックも発売された。1912年終わりには200社以上がこのトラックを使用していた。コピーには「ベーカー・エレクトリック トラック8台で荷物を配送すると、驚くほど低コスト。クリーブランドにあるハル・ブラザーズ社が発表した半年間の実績値によると、半年間の荷物1個あたりの平均コストは4セントに満たず、ホリデーラッシュの緊張とストレスの時期である12月には2.7セントにまで下がったという。以前のコストは荷物1個あたり10セントだった。」「ワシントン州スポケーンの急な坂道で、ベーカー・エレクトリックがクレセントデパートの荷物を配達している。そのコストは、運転料、メンテナンス、金利、減価償却費をすべて含めても、荷物1個あたり4セント弱である。」とあり、EVトラックの経済性を訴求している。
これは1915年に発行された広告。社名が「The Baker R & L Company」に変更されている。ベーカー・エレクトリックは1905年に約400台、翌1906年には約800台と順調に業績を伸ばしていったが、1910~1914年をピークに販売は下降し、1915年にローチ&ラング(Rauch & Lang)社と合併したが、起死回生ならず1916年に生産を終了した。
これは1919年に発行されたローチ&ラング・エレクトリックの広告。会社名はThe Baker R & L Companyのままだが、ベーカー・エレクトリックの生産はもはや行われていない。
これも1919年に発行された広告。会社名の変更はないが「ローチ&ラング・エレクトリック」の名前が「ローラング(Raulang)」に変更されている。
上の6点は1909年バブコック・エレクトリック(Babcock Electric)のカタログから抜粋したもの。重いバッテリーはこのように前後に分割して搭載。下段の写真には充電器が写っているが、当時、充電のためのインフラが整備されていたとは思えないので、EV所有者にとってオプション設定されていた充電器は必須アイテムであったろう。
これは1912年に発行されたハップ・イェイツ・エレクトリック コーチの広告。コピーは「電気自動車は、単なる贅沢品から、社会的地位のある女性にとって実用的な必需品になりました。そして、額縁が絵を、セッティングが宝石を引き立てるように、できる限り彼女の外見を引き立てるようなものを選ぶべきです。
不格好で堅苦しい高床式の馬車に乗る女性はほとんどいない。それはポスティリオン(馬車の御者)、アウトライダー(馬車の従者)、クリノリン(張り入りスカート)の時代のものです。ドレスデンの羊飼いがノアの箱舟に乗るようで、スリムでシックで可憐な現代女性は、この馬車には似つかわしくありません。
ハップ・イェイツの低床式構造がすぐに気に入ったのはそのためであり、今日、この車が流行の車であるのはそのためです。中世の馬車製造の伝統から初めて脱却し、20世紀のニーズに合わせて設計された20世紀のタウンカーなのです。そして、その成功は、これを真似ようとする試みが広く行われたことが、最もよく証明しています。」とあり、当時のクルマの進化の様子がうかがえる。
ハップ・イェイツ・エレクトリックには6種類のモデルが設定されており、価格は1750~5000ドルであった。ちなみに同じ年のフォードは590~900ドル、キャデラックは1800~3250ドルで買えた。
ロバートC. ハップ(Robert Craig Hupp)は1910年にハップ社(Hupp Corp.)を設立。その子会社の一つ「Hupp-Yeats Electric Car Co.」が1911年にEVの生産を開始した。しかし、ハップ社に没頭しすぎたため、1908年に設立したハップ・モーター・カー・カンパニーのパートナーとの不和を招き、1911年9月にハップ社の株式を売却し、退社した。その時社名がこの広告にある「R-C-H Corp.」に変更された。EVの生産は1916年まで続いた。
これは1913年に発行されたデトロイト・エレクトリックの広告。コピーの最初の部分は「乗って、出発する! デトロイト・エレクトリックなら、それだけでいい。手や機械によるクランキングも、シフトレバーも、クラッチも、騒音も、煩わしさもありません。乗って、出発する。車を走らせるのは、自分の体を動かそうとするのと同じくらい大変なことなのです。デトロイト・エレクトリックは、まるで自分の体の一部のように、あなたのあらゆる欲求に応えてくれます。」とある。ボディーパネル、ルーフ、フェンダーはアルミ製。1充電走行距離はバッテリーの選択によって、97km、121kmまたは161kmであった。
デトロイト・エレクトリックは1907年にアンダーソン・キャリッジ・マニュファクチャリング社(Anderson Carriage Mfg. Co.)によって生産開始された。1909年には約650台生産し、その後は年間1500台ほど生産していた。1911年に社名をアンダーソン・エレクトリックカー社に変更している。
これは1920年に発行されたデトロイト・エレクトリックの広告。第1次世界大戦が終結後売り上げはダウン。1919年に社名をデトロイト・エレクトリックカー社に変更している。1909年からこの広告のようなダミーのラジエーターグリルを付けたモデルも造られ。1911年にはアンダースラングシャシーに架装されたスポーティーなロードスターも存在した。しかし、1935年以降の生産量は極端に少なくなり、1938年に生産をストップした。
これは1915年に発行されたバッファロー・エレクトリック(Buffalo Electric)の広告。バッファロー・エレクトリック・ビークル社(Buffalo Electric Vehicle Co.)は1912年~1915年の間EVの生産を行っていた。
これは1915年に発行されたミルバーン・ライト エレクトリック(Milburn Light Electric)の広告。ミルバーン・ワゴン社(Milburn Wagon Co.)は1848年にジョージ・ミルバーン(George Milburn)によって設立された、アメリカ有数の馬車と乗用馬車メーカーであった。しかし、T型フォードの登場によって乗用馬車の需要は急速に落ち込み、活路を自動車ボディー製造に切り替えていった。1914年には自社ブランドのEV、ミルバーン・ライト エレクトリックを発売する。設計は、後にバンタム・ジープの基本レイアウトをわずか二日でまとめたと言われるカール・プロブスト(Karl Probst)であった。
このモデルは4人乗りクーペでホイールベース100in(2540mm)、車両重量2100lb(953kg)、バッテリーは20セル(40V)、速度は8~19mph(13~31km/h)、1充電走行距離50~75mile(81~121km)。価格は1485ドルであった。クーペのほかにロードスター(価格1285ドル)とデリバリー(価格はシャシーが985ドルでボディーは+100ドル~)がラインアップされていた。
これは1915年ミルバーン・ライト エレクトリックのカタログに載っていた充電器の紹介ページ。リンカーン・エレクトリック社製の充電器で、操作は簡単で子供でも扱えると記されている。説明には「このチャージャーを使用することで、バッテリーの寿命を約25%延ばすことができると確信しており、その使用を奨励するため、魅力的な価格で提供します。」とあり、110~220V 60サイクル電源用は130ドルであった。
これは1916年に発行されたミルバーン・ライト エレクトリックの広告。このモデルはブローアムで、ホイールベース105in(2667mm)に延長され、バッテリーも60Vを積んでいる。価格は1585ドル。
ミルバーン・ワゴン社は1921年までビュイックのボディーの生産を行ってきたが、1923年2月にボディー工場をGMに買収されオールズモビルのボディー生産を開始。同時にEVの生産を中止している。
上の2点は「The House Beautiful」誌1920年7月号に載ったオーエン・マグネチックの広告と、搭載されていたエレクトリック・トランスミッション。トランスミッション前方の発電機は5L 6気筒エンジンのクランクシャフトに直結されており、発電された電気でトランスミッション後方のモーターを駆動して走行する。発電機とモーターは同軸上にあるが機械的な接触は全くない。24Vバッテリーによって低速でのモーター駆動も可能という、日産e-POWERの元祖のようなクルマであった。1915年に発売され、オペラ歌手ジョン・マコーマックやエンリコ・カルーソなど、有名なオーナーがいたが、非常に高価で、1918年には6500ドルに達し、販売は振るわず1921年に生産は中止された。1918年型キャデラックは2590~4285ドルで買えた。
ここに紹介した電気自動車はほんの一部に過ぎず、20世紀初頭のアメリカでは、大小100社を超える電気自動車メーカーが存在した。しかし、1920年まで生き残ったのは片手で数えられるほどであった。なかにはプロトタイプのみで1台も販売に至らなかった会社もあるが、電気部品は外部から調達し、ボディーはボディーメーカーに作らせればよく、比較的簡単に参入できたのであろう。これは現代でも同じような状況が見られ、特に中国では雨後の筍のようにEVが誕生している。