第2回 国産ワンボックス誕生記

2021年9月27日

 1940年代から第二次大戦の終結までには、弱小メーカーによる電気自動車などが製作され、中にはボンネットのないキャブオーバー型も製作されたが量産という数には届かなかった。そうした中で日産が1936年に米国グラハムページ社の設備と図面を買取り、大型乗用車とトラックを生産したが、そのうちの80型トラックはボンネットの短いキャブオーバー型だった。
 日産の横浜工場が戦火をまぬがれたのは米国製設備があり、戦後に米軍駐留のトラック修理基地が、1945年から社長を務める山本惣治(元日産自動車社長)の富士自動車よって追浜に造られたことなども関連していたようだ。
 戦後を迎え、日産は戦前型のダットサンを生産したが、トヨタは1947年1月にSA型乗用車が完成したが、これは1947年12月公布の小型車規格にあわせたもの。しかし乗用車は贅沢品でまだGHQの生産許可が出ず、実用的なSB型トラックが4月に発表された。小型車は1948年1月の道交法施行で全長4.3m、全幅1.6m、全高2.0m、排気量1500cc以下と定められた。
 トヨタSB型シャシーはフレームを低く配置し汎用性が高く、ピックアップやパネルバン、バス、タクシーなどが生み出され、やがてSKB型ライトトラック(後のトヨエース)、RK型ルートトラックへと発展してゆく。日産はトヨタに刺激されてボンネット型ジュニアを経てキャブオーバー型のキャブオールを生み出す。
 トヨタのSKB型ライトトラックはSB型をキャブオーバーにして荷台を大きくしたモデルで、当時の商店で人気を得ていた三輪トラックの牙城を崩すべく安価でデビューさせた意欲作だった。だが三輪トラックメーカーも黙っておらす、対抗車を登場させてゆく。それは丸ハンドルを採用した三輪トラックの技術を転用した、3人乗りシートの下にエンジンを置くレイアウトの採用だった。
 旧来はトヨタも日産もエンジンはボンネットトラック同様にエンジンが前輪部付近にあったが、三輪のくろがね、マツダなどがシート下エンジン方式を採用し、やがて、あらゆる会社が同手法を追いかけるようになった。またすべての三輪メーカーは個人商店向けに軽三輪車を手がけ、それは大衆向けの軽4輪に発展してゆき、1970年代まで軽4輪がワンボックス車時代をリードするようになる。
 エンジンの配置もフロント、リア、ミドシップと設計者達の工夫がこらされるようになる。もちろん海外車の情報も必然的に入る機会が多くなり、デザイン面でも凝った造型がなされるようになる。小型車の規格も1960年9月から全長4.7m全幅1.7m排気量2000cc以下に拡大化、ライトバン市場も大きくなり、小型トラックの代表車トヨエースがバン型のみ1967年にハイエースに進化、デザインもセミキャブからワンボックスとなりスマートさを増す。
 日産も1973年にトラック系のキャブスター&キャブオール系をミックスしたキャラバンを投入。さらに1982年に2BOXミニバンの元祖とされるプレーリーが角形デザインで登場、異質なスタイルだったがグリルとルーフライン部を結びフロントと仮定すると、なんとルノーエスパスに近いフォルムになるのに注目。また同年にトヨタが宅配需要に対応してハイエースにクイックデリバリーを設定、1950年のルートバン的フォルムがおしゃれだった。そしてトヨタのハイセンス車、エスティマが1990年に登場、卵フォルムながらルノーエスパス的なワンボックスで、デザイン面でその影響を感じるフォルムだった。
 そして、ワンボックス車が安全対策上から海外ではフロントボンネット部を持つミニバン的なデザインになってゆき、2008年にはダイハツ・グランマックス(日本ではトヨタ・タウンエース/ライトエースとして販売開始)がそれまでの商用バンの代表車マツダ・ボンゴに代替えされて各社の商用車となる。他方で2009年登場の日産バネットNV200がボンネットを持つ2BOXミニバンとして登場。
 2020年以降も日本国内では道路事情とナンバーなどの問題からワンボックスのハイエース&キャラバンが主流だが、日本以外の欧米、東南アジアでは「セミ2BOX車」があたりまえとなり電気自動車も存在する。自動車への電気供給事情的に日本は諸外国と異なるというのがトヨタなどの考察とされるが、今後も変化するだろう、ワンボックス車達に注目してゆきたいものだ。

トヨペットSB型トラックのカタログに登場する特装車の数々。ライトバンはトヨタ車体、ピックアップはセントラル自動車で生産。トラックのみならず後部を乗用車にしたタクシー仕様も製作された。車体に大きな文字を書くことで宣伝になるとのコピーがみられる。異色車は上部中央のワンボックストラックが存在したことである。

1951年5月、日産が資本参加をする前の新日国工業(後の日産車体・オートワークス)の京都工場で生産されたルートバン。そのデザインは戦前の米メトロがベースなのは明らか、ゆえに先進的デザインを誇った。本来は専売公社タバコ配送車だったが、本章の最初の画像にある同モデルのパネルの文字から察すると、日本通運の航空貨物用の運搬にも使われたようだ。メトロ同様に運転手1名乗りのウォークスルーバンであった。

1952年登場のトヨペットライトバス。左右にタイヤハウジング、中央部にエンジンが配置され、足元はペダル類が占領しているのがわかる。このため、この後に設計されたトヨエースやルートトラックは前輪を前側に100mmほど移動させ、エンジンルームを持つセミキャブオーバータイプにして、狭いながら足元を確保してゆく。

1954年登場のトヨペットライトトラック(SKB型)、三輪トラック1トン積=価格45〜47万円をターゲットにコスト低減車として開発、簡易なハンモック式シートはシトロエン2CVを参考にしたとされる。後ろヒンジ前開きドアで乗降しやすくしているのは高速道路のない時代ゆえか。ワンボックス車としてはライトバンが加わり、1956年第3回全日本自動車ショウ当時の価格は、発売当初のトラック62.5万円が56万円に下がったものの、パネルバン62万円、ライトバン70.5万円と高額だった。1957年に車名がトヨエースになってから量産体制が本格的になり値下げ断行され、トラック49.5万円に対しライトバン67.1万円となる。

1956年に半年ほど生産されたRK52型ルートトラックには、クラウンのR型OHV1500ccエンジンが搭載され登場。機構的にはトヨエースの拡大版といえた。当初は本社製シャシーが愛知県刈谷市のトヨタ車体に送られて生産されたが、1956年12月以降は神奈川県横須賀市の関東自動車にシャシーが送られ生産され、首都圏などの需要をまかなってゆく。

1957年から投入されたRK62型ルートトラック、生産体制が整いルートバンに加えてパネルバン、ライトバン、ルートバス、宣伝車などがラインナップ。1958年には3psアップの58psになり積載量2トンのRK70型に。さらに小型車全長の4.3から4.7m拡大化によりRK75型となる。1959年RK85型以降はエンジンをシート下にして居住性改善、車名もダイナに変更する。なおこのRK85型までシャシーはボンネット型スタウトと共通であった。ダイナのセミキャブは1963年から専用シャシーになり1977年まで生産。1977年以降はダイハツデルタ、日野レンジャー2と部品の共用化をはかってゆくが、ワンボックス車については1967年以降ハイエースにゆだねることになる。

1957年末に発売された日産ジュニアキャブオールC40には当初からキャブオーバーバンVCがラインナップされた。ジュニア同様にライセンス生産されてきた英オースチンA50のOHV1500cc50psエンジンを搭載、初代のみエンジンを前に引き出せる方式を採用していた。このため運転席中央にエンジンスペースがあり乗員2名となった。だがライバルメーカー達が運転席3名乗車をアピール、日産も1960年140系からシート下エンジンとなる。フルサイズのワンボック車としてキャラバンの先駆車といえるモデル。

1957年に国産車で初のフルキャブオーバー車として登場したのがくろがねマイティだった。1100ccNA型は三輪トラック用V型2気筒SV(サイドバルブ)エンジンをシート下に搭載、3名乗車を実現した。1500ccNB型はくろがねの日本内燃機工業が、オオタ自動車を吸収して新たに日本自動車工業として発足してから発売したもの。1958年全日本自動車ショーにはトヨエースより安価なNA型トラック45万円、ダブルキャブ54万円、ライトバン62万円に新開発OHV4気筒1500ccを搭載したNB型を展示して注目された。ただ販売拠点が少なく、せっかくの低価格作戦が生かせなかった。

1958年に登場したプリンスクリッパーは、それまでのキャブオーバートラックをリファインしたもの。1957年のスカイライン登場以降、デザインの良さを認められるようになる富士精密工業は、たま(電気)自動車時代にオオタ製のボディを用いたこともあったから、エンジンをシート下に収めたオオタ&くろがね車をヒントにしても不思議はないであろう。惜しむらくはエンジンからラジエータ部の上部ホースが車体中央に位置してしまったことで、中央の人は足を開く必要があった。しかし山脇慶西のデザインはスカイライン同様に斬新なもので、キャブオーバー車&ワンボックスのデザイン秀作であった。

ダットサンキャブライトは1958年8月に登場、トヨタのトヨエースのヒットに習ってダットサンのシャシー流用で同系の無骨なボディを載せて登場した。モノクロ画像(上)のキャブオーバーの初代ライトバンVA20は乗員2名時600kg、乗員5名時500kg積みで実用性が高かった。トラックの価格39.7万円に対して54.7万円、ライバルのコンマースよりかなり安く、まだ軽のバンは登場していなかった。1961年にスタイルをモダンにしたA120系になり、1964年にリア・スライドドアを国産で初採用したA220系になるが、セミキャブが時代遅れになったイメージがあり、1968年にフルキャブのキャブスター(下)となる。エンジン位置がシート下に後退したためマニア達は「キャブオーバーではない」とする声もある。

マツダ三輪トラックの丸みあるデザインを前2輪化、1958年に誕生したのがマツダ・ロンパーだった。三輪トラックはどういうわけか車両寸法の枠がなかったが、4輪はそうもゆかず、セミキャブオーバーのバンとしてロンパーが強制空冷V型2気筒1100cc、32.5ps、価格67万円が、時代の趨勢により1年後にD1100となり水冷直列4気筒1100cc、46psにパワーアップ。デザインは日大芸術学部で教鞭をとった小杉二郎で2輪は三菱のシルバーピジョン、三輪から4輪はマツダを担当してR360クーぺなどを生んだ。

オオタ号は1935年に三井財閥が太田祐雄の太田自動車製造に資本参加して、新興の日本産業財閥のダットサンと対抗するため高速内燃機機関を東京の東品川に設立、車体を梁瀬自動車が担当したもので、1936年6月の多摩川スピードウェイの第1回国産小型車レースで1−2位独占した名門だった。1937年から立川飛行機の傘下入り、戦後に立飛傘下のたま自動車にボディ供給、フランス・ルノーの輸入も実施。事業拡大のためくろがねの日本内燃機の旧工場を買収したがオオタは1955年に倒産。日本交通の川鍋秋蔵が管財人となり、日本内燃機の経営者となった東急グループがオオタと合併して日本自動車工業が1957年4月に誕生。くろがねはトラック生産に専念することになり、1959年に東急くろがね工業の意欲作くろがねベビーが誕生、軽4輪の先駆けとなり生産トップにもなった。

オオタの創立者、太田祐雄の三男の太田祐茂が、東急くろがねの子会社、くろがね小型自動車製造(株)の技術担当常務時代に設計したのがくろがねベビーで、外観はノーバで注目された東急くろがねデザイン室の伊原一夫。前は横置き半楕円リーフ、後はコイルスプリングの4輪独立サスペンションで近代的といえる。エンジンはオオタの4気筒エンジンを半分にしてOHV化した縦置き水冷4サイクルで18PSを発揮、だがクランクシャフトにバランサーを組む時代ではなく、振動が大きく後発2サイクル車達に市場を奪われた。価格はトラック28.8万円、ライトバン34万円。1960年当初は月産1500台とスバル・サンバーを凌いで関東圏に需要があり、埼玉県上尾に専門工場を建設した。だが小型3-4輪の不振で1962年に会社更生法適用を申請、その後は日産の仕事をして日産工機となった。

英国ルーツグループと提携してヒルマンのノックダウンでスタートしたいすゞの小型車造りは、1959年8月デビューのトラック、エルフが、大型トラックメーカーが放った最初の例となり、その後の日野、ふそうなどに影響を与えた。それまでのトヨタや日産、プリンスなどに比較して基本的構造がしっかりとした感じを与えた。ルートバンも全面に窓を持たせた明るい印象を与えた。価格も明確にしてトラック73万円に対してバンは83万円。前出の日産キャブオールのトラックは73.6万、バン87万円と割安感があった。デザイン面もルーツのコンマーにヒントを与えるほどで「人なつっこい顔面」で、キャラクターのエルフ坊やとともに人気を得てゆく。

日野が1959年10月の第6回全日本自動車ショーで公開したのがコンマース。提携先のフランス・ルノー財団がシトロエン対策で手がけたFFバンのエスタフェテ(第1回参照)を参考にして開発、ルノーからは「真似するな」と釘をされたため、フレームレスのモノコックボディとし、これはバスボディを小型化したもので、前後サスペンションにトーションバーを採用、ルノー4CVのエンジンは54.5×80mm748cc、21psで、これから60×74mm836cc、28psに性能アップ、価格は2人乗り500kg積みバン59.8万円、10人乗りワゴンバス77万円だった。

日野ルノーは初期にはタクシーなどに使われ関東圏の大口需要が多かった、その中古車が自家用車として人気があった。6V電装でセルが回らなくても後部からクランク棒を差し込んで手で回せば掛かりは容易だった。めずらしいところでは1960年にSB食品が「SBガーリック」のPRとして黄色の車体横にエスビーカレー、ルーフキャリアにPRを持たせた俗に「カレー粉ルノー」に1年乗れば無料進呈するというキャンペーンを展開。乗用車が高価な時代に60万円のルノーを なんと100台も提供して注目された。またルノーを医院用に往診ベッド付モデルとした、ドクターカーを提案。コンマースでもベッド付病院車を自動車ショウで提唱していた。バンの価格はトヨエースより安価で期待されたが、販売網も少なく、2年間の全生産量は2344台といわれる。加えて日本でフロントドライブの駆動部品=等速ジョイント技術が確立されるのは、コンマースの生産中止後だった。

ラビットスクーターで自動車業界に参入した富士重工業は、小型車スバル1500P-1試作車の途中、1955年に経営破綻したオオタ自動車の技術陣を受け入れ、軽自動車スバル360などの誕生に結び付ける。スバル360は高額ながら自動車技術の高さを証明しており、次第に大衆に受け入れられてゆく。そうした中で三輪メーカー達がボンネット型軽4商用車マツダB360、ハイゼット、三菱360等を生み市場を得る。スバル設計陣は360の後部を開放して荷台にしたコマーシャルを送り出す他方で360シャシー流用のサンバーを生み出す。手法的にはVWの手法でタイプ2を生んだのと同じだった。外国のキャブオーバー車の文献に「衝突性より前方視認性」のが優るとあり、設計が進む。同じレイアウトは既にくろがねベビーがあったが、2サイクルエンジンの出足とスムーズさ、10インチ小径ホイールで近代的印象を与えた。1961年2月から販売され、ソフトな乗り心地で市場を得て半世紀にわたり愛用された。画像左はデビュー時の広告、右はバンデラックスを主体にした広告。

初代ボンゴは1966年5月発売、キャブオーバー型ながらリアエンジンのため「キャブオーバー車」とはいわないようだ。デビュー時は乗用車ベースのライトバン・ワゴン全盛期で、白タイヤのデラックスが多くラインアップされた。ボンゴはくろがねベビーやスバル・サンバーの合理的なスペース活用術を進めた三番手だが、独特のデザインとアルミ製エンジン採用が注目の的になり、新生ボンゴのファンを増やすきっかけとなった。バン系はスタンダード46.5万円、デラックス50.5万円、乗用車登録のコーチデラックスは64万円。キャブライトに続いて全車後部にスライドドアを持つ。

トヨエースより小さいキャブオーバー車として1967年に10月登場したのが初代ハイエース。廉価車イメージのあったトヨエースのイメージを払拭してモダーンなスタイルで登場。同年トヨエースはライトバンがルートバンに統合され1400cc、65ps、100km/h、63万円、対しハイエースはライトイバンとせずデリバリーバンと命名。1400cc、65ps、115km/h、60.5万円と低価格で、さらなる高速対応車となり人気沸騰。乗用車のワゴンデラックスは1500cc、70ps、110km/h、79.5万円。コミューターは軸距2350を2650mm、全長4.99mとした15名乗りバスで 78.5万円と安価。今日のスーパーロング車の先駆けとなる。

1972年4月に登場するのが、小型車規格で設計されたFFトラックいすゞのエルフマイパックだ。画像下部はアルミバンでキャブと荷室は独立してワンボックスではないが例外としてとりあげた。荷台高450mmが特徴。惜しむらくは搭載エンジンがディーゼルのみ、実際に走らせてみるエンジンが運転席中央前部にあり、その振動と騒音で短距離の配達などは我慢できるが、長距離や高速は無理という感じだった。翌年には350ロングボディも追加されたが、ガソリンエンジン車がライナップされず騒々しい面が目立った。いすゞの意地もあり1978年まで受注を受けた。

トヨタの中型バンがトヨエースからハイエース主体に集約化されたため、日産は1973年2月にキャブスターとホーマーと趣を異にするキャラバンを投入する。車体全周にベルトラインを持たせ、全幅が広く見えるデザインを採用。乗用のコーチとマイクロバス、商用のライトバンDX67.5万円、ルートバン62.6万円、長尺ライトバン73.6万円、乗用コーチ85.7万円をラインナップ、ハイエースとワンボックス市場をリードしてゆくことになる。

日産の意欲作として「びっくり BOXY SEDAN」と命名されて1982年8月に登場したプレーリー。2ヵ月遅れでデビューのマーチ同様に旧プリンス技術陣の設計で、後部ドアは両スライド+センターピラーレスを国内初採用。フラットシート+後部2列回転対座シートを実現。国産ミニバンの先駆車であった。それゆえフロント部はG・ジウジアーロ作のマーチに似て、角形ボディも同様だが、日本ではあまりにもシンプルなデザインは異色な存在ともいえた。しかし海外向けは「スタンザワゴン」「M10」の名で輸出されまずまずの人気を得た。

ワンボックス車の究極といえるのがウォークスルーバンといえるだろう。トヨタは1982年9月に1.25トン車ハイエース、1.5トン車トヨエース、1985年12月に2トン車ダイナを製作。回転式運転席シートなどを備え乗員1名(ダイナBU60VH型は2名乗車可)。トヨエースLH82K型&ハイエースLH24HV型は+1名乗り。今日では通常のワンボックス車というよりもマニアックな車両として扱われている。全高2.52m、全幅1.69m、全長4.5m。ダイナ系は全高2.61m、全幅1.79m、全長5mと意外にも大きい車体を持つ。

ワンボックス車で最もロングセラーを誇ったのがマツダ・ボンゴではないだろうか。特に3代目は1983年9月に登場して1999年にフロントに衝撃吸収ゾーンを設けた4代目になり2020年8月まで、通算37年間も基本的に変らず生産、OEM供給では三菱デリカ、日産バネットとして供給された。筆者は3代目を所有していたことがあるが、安定性が良かったことを記憶している。他のワンボックスに乗るとフラついてしまうことがあったが、ボンゴでは皆無だった。

1990年5月登場のエスティマはEstimable=尊敬すべきの意味で、アメリカでブームとなったミニバン市場向けに海外向け車両のデザイン部門CALTY(キャルティ)がとトヨタ本社が開発。プロトタイプは1989年東京モーターショーに展示された。エンジンを水平に近い75度傾斜させて全高440mmに押さえ、アンダーフロア&ミドシップにマウント、ウォークスルーを可能にした意欲作。海外名はプレビア、タラゴで輸出車種のため車両寸法は小型車の枠を超えていたため、1992年に全長全幅を狭めたエスティマのエミーナおよびルシーダを加えて小型車登録を可能にした。ユニークな外観から「天才タマゴ」とトヨタも呼び、同じモデルを乗り換えるファンも多く、初代は10年間も生産された。

1996年5月登場のステップワゴンは前年のモーターショーに展示されたF-MXのロングボディ車。FF車ベースのボディ造りはこのモデルが最初で独自のデザインで月産1万台を続け、他社が追従することになる。ファミリーユース主眼の設計で人気を得たが高速でのボディ剛性不足もみられ、1999年に剛性アップ=衝突安全設計ボディとなる。画像は2001年4月発売の2代目で、さらなるボディ剛性アップ、新型エンジン搭載による超-低排出ガス認定取得。ワイドフェンダーボディの3ナンバー枠車スパーダも加わる。名称はかつての軽ステップバンに由来、STEPとWGNを組み合わせ1台目のみラインナップはW、G、NとしてWとGは3列シート車、Nは廉価版とした。

トヨタのバン型小型商用車は1967年11月登場のミニエースのパネルバンが最初で翌1968年8月に乗用コーチとバンが加わった。パブリカ800用エンジン搭載、注目すべきは価格が軽に揃えられたことだろう。生産は高岡工場から日野やダイハツに移った。1971年12月にカローラのコンポーネンツを用いたライトエースM10型のバンとワゴンがデビュー、1976年10月にライトエースとハイエースの中間、タウンエースR10が加わる。1979年ライトエースM20型が人気沸騰、1982年11月にタウンエースR26型でバリエーション拡大。1992年1月、ライトエースはタウンエースに統合、フロントスタイルで差別化。1996年10月にフルキャブからセミキャブとして全車2000ccに、フルタイム4WDも加えホンダや日産のFF系に対応させた。そして画像の2008年2月からダイハツとトヨタ共同開発、トラック・バン共用シャシーとしたS402M型が2007年11月発売。衝突安全性に配慮してエンジンはシート下配置とした。生産はインドネシアのアストラダイハツモーターで、海外ではグランマックスと呼ばれる。これを国内導入し2020年にライトエースをタウンエースに一本化、ライトエースは消滅、マツダ・ボンゴ、ダイハツ・グランマックス用にも供給されている。

2009年5月発売のNV200バネットバン。初代バネットC120は1978年11月に1200-1400ccフルキャブ車で登場。2代目C22もフルキャブ。だが1993年10月からの3代目は生産合理化のため、バネットバンとしてマツダからボンゴをOEM供給、1999年6月からの4代目もボンゴがあてがわれた。NV200デビューは2007年東京モーターショーで公開、ルノーカングーやメルセデスのスプリンターバンをスタイリッシュにした感じのデザイン採用。2009年から発売、加えて三菱のデリカバン用にNVは2011〜2019年まで供給された。デザインは2005年グッドデザインに輝くセレナ-キャラバンとヒット作担当の倉岡亨一。

2005年10月からの東京モーターショーでルノーエスパスに近いおしゃれフォルムの「コンセプトD:5」を発表し2007年1月デビュー。電子制御4WDや衝突安全性で最高の評価を得、2007年パリダカのサポートカーで注目を集める。そして2019年2月発売のリファインされたD5は未来志向のフロント部を「ダイナミックシールド」と命名、縦LEDマルチ&ポジションランプなどの外観、内容もスポーツモード8速ATなど、外装とともに驚きのメカを採用してマニア達を驚かせた。三菱は軽自動車にまでD5フォルムを踏襲させ、独自のデザインコンセプトをアピールしている。

日本の道路事情的にワンボックス車の人気が依然として高いが、世界的には安全対策面でフロントエンジンの2ボックスが主流となっている。画像上はフィリピンの全長5.9〜5.2mのハイエース2800ccで左はGLグランディア、中央GLグランディアツアラー、右がコミューターデラックス、欧州向けはプロエースになる。下は全長4.9mの日産NV300=1600cc、ちなみに日本向けキャラバンはNV350、他により大きい全長5〜6.2mのNV400=2300cc、全長4.2〜4.6mと小型のNV250=1500cc、NV200=電気自動車などがラインナップ、パネルバン・クルーバン・コンビバンがライナップされている。安全基準が強化されると、こうした2ボックスばかりになるかも知れないが、電気や水素自動車になると補機類の自由度も出てくるので、新ワンボックス車の可能性も出てくるだろう。

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