三樹書房
トップページヘ
designhistory
第9回 1990年代 国産車「デザイン第4ステージ」
国内外に自社のデザイン研究所を設立に拍車がかかる
バブル崩壊に21世紀を目前に各社生き残りをかけて新価値想像に奔走する激動の90年代
2021.10. 7

1970年代には、トヨタはタウンエースワゴン3/6人乗りのバン(1200/1600cc)と8人乗りワゴン(1600cc)を発表、日産がバネット、キャラバン、そしてホーミー。三菱のデリカにいたっては1960年代に乗用仕様を用意していた。子育て世代には欠かせない存在となったが、これらの車種は商用バンをスタートとしている関係上、純然たる乗用車とは言い切れない部分があった。その後1980~90年代に入り、「乗用車」として開発されたスペースユーティリティ指向のミニバンが登場し始める。
まず、2ボックス型ミニバンの源流である日産プレーリーがBOXY SEDANと銘打って1982年に、翌年には三菱シャリオが世に送り出された。1988年には、マツダMPVがアメリカで投入(日本発売は1990年)となった。

kimura-09-01.jpg
1982年日産プレーリー

kimura-09-02.jpg
1983年三菱シャリオ

kimura-09-03.jpg
1988年マツダMPV

同じころ、トヨタの米国デザイン研究所であるキャルティーデザインリサーチで開発された、ボードの上にタマゴを乗っけたような先進的なイメージ「Egg on the Box」というデザイン造形テーマでミニバンが本社に提案された。このアドバンスモデルを忠実に再現するためにボディの構造からドアースライドレールの位置・形状に至るまで何度も修正され、従来のミニバンとは一味違う新価値を作り上げた。そして、フロアーを低くフラットにして使いやすい室内を得るために、特別にチーフエンジニアが本社から離れた研究所にこもって、エンジンのピストンを水平に倒すなど工夫し、"天才卵"と呼ばれるほどの画期的なレイアウトで、1990年に北米でトヨタ・プレビアという名で発売となった。日本市場にもトヨタ・エスティマとして投入された。マツダもトヨタも新しい形の高級乗用車として宣伝に努め、ミニバンが乗用車として不動の地位を確保し、ミニバンブームに拍車をかけることになった。

kimura-09-04.jpg
1990年トヨタ初代エスティマ

そして、少し出遅れたが、ホンダもミニバンとステーションワゴンのいいとこ取りをしたコンセプトで、従来セダンのハンガーを用いた製造ラインでも作れるようにパッケージングされたホンダ・オデッセイが、1994年に発売された。すると、スポーティーな走りと適度な空間を兼ね備えたミニバンとして大ヒットした。

kimura-09-05.jpg
1994年ホンダ・オデッセイ

デザイン開発では、日本の自動車各社は新しいコンセプトを開発するために、本社プラス出先調査機関であるデザインブランチを国内にも設けていた。トヨタは、東京有楽町に間借りから始まり、九段に引っ越し、そこから三田へ、そして三田から八王子へ徐々に大きくし、1999年に「東京デザイン研究所」としてデザイン調査、モーターショーモデル、アドバンスデザイン、先行開発モデル、を中心に直接生産モデルとは離れた開発を担当しながら成長していった。

kimura-09-06.jpg
トヨタ「東京デザイン研究所」(八王子市)

日産はテクニカルセンターの組織と共にデザインも都心から厚木に移され、そして、2001年、原宿の現在の場所に移転された「クリエイティブボックス」や、目黒のブランチでは、デザイン調査や車両デザイン、アイデア開発やインターンシップなどが実施されている。

kimura-09-07.jpg
日産「クリエイティブボックス」(原宿)

ホンダも朝霞のデザイン本体とは別に原宿に素晴らしい「本田技術研究所 デザインセンター クリエーションラボ原宿」を持ち、マツダは横浜に「R&Dセンター」を持つなど、本社機能をサポートするブランチを海外のみならず国内にも持つようになっていった。

kimura-09-08.jpg
ホンダ「本田技術研究所デザインセンター クリエーションラボ原宿」

また車両開発では、1989年バブル絶頂期には、各社、大量生産の既存の車両に対し、個性豊かな若者の車離れを抑えるために、私だけの車が欲しい、そんな要望に応えようと動きはじめた。
そんな中、日産自動車では、過去に評判の良かった車を再現したり、よりデザインに特徴を持たせたりするなどして少量販売をする「パイクカー」と呼ばれる車両に力を注ぎ、1987年に初代マーチをベースとしたBe-1、パオ、フィガロを発売。

kimura-09-09.jpg
1987年日産Be-1

kimura-09-10.jpg
1989年日産パオ

kimura-09-11.jpg
1991年日産フィガロ

トヨタは、1997年バーチャルベンチャーカンパニーを社内に設立した。このプロジェクトは花王、トヨタ自動車、アサヒビール、松下電器産業(現パナソニック)、近畿日本ツーリストの5社で開始され、その後2000年3月にコクヨ、同年6月に江崎グリコが参入した。業界の壁を超えて、当時の異業種交流のマーケティングを見据えた実験的な取り組みであった(その後、アサヒビール、花王は2002年7月に脱退)。このプロジェクトでは、若者を主なターゲットとして、デザインにおいて従来の車両とは一線を画す画期的な発想で商品づくりが行われ、1990年代末から2000年代前半にかけて個性的なスタイルの「WiLLシリーズ」が販売された。

kimura-09-12.jpg
2000年WiLL Vi

kimura-09-13.jpg
2002年WiLLサイファ

1989年バブル景気のピークを迎え、各社が強気の開発体制で攻め続けていたが、1991年になりバブル景気が崩壊し、景色は一変する。地価下落、不良債権拡大、金融機関の破綻、日本の自動車会社は大幅減益に見舞われ、1993年に日産自動車座間工場は閉鎖、1994年にはマツダがフォードの傘下に入るなどの事態が発生した。
しかし、日本の自動車産業は粘り強い。スズキは1993年、従来の軽自動車のイメージを一新するワゴンRを、ダイハツが1995年にムーヴを発売するなど、軽自動車のトールワゴンを開発した。軽自動車と思わせない室内の広さを実現して、窮屈なイメージを返上した新たな価値を作った。

kimura-09-14.jpg
1993年スズキ・ワゴンR

kimura-09-15.jpg
1995年ダイハツ・ムーヴ

ここで軽自動車の推移を見ると、軽乗用車の販売台数が、1988年15万3685台、1989年39万2489台と徐々に増え始め1990年代に入ると一気に79万5961台に膨れ上がりバブル経済崩壊と時を同じくして販売台数が急増した。そして、不景気の影響か、トールワゴンのような新コンセプトや、1990年軽自動車の規格の排気量550ccから660ccに、1998年全長3.30mから3.40m、全幅1.40mから1.48mに変更され、2000年には最高速度も80kmから100kmに引き上げられ現在のようになったことで、軽自動車の魅力が増したためなのかは定かではないが、1995年には90万台の大台に乗った。1999年には123万6363台と100万台を突破した。(*)
また、普通車では、トヨタは1994年RAV4を発売し、ヨーロッパではおしゃれなタウンカーとして女性にも大変評判が高かった。ホンダは1995年にセダン感覚のクロカンモデルとしてCR-Vを発売。どちらもコンパクトクロスオーバーSUVという新ジャンルの先駆けであった。

kimura-09-16.jpg
1994年トヨタRAV4

kimura-09-17.jpg
1995年ホンダCR-V

初期のSUVは、どうしても本来のコンセプトであるオフロード車のイメージが強く、街乗りにはラフなイメージで、あまりしっくり来なかった。クロスオーバーという言葉の如く、オフロードはもちろん、従来のSUV同様の走破力があり、しかも、街で使用しても頼もしいが優しいイメージで、ショートオーバーハング、ラージタイヤの足元にデュラビリティーを備えたボディを持った安心で頼れる存在という全く新しいコンセプトであった。
そして、この時期の大きな驚きは、日本には9社も自動車会社があるにもかかわらず、輸入車の販売やユニークな改造車を手がけていた光岡自動車が、10番目の乗用車メーカーとして1994年に誕生したことである。
このようなバブル崩壊とそれを乗り越えようという開発ラッシュの中、1990年通産省が、「自動車燃費向上委員会」を設置し、当時の燃費水準に対し、10%改善(2000年)、15%改善(2010年)の目標を設定した。これが直噴エンジンやハイブリッドのような燃費に優れたパワーユニットなど、各社の開発に拍車がかかった。
トヨタやホンダは、ハイブリッド方式で何とか燃費目標を達成しようと取り組んだ。プリウスの開発は、1993年トップダウンで始まったが、トップからの燃費を2倍にするという指示は、環境問題に対するただならぬ思いがあったのだろう。エンジンとモーターの両方のいいとこ取りをして燃費改良しようというのである。私はエンジニアでないのでその難しさはよく分からないが、おそらく1.5倍くらいだと従来技術でなんとかなったのだろうが、2倍と言われれば、従来にない画期的なことを考えるしか無かったのだろう。「G 21」と名付けられたプロジェクトは、Globeの「G」つまり地球上で21世紀も生き残ることのできるファミリーセダン、そんな意味である。
エンジニアに課せられたハードルも高かったが、デザインにもとても高いハードルが課せられた。当時はセダンと言えば3ボックス、そして重量を抑えるために4275mm× 1697mm× 1490mmというコンパクトなサイズの5人乗りで3ボックスセダンを成立させ、しかも21世紀にも通用する造形にしなければならない。3ボックスのシルエットをとると、先進的というよりどちらかというと伝統的な雰囲気の方が強くなってしまう。幸か不幸かこの全長では、とてもじゃないが伝統的な3ボックスセダンは作りたくても作れない。フロントフェンダーとAピラーの関係、クォーターピラーとリアフェンダーの表現方法など、これらの成り立ちをどう構成していくかに答えが潜んでいる。当時、世界中を走る車は常に世界コンペのプロジェクトで進められていた。本社デザインはもちろんだが、国内は東京、名古屋の2ヵ所、米国、ヨーロッパ、当時のトヨタデザイン5つのスタジオが総力をあげてデザインした。結果は、米国キャルティーデザインが採用され、先進的なフロントフェイスに短く緊張感のあるフロントフェンダー、しっかりしたセダンらしいクォーターピラーを持ち、短くても存在感のあるリアフェンダーで提案された。それを、21世紀にふさわしいテーストを持った商品として本社で完成させ、なんとか後工程に迷惑をかけることなくデザインも大役を果たすことができた。そして1997年12月に京都で第3回気候変動枠組条約締約国会議(COP3)が開催されると同時にハイブリッド車が発売され、そのプロジェクト名のごとく21世紀に間に合った。
その後1999年、ホンダからも空力特性を研究したクーペタイプのパーソナルハイブリッドカーのインサイトが発売された。こうして誕生したハイブリッドカーが、世界中で当たり前のように生産され、世界のスタンダードになっていることは言うまでもない。

kimura-09-18.jpg
1997年トヨタ・プリウス

kimura-09-19.jpg
1999年ホンダ・インサイト

プリウス登場と同年1997年に、トヨタではハリアーも発売され、1998年米国にレクサスRXとして導入されて、乗用車タイプのワゴンのようなSUVとして登場。レクサスブランドが米国高級車市場の確たる地位を築くのに貢献した。ヨーロッパ向けには、1998年アルテッツアが発売された。翌年、レクサスISとしてヨーロッパで発表され、コンパクトな高級スポーツセダンとして大変評判がよかった。

kimura-09-20.jpg
1997年トヨタ・ハリアー

kimura-09-21.jpg
1998年トヨタ・アルテッツァ


そして、やはり21世紀を担うトヨタ車のヴィッツ(欧州名ヤリス)が、1999年に欧州のBセグメントで世界戦略サイズのコンパクトカーで発売された。そして、2001年にはホンダもフィットを発売する。2000年に向けて各社が力の入った新型車を次々に発売し、21世紀に向けて生き残りを賭けた開発が続けられた。

kimura-09-22.jpg
1999年トヨタ・ヴィッツ

kimura-09-23.jpg
2001年ホンダ・フィット

一方、車両開発で大変革が起こったように、会社運営でも、1999年日産自動車がルノーとの資本提携合意し、ルノーの資本参加により、日産は経営危機を回避。また、同年マツタ゛の社長にM・フィールズ(フォード出身)が就任、富士重工業、GMとの資本・戦略提携で合意するなど、激変が続いた。国内ではバブル崩壊の頃からIT化の風が吹き始め、デザイナーのスケッチもコンピュータで描くことが定着し、1990年中頃からインターネットや携帯電話の普及とともに、パイクカーなどの企業努力にもかかわらず若者が自動車から離れていくなど、20世紀は激動のうちの幕を閉じた。
(*)全軽自協 軽四輪車 新車販売台数の年別・車種別推移より


参考資料:トヨタ博物館/Gazoo マガジン/トヨタ自動車75年史/日産ヘリテージコレクション/Gazoo<プリウス誕生秘話>/ホンダニュースリリース
写真:トヨタ博物館/三樹書房

kimura-09-24.jpg

このページのトップヘ
BACK NUMBER
執筆者プロフィール

木村 徹(きむらとおる)
1951年1月17日、奈良県生まれ。武蔵野美術大学を卒業し、1973年トヨタ自動車工業株式会社に入社。
米CALTY DESIGN RESEARCH,INC.に3年間出向の後、トヨタ自動車株式会社の外形デザイン室に所属。
ハリアーなどの制作チームに参加し、アルテッツァ、IS2000 などでは、グッドデザイン賞、ゴールデンマーカー賞、日本カーオブザイヤーなど、受賞多数。愛知万博のトヨタパビリオンで公開されたi-unitのデザインもチームでまとめた。
同社デザイン部長を経て、2005年4月から国立大学法人名古屋工業大学大学院教授として、インダストリアルデザイン、デザインマネージメントなどの教鞭を執る。
2012年4月から川崎重工業株式会社モーターサイクル&エンジンカンパニーのチーフ・リエゾン・オフィサーを務める。その他、グッドデザイン賞審査員、(社)自動車技術会デザイン部門委員会委員(自動車技術会フェローエンジニア)、日本デザイン学会評議員、日本自動車殿堂審査員(特定非営利活動法人)、愛知県能力開発審議委員会委員長、中部経済産業局技術審査委員会委員長、豊田市景観基本計画策定有識者会議委員など過去、公職多数。
現在は、名古屋芸術大学、静岡文化芸術大学、名古屋工業大学で非常勤講師として教鞭を執る。

木村デザイン研究所

関連書籍
トップページヘ