今回は、しばらく行方をくらましていた「ミカサ」のカタログが出てきたので紹介する。
プリンス自動車工業が1964年から1965年にかけて2代目グロリアスーパー6(S41D型)と2代目スカイライン1500デラックス(S50D型)に自社製の2速セミAT(オートマチックトランスミッション)「スペースフロー」を搭載したが、このトルコン(トルクコンバーター)が岡村製作所製であった。当時、筆者はプリンス自動車工業の実験部でATの開発を担当していた関係で、打ち合わせのため岡村製作所の横浜にある本社を訪問した。その時、駅まで出迎えていただいたのが「ミカササービスカー マークⅠ」であった。この時すでにミカサの生産は終了していたが、たまたま応接室にここに紹介するカタログがあったので、趣味で自動車カタログのコレクションをしている旨訴え、頂戴したいと懇願したところ、快諾していただき、わがコレクションに収まったという次第である。
参考までに、「ミカサ」を開発した岡村製作所の誕生について記す。1934年に創業して海軍の軍用機を造っていた日本飛行機株式会社が、1945年8月の敗戦と同時に造るモノを失った。この時、新しく会社を起業しようと決意した有志が資金を出し合って、1945年10月、横浜市磯子区岡村町に設立したのが岡村製作所であった。
設立当初は、戦後復興のためナベやフライパンなど日用必需品を作っていたが、1947年に進駐軍からアルミ製トランク、ジープのトップカバーなどに加えてスチール製家具の製作を受注した。誠実に対応していくうちに「オカムラのスチール家具」の認知度と品質の評価は高まっていった。
飛行機屋集団であるオカムラの技術者たちの「動くモノ」への執着心は強く、米軍将校が修理のため持ち込んだスクーターに搭載されていたフルードカップリング(流体継手)に着目、より構造が複雑でトルク増幅が可能なトルコンの開発を進めた結果、1951年に純国産トルコンを完成した。
1952年に日本国有鉄道(現JR)のディーゼル機関車に採用されたのを機に、フォークリフト、ブルドーザーなど産業・建設機械などに活用されるようになった。
この頃、やがてわが国でもモータリゼーションが普及するであろうと予測することが可能であり、オカムラもクルマの将来性を見込んで自動車製造への参入を決断した。開発に当たっては、フランスの大衆車「シトロエン 2CV」をサンプルとし、1955年に試作第1号となるノッチバックセダンを完成した。前輪駆動で強制空冷水平対向2気筒エンジンに2速セミAT(AK-4型、愛称「ノークラッチOKドライブ」)を積み、ボディーには航空機の薄板加工技術を、内装には家具製作の技術が生かされた。
1957年5月、日比谷公園で開催された第4回全日本自動車ショウで「ミカササービスカー マークⅠ」とハードトップを装着した「ミカサスポーツ(1958年の発売時にはミカサツーリングに変更された)」が発表された。展示ブースには「箱根湯本から頂上までギヤーの入換なしで29分」とあった。余談だが、筆者は同じコースを初代スカイラインで登坂テストを繰り返したことがあり、最短時間は17分であった(当時はクルマもほとんど通らず、追い越しも可能であった)。
1958年にはマークⅡも発売されたが、クルマの開発、製造、販売には膨大な資金が必要なことから、1960年春にミカサの生産打ち切りの経営判断が下された。3年間に生産されたミカサは約500台で、ツーリングはごくわずかであった。ツーリングにはクーペが存在し、東京・永田町にあるオカムラいすの博物館に展示されている。
なお、ミカサのATは2015年7月、日本機械学会により「機械遺産」に認定された。保存状態などが評価され「Collection:保存・収集された機械」分類での認定であった。
これは、「モーターマガジン」誌1957年7月号に掲載された、同年5月に日比谷公園で開催された第4回全日本自動車ショウに出展されたミカサを紹介した記事。2トーン塗装が施された「ミカササービスカー マークⅠ」と「ミカサスポーツ」のプロトタイプが出展された。「ミカサスポーツ」は生産に際し「ミカサツーリング」と改称されている。スポーツは生産車とはウインドシールド周りの構造が異なり、幌の代わりに脱着可能な樹脂製ハードトップを装着。三角窓、外側のドアハンドルがあり、フロントフェンダーにはルーバーが付く。
これは、「モーターマガジン」誌1958年11月号に掲載された、同年10月に後楽園で開催された第5回全日本自動車ショウに出展されたミカサを紹介した記事。シトロエン2CVのAZUバンを彷彿とさせる、波型のリブで補強したスチール製後部貨物室を持つ「サービスカーミカサ マークⅡ」と生産型「ミカサツーリング」が出展された。エンジンはマークⅠ/Ⅱ用が圧縮比を6.6から6.86に上げて18hp/4000rpmにパワーアップされた。マークⅡのスペックは、全長3755mm、全幅1400mm、全高1540mm、ホイールベース2100mm、車両重量610kg、最大積載量250kg、乗車定員2名。最高速度73km/h、登反能力30%、燃料消費量18km/L。
上の3点は、1957年「ミカササービスカー マークⅠ」の二つ折りリーフレット。全長3810mm、全幅1380mm、全高1440mm、ホイールベース2100mm、車両重量600kg、乗車定員4名の車体に、586cc強制空冷水平対向2気筒OHV、圧縮比6.6、17hp/3800rpmエンジン+2速セミATを積む。駆動方式は前輪駆動(FF)。ステアリングはラック&ピニオン。サスペンションはフロントが横置きリーフの独立懸架、リアは横置きリーフのリジッド。最高速度70km/h、登坂能力30%、燃料消費量20km/L。価格は48.5万円であった。
上の2点は「ミカサツーリング」と「サービスカーミカサ マークⅠ」が載ったごく初期のシート。初期のツーリングではボンネットのヒンジは外側に露出しており、おでこにはエンブレムが付いていた。さらにホイールカバーも装着されている。1958年10月に開催された第5回全日本自動車ショウ以前に発行されたものと推察する。なお、呼称が「ミカササービスカー」から「サービスカーミカサ」に変更されている。
エンジンはツーリング用が圧縮比を6.6から7.3に上げて19.5hp/4000rpmに、マークⅠ/Ⅱ用は圧縮比を6.86に上げて18hp/4000rpmにパワーアップされた。トルコンのストールトルク比は1:2前後であろうから、加速時には最大2倍ほどのトルクの増幅が期待できたであろう。ツーリングの頁には「NO CLUTCH OK DRIVE」のコピーが載っている。
その他のスペック(〔 〕内はマークⅠ)は全長3810〔3850〕mm、全幅1400〔1400〕mm、全高1365〔1450〕mm、ホイールベース2100〔2100〕mm、車両重量610〔610〕kg、乗車定員4名〔4名〕。最高速度90〔73〕km/h、登坂能力30〔30〕%、燃料消費量18〔18〕km/L。ツーリングの価格は87.5万円。ちなみに1960年1月に発売された1.2L 48馬力エンジンを積んだ最初のダットサンフェアレディ(SPL212)が79.5万円であった。
上の2点は「ミカサツーリング」の英語版シート。ボンネットのヒンジは内蔵され、フロントグリル上のエンブレムは外され、ホイールディスクはマークⅠと同じでホイールカバーは付かない。このシートは第5回全日本自動車ショウを訪れた外国人用に用意されたものか、あるいは本気で輸出を計画していたのであろうか。なお、これと全く同じ構成の日本語版シートも存在する。
上の6点は、1958年後半に発行されたと思われる「サービスカーミカサ マークⅠ/Ⅱ」の三つ折り6頁のフォルダー。おそらくミカサ最後のカタログではないだろうか? マークⅠのサイドウインドーは後方のウインドーが廃止されている。上から2点目にあるマークⅡの側面図には、ドアパネルにもリブ付き鋼板が採用されているのが分かる。この図から全長3755mm、全高1540mmであることが読み取れる。
最後の頁には英国の「Autocar」誌1958年5月23日号に、トルコンを採用した世界最小のロードカーとして「世界各国にその優秀な性能と画期的な興味あるデザインを紹介されました。」とある。掲載された写真は1957年5月に開催された第4回全日本自動車ショウに出展された「ミカササービスカー マークⅠ」と「ミカサスポーツ」のプロトタイプであろう。
最後にミカサの雑誌広告を紹介する。「モーターマガジン臨時増刊 世界の自動車特集 '59」に掲載された広告で、「世界最初のトルクコンバータ付ノークラッチ小型車 オカムラのサービスカーミカサ」「軽快なドライブに・・・ミカサツーリング」のコピーとともに、マークⅠ、マークⅡおよびツーリングを訴求している。
当時、岡村製作所はトルコンのサプライヤーとしても活躍しており、自動車関係ではプリンスのスカイライン、グロリアのほかにも、マツダR360クーペのトルクドライブ、コニー グッピーなどにも供給していた。岡村製トルコンの特徴は溶接による密閉型ではなく、分割型で外周の20数本のボルトとナットをはずすと、ポンプ、タービン、ステーターを見ることができた。ただし重量は密閉型に比べかなり重かった。