1965 Lotus Elan S3
「ロータス」と言う名前はイギリスのスポーツカーで「コーリン・チャプマン」が創立者であることは、自動車好きなら誰もが知っている。車の名前は殆どが「人名」に由来しているが、その中で「Lotus」(蓮)と言う植物の名前から採った例は他に見当たらない。蓮の花は泥沼の中にあっても清らかな花を咲かせるところから、仏教の教えに通ずるところがあり仏教ではシンボルとして使われているが、チャプマンがこの仏教思想を取り入れたという説や、当時のガールフレンドに付けた「Lotus Blossom」と言うニックネームから付けたとか諸説あるが、いずれも推測で真説は不明。
(参考)「蓮の花」千葉公園の大賀バス
< マーク1~ マーク6 > (1949~55)
・本名は「アンソニー・コーリン・ブルース・チャプマン」(Anthony Colin Bruce Chapman)で、1928年5月19日サレー州リッチモンドでパブ経営者の息子として誕生した。1945年ロンドン大学に入学、在学中に副業として「中古車販売業」を始め、ガソリン配給制度下で有利な中古車は人気があったが、47年10月配給制度が解除され中古車の値段は一挙に下落し、半額以下で処分する羽目となった。その際最後まで売れ残ったのが旧式の1930年「オースチン・セブン」で、この車こそ「ロータス」の原点となった車だ。この車を改造してレースに出ようと決め、作業場には当時のガールフレンド(後年結婚)「ヘイゼル・ウイリアムス」の家の裏庭にあったガレージが使用された。文字通り「バックヤード・ビルダー」だ。 完全に分解され別の車に生まれ変わったこの車は新たに登録され「OX9292」のナンバーを受けた。(この時の車名がロータスとされている文献もあるが、マーク2で初めて「ロータス」が使われたとする説を信じれば、「マーク1」は「オースチン・セブン改」だったのだろうか)
(参考)1930 オースチン・セブン改(ロータス・マーク1)
・「オースチン・セブン」のエンジンは本格的レースを戦うにはパワー不足を感じ、より強力な「フォード・エイト」のエンジンを持った2台目の車を1949年に完成させ、車名を「ロータス」と命名し、型式名を「マーク2」とした。「ロータス」の誕生だ。シャシー・フレームはオースチン・セブンをベースに改良を加え、フロント・アクスルとホイールはフォード・テンから流用し、リアアクスルはオースチン・セブンの物を最終減速比をチャップマン特製に変えて使用した。エンジンは当初はフォード・エイト(モデルY)の933ccだったが、やはりパワー不足で、すぐにフォード・テン(モデルC)の1172ccに換装された。1950年6月シルバーストーンで行われたレースではMG-TC、モーガン4/4 、ブガッティT37など、名だたる強敵を破って最初の優勝を獲得した。殆ど無名のバックヤードスペシャルが挙げた大金星だった。
(参考02-1ab) 1949 Lotus Mark 2
・チャプマンの3番目の車は、最初から「750フォーミュラ」を目指して計画されたサーキットレース用の純レーサーで、1951年5月デビューし、初戦でいきなり優勝した。当初は3台造る予定だったが残りの2台は労力不足で未完成に終り、結局「マーク3」も1台しか造られなかった。「750フォーミュラ」はオースチン・セブンをベースにして造られた車のためのレースで、シャシー、エンジン、ギアボックス、デフレンシャルはオースチンを使う事が義務付けられていたから「マーク3」もそれに従っている。この車の特徴として、左前にシュノーケルの様に前に突き出た空気取り入れ口が見える。最初はストレートだったが、キャブレタ―からの大量の吹き返しが顔にかかるため前向きに曲げた、と説明されている。しかし、もしかすると、高速時には取り入れ口に圧力が加わって「過給機」と同じような効果もあったのではないかと思ったが、もしその効果を狙うなら取り入れ口はラッパの様に開いた方が効果的だ。この車も無類の強さを発揮し「ロータス」の名はレース関係者にも注目される存在となっていた。この成功に自信を持ったチャップマンは、以前から温めていた「販売するための車」造りを本格的に考え始めた。学生時代自分の趣味で始めたレースカー造りは「マーク2」「マーク3」とレース界で名を知られるようになってきたが、この当時チャップマンは自動車とは関係ない「ブリティッシュ・アルミニューム」の社員で、車に関しては副業だった。
(参考03-1a) 1951 Lotus Mark 3
・「マーク4」については資料が少なく詳しいことが判らないが、サーキット用の「マーク3」の発展型として、サスペンションに改良を加えオフロード・トライアルのため造られたようだ。エンジンはフォード・テンの4気筒1172ccが搭載されている。
(参考04-1a) 1951 Lotus Mark 4
・「マーク5」は「750フォーミュラ」用として計画されたが、「マーク6」の生産を優先したため、 据え置きとなり実現はされなかった。
・「マーク6」は1952年7月レースにデビューしたが、それに先立って1952年1月1日、「マーク3」以来の協力者「マイケル・アレン」と共にロンドンで「ロータス・エンジニアリング」を設立した。しかしその後間もなく「アレン」が交通事故でクラッシュしロータスを去ることになった。1954年1月、婚約者「ヘイゼル」を取締役、新しく加わった「マイク・コスティン」を技術部長に迎え組織を株式会社として再出発した。「マーク6」はそれまでの市販車をベースにした改造車ではなく、独自の設計による「スペースフレーム・シャシー」を採用し、エンジンやギアボックスは購入者がレースに見合ったものを選択できるようなキットの形で販売した。当時のイギリスでは輸出振興のため国内で販売する完成車に対しては52%の税金が課せられたが、キットの場合は未完成品として課税されなかったというメリットがあり、高性能なシャシーが安く手に入るという事で注文は殺到し1955年までに100台余が販売された。「マーク6」の成功によって「ロータス」は自動車販売組合に加入することで自動車メーカーとして認められ、モーター・ショーへの出品が可能となった。
(写真06-1ab) 1953 Lotus Mark 6 (1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
(写真06-2a~f) 1955 Lotus Mark 6 (1987-01 TACSミーティング/明治公園)
< マーク8~ 11(イレブン)1954~56)
(参考08-1ab) 1954 Lotus Mark 8
(参考08-2ab) 1954 Lotus Mark 8
不思議な事に「マーク6」で大成功したロータスは、「マーク7」となるべき次の車を「マーク8」と命名した。この段階で、すでに「セブン」の構想があったのか、それとも、大当たりした「マーク6」の後継モデルは「6」の次の「7」とするべき、として「7」を開けておいたのかは僕にはわからないが、「ロータス・セブン」はこの後13番目に登場することになる。
・「マーク8」は1954年4月完成しているが、これには「マイク/フランク・コスティン」兄弟の協力なくしては実現できなかった。(「マイク・コスティン」は後年「キース・ダックワース」と組んで レース界に君臨した「コスワース」を創り、兄の「フランク・コスティン」は「ジム・マーシュ」と組んで「マーコス」を創った有能な技術者だった)兄弟は航空機会社「デ・ハビランド」の技術者だったが、「チャプマン」が「マーク8」は空気力学に配慮した車を造ろうとしていることを知った「マイク」は、当時デ・ハビランドで空力飛行試験を担当していた兄の「フランク」を空力の専門家としてボディワークの担当に引き込んだ。写真で見ても空気抵抗の少なそうな流れるようなボディは、この種のレーシング・スポーツカーのパイオニアの1台だ。全部で7台造られた。
(写真09-1ab) 1955 Lotus Mark 9 (1995-08 ラグナセカ・カリフォルニア)
(写真09-2ab) 1955 Lotus Mark 9 (1955-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
(参考09-3a) 1955 Lotus Mark 9 1955年ルマン24時間レース
ロータスとしては初参加となったルマン24時間レースで、コーリン・チャプマン/R.ロックハート組は12時間でリタイヤした。
・「マーク9」は「マーク8」の発展型として「マーク10」を経て初期のレーシングカーの傑作「マーク11」への橋渡しを果たした。1955年自動車メーカーとして認められ、10月ロンドンのアールズコートで開催されたモーター・ショーに初めて出展した車が「マーク9」のベアシャシーだった。この年チャプマンはフロックハートと組んでル・マン24時間レースに挑戦、当初は順調に走っていたが、クラッチトラブルで遅れ、10時過ぎにはルール違反で失格しレースが終わった。失格の原因はサンドバンクから脱出ようとしてバックギアで逆走したのが「反対方向走行禁止」に抵触したためだった。この車は約30台造られた。
(参考10-1a) 1955 Lotus Mark 10
「マーク8」から「マーク10」にかけては殆ど変化は無く、エンジンが1.5リッタークラスから2リッタークラスに強化されている。
(参考11-1abc) 1956 Lotus Eleven LeMans 1956年ルマン24時間レース参加車
1955年「マーク9」でル・マンに挑戦したが結果が残せなかったチャプマンは、フレームをさらに細く軽い0.9ミリ厚の航空機規格の高力アルミ材を使って軽量化を図り、コクピット幅を規定に合わせた「ルマン仕様」のスペシャル3台を出走させた。㉜は1.5 ℓ、(チャプマン/フレイザー)で21時間目リタイア、㉟ 1.1 ℓ,(アリソン/ホール)は犬とクラッシュしてリタイア、㊱1.1 ℓ(ビックネル/ジュープ)は完走し、総合7位、1.1 ℓクラス優勝を果たした。
(写真11-2a~i) 1956 lotus Eleven Series1 LeMans (2011-10-29 ジャパン・クラシック・オートモビル/日本橋)
この写真で見ると「ロータス・イレブン」という車は本当はレーシングカーで、ロード・ゴーイングカーとしてはぎりぎりセーフで何とか市販の道を開いたのだろう。クライマックス・エンジンを積んだ「ル・マン」、フォード100Eエンジンの「スポーツ」、ドラム・ブレーキの廉価版「クラブ」の3種があり、1958年までの3年間で270台が生産された。、
(写真11-3ab)1956 Lotus Eleven S1 LeMans (2009-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
「ル・マン」モデルに搭載されている「コベントリー・クライマックス・エンジン(FWA 1098cc)」がこれだ。クライマックス・エンジンはこの他に一回り大きい「FWB1460cc」もあった。 .
(写真11-4)1956 Lotus Eleven S1 LeMan (2018-11 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮外苑)
この車は現役時代はロータスのワークス・カーという事なので本物のレーシングカ-だ。乗り込み方が判るので取り上げた。ドアが外にぱっくり開くのは公道では非常に危険だ。 .
(写真11-5a) 1956 Lotus Eleven Series 1 Club (2004-06 プレスコット・ヒルクライムサーキット/イギリス)
外見からは3種のモデルの差は見分けられないが、プログラムで「クラブ」と確認できた。
(写真11-6ab)1957 Lotus Eleven Series 2 LeMans(1986-11 モンテミリア/神戸ポートアイランド)
1957年フロントを独立サスペンションの変更するマイナーチェンジが行われ「シリーズ2」となった。この変更も外見からは全く見分けが付かないが1957~58年の年式だけが頼りだ。プログラムに1100ccとあるのでコベントリー・クライマックスの1098cc を搭載した「ル・マン」と判定した。この車にはドライバーの頭の保護と、整流版を兼ねた「ヘッド・フェアリング」が付いていないが、グレードによる相違ではなく、オプションで選択されるものだった。この車を見た時「こんな凄い車でも車検が通るんだ」とびっくりした記憶があるが、よく見るとル・マンを走った車もイギリスでの登録ナンバーが付いているから、レーシングカーでありながら公道も走行可能だ。隣の車は「コルチナ・ロータス」だ。
(写真11-7)1957 Lotus Eleven S2 LeMans (1980-11 SCCJミーティング/富士スピードウエウイ)
270台造られたこの車は、国内で9台、海外で8台、計17台撮影して居るがこの車は僕が始めて見た「ロータス・イレブン」だ。河口湖博物館のオーナー原田氏のコレクションで、エンジンはFWA 1089ccとあった。
(写真11-8a) 1957 Lotus Eleven Series 2 (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
ミッレミリアの参加車とみられるこの車だが、車検登録前と見えてナンバーが入っていないので詳細が不明だ。この年「ロータス・イレブン」は日本、イタリア、ドイツから3台がエントリーしていたが、ナンバープレートから多分ドイツから参加した車ではないかと推定した。プログラムには排気量が記入されていないので、どのエンジンが搭載されているかは不明だが、ボンネットに大きなバルジ(こぶ)が付いているのは、他では見ていないので、大きなエンジンかもしれない。
(参考11-9a~d) 1957 Lotus Eleven (1957年 ル・マン出走車)
1957年は4台がエントリーし全車完走した。総合順位では (62)9位(1100ccクラス1位)クレイザー/チェンバレン、㊷13位ウオルショー/ダルトン、(55)14位(750ccクラス1位)アリソン/ホール(去年は犬と衝突してリタイア)、㊶16位エシャール/マソンだった。新たにBMC-Aシリーズのブロックをベースに開発した744ccの「コベントリー・エンジン」は成功し、見事クラス優勝した。この年から「チャプマン」はハンドルを握っていない。
(参考11-10a~e) 1958 Lotus Eleven (1958年 ル・マン出走車)
1958年「イレブン」は4台エントリーしたが(55)ステイシー/ディクソンが20位に入賞しただけで、㊳アイルランド/ティーラー、㊴フロスト/ヒックス、(56)マゾン/エシャールの3台はいずれもリタイヤし結果は残せなかった。
< タイプ 12(F2) /13(セブン) /14(エリート) >
1957年秋のロンドン・ショーでロータスのブースには3種の異なったニューモデルが展示された。「タイプ12」は後年世界を席巻するF1の初代となる葉巻タイプのレーシングカー、「セブン」はロータスを代表するヒットとなったベストセラー(タイプ13とは呼ばれていないが順番は13番目に当たる)、「タイプ14」は愛称「エリート」と名付けられた市販スポーツカーで、この時点から後はタイプ・ナンバー順だと紛らわしいので「市販スポーツカー」、「レーシング・スポーツカー」「フォミュラーカー」と3つに分けて進める事とした。
(参考12-1a) 1957 Lotus Type12 F2
ロータスとしては初めてのフォミュラーマシンとなるこの車は、フロントエンジン1.5リッターのF2 仕様だが、未だあか抜けない。
<セブン> Sr.1 (1957~59)/ Sr.2 (1960~68)/ Seriez3 (1968~70)/ Series4 (1970~73)
(写真13-1a~g) 1958 Lotus Seven Series1 (1985-09 大阪クラシックカー・フェスタ/万博公園)
「マーク1」は1957~59年に製造されたが、多分この時点で我が国には正規輸入はされた居なかったのではないかと思う。だからサイクル・フェンダーのマーク1は希少価値のある車だ。外見は「マーク6」の発展型で「セブン」の名称は納得できるが、シャシーは「マーク6」の発展型と言うよりは、その後ヒットした「イレブン」の影響が強い。エンジンは大別して3種あり、標準タイプはマーク6と同じ「BMC-A」(948cc/37hp) と、「フォード100E」(1172cc/40hp)で、他に高性能版「コベントリー・クライマックスFWA」(1097cc/75hp)が用意された。この車もキットでも販売されたから、自分で組み立てる人にとっては楽しみと免税の2つの利点があった。
(写真13-2a~d)1962 Lotus Seven Series 2 (1962-01 第3回東京オートショー/千駄ヶ谷体育館)
日本車が外車に対して「コンプレックス」が無くなるまでは「輸入車」と「国産車」のショーは別々に開催されていた。1962年第3回「外車ショー」に、当時の代理店「芙蓉貿易」の手で輸入され展示された1台が写真の車で、「セブン」としては日本に最初に上陸した車と思われる。輸入されたばかりだから、何処も改造されていないオリジナルの姿だ。「シリーズ2」の外見の変化は、サイクル・フェンダーに変わって、左側に出ているエグゾーストパイプやマフラーをカバーするスマートなフェンダーが付いたほか、ホイールが15から13インチに変わった。。
(写真13-2ef) 1962 Lotus Super Seven 1500 Series 2 (1970-04 CCCJコンクールデレガンス/東京プリンスホテル)
「シリーズ2」のエンジンのラインアップは次の6種となった。
① 948cc 37hp (BMC-A)
② 997cc 39hp (Ford 105E)
③ 1172cc 36hp (Ford 100E)
④ 1340cc 85hp (Ford 109E) スーパー・セブン
⑤ 1498cc 65hp (Ford 116E) スーパー・セブン1500
⑥ 1498cc 95hp (Ford 116E) スーパー・セブン・コスワース1500
新しく排気量の大きい「スーパー・セブン」シリーズが誕生したが、外見からは見分けが付かない。(と言うよりは、同じ車体にどれかのエンジンを選んで載せられていたという事か)
・写真の車は、フォード116Eエンジンを搭載した「スーパー・セブン1500」だ。セブンはレースのための改造や、ホイールの変更などオリジナルでない個体が多いが、この車は完全オリジナルの素晴らしいコンディションだ。カラーの2枚は同じ車の10年後の姿で、ボンネットが外されていてエンジンが見えるので追加した。
(参考13-2h) 1965 Lotus Three Seven (Type37)
「セブン・シリーズ2」は1960~68に造られた。その間にたった1台だけ造られたレーシング・バージョンがあった。「スリー・セブン」と呼ばれ、通常の「セブン」とは別に「タイプ37」のナンバーが与えられた。エンジンは「フォード116E」1498ccだが、コスワースによって高度にチューンアップされ125hp迄強化されていた。オリジナルは1台のみだが、何台かのレプリカが存在するようだ。
・この車の扱いについては、「シリーズ2」のバリエーションと見るか、タイプ・ナンバーを持つ独立したモデルとして、「シリーズ3」とするか2つの見解がある。その結果はこの後登場する車の扱いに現れ、前者では「シリーズ3」とし、後者では「シリーズ2・後期型」となる。今回は製造された年から「シリーズ2」扱いとしたので次は「シリーズ3」となる。
(写真13-3ab) 1969 Lotus Super Seven Series3 SS (1984-01 TAACSミーティング/明治公園)
1968年「シリーズ3」が誕生した。リアアクスルが「スタンダード・テン」の物から「フォード・エスコート」用に変わり、その結果トレッドが拡げられ、それに対応してリア・フェンダーの幅がかなり広くなった。写真の車は、1558ccのエンジンを持つ最強シリーズで、ロータス製のツインカム・ユニットで、105hp(ハイパワーユニットは125hp)-は「エラン」と同じものだ。「セブンSS」と呼ばれるこのシリーズは8か月製造され、1973年4月「シリーズ4」へバトンタッチした。
(写真13-4ab) 1973 Lotus Seven Series 4(Type60)(1980-04 TACSミーティング/筑波サーキット)
1970年登場した新しい「セブン」は、伝統の面影を残しつつも「タイプ60」のナンバーを与えられる全く新しく設計されたものだ。ボディは4つのブロックに分けられたFRP製で、グリルの開口部が四角のせいかごつい感じだ。フロント・サスペンションにはロータス・ヨーロッパのダブル・ウイッシュボーンが組み込まれた。エンジンは「マーク3」と変わらなかった。すべてがモダン化した「マーク4」に対してはオリジナルの良さを失った「堕落」とする声もあったが、1973年までに約1,000台が造られ「ロータス・セブン」の終焉を飾った。
・姿を消した「ロータス・セブン」を惜しむ声が多く、それに応えるべく古くからロータスのデーラーだった「ケーターハム」が残された「セブン」のパーツ、ジグ、エンジンなどすべてを買い取って、マニアのため復活「セブン」を造り始めた。最初は「マーク4」だったが、クラシカル・モデルの要望に応え「マーク3」タイプに変更された。(ケーターハム製のセブンについては後がつかえているので今回は省略する)
<エリート/タイプ14> (1957,1959~63)
(写真14-1abc) 1961 Lotus Elite SeriesⅡ (1962-01 第3回東京オートショー/千駄ヶ谷体育館)
1957年のロンドン・ショーに展示された3台は「タイプ12/F2」「タイプ13?/セブン」「タイプ14/エリート」だったが、実は「エリート」はこの時点ではまだメカニックは完成していなかった。全く新しい素材「FRP」によるモノコック・ボディは世界初として(日本の富士キャビンの方が早かったのだが)、いち早く世間に公表する必要があったからだ。はたして、革命をもたらした新素材に対する興味と評価、それに加えてその美しいクーペ・ボディはたちまち話題をさらってしまった。かくして、ショーの結果は大成功だったが、小規模な生産体制から市販に至るまでに2年を要し1959年になって初めてオーナーの手に渡った。1960年8月、リアサスペンションの変更を受け「シリーズⅡ」となった。リアサスペンションが「FPR」のボディ1点で受ける構造に強度上の問題があったようだ。日本には芙蓉貿易が1961年3台、63年3台、東急商事が63年1台、計7台が正規輸入されたが、いずれもシリーズⅡだった。写真の車は日本に最初に登場した「ロータス・エリート」3台の内の一台で、1961年8月ロータス社を出庫した記録があるので「61年型」だが、62年1月の日本のショーに展示されたものだ。この車には310万円の値段が付いていたが、ポルシェ356B S90が 275万円だったから、それよりも高かった。生産は1963年9月で終了したがそれまでに約1000台が造られた。
・因みにロータスの市販車には「Eleven」から始まって「Elite」に続き、このあとも「Elan」「Europa」「Esuprit」「Elise」「Exige」と愛称の頭文字は「E」に統一されている。(日本でもトヨタが「Crown」「Corona」「Carolla」「Carina」など「C」にこだわった時代があった)
(写真14-2a~d) 1961 Lotus Elite SeriesⅡ (1979-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
この車は日本に最初に輸入された3台の内の一台で、前項のショーに展示された車そのものだ。と言うのは3台の内2台は白で赤は1台だったからだ。(ショーに展示された車はモノクロだが白ではない) 今では「赤」も「白」も当たり前だが、輸入された当時「白は救急車」「赤は消防車」に限定され、一般の使用は制限されていたため車検には苦労したらしい。「コベントリー・クライマックス FEW」のエンジンは直列4気筒、SOHC 76.2mm×66.6mm 1216cc で、チューニングによりステージ1(ノーマル)では80hp、ステージ2(SE)では85hp、ステージ3(スーパー95、100、105)ではそれぞれ95hp、100hp、105hpの違いがあった。輸入されてから17年後の姿がこれで、この車のエンジンは1984年発行の資料によると「ステージ3」とあるが、写真を較べると微妙に違いがあることと、ステージ3はこの車が納車された後出現したものなので、後年チューンされてのかもしれない。
(写真14-2e~i)1961 Lotus Elite SeriesⅡ (2011-10 ジャパン・クラシック・オートモビル/日本橋)
この車は前項と同じ車で、前項からは32年、、日本に到着してからは丁度50年目に当たるが、全く変わらないオリジナルの姿には頭が下がる。シングルのナンバープレートにも歴史を感じるが文字もきれいだ。
(写真14-3abc) 1963 Lotus Elite SeriesⅡ (1995-11 第3回CCCJコンクール・デレガンス/池袋西武百貨店)
この車は日本に正規輸入された7台の最後の1台で1963年11月ロータスから発送された「63年型」だ。この当時のオーナーは知る人ぞ知る日本贔屓の英国人「波嵯栄菩武」(Bob Hathaway)氏だった。彼はこの車で10数回レースを行っているが 最後の写真は1966年5月富士スピードウエイで行われた第3回日本グランプリ(予選)で撮影したものだ。
(参考14-4a~g) 1959~64 ル・マン24時間レースで活躍した「ロータス・エリート」たち
㊶ 1959 ロータス エリート (1500ccGTクラス優勝/総合8位)
㊷ 1959 ロータス エリート (1500ccGTクラス2位/総合10位)ジム・クラーク ルマン初挑戦)
㊹ 1960 ロータス エリート (1300ccGTクラス優勝/総合13位)
㊳ 1961 ロータス エリート (1300ccGTクラス優勝/総合12位)
㊹ 1962 ロータス エリート (1300ccGTクラス優勝/総合8位)
㊴ 1963 ロータス エリート (1300ccGTクラス優勝/総合10位)
㊸ 1964 ロータス エリート (1300ccGTクラス優勝/総合22位)
チャプマンは最初の計画では1957年のル・マン24時間レースに3台を参加させるつもりだったが間に合わず、レースでの活躍は1959年から始まった。そして64年までの6年間に毎年クラス優勝を続ける大活躍をしている。
<エラン / タイプ26/ 36/ 45/ 50> (1962~73)
ロータス・エランは1962年から73年までの12年の長期にわたり、ヒット商品としてロータスの屋台骨を支え、その間20を超す「フォミュラー・カー」や「スポーツ・レーシング・カー」と言う「金喰い虫」を生み出す陰の力となった。何度かのモデル・チェンジやマイナーチェンジが行われ、4つの形式名「26」「36」「45」「50」が与えられている。
<エランType26/26R > 1962~64 S1(dhc)/ 1964~66 S2(dhc)/1966 S2SE
(写真26-1abc) 1964 Lotus Elan 1600 Series1 Drop Head Coupe (1965-11 第5回 東京オートショー/晴海)
「エラン」は1962年秋発表されたが、我が国に初めて登場したのは1965年11月のオートショーに展示された写真のこの車だ。63年1月市販が開始され当初は1489cc(1500)だったが、市販後間もない63年5月にはボアを広げ1558ccとなっており、日本に入って来たのは1600になってからだ。先代「エリート」の310万円に対して「エラン」は260万円と随分価格が下げられた。その原因の一つは、エンジンにあり、高価な「コベントリー・クライマックス」から、価格の安い量産車フォード・コンサル用の「105E」エンジンをベースにロータス製のツインカム・ヘッドと、ウエーバー・ダブルチョーク・キャブレターで強力なエンジンを造り上げたお陰だ。英国内の価格ではエリ-ト1,662ポンドに対して、エランは1,312ポンドで、組み立てキッドで購入すれば僅か1,095ポンドで入手できた。
(写真26-1d~h) 1964 Lotus Elan 1600 Series1 Hardtope Coupe (2011-10 ジャパンクラシック・オートモビル/日本橋)
「エラン」の基本構想は「オープン2シーター」の小型スポーツカーで、それは重要な輸出先アメリカの需要傾向に合わせたものだった。前モデル「エリート」は好評ではあったが、これを踏襲するには決定的な問題があった。それは絶対にオープンカーには改造出来ないFRP製モノコック構造だったからだ。だから「エラン」は全く新しく設計されたもので構造的にも関連は無い。「タイプ26」の「シリーズ1」はオープン・モデルだがハードトップが用意されており、後年登場する「クーペ」と見間違えそうだ。「シリーズ1」の一番の特徴はテールランプで、丸型が4個並んでいる。
(写真26-2abc) 1966 Lotus Elan S2 1600 dhc (1989-01 TACSミーティング/明治公園)
1964年11月には「シリーズ2」が発表されたが、メカニックには殆ど変更は無く、木製のダッシュボードが助手席までフルワイドになり、丸型4個のテールランプが楕円2個になったのが目立つ変更点だ。
(写真26-2de)1966 Lotus Racing Elan (Type26R) (1965-11 第7回 東京オートショー/晴海)
エランの最強モデルがこの「レーシング・エラン」だ。見た目ではヘッドライトが格納式ではなくむき出しのところが特徴だ。元々は、グラハム・ワーナーの「チェッカードフラッグ」と言うプライベート・レーシング・チームがチューンアップした「エラン」(タイプ26)に範をとったもので、市販車として生まれた際「タイプ26R」の名前を与えられ、通称「レーシング・エラン」と呼ばれる車となった。エンジンは当然「コスワース」のスペシャル・チューン版で、FPRのボディも極限まで薄く、軽く造られ、その他もすべてレースのために必要なものに変更されている。ベースの「タイプ26」が「S1」から「S2」になったので「レーシング・エラン」も両方にまたがり、「S1」で52台、「S2」で45台が造られた。モーターショーに展示されていたこの車は490万円で、普通の「エラン」298万円の1.65倍もした。(97.5万円の「WV」なら5台買える)
<エランType36 > 1965~68シリーズ3(fhc)
(写真36-1ab) 1965 Lotus Elan Series2 Fixed Head Coupe (1977-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)
1965年9月「エラン」にクーペタイプが誕生した。イギリス流にいえば、オープンの「ドロップヘッド・クーペ」に対して、「フィックスドヘッド・クーペ」とよばれ、(fhc)と略称される。エランとしては2番目の「タイプ36」が与えられた。既にオプションで提供されていた「ハードトップ」とよく似ているが、Aピラーに継ぎ目がないのが「クーペ」だ。その他トランク・リッドがボディの後端まで回り込んだ大型になった。
(写真36-2abc) 1966 Lotus Elan Series3 Fixed Head Coupe (1965-11 第7回 東京オートショー/晴海)
1959年9月に登場したばかりのクーペ・バージョンが2か月後の11月には日本のショーに登場した。「タイプ36」の「クーペ」について、僕は「シリーズ3」と認識して居るが、「シリーズ2」としている資料もいくつかあり、写真の車も「CG」誌では「シリーズ2」と紹介されていた。
<エランType45 >1966~68 Sr.3(dhc)/ 68∼73 Sr.4(dhc/fhc) / 1971~73 Sr.4(Sprint)
(写真45-1abc) 1968 Lotus Elan S3 dhc (1967-11 第9回 東京オートショー/晴海貿易センター)
1966年6月には「シリーズ3」にもオープンモデルが誕生し、「エラン」3番目の「タイプ45」となった。それまではガラスだけだったサイドウインドウにクロームの枠が付き、トランク・リッドがボディの後端まで回り込んでいるので、「シリーズ2」と見分けられる。
(写真45-2abc) 1966 Lotus Elan S3 SE dhc (1990-01 JCCAミーティング/汐留レールシティ)
写真のこの車はS3の強化モデル「SE」(Special Equipment)で、エンジンはDOHCに変えられ115馬力迄パワーアップし、クロースレシオのミッションが標準装備された。外見では、ボディサイドに「SE」のバッジが付き、フロント・ホイール・アーチ上にサイドマーカーが付いた。
(写真45-3ab) 1970 Lotus Elan S4 SE dhc (1980-05 TACSミーティング/筑波サーキット)
1968年3月「タイプ45」のまま「シリーズ4」となった。外見の変更点としては前後の「ホイールアーチ」の形状が、円形から上縁が水平の梯形に変わったほか、ボンネット・フードに大きな「パワー・バルジ」が膨らみ、テールランプが大型になった。
(写真45-4ab) 1970 Lotus Elan S4 Fixed Head Coupe (1969-11 第11回 東京オートショー/晴海)
「タイプ45」の「シリーズ4」は「ドロップヘッド」だけでなく「クーペ」も同時に誕生した。クーペは「ホイール・アーチ」と「パワー・バルジ」「テールランプ」の他にリアクオーターに縦に長い「エア・アウトレット」が追加された。
(写真45-5ab) 1971 Lotus Elan Sprint (1985-11 SCCJミーティング/筑波サーキット)
1971年2月、「エラン」としては最後で最強のモデル「スプリント」が登場した。そのエンジンは1558ccながらインテーク・バルブ径を拡大した「ビッグバルブ」仕様で、10.3:1の圧縮比に40DCOEウエーバー×2を装備し、126ps/6500rpmの出力を得ている。最高速度は205km/hと言われ、文字道り「スプリンター」(短距離走者)だ。イタリア風の「スプリント」と命名した根拠はこの辺りにあったのかもしれない。上下2段の2トーンに塗り分けられ、境目のゴールドの帯には「ELAN SPRINT」のレタリングが入る。1973年8月エラン・シリーズは全て生産が終了したが、「スプリント」は1,353台造られた。 .
<エランType50 > 1967~69 エラン+2/68~73 エラン+2S
(写真50-1a~e) 1970 Lotus Elan +2 4seater Coupe (1969-11 第11回東京オートショー/晴海)
話は1967年まで遡る。当時「シリーズ3」の「フィックスヘッド・クーペ」を基に、後ろに2人分のシートを追加した「エラン+2」がエランのファミリーカーとして誕生し、「タイプ50」と命名された。ホイールベースは304mm延ばされ2435mmとなったので、外見の印象はクーペに較べて軽快感は薄れたが、それなりのバランスは保たれ美しい。内装に関しては従来よりぐっと豪華になり、スパルタンなスポ-ツカーから変身した新しいロータスの向う方向も見える気がする。エンジンに関しては重量も増えたことから、パワーアップが必要で、「SE」よりも強力な118ps/6250rpmが搭載されている。
(写真50-2ab) 1970 Lotus Elan +2S Coupe (1984-07 TACSミーティング/富士スピードウエイ)
1968年10月マイナーチェンジで「+2S」となった。これまでロータスの各車は、キット・フォームでも販売されていたが、このモデルは全てが完成車で販売された。「+2S」の特徴は、フロントのエアインテークの両脇に「フォグランプ」が埋め込まれたほか、サイドシルにクロームカバーが付いたことだ。「+2」シートは家族持ちになったロータス愛好家に大好評でチャプマンの見込み通りだった。
――次回は市販スポーツカー「コルチナ・ロータス」「ヨーロッパ」「エスプリ」と続きます――