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第5回 日本車製造の黎明期 1904年~1945年 欧米からの学びの時代
2021.6. 1

日本車製造の黎明期に関してはいろいろな書物に様々なことが書かれているが、まずはいかにして走行可能な自動車を製作するかが問題で、メカニズムに関することが多く、デザインのことはほとんど語られていない。工業デザインという考え方はまだ定着していなかったようである。
世界では、1919年にドイツにバウハウスが開校し、米国では、1925年にレイモンド・ローウィー(Raymond Loewy)のデザイン事務所が開設され、また現在の「アートセンターカレッジオブデザイン」の前身である「アートセンタースクール」が、1930年に創設されている。
それでは日本ではどのような状況だったのかと調べてみると、1881年(明治14年)に東京工業大学の前身である「東京職工学校」が創立されている。その後、1890年に改称して「東京工業学校」となる。工業製品にはデザインが必要であるとし、1899年には「工業図案科」を新設している。おもいのほか早い時期からデザインについての研究の重要性を意識していたことが伺える。その後、「工業図案科」は、当時の東京美術学校(現在の東京藝術大学)の「図案科」に吸収合併され発展したとある。
さらに、もっと早い時期の1860年代(明治初期)には様式学、器物学を中心としたデザイン論をウイーンで学んでいた記録が残されていた。その後、1897年頃から始まった農商務省実習訓練生の第1期生が、欧米においてデザインを学んでいる。
そして、農商務省へ提出した「意匠模様選定法」「意匠模様及び画き法」「工業図案法改良意見」の報告書の中には、海外デザイン事情と日本のデザインの現状を比べ、その差異を明確に述べ、「参考品の単なる模写を戒め、モチーフを流用することはあっても、構成は変更すべきで、オリジナリティーを重視すべき」と問題点と解決策を具体的に提示していた。ただそれはあくまでも「工芸の図案」についてであり、いまで言う工業デザインの内容を見つけることはできなかった。現在のように、基本のレイアウトに関わる人間工学や流体力などをエンジニアと一緒に考えたり、時代に合った美しさ、未来を予測するようなコンセプトを経営者とともに立案したりする工業デザインの考え方がスタートしたのは、戦後になってからである。
そこで、戦前の自動車産業誕生の様子を見ることにする。
1850年頃から欧米で毎年のように開催されていた万国博覧会の影響か、日清、日露戦争景気の影響か定かではないが、関東、大阪、岡山、広島などで自動車の開発が盛んに行われた。
まず、1904年岡山市で、蒸気を使った乗合バス「山羽式乗合自動車」の試運転が行われた。当時はまともなタイヤもなく、ソリッドなタイヤでそれをリムに取り付けて走ったとされており、これがしょっちゅう外れて満足に走行できなかったようである。外観はトヨタ博物館の資料を見る限りは木製でなかなかスッキリした印象で、つくった人のセンスの良さが伺え、好感が持てる形状である。

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1904年山羽式蒸気自動車

1907年には、吉田真太郎が主宰する「東京自動車製作所」が2気筒12馬力のガソリン自動車を製作。これが国産自動車第1号と言われている。ガタクリ走る「タクリー号」と呼ばれていたのも有名な話である。四角い箱を作るのが精一杯だったのだろうか、折り曲げのみで造形されている。

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1910年タクリー号

同年、大阪で現存する日本の量産車メーカーで最古の歴史を持っている自動車メーカー
「発動機製造株式会社」が、大阪高等工業高校(現大阪大学工学部)の研究者が中心となって創立された。その後社名は、「大阪の発動機メーカー」であることから「大発(ダイハツ)」と呼ばれるようになった。1930年、オート三輪「ダイハツHA型」は、アメリカのバイクメーカーのハーレー型二輪前部に、ホイールベースを伸ばしてそこに荷台をつけて完成。これは試作車だったが、HB型として完成し、1931年に発売されている。オートバイに荷台を付けたという実にわかりやすい形状である。今あっても良いかもしれない。

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1930年ダイハツHA型

東京では1911年、橋本増治郎が「快進社自働車工場」を麻布に設立し、3年後に国産乗用車「DAT(ダット)」を完成した。DATとは、出資者3人のイニシャルを組み合わせた話も有名だ。当時の米国車の影響を受けているにせよ、コンパクトにまとめられた車体は、非常にバランス良く破綻なくデザインされている。

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1914年DAT試作車

1919年、関西では、ウィリアム・ゴーハムを技師として迎え入れて「実用自動車製造株式会社」が設立され、「ゴルハム式三輪自動車」に着手したが、3輪で舵棒式だったためコーナーリングでスピードがあると転倒してしまうなどの問題があり、生産を中止する。その後、ゴルハム式三輪自動車を4輪にした「リラー号」を生産するものの、関東大震災後の不況と廉価なアメリカ車の氾濫によりリラー号の販売は落ち込み、1926年快進社と合併し、社名は「ダット自動車製造」となった。ラリー号を見ると、外板面はシンプルで綺麗にまとめられており、ほとんどフラット面でゴツゴツ感はない。

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1923年リラー号

1933年(昭和8年)には、「株式会社石川島自動車製作所」と「ダット自動車製造株式会社」が合併し、「自動車工業株式会社」を設立したが、合併や複雑な改組を繰り返し、翌年の1934年「 自動車製造株式会社」となり、後の「日産自動車」となる。
また、広島では1920年、「マツダ」の源流となる「東洋コルク工業株式会社」が設立された。しかし、1923年の関東大震災や1925年の工場火災でコルク事業から撤退し、1927年社名を「東洋工業株式会社」に変更し、翌年から海軍関係の機械や部品の製造が始められた。1931年、府中の新工場で三輪トラックの「マツダDA型」の生産が開始された。タンクサイドには、販売会社である三菱の「スリーダイヤモンド」が描かれていた。形状はバイクに荷台を取り付けただけだが、フロントフォークから丈夫そうなフレームがリヤーまで繋がっており車体の安定と見た目の安心感をかもし出している。

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1931年マツダDA型

日本初の本格的な自動車生産は、「白楊社」の「オートモ号」が最初で、1925年に生産を開始し、約300台が製造された(ちなみに同じ年、フォードモデルTは196万6099台生産している。価格は300ドルで1908年の生産当時の1/3に下がっている)。1925年11月、上海に向けて2台が海を渡った。もちろん日本車としては初めてのことである。形状も大変端正にでき上がっており、なかなか好感が持てる。ただ気になるのが、当時、空冷と水冷が同時に開発されていたが、フロントのグリルの遠目の印象はほぼ同じで、空冷までラジエター風の見せ方をしているが気になる。今風に言うと、コスト削減で部品の共通化を図ったのか、台数もそんなに多くないので形状を同じようにし、ブランドイメージ統一化を図った...となるが、当時はどんな考えで空冷にラジエター風の見え方にしたのか車らしさの表現だったのか定かではない。

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1924年オートモ号

筆者の古巣である「トヨタ自動車」の成り立ちは、1930年豊田自動織機の中に研究室が設けられ小型エンジンの研究が開始され、1934年に試作工場が刈谷に建設され、1937年、「トヨタ自動車工業株式会社」が設立された。その設立の2年前の1935年には、工業図案科の卒業生を採用している。トヨタ最初の製作車である「トヨダAA型」のトップマークは、当時の「工業図案科」での教育の賜物ではないかと想像する。欧州では、アルファベットの文字のような線描きでつくられたマークを見ることができたが、その中でも印象深いのは「マイバッハ・モトーレンバウ有限会社」(1909年)のものである。当時の車両ボディーづくりは、欧米から車を購入し、それらを分解して、部品をスケッチ、図面化し、材料、形状なども手探り状態で行われていた。自ら形状を創造し、つくり上げていくようなプロセスや組織もなく、車そのものから学びながらの車体の開発であった。部品をそのまま使うのではなく、たとえ同じものであっても自分で材料や作り方も工夫し、なぜこうなっているのかと研究したものを使おうというトヨタの自前主義が当時からあったのである。早くから工業図案科の学生を採用したこともその一環であろう。
こうして1935年に試作車「A-1号型」、1936年「トヨダAA型」がつくられ、会社設立の1937年に量産が始められた。デザインはクライスラー・デソートのエアロフロー形状を学んでつくられたことは有名だが、ヘッドランプがグリルと一体化されているのが、あまり評判が良くなかったのでAA型はフェンダーの上に独立した状態に変更されている。全体の流れるような面構成は、現在でも見応えがある。

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1936年トヨダAA型

まだまだたくさんの自動車メーカー、メーカーらしきものがあったがここでは触れないが、1900年から1945年は、日清戦争(~1895)、日露戦争(~1905)、第1次世界大戦(~1918.11)、関東大震災(1923年)、満州事変(1931年)、日中戦争(1939年)、第2次世界大戦(~1945年)などを経験し、その間、債務国から債権国家への転換で経済は爆発的に拡大、片や世界の産業界では、1850年頃からロンドン、ウイーン、パリ、シカゴ、フィラデルフィアなどなど、万国博覧会が開催され、先進技術や各国の文化を競い合った。そんな背景のもと、日本では欧米から学んだ文化、先端産業、会社制度を基に、世界に向けて邁進していく。このような、明治後半から、大正、昭和前半にかけて激動の時代は、政治家、経営者、芸術家においても近代社会の価値を築いたステージで、自動車製造事業法に代表される国家的保護育成政策によって、日本の自動車会社においても、1904年から1945年の40年足らずの短い期間で、たくさんのメーカーが、生まれたり、消えたり、合併したりの激しい変化を繰り返しながら自動車産業の基礎が形成された。そして戦後も日本の自動車会社の設立は続くのである。
 

参考文献:
『CAR GRAPHIC LIBRARY 世界の自動車』
「研究論文トヨタ自動車のデザイン組織とデザイン手法の変遷」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『Cliccar 11th』
大阪大学学術情報庫 OUKA(Osaka University Knowledge Archive)
東京工業大学130年史

写真:トヨタ博物館/三樹書房/グランプリ出版

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執筆者プロフィール

木村 徹(きむらとおる)
1951年1月17日、奈良県生まれ。武蔵野美術大学を卒業し、1973年トヨタ自動車工業株式会社に入社。
米CALTY DESIGN RESEARCH,INC.に3年間出向の後、トヨタ自動車株式会社の外形デザイン室に所属。
ハリアーなどの制作チームに参加し、アルテッツァ、IS2000 などでは、グッドデザイン賞、ゴールデンマーカー賞、日本カーオブザイヤーなど、受賞多数。愛知万博のトヨタパビリオンで公開されたi-unitのデザインもチームでまとめた。
同社デザイン部長を経て、2005年4月から国立大学法人名古屋工業大学大学院教授として、インダストリアルデザイン、デザインマネージメントなどの教鞭を執る。
2012年4月から川崎重工業株式会社モーターサイクル&エンジンカンパニーのチーフ・リエゾン・オフィサーを務める。その他、グッドデザイン賞審査員、(社)自動車技術会デザイン部門委員会委員(自動車技術会フェローエンジニア)、日本デザイン学会評議員、日本自動車殿堂審査員(特定非営利活動法人)、愛知県能力開発審議委員会委員長、中部経済産業局技術審査委員会委員長、豊田市景観基本計画策定有識者会議委員など過去、公職多数。
現在は、名古屋芸術大学、静岡文化芸術大学、名古屋工業大学で非常勤講師として教鞭を執る。

木村デザイン研究所

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