今回は、書庫で探しものをしていたら目に留まった、日産自動車創立25周年を記念して発行された冊子を紹介する。戦後14年、いまから62年前の日産自動車の様子が分かる貴重な史料ではないだろうか。
上の2点は、表紙と「創立25周年を迎えて」と題して、当時社長であった川又克二のあいさつ文。1945年の敗戦と同時に軍という最大の顧客を失い、危機的状況に陥ったが、1950年に勃発した朝鮮戦争による特需によってもたらされた神武景気によって、生産、販売とも飛躍的に増大したとある。
上の2点は、「日産自動車のあゆみ」と歴史的な出来事の写真を紹介している。昭和12(1937)年のダットサン発表会では「一に算盤、二に電話、三にトラックダットサン」の標語が掲げられている。昭和15(1940)年には軍に納入するために横浜ふ頭に勢ぞろいしたニッサントラック群。昭和21(1946)年には横浜工場への昭和天皇ご臨幸。昭和28(1953)年には近代的労使関係への出発。とあるが、労使紛争の結果約5カ月の工場閉鎖を断行。結果として組合が分裂し、新たに日産自動車労働組合を結成し、紛争を妥結したという出来事。昭和33(1958)年には第6回豪州ラリーにダットサンが初参加し、フジ号がAクラス優勝、サクラ号がAクラス4位という快挙を達成した。そして、1959年8月に発売されたブルーバードを載せている。
上の2点は「成長するダットサン」のタイトルで、ニッサンおよびダットサンの最新モデルおよび過去の代表的なモデルをラインアップしている。
「のびてゆく生産台数の推移」と題して、昭和31(1956)年頃から販売が急激に伸びていることを示し、第44期(昭和33年10月~34年3月)の業績を紹介している。第44期の販売高は約216億円で、内訳は小型貨物車が約93.8億円(43.4%)、小型乗用車が約69.9億円(32.4%)、普通貨物車が約34.2億円(15.8%)、部品其の他が約18.3億円(8.5%)であった。
わが国の自動車生産は、自工会「自動車統計月報」によると、1951年にはわずか3万8490台(内乗用車は3611台)であったが、1955年には6万8932台(内乗用車2万0268台)、1960年には48万1551台(内乗用車は16万5094台)に増加。そして、乗用車が貨物車より多くなったのは1968年で408万5826台(内乗用車は205万5821台)となり、モータリゼーションが普及し、マイカー時代の到来となったのである。
ちなみに1960年の日産とトヨタの乗用車生産台数は日産5万5049台(シェア33.3%)、トヨタ4万2118台(シェア25.5%)であったが、順位が逆転したのは1963年で日産11万8558台(シェア29.1%)、トヨタ12万8843台(シェア31.6%)であった。
「活躍のスナップ・日産の誇る全国的販売・サービス網」のタイトルで日産車の写真が載っているが、全て商用車であり、まだ乗用車の活躍する場面が1枚もない。
「世界へ・世界へ」と題して、海外での活躍の様子が載っているが、日本国内と違って、8枚の写真の内6枚が乗用車である。
「近代化する設備」と題して、普通トラックの組み立てライン、赤外線乾燥炉、トランスファーマシン、大型プレスが紹介されている。日産自動車はオースチン国産化の過程で、エンジンのシリンダーブロックとシリンダーヘッドの機械加工に、日本で初めて本格的なトランスファーマシンを導入している。
「人の和のうえに・教養・体育・厚生」と題して、福利厚生について紹介している。体育館の紹介、文化サークル活動、秋の社内運動会の紹介。当時は全社員まとめて旅行に行ったり、大劇場を借り切って観劇会を催したり、今では考えられないことが行われていた。右頁の下には子安クラブ、子安独身寮、鎌倉保養荘、伊東保養荘が紹介されているが、保養荘は箱根、鎌倉、山中湖、軽井沢、那須などにもあり、友達あるいは家族などで安く利用できた。右上には昭和31(1956)年8月27日(月)の朝日新聞の「日産自動車 一斉休暇の報告書」と題する記事「夏休みは学校だけ、とばかり思っていたら、従業員六千数百名の大会社が、百人余りの留守番を残して、社長さんから工員さんまで一斉に一週間の夏休みをとった。・・・・・」と、今では当たり前になった企業の夏休みがニュースになっている。日産は夏休み制度の導入でもパイオニアであった。
工場紹介では、まだ横浜本社工場と吉原工場の2カ所であった。追浜工場が稼働するのは1961年であった。
上の4点は、冊子と共に保存されていた「日産自動車株式会社経歴概要」と題する、18頁の半紙に和文タイプで打たれた史料で、おそらく冊子の「日産自動車のあゆみ」を書くための元原稿であろう。当時はワープロもなく、和文の公式書類には和文タイプライターが使用された。この史料は文字の滲み具合からカーボン紙を挟んで打たれたカーボンコピーと思われる。