1968 Lamborghini Miura P400S
何十年か前、少年たちがカメラをもって高そうな車を追いかけた「スーパーカー・ブーム」があったが、その時の主役の1台が「ランボルギーニ」だった。戦後誕生した歴史の浅いメーカーだから、その誕生のエピソードなどは良く知られているが、簡単におさらいする。創立者は「フェルッチョ・ランボルギーニ」で、1916年4月28日、イタリア北部のアドリア海に面したフェラーラの近くで生まれた。生家は裕福な農家で、幼い頃から数々の農機具が身近にある生活の中で育ったのが、後年農業用トラクターを製造する一つの要因となったと思われる。ボローニャの工業大学を卒業したが、その後イタリア空軍に入りエーゲ海のロードス島で、飛行機、自動車、トラクターなどの整備に従事し、実戦で技術を磨いた。1946年30才で故郷に帰った「フェルッチョ」は、戦後余剰となった軍の放出機械を安値で入手し、それをベースに農業機械の製造を始め巨額の富を得た。これを元手に1947年趣味を兼ねた副業として小さな「チューニング・ショップ」を開き、そこで「フィアット500チンクチェント」をベースに750ccでOHVにしたスペシャルを完成させ1948年のミッレミリアに参加する。#427は2日のローマ到着時はそこそこの記録を残しているが、その後、相棒「バリオーニ」が運転を誤り事故で大破、リタイヤした。その際2人とも大怪我を負ってしまったが、後年高性能のスポーツカーを造っても決して「ファクトリー・チーム」を作らなかった「レース嫌い」はこの所為だと言われている。「チューニング・ショップ」にはその後も改造を希望する希望者が多くあったが、トラクターに専念するためあっさりと自動車の世界から手を引いた。もしこの時自動車の改造を続けていたら「アバルト」の様になっていてかもしれない。1949年本腰を入れて自社製のトラクターを造るため「ランボルギーニ・トラットリーチ」を設立し、1960年には「オイル・バーナー式ヒーター」「エアコンディショナー」の製造・販売の為の会社「ランボルギーニ・ブルチアトーリ」を設立した。
・どちらも大成功し産業界でも認められる存在となっていたが、その事業から得た資金を再び自動車につぎ込むことになった。ただし今度は自動車を造るのではなく、市販されている「高価」で「高性能」なスーパーカーを購入し、乗って楽しむという関わり方をとった。結果的にはこれが「ランボルギーニ」という車を生み出す原因となった。コレクションの中には勿論「フェラーリ」もあった。ところがこの車も値段が高いわりに「フェルッチョ」にとっては満足のいかない点がいくつかあり、改善を提案したが無視された。そこで満足のいく車を自分で造ってしまおうという事になったが、その陰には「クラッチ事件」もある。それは「フェラーリ」のクラッチを交換しようとした際、送られてきた「ポーグ&ペッグ」製のクラッチは「ランボルギーニ」のトラクターと同じ物なのにその10倍もの金額を請求されたことで、スーパーカーと名が付けば「法外な価格」がまかり通る旨味のあるビジネスと気付いたのも一因だろう。1963年5月「アウトモービリ・フェルッチオ・ランボルギーニSpA」が設立され、かくしてすべての点で仮想ライバル「フェラーリ」を上回った車を目指して車造りはスタートした。
(01) <350GTV/350GT > (1963/1964~67)
(参考) 1963 Lamborghini 350 GTV (ランボルギーニの名が付いた第1号車)
全ての点で「フェラーリ」を上回るためには、それに相応しい経験と実力を持ったスタッフが必要だ。そのため選ばれたのが「エンジン・デザイナー」は当時36歳だった「ジョット・ビッザリーニ」だった。彼はピザ大学で工学を学び、1953年から57年までは「アルファロメオ」、その後61年までは「フェラーリ」で働き、そこでは名車「250GTO」の開発にも関わっていたが、技術的な問題で内紛があり、設計部門から多数退職した中の一人だった。自ら設計事務所を開き「イソ社」の「リボルタ」や「グリフォ」の開発にあたるなど、この種の車の開発には十分の知識と実績を持っていた。一方「シャシー」はモデナのスペシャリスト「ネーリ・エ・ボナチーニ」によって製作され、「ボディ」は「フランコ・スカリオーネ」かデザイン行い、製造はトリノの「サルジオット」が担当した。かくして完成した第1号車は「350GTV」と名付けられ1963年のトリノ・ショーでデビューした。エンジンは総アルミ製V12 DOHC(フェラーリは未採用) 77.0×62.0 3463cc 360hp/8000rpmというスペックを持っていた。360hpはライバルのフェラーリの「250GT」(3ℓ) 280hp、「330GT 2+2」(4ℓ) 300hpを遥かに上回っており、「4輪独立懸架」もフェラーリに先んじていたから、「全てを上回る」という目標は達成したものと言える。しかし「スカリオーネ」のデザインしたボディについては幾つかの点で不満があり、ショーが終わらないうちの会場から姿を消したといわれる。「リトラクタブル式」のヘッドライトを含め、先のとがったモダンすぎるボンネットまわり、特に中央の太いクロームラインは、自慢の「猛牛のエンブレム」と自筆のサインによる「レタリング」を中心から追い出し、どう見てもデザインもバランスも無視されたかのようにボンネットに張り付いている。これらは改めて依頼した「カロッツエリア・ツーリング」がデザインした「量産型」ではことごとく改められているから、よほど気に入らなかったのだろう。という事でこの車は生産には至らなかった。
(参考)1964 Lamborghini 350 GT (初期型市販車) 1982イタリア版(Carrozzeria Touring)より
プロトタイプの「350 GTV」をベースに、老舗「カロッツエリア・ツーリング」によって手直しされた車の出来栄えには、「フェルッチオ」も満足し「350 GT」として市販することが決定した。市販に当たってはホイールベースを100mm延長し後部座席のスペースを確保し、エンジンも扱いやすさを考慮して圧縮比を下げ、キャブレターもダウンドラフトからサイドドラフトに変えるなど270hp まで「デチューン」された。ボンネットのクロームラインは無くなり、正面の先端には「猛牛」のエンブレムが付けられている。デビューは1964年のジュネーブ・ショーで、写真の車はその時のものと思われる。この車は初期型で、長いバンパーが一本だが、後期型は左右2分割となる。(正面の外見は次期モデル「400GT」と変わらない)
(02) <400GT/400GT 2+2 > (1965/1966~68)
(写真02-1abc) 1965 Lamborghini 400 GT (350GT 4ℓ) (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ)
1964年のジュネーブ・ショーで「フェラーリ」は「275GTB」を発表した。この車は「4輪独立懸架」で280hpと「ランボルギーニ」より有利に立った。そこで負けじと「ランボルギーニ」が採ったのは、「350GT」のエンジンのボアを5㎜拡げ、排気量3929ccで320hpの出力を持つモデルを1965年急遽発表した。正規の「400GT」のエンブレムは「400GT 2+2」だが、「350GT」のボディでエンジンだけが4ℓのこの車は「2+1」なので「400GT」だけだ。 .
(写真02-2a~e) 1966 Lamborghini 400GT 2+2 (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ)
1966年3月新しく+2シートのボディを纏った「400GT 2+2」が登場した。ホイールベースは変わらないがリアシートを確保するため全長は140mm、高さは40mm大きくなった。 ルーフ・パネルは巧みに変形されているため変化は殆ど感じられないが、サイドウインドの後端が少し上向きになって高さを稼いでいるように見える。ヘッドライトは基本的には楕円から4灯となり、ボディはアルミからスチールに変わったので重量は1050kgから1290kgとなり240kgも増えてしまった。エンジンは「350GT」から改造した3929cc 320hpがそのまま使用された。最高速度は260km/hと言われている。
(写真02-3a~d) 1967 Lamborghini 400GT 2+2 (2009-03 東京コンクール・デレガンス/六本木ヒルズ)
コンクール・デレガンスに展示された年式等、素性のはっきりした車だ。説明文によると生産台数は約260台とある。1967年一杯で「350/400GT」のボディを担当していた「カロッツエリア・ツーリング」が製造活動を中止してしまったので、ランボルギーニもこのシリーズを続けることが出来なくなってしまった。
・「350GT」を発表した当時は、「農機具屋のスーパーカー」と揶揄され、色眼鏡で見られていたが「400GT」が出るころには、性能はもとより、その造りの良さもあって徐々に正当な評価を受けるようになり、販売台数も順調に伸びていった。
(写真02-4a~d) 1966 Lamborghini 400GT Monza (2010~07 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)
一見「フェラーリ」かとも見えるが正真正銘「ランボルギーニ」である。ルマン24時間レースに出ようかとアメリカ人が「ツーリング社」に特注した「400GT」だ。空気抵抗を減らすため飛び出たヘッドライトは変更されウインドシールドは半分に近い程低くなっている。結果的にはレースには出なかったが、機能に関してはレーシング仕様ではなくオリジナルの儘だったで、そのまま日常使用された。
(03) <400GT イスレロ> (1968~70) 400GT 2+2の後継車
(写真03-1a~e) 1968 Lamborghini Islero (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
ボディの供給が止まってしまった「400GT」シリーズのシャシーに乗せる次期ボディは、ツーリングのデザイナーの一人だった「マリオ・マラッツィ」が引き続き造らせてほしいと申し出たが認められず、結局自社内で設計、製造を行うことになった。直線を主体にした清楚な大人しいデザインは、平凡で特徴が無いが、社会的地位のある人が乗るには派手過ぎない方が良いという考えで決まったようだ。エンジン、シャシーは「400GT」と変わらない。
(04) <P400/ミウラ/ミウラS/イオタ/ミウラSV>
(1965/66~68/69~71/71/71~72)
(参考) 1965 Lamborghini P400 (エンジン/シャシー)
1965年「400GT 2+2」を発表したトリノ・ショーで、その横に並べられていたのがこの車で、4ℓのエンジンをミッドシップに横置きに搭載したレーシングカー並みのレイアウトを持つシャシーだった。ボディが無い為にこの車がどういう目的で造られたのか憶測を呼び、遂にレースに参戦かとの噂もささやかれた。確かにこの車は3人の若者によって「レーシングカー」を目指して造られたもので、ミラノ工科大学を卒業後、フェラー、マセラティを経てスカウトされた「ジャンパオロ・ダラーラ」を中心に、「パオロ・スタンツァーニ」「ボブ・ウォレス」の3人の作品だった。「350GTV」の開発の傍ら、64年にはレーシングカーを目指したミッドシップ構造の設計図を完成し「フェルッチオ」に提出した。しかしレース嫌いの彼はその可能性は認めつつも「レーシングカー」は認めず、「スポーツカー」としての軌道修正を条件に生産を許可した。その結果実現したのがこの車で、「P400」と名付けてショーに展示された。
(写真04-1abc) 1967 Lamborghini Miura(2008-01 VWミュージアム/ドイツ・ウオルフスブルグ)
1965年のトリノ・ショーに展示した裸の「P400」を前に、「カロッツエリア・ベルトーネ」と交渉し、ボディ製作を依頼することが決まりシャシーが工場に送られた。デザインは「マルチェロ・ガンディーニ」という事になっているが、直前まで在籍していた「ジウジアーロ」のスケッチがベースになっている可能性もある。完成したこの車はスペインで最も獰猛な闘牛に因んで「ミウラ」と名付けられ、1966年のジュネーブ・ショウでデビューした。
(写真04-2a~d) 1967 Lamborghini Miura (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
「ミウラ」はこの後「S」「SV」と進化するが、初代のデータは次の通り。ホイールベース 2500mm,全長4350mm、全幅1780mm、全高1080mm(圧倒的に低い)、総重量985kg、収納式のヘッドライトにはカバーは無いが可愛いまつげが印象的だ。ミッドシップに横置きされたエンジンは、V12 DOHC 3929cc 350hp/7000rpmで最高速度は280km/h 1967~78年で475台造られた。
(写真04-3ab) 1969 Lamborghini Miura S (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
(写真04-4abc) 1969 Lamborghini Miura S (2009-11 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮外苑)
1968年12月改良型「ミウラS」が発表された。基本的には大きな変化は無く、エンジンの圧縮比を9.5から10.4に上げることで370hpにに馬力を上げたが、重量は1040kgに増加し最高速度は変わらなかった。外観では「ウインドシールドのモール」と「ヘッドライトのトリム」がブラックからクロームに変わった。「S」の生産台数は140台だった。
(参考)1971 Lamborghini Jota(Iota)
1台だけ造られた「オリジナル・イオタ」で、現存しない幻の車の在りし日の姿だ。
「ミウラS」が発表される4ヶ月前の1968年8月、開発の発案者だった「ジャンパウロ・ダラーラ」が「デ・トマソ」にスカウトされ「ランボルギーニ」を去った。元々レーシングカーを造ることを目指していたにも拘らず、会社の方針として実現できず不満を持っていた男に目を付けた引き抜きだった。ところが彼が去った後、その意志を継いで夢の実現を図ったのが、「ミウラ」発案者の一人「ボブ・ウォレス」だった。目的はFIAの「J項」に相当するプロトタイプ・スポーツカーではあったが、レース禁止の社内に於いては、「ミウラ」の先行開発車という名目で、通称「ボブの車」と呼んでカモフラージュしており、完成後FIA「J」項に因んで「J」と名付けられた。「J」はスペイン語では「Jota」(ホタ)だが、イタリア語では通常「J」は用いられず発音に従って「I」に置き換えられることがある。また「J」のイタリア語読みは「ilungo」(イッルンゴ)だが、その頭文字「I」はギリシャ語では「Iota」(イオタ)である。いつの間にか社内でも「ボブの車」は「イオタ」と呼ばれるようになった。この車は時速300キロと言われたが、たった1度ローカルレースを走っただけで、あとは社内で開発用テスト車輛として3万キロ程走行実験をしたのち売却されたが、公道でクラッシュ炎上しオリジナルは現存しない。
(参考)Lamborghini SVJ(Iota Reprica)
現存するのは「SV」をベースに造られたレプリカで「ランボルギーニ」の工場で造られた10台に満たないこれらの車には、登録に際しては「SVJ」として生産証明を出してはいるが、「イオタ」の名前は使う事は無かった。これらの純正レプリカの他にも個人で改造した「イオタ」は数多く存在するようだ。
(写真04-5a~d) 1972 Lamborghini Miura SV (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
1971年3月ジュネーブ・ショーで「ミウラSV」が発表された。エンジンの排気量は変わらないが、圧縮比は10.7まで上げられ、インテーク・ポートの改良とバルブ径の拡大、キャブレターの性能向上、バルブ・タイミングの調整、などによって最高出力は385hp/7850rpm となった。外見ではヘッドライトの「まつ毛」がなくなり、サイドシルがブラックからシルバーに変わった。その他リアフェンダーのふくらみが大きくなり、リアのコンビネーション・ランプにバック・ライトが組み込まれた。これら改良の結果総重量は1245kg まで重くなったが最高速度は290km/h迄上がった。「SV」は約150台造られ1973年生産を終了したが、この車の後は、1971年3月「SV」と同時にジュネーブ・ショーで発表された「カウンタック」が、1974年から生産を開始し引き継ぐことになる。
(05) <マルツァル/エスパーダⅠ/エスパーダⅡ> (1967/1968~70/70~72) フル4シーター
(参考) 1967 Lamborghini Marzal
(ショー・モデル/マルッアル)速くて豪華な車を目指している「ランボルギーニ」は、レーシングカーまがいの「ミウラ」の売れ行きが好調だと言っても決してそれが本命では無かった。「400GT」の後を継いだ「イスレロ」は、ツーリング社からのボディの供給が止まってしまったための応急処置で誕生したものでニューモデルではない。「フェルッチオ」は「400GT」を上回るゆったり乗れる完全4シーターをVIP層向けに造ろうという構想を持っていた。それは未だフル4シーターを持っていないライバルの「フェラーリ」を出し抜くためでもあった。この話が具体的に動き出したのは、この車が67年のジュネーブ・ショーに展示された所から逆算すれば、1965年の「400GT 2+2」を発表した際「ミウラ」のボディ製作を依頼するため「カロセリア・ベルトーネ」と関係が出来た時だろう。当時のチーフ・デザイナー「マルチェロ・ガンディーニ」がデザインした。ミウラのシャシーをベースにしたためリア・エンジンだが、4人分のシートを確保するためにはV12気筒は大きすぎるので半分の6気筒にして後車軸より後ろに配置した。排気量は丁度半分の1964cc となった。ボディの構造上の特徴は上下ガラス張りの大きなガルウイングのドアで、キャビンのサイズから4ドアは不可能、かといって前開きの2ドアでは長過ぎて開閉に不便なところから採用された。「ガンディーニ」がこの車に与えたモチーフは「六角形」で、リアウインドウ代わりのルーバーは蜂の巣のようだし、運転席のメーター、パネルも「六角形」だった。(但しハンドルは丸かった)これらの奇抜な造形は「フェルッチオ」の考える保守的な顧客層の好みとは、いささか次元が異なると判断され、量産車とはならなかった。ただ全体のシルエットは魅力的で生産モデル「エスパーダ」にも影響を与えている。
(写真05-1a~d)1969 Lamborghini Espada (1969-11 第11回東京オートショー(外車)/晴海)
「ランボルギーニ」初の4シーター「エスパーダ」は1968年のジュネーブ・ショーでデビューした。試作された「マルツァル」とそっくりのシルエットを持ってはいたが、最大の特徴だった「ガルウイング・ドア」や「蜂の巣状のリア・ウインドウ」は姿を消し、エンジンは12気筒に戻されて、必要なスペースを確保するためフロントに移された。という事は低く平らな車ではあるが、常識的な車の範囲に戻っている。しかし2ドアはVIPの車としては後席への乗り降りはやや不便で、しかも後席の着座姿勢もレーシングカー並みにリクラインしている。
・日本に輸入された第1号は1969年の東京オートショーに展示されたという事なので、写真のこの車がその第1号車だ。この車はリア・ウインドウに縦のプロテクターが付いている初期型だ。
(写真05-2a~e) 1972 Lamborghini Espada Ⅱ (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
1970年エンジンがパワーアップされ「シリーズⅡ」となった。外見ではリア・ウインドウの縦のプロテクターが無くなった。真横から見ると異常に長く見えるのは背が低いためで、全高は1185mmしかなく、周りの人の腹までしかない。ここまでしなくても乗り心地優先でもう少し高さを持ったキャビンを前提にして、そのうえで優れたデザインが出来れば、VIPを対象としたこの車のキャラクターにマッチしたのではないかと考えるのは素人の個人的な考えで、実際にはこの後シリーズⅢ、Ⅳと続き、1978年まで10年の長期間にわたり製造が続けられたから、これでよかったのだろう。全部で1217台造られたのがその結果だ。(乗り心地が良ければもう少し売れたかも?)
(写真05-3a~f) 1972 Lamborghini Espada Ⅱ (1973-02 日英自動車付近/赤坂・溜池)
この車の写真を撮ったのは1973年の事だ。実は日本で「スーパーカー・ブーム」という異常な現象が蔓延したのが1975~78年 の事で、子供がカメラを持って恰好良い外車に群がった時代だ。当時40才だった僕自身も中学2年生から車を追いかけてきた人間だが、この時期はブームに乗ったと思われるのが嫌で、子供が群がっている車のそばには近寄らなかった。だが幸いなことにこの車と出会ったのはそれより2年も前だったから何の抵抗もなく思いっきり撮影した。街ではめったに出会う事の出来ない数少ない車なので、前出の輸入1号車かと思ったが、リア・ウインドウに縦にプロテクターが無いのでシリーズⅡで別の車だった。
(06) <ハラマ/ S> (1970~72/72~76) イスレロの後継車(2+2)
(写真06-1abc) 1973 Lamborghini Jarama S (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
(写真06-2a~d) 1972~76 Lamborghini Jarama S (2018-11 旧車天国/お台場)
1970 年のラインアップはスポーツカー「ミウラ」、4シーター「エスパーダ」、GT系の2+2「ハラマ」の3つが用意されていた。「ハラマ」は「400GT」「イスレロ」に続く中心車種で、旧式となった「イスレロ」に替わるため、一足先に生産体制に入っていた「エスパーダ」のシャシーをベースに開発された。「ハラマ」は2+2なのでホイールベースは思い切り短縮され、「エスパーダ」より270mm、「イスレロ」より170mmも短い2380mmに設定された。それは歴代の「ランボルギーニ」の中でもっともショート・ホイールベースの車となり、その結果サーキットでのハンドリングは素晴らしく「ミウラ」にも匹敵すると言われる。初期モデルの欠点としてオーバーヒートが挙げられていたが1972年これを改善したニューモデル「ハラマS」が登場した。オーバーヒート対策としてボンネットにはNACAダクトと中央に幅広いエアインテークが加えられ、フロント・フェンダーの後方にも横長のエアスクープが開けられた。排気量は3929ccと以前と変わらないが365HPまで強化されたのは、初期型の最高速度が公称の260km/hに達しなかった不名誉を挽回するための措置だった。1970年から76年まで7年にわたって販売されたが総数は327台と予想外に少ない。エキゾチックカーとしての「ランボルギーニ」を求める顧客層にとって、万能的性格の「ハラマ」は平凡に見えたのだろうか。
(07) <P250 ウラッコ> (1970~79) (小型車)
(写真07-1ab) 1972 Lamborghini Urraco P250 (2001-08コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
「ランボルギーニ」の市販車は、最初の「350GT」を除いて「400GT」以降全ての車がV12気筒3929ccの排気量を持つエンジンを搭載していたが、「ウラッコP250」は初めてV8を採用した 2462ccの小型車として1970年のトリノ・ショーに登場した。誕生のきっかけは、年間15,000台も売れる「ポルシェ」を見て、このクラスの市場の可能性の大きさに目を付け、あわよくば「ランボルギーニ」も「スペシャリスト」から「量産メーカー」へと転身する野望を持ったからだ。このプロジェクトはミッドシップエンジンで2+2のシートを持つスポーツカーを年間2,000台生産することを目指してスタートした。ミッドシップを採用したのはリア・エンジンのポルシェより優れたハンドリングを目指したもので、V8を選んだには既存のV12や直6では長すぎるためだ。ボディは「ベルトーネ」が担当し、デザインは「ガンディーニ」が行った。リア・ウインドウのルーバーには「ミウラ」の影響が見られる。1970年デビューしたが生産が始まったのは73年からだったのは、その間に親会社のトラクター部門で大問題が発生していたからだ。それはボリビア向け5,000台の販売契約を結び船積みの直前になって、ボリビアで軍事クーデターが発生し、この契約が一方的に破棄されてしまったのだ。この危機を打開するためトラクター部門を売却、自動車部門の株の51%がスイスの実業家「ジョルジュ・アンリ・ロセッティ」に売却された。時計メーカーの「ロセッティ」は自動車にはあまり関心が無いようで、経営権を握ると人員整理や工場規模の縮小、機械の売却など、厳しい状況の中で生産への体制造りが続けられ、ようやく73年から販売が始まり300台を売った。「ウラッコ」には「P250」の他、イタリア国内向けに課税対策で2ℓ以下に抑えた「P200」(1994cc)、一回り大きい「P300」(2995cc)があり、「P300」は次世代「シルエット」のベースとなった。
(写真07-2ab) 1973 Lamborghini P111(P250の北米仕様) (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ)
「ウラッコ」にはアメリカ向け輸出モデルとして、「P111」という当時の米国排ガス規制をクリアするように対策されたエンジンを持ち、黒色仕上げの「5マイル・バンパー」を装着したモデルを用意した。この車の写真はアメリカで撮影した物だから当然「アメリカ仕様」だが、前項の車は「P250」のままでバンパーも短い。
(08) <シルエット> (1976~77) ウラッコのオープン版
(写真08-1ab) 1976 Lamborghini Silhouette (1998-08コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
新たに変わった経営者「ロセっティ」の支配下に置かれ、そのやり方に不満を持っていたチーフデザイナー「スタンツァーニ」と、アシスタントの「ウオレス」は相次いで「ランボルギーニ」を去り、代わって「ミウラ」の生みの親「ジャンパウロ・ダラーラ」が再び「ランボルギーニ」に戻って来た。新しい車のベースに3 ℓの「ウラッコP300」を選んだには、ライバルの「ポルシェ911」が2.7 ℓ、「フェラーリ308GTB」が3.0 ℓとなっていたためで、動力系は殆ど手を加えず、足回りを重点に改良を加え、話題の50%扁平タイヤ「ピレリP7」を採用して性能と見た目の向上を図った。ボディは引き続き「ベルトーネ」の「ガンディーニ」が担当したが、基本的には「ウラッコ」を継承している。外見上一番目を引くのは大きく張り出した「オーバー・フェンダー」とその中に納まっている50%の扁平タイヤと、大胆に5つの○で構成されたホイールだ。構造上は非実用的な+2シートは取り払い完全な2シーターとなり、リア・ウインドウ代わりのルーバーは無くなり黒いエンジンカバーとなった。写真では判りにくいが、ルーフはデタッチャブル式で取り外せばオープンに出来る。クオ-ター・ウインドウが無くなってパネルに変わったのはルーフを取外した際のロールバーとなるためで、そこには大きなエンジン冷却用のエア・インテークが付いた。
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(09) <ハルパ(ジャルパ)> (1981~89 ) シルエットの進化版
(写真09-1ab) 1987 Lamborghini Jalpa 3.5 (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
(写真09-2a~f) 1988 Lamborghini Jalpa 3.5 (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
「Jalpa」はスペインで有名な「闘牛」の名前で、英語読みでは「ジャルパ」で、スペイン語では「ハルパ」となるようだが、我が国では両方とも使われている。排気量はストロークを延長して3485ccとなり、小型車シリーズ「シルエット」の後継車として登場した。排気量を除いてはシルエットの進化型という位置付けだが、ホイールは大人しいデザインに変わっている。1988年で生産が終了し、ここで、V8の小型車シリーズは幕を閉じた。
(10) <カウンタックLP400> (1974~82)
1960年代の終わりころ「ランボルギーニ」ではコード・ナンバー「112」と名付けられた新たなプロジェクトがスタートしていた。それは売り上げ好調で既に第2世代に入っていた「ミウラS」の問題点を改善した次世代の車で、完成後は「カウンタック」となる車だった。一番の変更点は重量が一点に集中する「横置き」エンジンの問題で、ミッドシップに「縦置き」することで重量分散をはかり、長い12気筒エンジンは前後を逆にし「ギアボックス」がエンジンの前側になるようにして、ドライバーのすぐ横まで前進させたのでダイレクト・シフトが可能となり、「ミウラ」では不況だったシフト・フィーリングは解消された。横置きでは複雑だった排気系の取り回しも、縦置きではすっきりし、室内の騒音が減り整備性も向上した。このアイデアでホイールベースは 横置きの「ミウラ」より54mm短い2450mm迄短縮された。この車が「カウンタックLP500」としてデビューしたのは1971年の「ジュネーブ・ショー」で、その斬新なスタイルは話題となったが、すぐには生産に移らなかった。一つは初めての5リッター・エンジンの熟成が進まず、オーバーヒートにも問題があったが、最も大きな問題はこの時期トラクター部門のトラブルから会社の存在も危ぶまれる「経済危機」に見舞われ、経営権が他に移るという大変な時期だったからだ。
・これらの改善対策を施し、後に市販型となる「LP400」が再登場したのは2年後のジュネーブ・ショーだったが、まだ量産体制が整わず、実際に市販されたのは1年後の1974年からだった。
(参考)
(写真10-1a~d) 1974 Lamborghini Countach LP400 (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ)
1975~78年頃日本を駆け巡った「スーパーカー・ブーム」の主役は何と言っても「カウンタック」だった。そして「ランボルギーニ」と言われて、大部分の人が頭に浮かぶのもこの「カウンタック」だろう。とにかくその斬新なデザイン、特に昆虫の羽のように斜め後ろに跳ね上がるドアは、「シザードア」と呼ばれ、メルセデスの「ガルウイング」とは違った驚きを与えた。このボディのデザインは「ミウラ」以来引き続き「ガンディーニ」が担当している。
・この車の名前の由来は、イタリア南部ピエモンテ州地方の方言が語源で、「カウンタック」と発音するのは日本だけで、イタリアでは「クンタッチ」、英語では「クーンターシュ/クーンタッチ」と呼ばれるらしい。因みにその意味は、固く言えば驚いたときに発する「感嘆詞」となるが、平たく言えば、美人に対して男性が思わず発する「かっこいい」よりもっと砕けた、「ハクい」「マブい」の類のようだ。「LP400」の意味は、「Longitudinale」(縦置き)「Posteriore」(リア)で、「400」は排気量を示している。
・写真の車は初代の市販車で、車の後半はオーバーヒート対策のため、空気取り入れ口と放熱孔で埋め尽くされている。5リッターエンジンの開発は諦め、実績のあるV12 3929ccが375hp仕様で採用された。
(写真10-2abc) 1976 Lamborghini Countach LP400 (2010-11 トヨタ・クラシックカー・フェスタ/神宮)
若草色に赤の内装という素敵な配色を持つこの車も、年式から推定して150台しか造られなかった初代モデルだ。ご覧の様にV12気筒エンジンが縦置きで見事に収まっている。ドアを開けたこの姿が「カウンタック」を世間に印象付けた「晴れ姿」だ。(これだと、「ドアをあける」と言うよりは「ドアをあげる」と言いたくなる)
(写真10-3a~d) 1974(75) Lamborghini Gountach LP400(改) (2013-10 全日本模型ホビーショー/幕張)
この車は僅か3台しか造られなかったスペシャル・バージョンの「カウンタック」で、F1チームのオーナーでカナダの石油王「ウオルター・ウルフ」の依頼で造られたので「ウルフ・カウンタック」と呼ばれる。「赤」のスペシャル1号車のベースとなったのは量産3号車で、「オーバー・フェンダー」「5つの〇がモチーフのホイール」「50%の扁平タイヤ」「大型のリア・ウイング」など、受けた改造はその後の量産車に大きな影響を与えた。
(11) <カウンタックLP400S> (1978~82)
(写真11-1abc) 1978-79 Lamborghini Countach LP400S (1999-08 コンコルソ・イタリアーノ)
「ウルフ・カウンタック」に倣って改装されたのが「400S」で、「オーバー・フェンダー」や「ホイール」にその影響がみられる。面白いのはエンジンに関する数値で、「排気量」は勿論、「圧縮比」「キャブレターの仕様」等のすべてが同じなのに、何故か馬力だけは「375hp」から「353hp」に変わっている。これはイタリアでは当たり前?の習慣となっているカタログ値の誇大表示を、実績に近づけて修正したのではないかと推測される。
(12) <カウンタック5000S(LP500S)> (1982~ )
(写真12-1ab) 1982 Lamborghini Countach 5000S (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ)
(写真12-2abc) 1982 Lamborghini Countach 5000S (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ)
「LP400S」から「LP500S」が出るまでには4年の時間が必要だった。この間に「LP400S」は237台しか造られなかったし、新しく登場した「LP500S」も排気量が増えた以外には大きな変化は見られなかった。実はこの間、「ランボルギーニ」には幾つかの問題が発生していた。最初は当時「ポルシェ」とサーキットで鎬(しのぎ)を削っていた「BMW」との提携問題で、パワーでは有利ながら駆動系で勝てない「BMW」が、未知の分野「ミッドシップ」に挑戦するため、経験のある「ランボルギーニ」をパートナーに選んだのだ。「E-26」というコードネームを与えられたこのプロジェクトは、「BMW」の3.5 ℓエンジンを使用し、それ以外の開発・製造を任せるという極めて有利な条件だった。ボディは「ジウジアーロ」が手掛け、「ランボルギーニ」で最終組み立てを行う予定だった。1977年夏には最初のプロトタイプが完成したのだが、その後資金不足で開発が遅れ、デビュー予定の1978年春のジュネーブ・ショーに間に合わなかったのだ。ドイツ人にとってはとても許せる事態ではなく、この提携契約は白紙撤回された。その後この計画はドイツのコーチビルダ-「バウアー」に引き継がれ、完成した車はBMW「 M1」となって秋のパリ・サロンに登場した。
(参考)1980 BMW M1
・次の問題はアメリカの軍用車両メーカー「モビリティ・テクノロジー・インターナショナル」(MTI)と提携して「不整地走行用4輪駆動車」を造り、軍用車とした採用されることを目的としたプロジェクトだった。「チータ」と名付けられたこの車は1977年のジュネーブ・ショーで発表されたがオリジナルとなった「MTI」の車が、フォード「XR311」をお手本にしたと言われ、かなり似通った雰囲気だった。結局「 XR311」も「チータ」も軍に採用される事は無かったので大きく見込みが外れてしまった。(このタイプの軍用車は「ハンヴィー」(民間名は「ハマー」) を採用、量産された)2トン以上ある「チータ」に積まれたエンジンはクライスラーのV8、5.9 ℓ だったが183hpでは力不足で、最高速度が167㎞/hしか出ないのは、ランボルギーニとしてはブランド・イメージを大きく傷つけた不満足な結果だった。同時期にこの二つのプロジェクトが失敗に終わり、元々財政不安の状況は一気に悪化し、「BMW」からの買収申し出も不調に終わり、遂に倒産に追い込まれた。政府の管理下に置かれた中で「LP400S」は僅かながら生産が続けられていた。1979年ドイツの事業家「レイモンド・ニューマン」が再建に手を差し伸べたが結局失敗して、再び政府管理に戻ってしまう。しかし再度救世主が現れた。それはフランスの企業グループの総帥「パトリック・ミムラン」で、すべての株を買い取り、1981年「ヌオーヴァ・アウトモビリ・フェルッチオ・ランボルギーニSpA」として再スタートを切った。ライバル「フェラーリ」の「ベルリネッタ・ボクサー」は既に5リッターエンジンを採用し先を越されていたから、直ちにそれに対抗する「カウンタック」の改造を指示した。新しいエンジンは 4754ccとなったが、通常は排気量を増やす場合はボアを広げるのが手っ取り早い方法で、広げるのが限界の場合とか、トルクが欲しい場合などはストロークを延ばすこともある。今回の場合はボア、ストロークともに大きくなっている。外見も内装も「LP400S」と殆ど変わりがないのは、その余裕が無かったという家庭の事情かもしれない。モデルとしては「LP400S」の後継で「LP500S」だが、車のリア・エンドのエンブレムは「5000S」となっている。
(13) <カウンタック 5000 クアットロ・バルボーレ(QV)> (1985~88 )
(写真13-1ab) 1985 Lamborghini Countach 5000 QV (1995-08 コンコルソ・イタリアーノ)
1984年、またまたライバル「フェラーリ」が4942cc (390PS)の「テスタ・ロッサ」を発表して、「ランボルギーニ」の頭を押さえた。負けじと「ランボルギーニ」もパワーアップを図るため「LM004」でも試したパワーボート用7ℓエンジンが候補に挙がったが、大きさと重さで採用出来ず、現行エンジンの「ターボ化」も検討されたが、タービンやインタークーラーを収納するスペースが確保出来ず不採用となった。結局「LP500S」のエンジンのストロークを69mmから75mmに伸ばしたことで排気量を5167ccに増やし、吸排気バルブを気筒当たり4個にすることで効率を上げて455psを得ることが出来、再び「フェラーリ」をリードした。イタリア語で4バルブを現す「クアットロ・バルボーレ」がモデル名となった。(12気筒だから全部で48もバルブがある!)
(写真13-2a~d) 1985 Lamborghini Countach 5000 QV (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ)
「カウンタック」の一番の弱点は後方視界の悪さだ。シートに座っていたら全く見えないから、バックする時はドアを上にあげ、上半身を外に乗り出して分厚いサイド・シルに腰かけ、体をよじって直接目視する、と大変な作業になる。写真のドライバーがまさにその状態にあるが、この姿勢でハンドルやアクセルに届くのか心配だ。
(14) <カウンタック 25th アニバーサリー> (1988~90 )
(写真14-1abc) 1988 Lamborghini Countach 25th Anniversary (2004-08コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア))
(写真14-2ab) 1988 Lamborghini Countach 25th Anniversary (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
1988年は「ランボルギーニ」が最初に造った「350GTV」が誕生した1963年から数えて丁度25年目に当たる。そこで誕生したのが、この「25周年記念モデル」だ。このモデルが誕生する1年前、7年続いた「ミムラン」時代は終わり、今度はアメリカの「クライスラー」が全株を取得し経営権を手に入れた。パワー・ユニットには大きな変化はなく、アメリカ輸出を前提にフロント・バンパーの形が変わり、リアにも新たにバンパーが装着された。別々だったリアクオーターの空気取入口と放熱孔が一体化しすっきりしたデザインとなった。サイドシルにはブレーキ・ダクトを内蔵したスカートが付いた。今までオプションで装着可能だったリア・ウイングは、空力特性上好ましくないという理由から採用は中止された。1990年で製造が終了し、19年の長きにわたって「ランボルギーニの顔」だった「カウンタック」は姿を消した。
(15) <スバル改造 カウンタック>
(写真15-1a~e) 1974 Subaru Samber (改) Sambergini Cocountach 2018-11 旧車天国/お台場)
(参考)ベースとなったスバル・サンバー
「スバル・サンバー」のトラックを改造して造られたこの車は「サンバールギーニ・ココウンタック」というらしい。大きさは別として、実によく出来ており、原形を止めない改造は涙ぐましい努力の結果ろう。
(16) <LM002> (1986~93 )
(参考)1977 Lamborghini Cheetah 大型軍用車を目指して開発したが不採用となった
(参考) 1981 Lamborghini LM001 民間用として造られた試作1号車はリアエンジンだった
(参考) 1981 Lamborghini LMA 試作2号車はフロントエンジンに改造され市販車のプロトタイプとなった
1981年のジュネーブ・ショーでは、失敗に終わった軍用車「チータ」から派生した民生用大型オフロードカー「LM001」が発表された。「LMシリーズ」の誕生である。(因みにLMはランボルギーニ・ミリタリーの略らしい)現代はオフロードカー全盛だが、「LM001」が登場した当時は未だ一般的に普及はしていなかったから、81年5月の「CG」誌でもジュネーブ・ショーの取材記事を13ページも紹介しているが、展示されていた筈のこの車に関しては全く見当たらなかった。専ら砂漠の多いアラブの大富豪向けだろう、くらいにしか受け取られていなかった感じだ。「LM001」は「チータ」と同じくリア・エンジンだったが、バランス上で操縦性に問題があり、思い切ってフロント・エンジンに変更したのがプロトタイプ2号「LMA」だった。「A」はイタリア語の前方(Anteriore)の略でフロント・エンジンを表わす。これに手を加え市販車「LM002」が1982年完成したが、発売は1986年からとなった。
(写真16-1abc) 1988 Lamborghini LM002 (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
対象物が無いとその大きさが実感できないが、とにかく大きい。高さは185センチもあり普通の日本人では屋根越しに向こうは見通せない。
(写真16-2a~d) 1988 Lamborghini LM002 (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
エンジンは「カウンタックQV」のV12 気筒5167cc 455hpを450hpと僅かにデチューンして搭載し、最高速度は201km/hと公表されている。1990年以降は「ディアブロ」用の5707ccエンジンに変わった。1993年までに328台と意外に多く販売されたから、アラブの大富豪以外にも興味を持った人(多分アメリカ人)が大勢居たという事だ。
(写真16-3ab) 1988~92 Lamborghini LM002 (1995-08 コンコルソ・イタリアーノ)
元はエンジンの置かれていた場所は荷台に変わり、こんな大型バイクでも搭載可能だ。大きさは横の女性と較べればトラック並だという事がお判りいただけよう。
(17) <ディアブロ> (1990~2001 ) カウンタック後継車
1987年、「ランボルギーニ」の経営権はアメリカの「クライスラー」に移った。その時点でのラインアップは「カウンタックQV」を中心に、小型車の「ハルパ」とオフロードカー「LM002」の3種だった。売れ筋の「カウンタック」も最初のプロトタイプ「LP500」がデビューしてから既に16年も経って、この間マイナーチェンジでお茶を濁してきたが、1990年になって、ようやく次世代のフラッグシップ「ディアブロ」がデビューした。このプロジェクトがスタートしたのは「カウンタックQV」が登場した1985年と言われるので、完成までに5年もかかっているが、それは技術的な問題より経済的な状況が大きかったのではないだろうか。基本的な構造は「カウンタック」を継承しており、引き続きエンジンはギア・ボックスを前にした通常とは逆抜きでミッドシップに搭載し、上に跳ね上がる「シザードア」も引き継がれた。最も力を入れたのは、最悪と言われた居住性の改善で、居住空間を広げるためにホイールベースは150ミリ延ばされ、内装もエアコン、オーディオ、エアバッグ装備、メータパネル改善など、ライバルを意識した改善が行われた。一時不採用となっていた「リア・スポイラー」も復活した。エンジンは新設計されたが、水冷60°V型12気筒DOHC 48バルブという基本コンセプトは変わらず、ボア、ストロークが87.0mm×80.0mmと大きくなった分排気量は5707ccまで増え、492馬力となった。ボディについては「ミウラ」「カウンタック」に続いて今回も「マルチェロ・ガンディーニ」が担当したが、実際には「クライスラー」がかなり手を加えたと言われている。その所為か以前のような鋭さとアクの強さが消え、大人しい感じになった。
(写真17-01ab) 1991 Lamborghini Diablo (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
「ディアブロ」には幾つかのバリエーションがあるが、この車は1990~2000年迄ずっと造られた基本モデルだ。空気取り入れ口が「カウンタック」では外に飛び出していたが、「ディアブロ」ではボディのデザインに組み込まれスムーズで違和感はないが個性的では無くなった。
(写真17-2ab)1993 Lamborghini Diabro VT (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
「ディアブロ」が誕生して3年経った1993年のジュネーブ・ショーで「ランボルギーニ」としては初となる「4WDバージョン」が登場した。シリーズ名は「VT」で、ビスカス・カップリングを用いた4WD「ビスカス・トラクション」の頭文字を採ったものだ。ちょっと気になるのはリア・エンドの「Jota」のバッジで、幻のスポーツカー「イオタ」(Jota)にあやかってチューアップされたモデルが20台限定で造られたが、それは「SE30」という30周年記念モデルに限定されたものなので、「VT」シリーズのこの車になぜ付いているのかが疑問だ。メーカーの発表では最高速度は325km/hとされている。
(写真17-3ab) 1998 Lamborghini Diablo SV (1998-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
「SV」シリーズは1996年から99年まで造られた車で、4WDの「VT」の後継ではなく通常の後輪駆動だ。軽量化と、500hpを超える大馬力を持つ強化バージョンとして誕生した。写真の車の様に大きく「SV」と描かれていれば、遠くからでも目立つ。
(写真17-4ab) 2000 Lamborghini Diabro GT (2017-08 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)
1987年「ランボルギーニ」の経営者となった「クライスラー」は、1990年に「ディアブロ」を発表したが、1993年9月に30周年記念モデル「SE30」を発表した直後、「ランボルギーニ」をインドネシアの新興勢力「メダテック」に売却してしまった。「クライスラー」自身の業績不振もあったが、この種の「スーパーカー」に対する興味と所有するメリットを失ったと見られる。ところがこの新しい経営者の時代も4年余りで終結し、1998年からは「アウディ」の傘下に入り「VWグループ」の一員となった。この変化は「ランボルギーニ」にとっては技術的にも、財政的にも大きなメリットとなり、2000年以降のニュー・モデルには「アウディ」の影響がみられる。
・ところで写真のこの車は「アウディ」傘下でレース用に開発した「GT2」をロードバージョンにして市販したもので、限定80台が製造された。排気量は5992cc、575PS, 最高速度338km/hで、ヘッドライトは1999年から全シリズがリトラクタブルから固定式に変わった。これは北欧など一部の国では、常時点灯が義務付けられていることを踏まえたものだ。このユニットは1989年4代目の日産フェアレディ「Z32」(300ZX)からの転用で、メーカーは「デンソー」(レンズは市光工業製)だが、素性を示す上部の一部は黒いカバーで隠されている。
(18) <ムルシエラゴ> (2001~10) ディアブロの後継車
(写真18-1a~c) 2002 Lamborghini Mursielago 6.2 (2001-10 東京モーターショー/幕張メッセ)
2001年デビューした「ムルシェラゴ」は2010年まで造られた。「ディアブロ」の後継車で、「アウディ」傘下になって初めてのニューモデルだが、6193ccとなったエンジンは「カウンタック」「ディアブロ」と進化してきたものを引き継いだものだった。パワートレインも「カウンタック」以来の配置が踏襲され、特徴ある「シザードア」も変わらなかったが、大きく変わったのは「ムルシェラゴ」は全てが「4WD」となったことだ。
(写真18-2abc) 2004 Lamborghini Mursielago 6.2 (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ)
フロント・バンパーの両端のエッジとヘッドライト・カバーの鋭角カットから、鋭いイメージに変わったが、ボディ全体の造りは「ディアブロ」に近い。
(写真18-3a~d) 2007 Lamborghini Mursielago LP640 (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード)
2006年、強化モデル「LP640」が発表された。外見では前後のバンパーに変化があり、テールランプも赤いガラスで全体が覆われた。排気量は6496ccまで拡大され、トランスミッション、電子系統にも改良が加えられている。形式名「LP640」の「LP」は、「カウンタック」でも使われたように、エンジンが「後方縦置き」を表わし、「640」は排気量と思いきや、馬力「640PS」を示している。イギリスのグッドウッドで開催される「フェスティバル・オブ・スピード」ではクラシックカーばかりでなく、最新のスーパーカーも目の前を走行してくれる。
(写真18-4ab) Lamborghini Mursirlago (2017-01 東京オートサロン/幕張メッセ)
貧乏人の僕はパット見た時、埃を被ったランボルギーニかと思ってしまったが、実は最高クリスタルの「スワロフスキー」を全身に散りばめた超豪華なくるまだった。このお洒落な変身の真意は僕には理解できないが、この車に魅入られたように座り込んで眺めている謎の東洋系外国人団体があった
(写真18-5ab) Lamborghini Mursielago (2008-01 VWミュージアム/ドイツ・ウオルフスブルグ)
ドイツのウオルフスブルグでVW工場に併設されたミュージアムを見学した際、「ベントレー」「ランボルギーニ」「スコダ」などは敷地内で別館になっていた。この建物がそれで、壁には実物が張り付けてあった。
(19) <ガヤルド> (2003~13)
「ランボルギーニ」は1970年の「ウラッコ」から「シルエット」と続いて、1988年「ハルパ」の製造が終わるまで、主力の「カウンタック」より小さい「小型車」(と言っても2.5~3.5 ℓ) シリーズが存在していた。「ガヤルド」は10年ぶりに登場した(ランボルギーニとしては)「小型」シリーズで、エンジンは新らしく設計された、水冷、90°V型、10気筒、DOHC 5204cc(4961ccもあり)で、リッター100馬力を超す超高性能版だ。モデル名の後につく「550」「560」「570」はなんと馬力を表わしているのだ。すべてが4WDとなったのは、この馬力は2輪駆動ではコントロールしきれないからだ。全体では14,000台以上造られ大ヒットとなった。
(写真19-1a~e) 2004 Lamborghini Gallardo (2004-08 カーメル市内/カリフォルニア)
この位の高級車になると中々街中で見かける機会は少ない。この車は発売されたばかりの「初期型」で、フロント・バンパーの下の部分が左右のエアインテークに繋がっている。
(写真19-2ab) 2006 Lamborghini Gallardo Spyder (2005-10 東京モーターショー/幕張メッセ)
2005年にはオープン・モデル「スパイダー」が発売された。ボディは初期型で下半分はクーペと変わらない。
(写真19-3a~d) 2010 Lamborghini Gallardo LP570 (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)
10年間造られた「ガヤルド」には多くのモデルが存在するが、何処にも表示が無いので僕には見分けが付かない。しかしこの車についてはイベンとの表示板で明確に確認できた。2010年のジュネーブ・ショーでデビューした軽量化された強化モデルで570PSの出力を持ち、最高速度は325km/hと言われる。ボディの特徴は「中期型」だ。
(あとがき)終わってみたら、僕の守備範囲は1945年から70年代までの筈だったが、次々と現れるニューモデルを追って、つい調子に乗り過ぎて2010年まで来たしまった。先を急ぐためには思いきりよく、切り捨てなければいけないなぁと反省。
-------- 次回は「ランチャ」の予定です --------