デザイナーには、企業内デザイナー、独立したデザイン事務所のデザイナーや個人で活躍するデザイナーなどさまざまな立場のデザイナーがいるが、「ユーザーのニーズ、シーズの潜在欲求をとらえ、仮説を立てコンセプト立案し、それを魅力的な形にし、企業活動として成立するかどうかの試案を作り、市場に投入できる商品にまとめる」、簡単にいうとこのような作業の流れでモノ作りをしている。
デザインとアートの違いとは何かと訊かれることがあるが、私は、アートは自己表現の作品と考える。それに対しデザインは、ベースにはデザイナーの自己表現は必要だが、アウトプットされるものはそれを手に取る人たちが「こんなものが欲しかった」と言ってもらえるもので、しかもそれが社会に新しい活力をもたらし、私たちの生活の質を高め、社会全体をより健全な方向へ導けるものでなければならない。単なる自己満足では良いデザインとは言えない。「こんなに素晴らしいデザインなのになぜみんな買ってくれないんだ。世間の人は遅れている」。ときどきこんなデザイナーの言葉を聞くことがある。これは、デザイナーが進んでいたのではなく、ターゲットユーザーが望んでいるモノを理解できていないだけの話である。デザイナーの立ち位置は、メーカーとユーザーの間の繋ぎ役である。近江商人の「三方よし」ではないが、「ユーザーによし、メーカーによし、社会によし」が最高のデザインであろう。
近年、新たに完成した商業施設、競技場の話題がニュースになるなどして、それらを設計する建築家という職業が注目されることが多くなった。それに比べてプロダクトデザインやインダストリアルデザインという仕事はあまり知られていないと感じる。どこにいってもデザインという言葉を聞かないことはないのに、一般によく知られているのはグラフィックデザイン、ファッションデザインくらいで、プロダクトデザインやインダストリアルデザインなどはほとんど出てこない。これは、小中高の学校教育でもデザインとは何をするのかということを教えていないことに由来しているかもしれない。もちろん工業高校でプロダクトデザインを教えているところもあるが、なぜかどんどん少なくなっている。ふと我に返ると、これは私たちデザイナーが啓発活動を怠っているからかもしれない。そう考え、2002年に私が自動車技術会の中にデザインの部門の設定を提案し、2年かけてデザイン部門委員会を設定していただいた。自動車技術会は1947年に設立されたが、デザインはその間55年間も自動車技術の蚊帳の外であった。
さて、大学などデザイン教育の現場では「デザインとは」をどんな風に教えているのだろう。英語の「design」を「de-sign」と二つの単語に分け、「de」つまりやり直す。そして、「sign」サインとは、意味、読み方、使い方、記号などの意味があり、今まであったことやモノの意味や、使い方、作法などを時代に合わせてやり直す。また、designの語源であるラテン語の「designare(デジナーレ)」という言葉から"計画を記号に表す"という意味、などと教えられている。私も大学ではそう教えている。デザインという言葉のルーツである。
私が教えるときは、それにプラスして、日本語で「デザイン」を表す言葉に「意匠」という言葉が昔からあるが、その「意匠」という漢字を「意(おもい)を匠(たくみ)に表現する」と解釈して、そのように教えている。昔の日本人は、「design」という英語に素晴らしい漢字をあてたものだと感心している。いまでも十分に通用する言葉だと思うが、1950年代から70年代後半までの高度成長期に、魔法瓶や炊飯器のような家庭用電化製品に花柄を描くことが大流行した時代があった。このとき、意匠という言葉が「花柄や表面のお化粧をすること」と勘違いをするような意味で定着した。家庭用電化製品に花柄を描くことで、きれいなお花畑に行かなくともワクワクする心地よさが毎日味わえるということだったのだろう。私は勝手に「オマージュデザイン」と呼んでいるが、良し悪しは別にしても、この時代にデザインという言葉の意味がとても矮小化されてしまい、つい最近まで一般化していた。1951年松下幸之助氏が米国から帰国した直後に、「これからはデザインの時代」と語ったことも影響したのかもしれない。
自動車の世界においても、さまざまな飾り付けをすることがデザインだと言われていた。1950年代の終わり頃から60年代にかけて米国では、テールにフィンが付いたクルマが大変流行した。
キャデラックシリーズ 62セダン 1959年
ファイアーバードⅢ 1951年
1951年GMデザイン担当副社長のハーリー・アールがジェット機に憧れてガスタービンを搭載したファイアーバードⅢは、翼をたくさん付けた実験車であった。この辺りがテールフィンのきっかけと思われる。空気力学的に優れている機能が備わっているわけでもなんでもない、空飛ぶジェット機のようだと気持ちを高揚させるだけのモノで、まさにこれもオマージュデザインかもしれない。それに影響を受けたのか、ヨーロッパから輸出されるクルマにもテールフィンが付けられていた。私が若い頃には、ヨーロッパのデザインは機能的で無駄な装飾はないと言われたものだが、冷静に見ると一概にそうとは言えないようである。
メルセデス・ベンツSクラス(W111)1959年
プリンス・グロリア(BLSIP-2型)1960年
日本でもボディーに化粧モールや小さなテールフィンの付いたクルマや、たくさんの光り物が同じ時代に取り付けられでいたことは記憶に新しい。日本車のデザインに関しては追って詳しく述べるのでここではこのくらいにしておくが、このような仕事はデザインではなくスタイリングと呼ばれるものである。先に述べたようにデザインとは「計画を記号に表すこと」つまり、日本語でいう「設計」である。そして、デザインは、時代に合わせて変化させることや、おもい(意)をたくみ(匠)に表現することが肝心である。
もうひとつ、私は「デザインとは」と尋ねられると、デザインは「恕(じょ)である」と言っている。孔子が弟子に「先生、一生おこなっていくに値する言葉はありますでしょうか」と聞かれたとき、「それ恕である。自分がされたくないことは人にもしてはいけない」と答えたそうだ。ここから私の解釈であるが、「人が嫌がることはやってはいけない。こうして欲しいということをしなさい」。つまり、「人が望んでいるモノ・コトを提供する」、まさにこれがデザインではないか。私は、孔子の言う「恕」と同じではないかと考え、「デザインとは」と尋ねられたらこう答えることにしている。昔からこの質問には、多くの方々が自分の考えを述べている。それぞれ表現の仕方は違っていても基本の考え方は、皆、同じなのではないだろうか。
写真:三樹書房ホームページ連載M-BASE当摩節夫「カタログとその時代」
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