1962 Lagonda Rapide Sedan 4000
「ラゴンダ」は英国で一時期「ベントレー」と並び称される優れたスポーツカーを生産していたメーカーだが、わが国では一部の車好き以外にはあまり知られていない。スコットランド移民の子としてアメリカで生まれ、1891年には英国籍を取得していた「ウィルバー・ガン」(1859-1920) によって1906年サリー州ステインズで設立された。創業から、第1次世界大戦が終了するまでには「20」(1906~13)、「30」(1911~13)、「11」(1913~21)の3タイプしか造っていない。初期の「20」、「30」については残念ながら資料は確認できなかったが、3番目の「11」については下記に参考添付した。
(参考)1919 Lagonnda 11hp Open four-seater
・「ラゴンダ」の由来は、「ウィルバー・ガン」の生まれ故郷、ミシガン州スプリングフィールドの町の名前から取ったものだが、その名前は先住民族「ショーニー族」の居留地だったところから付いたもので、「ポンティアック」とも共通するエピソードだ。
・戦前日本に入った形跡を探ったが、先達たちが撮りためたものを集めた「二玄社」のアーカイブからも発見できなかったので、多分入っていなかったと思う。ただ「CARグラフィック」創刊号にラゴンダ・ラピードの解説記事があり、その参考資料として国内で撮られた「LG45」の写真が載っていたが、それが撮影されたのは戦後だ。これと同じ車は佐藤章蔵氏の「GLASSIC CAR 1919-1940」(定価65,000円)にも掲載されており、別の写真の背景に「サーブ」が写っていたので戦後と確認した)。
(参考) CARグラフィックに掲載されていた写真(1937 Lagonda LG45 Saloon)
(1)<14/60、2リッター・スピードモデル> (1925~33)
(写真01-1ab) 1928 Lagonda 14/60 Sports Tourerl (2001-05 ミッレミリア/ブレシア他)
1920年には創立者の「ウィルバー・ガン」が死去した。20年代前半には「11」モデルの発展型で、1421ccとなった「11.9」「12」が造られたが写真は撮っていない。その後1925年に登場したのがラゴンダ初のスポーツカー「14/60」で、エンジンは1954ccとなっていたので「2リッター」と呼ばれた。このエンジンは4気筒ながらツインカムの高性能版で、リー・フランシスから移籍してきた「アーサー・ディヴィッドソン」設計した。
(写真01-2ab) 1929 Lagonda 2-iitre Speedmode (1998-08 ラグナ・セカ/カリフォルニア)
1927年には「14/60」のエンジンを高性能化し、「2リッター・スピード」となった。現代の目で見れば「スポーティ」感はあまり感じられないが、それでもドライバー側のドアに切り欠きが有り、肘が外に出せるようになっていた。
(写真01-3a) 1929 Lagonda 2-litre Speedmodel (1999-08 ペブルビーチ・パレード)
コンクールの前日、ペブルビーチのゴルフ場からモントレー市内へ続く風光明媚な「17マイル・ドライブ」をパレードするプログラムがあり、先乗りしたこの年、パレードを追跡して撮ったのがこの写真だ。
(2)<3リッター> (1928~34)
(写真02-1ab) 1929 Lagonda 3-litre Special Tourer (1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
1926年には初の6気筒「16/65」(2389cc)が誕生し、その後継として20年代最後となるモデル「3リッター」(2931cc)が造られた。
(写真02-2ab) 1932 Lagonnda 3-litre Tourer (1997-05 ミッレレミリア/ブレシア、フータ峠)
「フータ峠」はミッレミリアのコースの中でも有名な観戦ポイントだ。峠を登ってくる九十九折り(つづらおり)も良いが、レリーフがある写真の場所は峠の頂点で、地元の人は壁に腰かけて足をブラブラさせながら声援を送っていた。
(3) < 16/80 > (1933-35)
(写真03-1a~d) 1935 Lagonda 16/80 Sports Toure (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
4気筒2リッターモデルの後継車として1932年登場したのが、同じ2リッターだが6気筒のエンジンを持った「16/80」だ。このエンジンは「ラゴンダ」としては珍しく他社製が採用されたもので、同時期スポーティな車として定評のあった「クロスレー(英)」(Crossley)の「2リッター・スポーツ」のものだ。ただそのまま搭載したのではなく、ツインSUキャブレターにするなど、ラゴンダ仕様に変更されていた。(アメリカの小型車「Crosley」は別の車) モデル名の「16」は課税馬力、「80」は実馬力が当時の慣習だが、このエンジンの実力は60馬力前後で、「80」は最高速度の80マイルだと言う説もある。 .
(4)<レイピア> (1933~38)
(写真04-1ab) 1934 Lagonda Rapier 1100 Tourer (1977-04 TACSミーティング/筑波サーキット)
歴代のラゴンダの中で一番排気量の少ないのが1934年登場した「レイピア」だ。エンジンは4気筒1087ccだが、DOHCのバルブ機構を持つなかなかの曲者だ。1977年には我が国に存在していたことを示すのがこの写真だ。ナンバープレートの「熊」は「熊谷」だろうか「熊本」だろうか。
(写真4-2abc) 1935 Lagonda Rapier de Clifford Special (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
2ドアでドアに切り欠きのあるこのボディは、カタログモデルではないスペシャルだが、典型的な小型スポーツカーだ。顔付きは兄貴分の大型車と殆ど同じ印象を受ける。
(写真04-3a~f) 1935 Lagonda Rapire (2017-07 株式会社ブレシア見学会/宇都宮)
この車の詳細はよく判らない。大きな特徴は「スーパー・チャージャー」が付いていることだが、それが付いているという記述は「2リッター・モデル」しか確認できなかった。しかし、修復なったこの車が各地のレースで活躍しているようで、インターネットから1935年型の「レイピア」と知った。1100ccクラスの軽量級だが、重量感溢れる迫力だ。
(5) < M45 Rapide > (1934~35)
(参考) 1935 Lagonda M45R ルマン24時間レースで優勝した車
(写真05-1a~d) 1934 Lagonda M45R Rapide (1994,97-05 ミッレミリア/ブレシア)
1934年、「ラゴンダ」の全盛期の中心となった「4½リッター・シリーズ」のトップバターとして登場したのが「M45」だった。直6 OHV 4467cc のエンジンを持つ大型の本格スポーツカーでこのシリーズの存在が「ベントレー」と並び称される高い評価を得ることとなった。1935年のルマン24時間レースで、「ヒンドマーシュ」と「フォント」のドライブで優勝したのがこのタイプだった。
(写真05-2a~d) 1934 Lagonda M45R Rapide (1997-05 ミッレミリア/ブレシア)
この場所はミッレミリアの車検場となるブレシアの「ビットリア広場」で、車の後方に白い線の入った建物は1927年第1回が開催された時と殆ど変わらない姿で建っている郵便局の一部だ。最後はゴールのシーンで、べったりついた泥が奮闘を物語っている。
(写真05-3a~d) 1935 Lagonda M45 G.Wylder of Kew Tourer (1999-08 ベブルビーチ)
スペシャル・ボディのようだが素性は判らない。「M45」のスポーツバージョンには「R」が付くのだが、洒落たこの車はスタンダード仕様らしく「R」は付かない。正面のプレートによると「Tourer」となっているが2ドア、2シータのこの車はどう見ても「ロードスター」だろう。(格式高いペブルビーチのコンクール・デレガンスでもこんな間違えがあるのですね)
(6)< LG45 > (1936~37)
(写真06-1a~d) 1936 Lagonda LG45R Team Car (1999-08 ペブルビーチ)
1935年「ラゴンダ」は経営危機に見舞われ「ロールス・ロイス」に吸収されかかったが、より高額を提示したアランP・グッドに買収されたことで吸収を免れ、「ラゴンダ」ブランドを存続することが出来た。しかもこの新しい経営者は、従業員全員を集め「我々の手で<世界で最高のクルマ>を作ろう」と高らかに宣言し新たな目標を与えた。掛け声だけではなくその実現を目指し、当時ロールス・ロイスに籍を置いていた伝説の人「ウオルター・オーエン・ベントレー」を「ラゴンダ」へ移籍させることに成功した。「ベントレー」の創立者である「WOベントレー」は、1931年ロールス・ロイスに吸収合併された後は看板的存在で、技術者としての活躍の場が与えられず不満を抱えていたからこの話に乗ったのだろう。WOベントレーが移籍した1935年「ラゴンダM45」はルマンで優勝したが、タイミング的に関連は無く、彼の最初の仕事はこの「M45」の一層の性能向上を図ることから始まった。エンジンはそのままで、改良の主眼はシャシーの強化と、ハンドリングの向上だった。
・写真の車は2台だけ造られたチームカーで、社長の「アラン・グッド」は妻と共にモンテカルロ・ラリーに参戦、結果は41位に終わったが積極的な経営者だった。「EPE 97」のこの車はカストロールの広告にも使用されていた。
(写真06-2abc) 1937 Lagonda LG45R (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)
スペシャル・ボディーかとも思われるこの車は、斬新なスタイルだがメーカーの標準モデルだ。曲線を多用したデザインには特徴があり、特にフロントフェンダーとステップのつなぎ方は特筆される。デザイナーは24歳の「フランク・フィーリー」が担当した。参考資料を添付したのは、写真の撮る角度で車の印象が全く変わってしまう事を感じて欲しかったからだ。
(写真06-3ab) 1936 Lagonda LG45 Type7 Tourer(2009-10 ラフェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
こちらは国内で捉えた「LG45」で市販型ツアラーと思われるが、タイプ7が何を現しているのかは不明。「L45」の標準タイプは278台造られたが「ツアラー」「サルーン」「ドロップヘッド・クーペ」「サルーン・ドビル」と4種のバリエーションがあった。
(7)< LG6 > (1938~40)
(写真07-1ab) 1938 Lagonda LG6 Drophead Coupe (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
(写真07-2abc) 1938 Lagonda LG6 Drophead Coupe (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
1938年登場した「LG6」は4.5リッター・シリーズ最後のモデルで、トーションバーと油圧ブレーキを備えた独立したスペンションに換えられて居た。ペブルビーチのコンクールに登場したこの2台の車は、テールの処理が少し異なるがいずれも「ドロップヘッド・クーペ」だ。このシリーズは全部で85台しか造られなかったが「ツアラー」「サルーン」「ドロップヘッド・クーペ」「ラピード・クーペ」「サルーン・ドビル」「セダンカ」と洒落たタイプのバリエーションが多数造られた。
(8)< V12 > (1938~40)
(写真08-1a) 1938 Lagonda V12 Rapide Tourer (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
「W.Oベントレー」が「ラゴンダ」に移籍してから15ヶ月後の1936年、早くも「世界一」を名乗るに相応しい車が誕生した。誰もが世界一と認める「ロールス・ロイス」は1935年、V12エンジンを積んだ「ファントムⅢ」を発表したが、ベントレーはこれを上回る優れたエンジンを目指し、生涯で最高傑作と称賛されるV12エンジンを生み出した。(単純に数値の比較が優劣を決めるものではなく、出力よりも「静粛さ」「耐久性」を重視するのはロールス・ロイスの方針だから、それぞれが用途に見合った優れたエンジンと言える)
(写真08-2abc) 1938 Lagonda V12 Tourer (2000-06 シルバーストーン・サーキット/イギリス)
「V12」のプロトタイプは1936年発表されたが、市販が始まったのは1938年になってからだっだ。全部で189台造られたが「ツアラー」「サルーン」「ドロップヘッド・クーペ」「ラピード・クーペ」「サルーン・ドビル」「セダンカ」「リムジン」と多彩なバリエーションが造られた。
(写真08-3abc) 1938 Lagonda V12 Drophead Coupe(2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
内張りの付いた分厚い幌に、ランドウ・ジョイントを持っており、「カブリオレ」の様に見えるが、ラゴンダの場合は「ドロップヘッド・クーペ」となる。
(写真08-4abc) 1938 Lagonda V12 Gurny Nutting Roadster (1999-08 ペブルビーチ)
この車はカタログ・モデルではなく、ロールス・ロイスなども手掛ける老舗のコーチビルダー「ガーニー・ナッティング」が造った「ロードスター」だ。この車の場合通常はオープンで、おまけに付いている幌は薄手の一重だ。
(写真08-5ab) 1939 Lagonda V12 James Young Sedanca Coupe (1999-08 ペブルビーチ)
この車も高級車のボディ造りでは有名なコーチ・ビルダー「ジェームス・ヤング」が手掛けた車で、「セダンカ・クーペ」という珍しいタイプだ。「ドロップヘッド・クーペ」と何処が違うかというと、「セダンカ」は運転席の屋根がないので、この車の場合は半分を巻き上げてオープンにできる。(馬車時代の御者席の名残だ)
(写真08-6a~d) 1939 Lagonda V12 Tulipwood Roadster (1990-07 友禅自動資料館/幕張)
(参考)お手本となったオリジナルの イスパノ・スイザ チューリップ・ウッドレーサー
今から30年以上前、幕張に個人のコレクションを収蔵した小規模な資料館があった。そこで見つけたのがこの車で、最初見た時は「あっ!イスパノのチューリップボディだ!」とビックリした。それは「アンドレ・デュポネ」が戦闘機メーカー「ニューポール」に特注して造らせたレーシングカーとして知られている車だったからだ。しかし、傍によってよく見ると中身が「ラゴンダ」だったのでまたびっくりした。「ラゴンダ」もこんな車を造っていたんだ、と言うのがこの時の僕の偽らざる気持ちだった。アルミボディに薄い木片を真鍮の釘で止めてあるというのが定説だが、アルミ板に釘は打てないのでリベット止めだろうか。(ゆりの木はモクレン科の一種で花がチューリップに似ているところから「チューリップ・ツリー」とも呼ばれる)オリジナルは1924年製なので1939年製のこの車は後年改造されたものだろう。
(写真08-7a~d) 1938 Lagonda V12 LeMans (1984-01 TACSミーティング/明治公園)
1984年のイベントで初めてこの車を見た時は何の予備知識も持っていなかった。だからこの不格好な車はどこかの町工場で造った改造車かと思った。一番印象を悪くしたのはラジエターグリルの両脇にある「ホーン」の付いた大きな箱状の物が、いかにも似つかわしくない存在と感じたからだ。(多分空気抵抗を抑えるため何かをカバーしている箱だろうが)この車は2台造られたとされているが僕は3台見ているので、もしかするとこの車は僕が最初に感じたようにどこかで改造された車かもしれない。
(写真08-8abc) 1939 LagonaV12 LeMans (1997,2000-05 ミッレミリア/サンマリノ、フータ峠)
2台造られたこのタイプは、戦前最後となった1939年の「ルマン24時間レース」に参戦し、総合3,4位(クラス優勝、2位))と優秀な成績を残している。ルマン出場を目指すV12のワークスカーは、W.O.ベントレーの総指揮のもと開発が始められていたが、若くして資産を相続した車好きの「セルスドン伯爵」が、友人のアマチュアドライバー「ウオーロン卿」に勧められて、「ラゴンダ」に資金を提供、自分たちの為の車の製作を依頼、W.O.の眼鏡にかないルマンに出場することになった。カーナンバー⑤が彼らの乗った車で、教えを忠実に守って完走し総合4位となった。その陰にはベントレー時代5回、ラゴンダで1回ルマンを制しているW.O.の、緻密な計算による完走を目指したペース配分によるところが大きい。
(写真08-9ab) 1939 Lagonda V12 LeMans (2006-10 ラフェスタ・ミッレミリア/幕張)
3台目のこの車は日本でナンバーを取得している。2台の内 ⑤の登録ナンバーは「HPL 448」、⑥は「HPL 449」なのでこの車はオリジナルで、1939年のルマンではプロ・ドライバーの「チャールズ・ブラッケンベリー」と「アーサー・ドブソン」がドライブし総合3位(クラス優勝)となった車そのものと思われる。
・残念なことに1940年の「ルマン」は第2次世界大戦の影響で中止となってしまったが、もし開催されて居れば優勝出来たかもしれないといわれるほどのパフォーマンスを持っていた。最後に大輪の花を咲かせて戦前の「ラゴンダ」の活動は終了した。
(9)<ラピード> (1961~64)
(写真09-1abc) 1963 Lagonda Rapide Saloon Tpuring (2000-06 シルバーストーン/イギリス)
第2次大戦中は砲弾や火炎放射器など武器生産に携わっていた「ラゴンダ」だが、戦後は自動車の製造には復帰できなかった。1947年トラクターなどのメーカー「デビッド・ブラウン」に買収され、同時に買収された「アストンマーチン」と一体となって車造りを再開した。その際旧工場は処分されたがW.O.ベントレーはそのまま移籍し、アストンマーチンの開発にも関与している。戦後最初の「ラゴンダ」は2580ccのエンジンを持つ「2.6リッター」で1948年から53年まで造られ、次の「3リッター」は、1953年から58年まで造られたがそこで姿を消した。(ラゴンダの2.6リッターエンジンはアストンマーチンの「DB1」に、3リッターエンジンは「DB2」DB3」に搭載された)
・もはや「ラゴンダ」は息絶えたかと思われて4年、1961年に三度(みたび)よみがえったのが「ラピード」だ。3.7リッターのエンジンはアストンマーチン「DB4」と共通で、2ドアクーペの「アストンマーチン」に対して「ラゴンダ」は4ドアでフルサイズのサルーンが用意された。「サスペンション」「ギアボックス」など「DB4」と共通部分を多く持つのは当然予想される所で、デビッド・ブラウン傘下で、アストンマーチンよりもマイルドな実用性を望む顧客を対象にしたものだろう。しかし製造されたのは僅か55台にとどまった。
(写真09-2a~e) 1962 Lagonda Rapide Saloon Touring (2018-03 コンコルソ・デレガンス京都)
この貴重な「ラピード」が日本で見ることが出来た。2018年に京都の二条城の中で開かれたコンクールに展示されていたもので、新車同様の素晴らしいコンディションの車だった。残念ながらこの車は展示のため海を渡って来たもののようで、日本に棲み着いてはいないだろう。
(10)<アストンマーチン―ラゴンダ>
(1974-75 Sr.1/1976-86 Sr.2/1986-87 Sr.3/1987-90 Sr.4)
(写真10-1abc) 1974 AstonMartin-Lagonda Sr.1 Saloon (2000-06 シルバーストーン/イギリス)
折角復活した「ラゴンダ・ラピード」は1961年から64年までの4年間で僅か55台造っただけで、また姿を消してしまった。メーカーとしての「ラゴンダ」はこれが最後だった。しかし「アストンマーチン-ラゴンダ」と名前を変えてしぶとく生き残った。「デビッドブラウン・グループ」に吸収されたあとの「ラゴンダ」と「アストンマーチン」の関係は「別会社」なのか、「デビジョン」として独立していたのか今一はっきりしないが、この車が造られた時点では、車名「アストンマーチン」、モデル名「ラゴンダ」の関係にある。
・この車の場合も「ラピード」の時と同じ狙いで誕生したもので、ベースとなった「AM V8」の2ドアに対して4ドア・サルーンを提供した。顔付きは多少異なるがV8 DOHC 5340ccのエンジンをはじめ共通部分が多い。プロトタイプではないが全部で7台しか造られなかった希少価値のある車だ。
(写真10-2abc) 1976 AstonMartin-Lagonda Sr.2 Saloo (2000-06 シルバーストーン/イギリス)
(写真10-3a~d) 1985 AstonMartin-Lagonda Sr.2 Saloon (2017-08 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)
「アストンマーチン・ラゴンダ」のシリーズ2は、全く新しく設計された別物となった。この斬新なボディをデザインしたのは「ウイリアム・タウンズ」で、極端に低いノーズと長いボンネット、ずらりと並んだ6個のライトは補助ライトで、ヘッドライトは格納されている。長いボンネットは半分がオーバーハングしているので、見た目程居住スペースに影響は無く室内は広い。角はエッジが立っており鋭い印象を受ける。内装は思いっきり豪華で、しかも当時最先端のコンピューター管理を導入し、LEDのデジタル・パネルは数か国語の切り替えが可能だった。エンジンはシリーズ1と変わらずV8 DOHC 5340cc が搭載されている。
・次世代の「シリーズ3」は、エンジンがインジェクション化されただけで「シリーズ2」と変わらない。
(写真10-4abc) 1987 AstonMartin-Lagonda Sr.4 Saloon (2000-06 シルバーストーン/イギリス)
(写真11-4abc)1987 AstonMartin-Lagonda Sr.4 Saloon (2018-04 コンコルソ・デレガンツア・京都)
印象としては「シリーズ2」をそのまま引き継いでいるが、細かく見ると多くの改良点がある。角ばったエッジは丸みを持たせ、グリルはクロームからボディと同色で塗装された。ボンネットに埋蔵されていたヘッドライトは、少し大きくなった正面の6個のライトに変わったので廃止された。この車は105台造られ、1990年3月を最後に生産は終了した。この時点で「W.O.ベントレー」の息のかかった「ラゴンダ」は完全に息を止めた。
・(思う事)この回が公開される頃、1934年4月2日生まれの小生は87歳になっている。90歳までは頑張ろうと思っているが、それにしても残された時間は3年で、回数にすれば36回しかない。残されている項目で1回では終わらない大物は23項あり、「ランボルギーニ」「ランチャ」「ロータス」「マセラティ」「メルセデス」「日産」「ポルシェ」「ロールス・ロイス」「VW」などは2回、3回以上を必要とするだけのデータをストックしている。息のある内に完結させるためには、①「対象項目を間引く」、②「項目は減らさないが写真を少なくする」、③「写真は減らさず説明を少なくする」、のどれかを選択してスピードアップを図らなければ、と考え始めた今日この頃である。
―次回は「ランチェスター」「ラサール」「リー・フランシス」「レオン・ボレー」他の予定ですー