(01)<ジープ>
ここに登場する「ジープ」という名称は、正式な「車名」ではない。この名で呼ばれるようになった車の正式名はウイリスオーバーランド社の「Truck 1/4ton 4×4 Command Reconnaissance Willys MB」で、一般には「ウイリスのMBジープ」とよばれる。
この車の誕生は、1939年ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し第2次世界大戦がはじまると、ドイツ軍で活躍している「キューベル・ワーゲン」という小型万能車の存在を知ったアメリカの関係者が、1940年5月「小型四輪駆動偵察車開発小委員会」を発足させたところから始まる。歩兵、騎兵、補給部隊と民間技術者で構成された所からもその目的が連絡、偵察、小型輸送を目的としたことが伺える。原案の一部を修正し最終案が7月11日入札案内としてメーカーに発送された。性能の条件も厳しいものだったが、テスト車70台を75日間で製作し納入するという条件は、いかに戦時中と言っても厳しい物だった。案内は百数十社に送られたとあるが、(そんなに多数のメーカーがあった?)その結果応募した来たのは「アメリカンバンタム社」と「ウイリスオーバーランド社」の2社のみで、「ウイリスオーバーランド社」は納期に自信がなく辞退したので、残ったのは」「アメリカンバンタム社」だけとなった。この会社はイギリスの「オースチン・セブン」のアメリカ版を造る小規模の小型車メーカーだったが、当時経営不振状態にあり、起死回生のチャンスと飛びついたわけだ。早速天才エンジニアといわれる「カール・K・プロブスト」をチーフエンジニアに迎え、僅か11日後の7月22日には基本設計、青図、見積書などの必要書類を整え入札に応募した。9月23日納入期限ぎりぎりで試作1号車が納入され、1か月近く過酷なテストが行われた結果採用が決まり、プロトタイプが発注された。
(参考) 1940 American Bantam Pilot Model (9月に納入された試作1号車)
軍では1500台を予定したが生産能力の低い「アメリカンバンタム社」には500台とし、「ウイリスオーバーランド社」と「フォード社」に対しては「バンタム」のデーターを基に、それぞれ独自の改良を加えたパイロットモデルの開発を指示した。その結果は「ウイリスオーバーランド社」は11月11日「Quad」を、「フォード社」は11月23日「Pygmy」を納入した。
(参考)1940 Willys Quad (ウイリスの試作1号車)
(参考)1940 Ford Pygmy (フォードの試作1号車)
その後一部仕様の変更が行われ重量制限が大幅に緩和され、耐久性と装甲を強化したモデルへの見直しが行われ、「アメリカンバンタム社」は「Bantam 40 BRC」となり、「ウイリスオーバーランド社」は「Willys MA」、「フォード社」は「Ford GP」となって、この3車がイギリス軍、ソ連軍の提供されヨーロッパ戦線で実戦テストが行われた。
(参考)1940 American Bantam BRC40 (バンタム社の最終試作車でバンタム偵察車と呼ばれた)
(参考)1940 Willys MA (ウイリスオーバーランド社の最終試作車)
(参考)1940 Ford GP (フォード社の最終試作車)
アメリカ国内でも過酷なテストで比較検討され最終的に「制式採用」となったのは「Willys MA」のシャシー/エンジンに「Ford GP」に似たボディを組み合わせたものだった。1941年7月、このモデルに対して入札が行われた結果「ウイリスオーバーランド社」が落札し、18,600台を受注した。この入札に成功した結果、この車は「Willys MB」となり後年「ウイリスオーバーランド社」と「ジープ」を結び付けたのだが、この車の誕生が3社の共同によってなされたことは忘れてはならない。
(参考)1941 Willys MB (ウイリスで制式採用された量産型)
それから3か月後の10月4日、政府はフォード社に対してこの車の共同制作を要請し15,000台を発注した。これは「ウイリス社」の生産体制の限界を考慮しただけではなく、戦時下で工場が破壊された場合も生産を維持することが考慮された結果だ。フォード社にとっては「棚ぼた」のような受注に見えるが、ビッグ・スリーの大フォードにとって中小企業の「ウイリス社」の下請けのような仕事はかなり抵抗のある仕事だった。1942年1月完成したフォード製のこの車は、殆どすべての部品が互換性を維持しつつも独自に設計したフォード製に換えられ、すべてに「F」のマークを刻印してフォードの意地を見せた。車名も「Willys MB-F」ではなく、独自に開発した「GP」の発展型「Ford GPW」としている。
(参考)1941 Ford GPW (フォード仕様の量産型)
最終的には「MB」が361,349台、「GPW」が277,896台造られたが、量産に関しては「バンタム社」は政府からは期待外だったようで、開発当時15人だった従業員を450人まで増員して量産体制の準備をしていたが、全くお声がかからず、開発の努力は.水の泡となってしまったのは中小企業の悲劇だ。
・「ジープという名前の由来」は諸説ありどれも決定的な確証はない。一番それらしいのは、汎用という意味の「ジェネラル・パーパス(GP)」から⇒「ジー・ピー」⇒「ジープ」と変化したという兵隊達の間で自然発生したという説である。次は漫画「ポパイ」に登場する「ユージン・ザ・ジープ」という動物の名前からとする説で、この「ジープ」は超能力を持ち、なんでも出来るきることから人気があり、何でもできる人の事を「ジープ」と呼ぶこともあった。「ユージン」の超能力と、「小型軍用車」の高い万能性が共通点としてとらえられ、車も「ジープ」と呼ばれるようになったという自然発生説だ。次は「ウイリスオーバーランド社」のテストドライバーでポパイの漫画が大好きな「アービング・ハウスマン」説だ。彼が「ワシントン・デイリー・ニュース」のキャサリン・ヒリアー記者を載せてテストドライブしたあと、車の名前を聞かれ「ジープです」と答え1941年2月19日付けの記事となって一般に広く知られた。しかしハウスマンはこの言葉は兵隊から聞いたと言っているので、ポパイの漫画の中の「ユージン・ザ・ジープ」から思い付いて彼が創作したわけではなく「ジープ」という名前を広め、定着させる功績があった人だ。最後は、確証はないがかなり具体的なエピソードで、バンタムの試作車をテスト中に報道関係者に対してデモンストレーションを行っていた際のやり取りで、泥んこに飛び込んだ時にUPの記者が「何やってんの、この車もっと早く走れないの」といった時のそばに立っていた補給本部のロス軍曹が「あのジープは、どんなことだって出来るんだ」と叫んだと、「ジープを発明するのはお金にならない」という本に書いてあるらしい。この記事が何を根拠に書かれたのかが不明なのでどこまで信じていいかわからないが、もしこの時のレポートをUPの記者が具体的に記事にしていれば後世余計な憶測はしなくて済んだだろうに。
このほかに1940年秋フォード社の技術者ローレンス・シェルドリックは「ジープという名前は、ここフォード自動車会社で考え出された」という主張をした記録もある。
・「ジープ」は軍用車であり、乗用車ではない。制式名からもわかるように「¼トン積みのトラック」として扱われるのには日ごろの印象からちょっぴり違和感を感じてしまう。
<ジープの本家・ウイリスMB>
(写真01-1a~f) 1941 Willys MB Jeep (2012-04 トヨタ自動車博物館/名古屋)
完全にオリジナルで復元されているこの車は、僕にとっては1945年(昭20)秋、戦勝国アメリカの「占領軍」が静岡市の進駐してきた日を思い出させる姿だ。戦時中「鬼畜米英」と教え込まれた小学5年生がこわごわと眺めたジープは、ガソリンのにおいと共に忘れられない記憶だ。
(写真01-2abc) 1943 Willys MB Leep (2007-06 イギリス国立自動車博物館/ビューリー)
砂漠仕様を除いては、アメリカの軍用車は「オリーブ・ドラブ」と呼ばれるカラーで塗装されていた。グリーンがかった黄土色で、プラモデル用の塗料が用意されている。この車はその色が良く出ている。
(写真01-3ab) 1943 Wiollys MB Jeep (2001-08 河口湖自動車博物館/山梨)
この車のウインドスクリーンは曲がったアームの先端を軸に90度前に倒すことが出来る。レジャーカーならオープンエアーを楽しむためという事もあるだろうが、兵器のジープにはそんな遊び心は無い。空気抵抗を減らす効果はあるかもしれないが、それよりも偵察に出た際に太陽の光が反射して敵に発見されはいため倒せるようになっているのではないかと推定した。
(写真01-4abc) 1942 Willys MB Jeep(ガールズ&パンツアー仕様) (2013-05 静岡ホビーショー/ツインメッセ静岡)
静岡のホビーショーに展示されていたこの車は、見ての通りアニメ「ガールズ&パンツアー」に登場する「大洗女子学園・あんこうチーム」仕様のジープだ。青地に白抜きの「洗」の文字は校章で、たらこ唇の「ピンクのあんこう」がシンボルマークだ。ストーリーの主人公は「戦車」で、この塗装のジープがアニメに登場するのかは、僕は見ていないのでわからない。
<ウイリス・ジープ/民間型>
(写真02-1abc) 1944 Willys CJ-1 (17-10 日本自動車博物館/小松市)
民間に払い下げされたジープは戦争が終わって余剰となった結果だから、CJ-1が1944年製という事は、戦後軍用ジープの軍装を外して民間用に改装したものだろうか。1945-49年に造られたCJ-2はヘッドライトが大型になり軍用ジープとは別物となっている。
(写真02-2a) 1949 Willys Jeep CJ-1 (1958-06 静岡市江川町通り)
放出された民間ジープが街中で実際に活動している姿がこれだ。静岡市内で撮影した物だが、初期型に限って正面のスリットが9本あり、MBと同じ顔をしている。ナンバープレートから「自家用普通貨物自動車」(トラック)扱いであることが判る。
(写真02-3a~d) 1964 Willys Jeep CJ3-J3 (2015-10 アメリカン・ピクニック/お台場)
すっかりレジャーカー化したジープの姿がこれだ。太いタイヤなどどこまでオリジナルかは不明だ。
(写真02-4a) 1948 Willys Jeep 2dr Station Sedan (1959-03 静岡市内県庁裏)
ウイリスの「ステーション・ワゴン」は1946年から発売されていたが、1948年登場した6気筒のこのモデルに限り「ステーション・セダン」と命名されていた。外見の特徴はサイドの白い帯で、籠目の編み模様とされるが、僕の観たこの車は白い塗装のように見える。アメリカの「CIE図書館」の車かと思っていたが「た」ナンバーなので県庁の車のようだ。
(写真03-1a~d) 1948-49 Willys Jeepstar VJ 2dr Phaeton(前期型) (1958 静岡市内)
「ウイリス社」は1910年代から続く中堅乗用車メーカーだったが、第2次大戦中は「MBジープ」の軍需で安定した生産体制を維持してきた。しかし戦争が終わって特需が終わると自力で販路の確保を図る必要に迫られ、民間向けジープ「CJ」や「ステーションワゴン」「トラック」などジープをベースにした市販車が造られた。その一環として誕生したのが乗用車タイプの「ジープスター」だった。工業デザイナーとして知られる「ブルックス・スティーヴンズ」の手によって、軍用ジープの面影を残しながらもマイルドな2ドア・フェートンに生まれ変わった。不整地での走行は想定されておらず、4輪駆動では無かったが、現代の「SUV」の原点といえなくもない。写真の車はサイドカーテンを上げたクローズド仕様だが、オープン仕様の時は後席へはボディの外についているステップを使って乗り込める、というワイルドな面も持っている。
(写真03-2a) 1950 Willys Jeepstar 2dr Phaeton (1960-01 港区内)
「ジープスター」は1948-49年の「前期型」と50-51年の「後期型」に分かれるが、この車はその中間的存在で、グリルは「MB」同じ9本の縦のスリットを持っており、パターンは前期型とは異なるが、ボンネットは前期型と同じだ。ただ、前期型にある後席への乗込用のステップが無いのは後期型と同じで、サイドカーテンも後期型に近い。
(写真03-3a~e) 1950-51 Willys Jeepstar 2dr Phaeton(後期型) (1962-04 港区赤羽橋付近)
少しでも乗用車らしさを出そうとしたか、1950年マイナーチェンジが行われた。正面にV型のメッキの付いたグリルが付いたので軍用ジープのイメージは少し遠のいた。特徴的だった後席への乗込用ステップが廃止されたのは、対象とした婦人層への配慮だったのだろう。1953年からは普通のセダン「アエロ」が発売され「ジープスター」は4年の短命で終った。
(写真03-4abc) 1953 Willys Jeep Station Wagon 475 4×4 (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
ウイリスの「ステーションワゴン」は戦後間もない1946年誕生した。当初のモデルは「4-63」で、外見は前出の1948「ステーション・セダン」とほぼ変わらない。写真の車は「475 4×4」とあるり、このタイプは1953年型だから案内板の「1946年」と「ステーションWG最初の形」とあるのは誤りと思われる。グリルは1950-51年のジープスターと同じだ。
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<フォードのジープ>
(写真04-1a~i) 1943 Ford GPW Jeep (2007-04 トヨタ自動車博物館/名古屋)
さすが内容が充実しているトヨタ博物館では、「ウイリスMB」と「フォードGPW」の両車をコレクションしており、日を改めて両方を写真に収めることが出来た。外見は見る限り相違点が見つからないが、フォードには左脇にシャベルと何か棒状のものが積まれており、大メーカーのサービスの様に感じてしまった。(すべての標準装備ではないオプションだろうが) 「フォード社」は「ジープ」の製造に対しては政府の要請によって渋々?協力してきたので、戦後は未練なくすっぱりと打ち切ったから、「フォードGPW」の民間型は一切造られなかった。
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<三菱のジープ>
(写真05-1aa) 1955~61 Mitsubishi Jeep 2dr Delivery Wgon (1958-03 静岡市内県庁付近)
財閥解体で三分割された三菱重工業の一つ「中日本重工業」は、1952年からは社名を変更して「新三菱重工業」となっていた。技術提携先としてフォルクスワーゲン社を視野に検討していたが、1952年7月アメリカの「ウイリス社」と「組立下請契約」を結んだ。それは世界へ向けて販路拡張を図っていたウイリス社の思惑と、2年前に発足した警察予備隊(保安隊→自衛隊)の装備にジープを大量に輸入したくても、外貨事情から無理なので国内で組み立て、生産を考えていた事とが結びついて実現したものだった。だから他社は技術習得が優先目的とすれば、この場合は外貨節約が優先していてともいえる。1953年2月「ウイリスCJ3A」をベースにした「J1」が完成し3月までに54台が林野庁に納入され、9月までに「J2」500台が保安隊に納入された。1953年7月には「技術援助及び販売契約」を締結し、本家以外に「ジープ」と命名できる権利を持つ唯一の会社となった。写真の車は、ウイリス「モデル4-75」の国産版でワゴンタイプとしては我が国のルーツとなる初代モデルだ。まだ左ハンドルのままで、顔つきもジープそっくりだし正面には「Willys」の文字も入っていた。
(写真05-3a~d)1961 Mitsubishi Jeep (2005-10 東京モーターショー/幕張)
初期の国産化ジープで、正面に「三菱のマーク」と「Willys」の文字が並んでいる。まだ左ハンドルなのでノックダウンで組み立てされたものと思われるが、ボンネットの横に「MITSUBISHI」の文字が見える。
(写真05-5abc) 1977 Mitsubishi Jeep J34 Station Wagon (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
1977年のこのモデルになると「ウイリス」の影響は薄く、右ハンドルで、正面のマークは「三菱」だけとなっている。
(写真05-6) 1982 Mitsubishi Jeep J59(2013-11 トヨタ クラシックカー・フェスタ/神宮絵画館前)
5年前の前項の車と顔付きは全く変わっていないが、太いタイヤですっかり雰囲気が変わり、遊び心が感じられる。幌はオリジナルのジープとは全く異なる仕様で、小型トラックのようだ。
(写真05-7a~d) 1998 Mitsubisi Jeep J55 (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
「三菱ジープ」は1953年から 45年という長期間製造が続けられてきたが、このモデルで終止符を打つことになった。この車は「最終記念モデル」仕様となっている。
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<フランスのジープ)
(参考06-1a) 1954 Delahye V.L.R. (1954年スイス版自動車年鑑より)
第2次大戦中から戦後にかけて、各国で小型軍用車が造られたが、フランスでは高級車メーカーで有名な「Delahaye」(ドラエ、デライエなどいろいろに呼ばれる)が製造している。現物は見たことが無いがスイス版の自動車年鑑で見つけたので参考に取り上げた。見る限りでは「ウイリスMB/M38」辺りがお手本のように見える。
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<イタリアのジープ>
(写真07-1a~d) 1951 Alfa Romeo 1900 M AR51 Jeep (2001-05 アルファロメオ・ミュージアム)
イタリアでは名門「アルファロメオが造っている。見た目は「ウイリスMB」に似ているが全く関係なく、1900シリーズのバリエーションの一つとして造られたものだ。よく見ると正面の顔は「アルファロメオ」の「楯」が入っている。
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<ソ連のジープ>
(写真08-1abc) 1947 GAZ 67B Jeep (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ)
(参考) アメリカから貸与されソ連ジープのお手本となった「バンタム偵察車BRC 40」
(参考)「バンタム」をお手本にして造られたソ連ジープ「GAZ64」
(参考)「GAZ64]の改良型「GAZ67」
量産型 GAZ 67B
ソ連の「ジープ」といわれる「GAZ60シリーズ」は「GAZ61」からスタートした。この車は4輪駆動ではあったがセダンタイプで「ジープ」というよりは「スタッフカー」の印象だった。次の「GAZ64」は 、当時の同盟国アメリカから提供されたジープの最終試作モデルの「バンタムBRC-40」をお手本にしたもので、その改良型が「GAZ67」、量産型が写真の「GAZ67B」となる。ヘッドライトのアレンジは完全に「バンタムBRC-40」のアイデアを踏襲しているが、ラジエターはフォード・トラックのソ連版「GAZ-AA」から転用したので、グリルの形は「バンタム」より狭い。
(写真08-2abc) 1953~55 GAZ 69A 4dr Phaeton (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
戦中から戦後にかけて大量生産された「GAZ67B」の後継車として1946年から開発が始められ、53年から55年までは「GAZ」で生産された。その後54年から72年までは「UAZ」に移り合計で63万台以上が生産された。ボディには2タイプあり「2ドアピックアップ」と「4ドアフェートン」がある。見た目は「ウイリスジ-プ」の面影は全く見られず、軍用だけでなく広く民間用としても利用された。展示車の案内には「1943年」とあるが「53年」の誤りと思われる。「ウイリスMA」を参考にしたとあるが、「MA」は10年以上前の車なので信じがたい。
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<中華人民共和国のジープ>
(写真09-1abc) 1955 Beijing(北京) BJ212 (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
(参考)「北京」にそっくりの「トヨタ・ランドクルーザー」
(参考)ソ連の「UAZ469]は「ランドクルーザー」を参考に造られた。
この車(BJ212)はソ連の「UAZ469」のコピーといわるが、外見はむしろ「トヨタ・ランドクルーザー」の方が似ている。もっとも「UAZ469」がトヨタに似ていたから「孫引き」という関係だ。通称「北京」と呼ばれるこの車の正式名は「BJ212」だ。1965~87年と長期間にわたって生産され、「キューバ」「パキスタン」「シリア」「チャド」などに軍用車とした輸出している。
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<トヨタのジープ>
(写真10-1a) 1958 Toyota Land Cruiser FJ25 (1958-03 静岡市内江川町通り)
1951年から70年も続く「ランドクルーザー」は「クラウン」と並ぶトヨタのロングセラーだ。発端は「三菱」「日産」と競合した、当時の「警察予備隊」(現自衛隊)への納入を目指して開発されたが、「ジープ」をライセンス生産した実績のある「三菱」に敗れ、販路を官公庁、民間需要に変更したほか、アメリカへの輸出も始めた。写真の車は静岡市内で撮影した物で、最初期の20系ワゴンだ。当初はトヨタも「ジープ」を名乗っていたが、「ウイリスオーバーランド社」の商標権に抵触することが判り1954年6月「ランドクルーザー」と名前を変えた。
(写真10-2abc) 1967 Toyota Land Cruiser FJ55 (2018-05 消防自動車博物館/千葉・御宿)
「ランドクルーザー」には消防車は大切な販売先で、「専用のシャシー」と強力な「F 型エンジン」が用意されていた。写真の車は千葉県の御宿にある個人のコレクションで、ここは消防自動車専門のミュージアムだ。(近くに鉄道車輛のコレクションも併設している
(写真10-3abc) 1980 Toyota Land Cruiser BJ45V (2013-11 トヨタクラシックカー・フェスタ/神宮絵画館前)
この車は1960年から84年まで造られた第3世代の1980年型ディーゼル仕様なので「BJ45V」と推定した。40年も前の車とは思えない綺麗さと恰好良さだ。
(写真10-4ab) 1989 Toyota Land Cruiser BJ74V (2013-05 静岡・タミヤ本社)
この車は1989年「パリ-ダカール・ラリー」に参加した「チームA.C.P.」仕様で、タミヤのミニ4駆の原形となった車だ。勿論静岡のタミヤ本社に展示されている。赤、青、白の3色のタミヤ・カラーで塗装され「市販車無改造・ディーゼル車クラス」で2位となっている。
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<ニッサンのジープ>
(写真11-1abc) 1960 Nissan Patrol 4W66 (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
日産の「ジープ」タイプのスタートは「三菱」「トヨタ」と同じで「警察予備隊」(現自衛隊)への納入を目指したものだが、入札に敗れ、主に警察や官公庁の販路を求めた。「パトロール」という名前がどの時点から使われたのかは不明だが、警察の車としてはもってこいの名前だ。写真の車は1951年から60年まで造られた初期型の「4W60系」としては最晩年のものだ。「日産」の場合エンジンがフロントアクセルの上にあるため「デフ」との干渉を避け高めの位置に搭載され、ボンネットの中央も一段高くなっている。(トヨタBJはフロントアクセルの後ろに収めている)
(写真11-2abc) 1961 Nissan Patrol 60 (2015-07 日産ヘリテージ・コレクション/座間)
1960年から2代目の「60系」となった。初代の全体のイメージは「ウイリスMB」ジープの影響を強く受けていたが、2代目はイギリスの「ランドローバー」に似たボクシーなフェンダーを持っている。撮影場所は神奈川県の座間市にある「日産ヘリテージ・コレクション・ホール」で、世界各国の名車を集めた「トヨタ自動車博物館」と違って、自社の歴史を網羅した「ダットサン」「日産」「プリンス」の車のみを集めたメーカー直営のミュージアムだ。現在は一般公開されている。
(写真11-3abc) 1980 Nissan Fiar Patrol FH61 4×4 (2018-05 消防自動車博物館/千葉・御宿)
この車も第2世代「60系」の一員で、消防用のシャシーを持ち「ファイヤー・パトロール」を名乗る消防車だ。このタイプには前輪に駆動装置が付かない2輪駆動仕様もあるが、この車はボンネットサイドに「4×4」のバッジがあるので4輪駆動だ。
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<日本のパイオニア くろがね4起>
(写真12-1a~e) 1936 95式 小型自動車3型2座ロードスター(くろがね4起前期型)タミヤ製1/48 ミニチュアカー
この車は我が国が独自で開発した「小型4輪駆動 軍用車」で、試作車が陸軍に制式採用されたのが1935年(昭10)だった。この年は神武天皇即位から数える日本独自の年号「紀元2595年」に当たるので伝統に従って「95式小型自動車」と命名された。アメリカでジープの構想がスタートしたのは1940年の事だから、日本の方が5年も先行していた。しかしその性能と、生産能力の差から実戦での貢献度は「ジープ」の比では無かった。1936年から44年までに約5,000台が造られたが現存が確認されているのは日本に2台の他ロシアに2台アメリカに1台といわれる。写真の車はタミヤから発売されている1 / 48 のモデルカーだが、実車は2013年タミヤの情報から京都で発見され、NPO法人「防衛技術博物館を創る会」がクラウドファンディングで集めた資金で3年かけてレストアされた。ロードスターは前期型とされる。
(写真12-2~d) 1941 95式小型自動車5型4座フェートン(くろがね4起(後期型) (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
日本自動車博物館に展示されている車は、後期型と呼ばれる4座フェートンで、ラジエターの面積も前期型に較べると大きくなっている。展示方法が独特で、階段を登った上の高いところに置かれている。(貴重な車だが残念ながら近くでよく見ることが出来ない)実はこの展示方法は昭和12年12月12日にくろがねの蒲田工場で朝香宮殿下(皇族)をお迎えして登坂能力のデモンストレーションをした際の写真が残されており、これに倣ったものと思われる。
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<スズキのジープ>
(前史)
軽自動車で4輪駆動の「ジムニー」は特異な存在だ。しかしこの車の誕生には「ホープスター」という浅草の修理工場から立ち上げた軽自動車メーカーが大きく関わっている。創立者は小野定良で軽3輪トラック「ホープスター」がヒットし、軽4輪のトラックまで造る中規模メーカーに成長していたが、急速な発展に販売網が追い付かず売り上げが低迷し一時自動車から手を引いていた。再開に当たって「軽の4輪駆動車」の開発を思いつき、エンジンをはじめ極力三菱の部品を使って作り上げたのが「ホープスターON」だった。少数の試作車を市販して手ごたえを感じたので、三菱での製品化を提案したがこれは実現しなかった。(最初から「ジープ」の実績有る三菱に売り込むつもりで三菱の部品で組上げたのだろうが・・)
(参考) ホープスターON 4WD
(写真13-1abc) 1970 Suzuki Jimny(初代) (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
この車の製造権の売り込み先として小野定良が次に選んだのは、かねてから親交のあった鈴木修がいる「スズキ自動車」だった。後に会長にまで昇り詰めた鈴木は、当時は専務で東京支社の責任者だったが、この話に興味を持ち、最終的には約12,000万円で製造権を買い取る事を決断した。1968年8月6日「製造権譲渡契約書」が締結され、その際スズキ・キャリイのエンジンを使った「ホープスターON 4WD」5台を納入する条件が付いた。その結果「ON」をベースにスズキ仕様に改修され1970年誕生したのが「ジムニー」である・
(写真13-2abc) 1973 Suzuki Jimny LJ20-1 (2013-11 トヨタ クラシックカー・フェスタ)
初期型の幌を下げた姿がこれで、後席が荷室になっており完全に「ピックアップ」だ。人と較べれば車がいかに小さいかが判る。正面のプレスで打ち抜かれた8本の穴が「ジープ」を連想させる。
(写真13-3ab) 1993 Suzuki Jimny JA11 (2015-10 アメリカン・ピクニック/お台場)
この車は初代が発売されてから23年後のモデルで、1981年モデルチェンジして第2世代となってからの車だ。「ホープスター」から「軽4輪駆動」のライセンスを買い取った際、社内での評価は散々だったようだが、銀行出身の鈴木修には技術屋とは違った感覚でこの車の将来性を見通す力が有ったのだろう。周囲の懸念は見事に外れ、今日まで50年を超えるロングセラーとなっている。
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<ドイツのジープ>
<キューベルワーゲン>
(写真14-1s~e) 1940 VW Type82 Kubelwagen (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ)
第2次世界大戦で連合国側の「ジープ」に対抗してドイツ側で活躍したのが通称「キューベル・ワーゲン」と呼ばれた車だ。戦後世界中にあふれた「VWビートル」が変身した軍用車と言う事は良く知られている。「VWビートル」はドイツ帝国自動車産業連盟の国民車構想を実現すべく「フェルディナント・ポルシェ博士」によって生み出されたもので、1934年6月契約し、2年後の36年6月には3台のプロトタイプ「VW3」が完成した。37年の改良型「VW30」「VW60」を経て、38年初め最終型プロトタイプ「VW38」(KdF) が完成した。この段階では「ドイツ国民のための全く新しい小型乗用車」と位置付けられ、新設された「ウォオルフスブルグ工場」で大量生産されることになった。購入希望者は「ナチス労働戦線の組合員」となり、毎週5マルクずつ積み立てし、990マルク貯まると車が貰えるという先払いの「分割払いシステム」だった。これを実現するには約3年10ヶ月が必要だったから、途中で戦争がはじまってお目当ての車は軍用車に変身してしまい、誰も車を手にすることは出来なかった。写真の車は1940年製だが「キューベルワーゲン」は「KdF」が完成した直後から軍用車転用計画がはじまっており、この改造についても「ポルシェ博士」に委託され、1938年11月には「VW Type82」として制式採用されている。ここで注目したいのはドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦がはじまったのは1939年9月の事だから、戦争が始まったから転用したのではなく、近々戦争が始めることを見越して早々と転用したことだ。途中から軍用車に改造した経過から見て、最初は本気で「国民車」を造るつもりだった筈だが、「ナチス労働戦線の組合員」にして資金を集めた所は最初から献金扱いで「騙し取る」気があったのでは?と疑いたくなる。
(写真14-2a~e) 1943 VW Type82 Kubelwagen (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ)
「キューベルワーゲン」とはドイツ語の「Kubel(バケツ)」+「Sitz(シート)」+「Wagen(自動車)」が短縮されたもので「バケットシートを持った車」の意味だ。扉の付いていないプロトタイプ車をテストする際、サポートの良いバケットシートを使っており、それが正式に採用され車の愛称となった。「意外」と言っていいのか、「当然」と言うべきか、この車は「4輪駆動」ではない。ベースが「KdF」(後のVWビートル)だから「リアエンジン」の「後輪ドライブ」だ。エンジンが「空冷」だったのは軍用車としては有利な選択で、冷却水が不要だから。砂漠のアフリカ戦線でも、極寒のロシア戦線でも問題なく活躍できた。(余談だが本田宗一郎が空冷信奉者となったのはこの辺りの影響が強い)1940年から45年までに約7万台が造られたが、アメリカのジープは10倍近い約65万台が造られたから、兵器としてみた場合の貢献度は全く比較にならない。
(写真14-3ab) 1940 VW Type82 Kubelwagen (1991-01 JCCAミーティング/汐留)
博物館の車は後ろが見えないので、国内で撮影したこの車でご覧いただきたい。
(写真15-1abc) 1979 VW Type181 Kubelwagen (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ)
戦後生まれの「タイプ181」キューベルワーゲンは、戦時中の「タイプ82」を直接進化させたものではない。1960年代にヨーロッパ各国共通の「小型万能軍用車」(ヨーロッパ・ジープ)の構想があり共同開発を始めたが、これらが実用化するまでの間のつなぎとして登場したのが「タイプ181」だ。「タイプ82」と同様「VWビートル」の一族だが、ベースとなったのはビートルから派生した「カルマン・ギア」のプラットフォームが使用された。1969年から83年までに約91,000台が造られ「NATO軍」には約5万代が納入された。その他民間用として「イギリス」「アメリカ」「メキシコ」「インドネシア」などに輸出されているが、車種は「トラック」ではなく「乗用車」扱いだった。
(写真15-2abc) 1970-81 VW Type181 Kurierwagen (1987-03 千葉市稲毛区小中台小学校横)
我が家の近くで見つけた街乗り用の「新キューベルワーゲン」だ。直線で構成されたフォルムが逆に不思議な魅力がある。「5」ナンバーだから確かに乗用車の扱いだ。
(写真15-3ab) 1970-81 VW Type181 Kurierwagen (1987-04 ハワイ/カピオラニ公園
ハワイにもこの車はいた。常夏の国らしく明るい色で、幌は日除けのための最小限1枚だけだ。
<シュビームワーゲン>
(写真16-1a~e) 1942 VW Type166 Schwummwagen (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ)
「Schwummwagen」をドイツ語辞典で引いたら「フローティングカー」とあった。「浮かぶ車」という事だろうか。1940年ドイツ陸軍兵器局は「偵察用水陸両用車」の開発をポルシェ社に対して委託した。試作されたのはキューベルワーゲンをベースに水密化した「Type128」で、1942年2月から230台がつくられた。一方「Type128」の改良型が試作され、これが1942年4月制式採用されて「Type166」となったが、この車は4輪駆動である。水上での推進は普段跳ね上げてある3枚翼のスクリューを水中に下ろすと自動的にシャフトが連結して駆動され、水上での速度は時速約10キロと言われる。合計では1万4千台余が造られた。
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<ランドローバー>
イギリスを代表する万能車「ランドローバー」は第2次大戦後に誕生した車で、軍用車としては参戦していないので今回は対象外とした。
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(02)<ジェンセン>(英) (1934~75)
<インターセプター>
「ジェンセン社」はアランとリチャード・ジェンセン兄弟が、働いていたボディ工場のオーナーが亡くなった後を引き継いで、1934年イギリスのバーミンガムで誕生した。「スタンダード」の車に速そうなボディを載せて売るという、初期の「ジャガー」と同じような仕事をしていたが、車好きのハリウッドスター「クラーク・ゲーブル」から「フォードV8」のシャシーを使ったカスタムカー依頼を受け、完成した車は好評だった。この経験は後年「アメリカ製の大排気量エンジンを使って高性能車を造る」というこのメーカーの基本姿勢に繋がった。
(参考)1934 Jensen Ford V8 Convertible クラーク・ゲーブルの依頼で造られた車
・戦後の1950年にはオースチンの6気筒OHV3993ccエンジンで4/ 5座の大型スポーツ・サルーン「初代・インターセプター」が造られた。戦後初期の「ジェンセン」は1台も輸入されなかったから初代の「インターセプター」をはじめ、その後の「541」も「CV-8」も一度も出会う機会が無かった。
(参考)1950 初代・インターセプター
(参考)1950 オースチンA40 スポーツ (初代インターセプターのそっくりさん)
(参考) 1954 Jensen 541
(参考) 1963 Jensen CV-8
だから「初代インターセプター」の写真を見た時は、以前に見て知っていた「オースチンA40スポーツ」にそっくりだと思ったが、A40のボディは当時「ジェンセン社」が造っており、こちらが本家だった。我が国に初めて輸入されたのは1970年の「新インターセプターⅡ」からだった。
(写真200-1a~f) 1969 Jensen Intersepter MkⅠ (2007-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
1965年秋のロンドンショーに展示された2代目の「インターセプター」は、1950年登場した初代の丸みのあるスタイルから一変して、引き締まった重厚感のある車に生まれ変わった。それまでの「541」「CV-8」「初代インターセプター」はアグレッシブなイメージの大型スポーツカー(GTカー)だったが、新「インターセプター」は穏やかな外観を持つ高性能な-乗用車と印象も変わった。このデザインは「カロセリア・ツーリング」が行い、ボディは「ヴィニアーレ」が造り「ジェンセン」が組み立てた。エンジンは「クライスラー」のV8 6.2ℓ/7.2ℓが用意され、豪華な車体に扱いやすい強力エンジンの組み合わせは、フランスの「ファセル・ヴェガ」と同じコンセプトだ。
(写真200-2abc) 1971-73 Jensen Intersepter MkⅢ 1978年千葉市稲毛区にて)
1970年までは日本には1台も輸入されなかった「ジェンセン」の知名度は殆ど無いに等しい。しかもその後も年間2~3台しか輸入されなかったうえ、1975年には製造が終わってしまったから。日本に入ったのは10台前後だろう。この貴重な車が我が家のすぐそばに停車していたのだ。クオーターパネルに「J」のバッジが付いているのは高性能版でクライスラーのV8 7.2ℓエンジン付きだ。1,200万円以上する高級車だった。
(写真200-3a~e) 1974 Jensen Intersepter MkⅢ (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード)
「インターセプター」は1975年の「MkⅢ」を最後に生産が終わった。だからこの車は最終期のモデルと言えるが、外見については」「MkⅠ」と殆ど変化していない。
<ジェンセン・ヒーレー>
(写真201-1) 1972-73 Jensen Healey Mk1 (1988-11 モンテミリア/神戸ポートアイランド広場)
「ジェンセン ヒーレー」が誕生した遠因はオースチンの「ビッグヒーレー」が姿を消したことにある。カリフォルニアでイギリスのスポーツカーを扱って大成功した「ジェル・クヴェール」が、BLMCに「ビッグヒーレー」の後継車を造る意思がないことを確認すると、経営難にあえいでいた「ジェンセン」を買収し、「ドナルド・ヒーレー」を会長に据え、自分の手でそれを造る体制を整えた。ジェンセン社に白羽の矢が立ったのは、「ビッグヒーレー」のボディは「ジェンセン」が下請けしていたという因縁があったからだ。「ジェンセン ヒーレー」はドナルドの息子「ジェフリー・ヒーレー」がデザインした。イギリスの小規模メーカーの常套手段に倣い、部品は色々のメーカーから転用したが、特記すべきはロータスが開発した直4 DOHC 1973ccのエンジンで、ロータス・エリートⅡ、エスプリにも使われたロータスの主力エンジンだ。その他にはギアボックスは「サンビーム」、サスペンション/ステアリングまわりは「ボクスホール」、フロントブレーキは「モーリス」から転用した。車はスパルタンな「ビッグヒーレー」の後継として設定されたが、このテイストは1970年代には時代遅れの感があり、デザインも特徴のない平凡なものだった。タイミングの悪いことに1973年のオイルショックと重なり、大型スポーツカーの販売は不振で1975年経営危機に陥り倒産したが、バックオーダーを消化するため76年まで生産は続けられた。
(写真201-2abc) 1973 Jensen Healey Mk1 (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
1973年8月からマイナーチェンジして「Mk2」となったがこの車にはサイドモールディングが無いので「MK1」の最後の物だろう。案内板に「1923年創立」とあるが、これは多分「ドナルド・ヒーレー」が創業した年と勘違いしているようで、ジェンセン社の創立は1936年の筈だ。
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(03)<ジョウエット> (英) (1904~54)
(写真301-1a~d) 1949 Jowett Javelin 4dr Saloon (2007-06 英国国立自動車博物館)
「ジョウエット」というメーカーは日本では殆ど知られていないが、歴史は長く1904年イギリスのヨークシャー州ブラッドフォードという町で「ウイリアムス/ベンジャミン・ジョウエット兄弟によって設立された。戦前は平凡な小型車や商業車を造っていたが、戦後、MGから「ジェラルド・パーマー」が移籍し、彼が手掛けた「ジャベリン」が1949年の「モンテルロ・ラリー」でクラス優勝したのを手始めに「スパ24時間」でも勝利した。長距離レースで活躍しているので、さぞや頑丈な車と思いきや、欠陥が多く特にトランスミッションには問題があったらしい。
(写真301-2abc) 1947-53 Jywett Javelin 4dr Saloon (1959-07 銀座7丁目付近)
(後半分)プジョー203 (前半分)ルノー4CV
全く未知のこの車に出会ったときの僕の印象はフランスの車?と思った。それは僕の知識の中では、前半分は「ルノー4CV」、後ろ半分は「プジョー203」に似ていると思ったからだ。
(写真301-3ab) 1947-53 Lowett Javelin 4dr Saloon (1961-04 港区赤羽橋付近)
この場所は芝公園の脇で、東京タワーを左手に見て桜田通りを飯倉から下ってくると、今は高速道路の高架の辺りに「火の見やぐら」があった。ここの火の見は広重の版画にも描かれている程古いもので、江戸っ子からは「有馬の火の見」といわれ、この当時は奥に見える麻布消防署飯倉出張所となっていた。僕の手元にある昭和31年版の地図には「火の見」のマークが記されている。
(写真302-1a-d) 1951-52 Jowett Jupiter Roadster (1995-08 ラグナセカ・レースウエイ)
「ジャベリン」で長距離レースに勝ったことで自信を付けた「ジョウエット」は本格的なスポーツカー造りを目指した。その話を聞いたザ・モーター誌のローレンス・ポメロイが仲介の労をとってレーシングカーの専門集団「E.R.A」(English Racing Automobiles)を紹介し、その協力も得て、「ローベルト・エーベラン・フォン・エバーホルスト博士」(有名なアウトウニオン・タイプDの開発者)のもと「ジュピター」は完成した。1950年にはこの車で「ル・マン24時間レース」に参戦し、1500ccクラスの新記録で優勝してしまった。その後も「ジョウエット」は51、52年と3年連続優勝するという素晴らしい実績を残した。
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(04)<ジュリアン> (米)
(写真401-1)1925 Julia Fleetwood Sport Coupe(2004-08ペブルビーチ・コンクールデレガンス)
この車については何も情報が無いが、珍しい車なので取り上げた。それはエンジンとその搭載方法で、1925年と言えば既に車のレイアウトは定着し、当時の常識では「フロントエンジン/リアドライブ」が一般的だった。しかしこの車のリア・トランクの中には飛行機のエンジンかと思われる「空冷・星型エンジン」が鎮座しているのだ。ゲテ物ならいざ知らず、有名なコーチビルダー「フリートウッド」が手掛けた内装は超豪華で、余程の金持ちが奇をてらって造らせた物だろうか。ハンドルが中央にあるのも一風変わっていることに注目。
-- 次回からは「K」項に入ります。「カイザー」「ケンワース」「キーフト」「紅旗」等の予定です --