今回は2001年11月に活動を開始した日本自動車殿堂(JAHFA)に関するご報告として、特定非営利法人としての「理念」、2020年に殿堂入りされた方々、歴史遺産車に登録された車に加えて、初代ロードスターの開発責任者、平井敏彦氏の足跡をご紹介したい。
現在自動車産業は2050年のカーボンニュートラル対応をはじめ、100年に一度といってもよい大きな転換点に直面しており、日本の自動車産業が世界におけるこれまでのようなポジションを維持してゆくことは決して容易ではなく、次世代を担う方たちにも先人達の足跡を伝承してゆくことが大切だ。これまでに殿堂入りされた方々、歴代の歴史遺産車などに関しては、以下のオフィシャルサイトをご覧いただければ幸いである。
JAHFAの理念
日本自動車殿堂は、日本における自動車産業・学術・文化などの発展に寄与し、豊かな自動車社会の構築に貢献した人々の偉業を讃え、殿堂入りとして顕彰し、永く後世に伝承してゆくことを主な活動とする。
現在、日本の自動車産業は、その生産量や性能・品質など世界の水準を凌駕するに至り、わが国の産業の範としてその地位を得ているが、当初は欧米の自動車技術や産業を学ぶところからの出発であった。周辺の関連産業分野を含め、自動車は高度な工業製品であるが、これを先人たちは様々な工夫と叡智によって切り拓いてきた。
しかし、こうした努力の足跡は時の経過とともに埋もれ、その多くが忘れ去られようとしている。優れた自動車の産業・学術・文化などに情熱を傾けた人々と、その偉業を永く後世に伝承してゆくことは、この時期にめぐり合わせた我々の務めであるといえよう。
技術立国と呼ばれるわが国にあって、その未来を担う青少年たちが、有用な技術の成果に目を向け、技術力や創造性の大切さ、発明や工夫の面白さを認識するためにも、この活動は意義あるものと考える。これこそが日本自動車殿堂が目指すところである。
2020年に殿堂入りされた方々
岡 並木(おか なみき) 氏 交通文化とその新たな価値観の道を拓く
平井 敏彦(ひらい としひこ) 氏 自動車文化に貢献した初代ロードスターの開発責任者
伊藤 修令(いとう ながのり) 氏 日本を代表する高性能スポーツカーの礎を築く
2020 日本自動車殿堂 歴史遺産車 3車
トヨペット ライトトラック SKB(1954年)
ホンダ RA272 (1965年)
スズキ ジムニー LJ10型 (1970年)
平井敏彦氏の足跡
平井敏彦氏は1961年マツダに入社、以来基礎設計 一筋で設計のプロ中のプロだったが、1986年 2 月の経営会議で承認されたライトウェイトスポーツ(LWS)の 担当主査に任命され、初代マツダロードスターの開発リーダーとなった。初代ロードスターは1989年 3 月に生産を開始、1997年10月までのライフサイクル中の累 計生産台数は43万台を超えた。1997年10月に2 代目にバトンタッチ、2000年には 2 人乗り小型オープンスポ ーツカーとして生産台数がギネス記録に認定され、2005 年 8 月に3 代目、2015年5 月に4 代目へと続き、2016 年 4 月には累計生産台数が100万台を突破した。今日までにアメリカでは約50万台、欧州では約36万台、国内では約20万台が販売され、世界市場でカーマニアの心を捉えて離さない存在になっている。
ロードスター誕生前夜
LWSの発想の原点はアメリカ人ボブ・ホール氏と山本健一氏の出会いにあった。1978年4月の来社時には山本常務(当時)のオフィスを訪問、その際ボブ・ホール氏は「マツダこそ昔の英国型小型スポーツカーを生産すべきだ」と熱弁をふるったとのこと、山本氏は更にボブ・ホール氏に推奨されたトライアンフ スピットファイヤーに後日試乗、「陽光を浴び、風を顔に受け、箱根の山中では緑の香りを体一杯に嗅いで、馬を御しているようなきびきびとした運転を楽しんだ」と書かれている。
プロジェクトのスタート
マツダでは1983年後半、将来の商品群を模索する「オフライン55」プロジェクトがスタートしその中の1台がLWSだった。 1986年2 月の経営会議で、すでに社長になられていた山本氏は、技術研究所から発意されたLWSプロジェクトに対して、「皆さんどう思いまか?このクルマには文化の香りがする。私はこれをすすめたいと思います。」と言われ、先行開発の開始が決定、平井敏彦氏が主査に任命された。
いばらの道
しかし、その開発には"いばらの道"が平井氏を待ち構えていた。新型車のプロジェクトが軒を連ね、人的資源の確保は至難の業で、海外の開発委託会社を活用して開発するという条件付きプロジェクトだった。プロトタイプの設計図を見た平井氏は、開発業務を社内に切り替えないと取り返しがつかないことになると主張、この会社との契約打ち切りが最初の仕事となった。 次なる難問はマンパワーの確保だった。企画設計や、本来なら商品企画を全面的にサポートするはずのグループが、「今時LWSの市場は存在せず、商品戦略上も、採算性からもマツダには必要のないクルマだ」と主張、代わりに技術研究所のメンバーに協力してもらうことになった。 一方で平井氏は「三次元CAD」を導入して基本レイアウトをコンピューターに画かせることにしたが、結果的にはスーパー コンピューター導入のきっかけともなった。 その次は場所の問題だった。与えられた場所は、川沿いのデザイン棟の窓のない倉庫だったが、皆「リバーサイドホテル」と呼んだ。「リバーサイドホテル」には意気込みに燃えたメンバーが集結、中には担当設計で自分の仕事を放り投げて まで志願してプロジェクトに参画する者もいた。
人馬一体
初代ロードスターの開発にあたり平井氏が提唱されたのが、「人馬一体」と「感性」だった。「一体感」、「緊張感」、「走り感」、「ダイレクト感」、「爽快感」を統合したものが「人馬一体」で、その一つ一つが人々の心に訴える「感性」の問題だと考えられたからだ。「人馬一体」を実現するために貴島孝雄氏が提案したのがPPF(パワープラントフレーム)と 前後のダブルウィッシュボーンサスペンションだった。 PPFとこのサスペンションシステムも大きく貢献して、素直で運転しやすく、「人馬一体」感の豊かな、運転することが楽しいクルマが実現した。
一方で「軽量化」と「割り切り」も非常に重要なテ ーマとなった。コンパクトな基本レイアウトを推進、徹底的な軽量化も追求、車両重量は最終的に940kgに収まった。円高が進みコスト低減も非常に重要な課題となり、「割り切り」の精神をいかんなく発揮した設計が行われた。 エンジンはFFファミリア用の1.6Lに決定、1トン近くのクルマを1.6Lエ ンジンで引っ張るのではスポーツカーとは言えないのではという声もあったが、「速く走ることだけがスポー ツカーではない。操ることがこの上なく楽しいクルマ 」を目指した。
外観の初期のデザインは北米マツダによるものだが、プロジェクトが正式にスタートした後は本社デザイン部門が責任を担い、古典芸能の能面をイメージした微妙な面構成の中に、輝き、張り、緊張感をかもし出しながら、キュートさと同時に力強さも表現、さらに内装デザインに関しても不要なものは全て排した茶室の機能美など日本の感性を取り込んだ魅力的なものに仕上がり、「日本の伝統文化も包み込む」ことを大切にされてきた平井氏も非常に満足されるものに仕上がった。
平井氏は「日本の自動車文化をこのクルマに託して伝えたいと思い開発してきた」と述べられており、30年以上にわたり、好感をもって世界市場で受け入れられてきたことは、マツダはもちろん、日本の誇りといっても過言ではない。
平井敏彦氏のメッセージ
『この度は日本自動車殿堂に選出していただき、ありがとうございます。開発主査を拝命した時脳裏をかすめたのは、"本当にオープン2シーターのライトウェイトスポーツを作れるのだろうか"ということでした。厳しいコスト制約の中で、まずは助けてくれる仲間達を一か所に集めました。与えられた場所は、川沿いのデザイン棟の窓のない倉庫で、皆リバーサイドホテルと呼んでいました。表向きは強気の姿勢を貫きましたが、本当は不安で家族や仲間に助けてもらったことが多々ありました。妻に、"このプログラムが失敗したらクビになるかもと言ったら、"辞めてもいいから自分の意思を貫いて"、と。メンバーからは、"売れなかったらみんなで売りに行こうよ。平井さんも我々もセールス出向経験者だから"、と笑いながら励ましてくれました。商品化への基本スタンスは、お客様にお求めやすい価格で、運転の楽しい人馬一体感のあるクルマを提供することでした。昨年ロードスターは30周年を迎えましたが、現行の4代目まで繋いでくれたマツダの後輩達に敬意と感謝を、また松田恒次さん、山本健一さんと同じ殿堂に入れていただいたこと、そして昨年は初代ロードスターを日本自動車殿堂歴史遺産車に選んでいただいたこともあわせ、心から感謝を申し上げます。』