1955 Jaguar D-type
① <XK120> (1948-54)
第2次世界大戦が終了した1945年、「SS Cars」は社名を「Jaguar Cars Ltd.」と変更した。1946年戦前モデルそのままのサルーンから生産を再開するが、スポーツカ―の「SS100」は戦後作られる事は無かった。「MG」は1945年から「TC」を、「モーガン」も「シンガー」も戦前型をそのまま生産を再開した。しかし「スタイリング」に関しては優れた感覚を持っていた「ライオンズ」にとって、「SS100」のクラシカルなイメージは今後時代をリードするものではないと読んだのだろう。満を持して1948年秋、ロンドンショーに登場したのが、流れるようなラインを持った、アッ!と驚くようなモダンなスポーツカー「XK120 ロードスター」で、当然爆発的人気を呼んだ。これに積まれたエンジンは、直列6気筒 DOHC 83×106mm 3442cc 160hp/5000rpmのスペックを持っていたが、このエンジンの開発は戦争末期から始まっており「XA」「XB」と続き、11番目の「XK」が完成したのは1948年の事だった。最終モデルの一つ前が「XJ」だがこれは4気筒1996ccで、これに手を加え6気筒3422ccにしたのが「XK」となった。ところで、1949/50年のカタログには「XK100」「XK120」の2種が載っており、「XK100」には「XJ」の4気筒エンジンを載せ国内向けを予定していたが実現はしなかった。「XK120」はストックのまま1949年5月には公道で132.6mph(時速約212キロ)の記録を出すほど速かった。
・XKシリーズ120、140、150のあと、C-type、D-type、E-typeと続くように思われがちだが、XKシリーズは市販スポーツカーであり、C-type、D-typeは純粋なレーシングカーなので、関連はあるが全く別のシリーズで同時に並行して生産されていた。(E-typeについては両者兼用)
年度順に並べれば以下の通りとなる。
1949~54 XK120
1951~53 C-type
1954~57 D-type
1955~57 XK140
1955-59 2.4 Litre Saloon (Mark-1)
1957-57 XK-SS
1957~61 XK150
1961~75 E-type
(写真01-1abc) 1951-54 Jaguar XK120 Fixed Head Coupe (1962-03 港区三田1丁目から中之橋への坂道)
僕の勤務先は三田の電車通りに面した港区芝三田四国町1番地だったが、電車通りの向こう側は慶応義塾大学やイタリア大使館、三井邸など元大名屋敷のあったお屋敷町でダラダラと登った小高い台地になっていた。この車を撮影した場所は慶応の反対側にある下り坂で中之橋に出る道だ。真っ白なボディにストライプの入ったこの車はすごく魅力的で、しかも傾斜して停車している姿はとても写真写りが良く、ついつい14枚も撮ってしまった。
(写真01-2ab) 1951-54 Jaguar XK120 Fixed head Coupe (1960-01 千代田区丸の内)
(参考)1938年のロンドンショーに展示されたSS100で1台だけ造られたクーペ
この写真は「一丁ロンドン」と呼ばれたイギリス風の煉瓦造り建物が続く丸の内で撮影したもので、ナンバープレートとパーキングメーターが無ければ騙せそうだ。僕は国内で「XK120」を25台撮影しているが、この車が最初に出会った車で、しかも一番気に入っている写真でもある。その理由にはカメラも大きく影響している。当時のメインカメラは1957年発売された「アサヒペンタックスAP」(初代モデル)で、ペンタプリズムによって撮影レンズの映像をファインダーで直接見る事が出来るので誤差ゼロは魅力だった。このカメラの標準レンズは焦点距離が58ミリで、他のカメラは殆どが50ミリだったからかなり長めだ。そのため自動車の全身を入れるには広い場所が必要という弱点はあったが、うまく撮れた場合には歪みのない自然なラインが得られた。ジャガーの場合は「カブリオレ」の事を「ドロップヘッド・クーペ」と呼び、金属製の屋根を持つ車を「フィックスドヘッド・クーペ」と呼んだ。全体のフォルムは1938年のロンドンショーで試みた「SS100」唯一の「フィックスドヘッド・クーペ」をそっくり継承している。
(写真01-3ab) 1949-54 Jaguar XK120 Roadster (1961-04 港区・中之橋付近)
「XK120」で最初に発表されたのは、1948年秋のロンドンショーに登場した「ロードスター」で、51年3月「フィックスヘッド・クーペ」、53年4月「ドロップヘッド・クーペ」が追加された。「ロードスター」のボディの一番の特徴は肘を出すための切り欠きが有る事だ。撮影場所は壁に書いてあるとおり「港区麻布森元町2丁目」で、当時の中之橋付近では多くの修理工場がこの様に路上で作業をしていたから、昼休みには自転車で一回りして珍しい車を捜し歩いたものだ。
(写真01-4abc) 1949-54 Jaguar XK120 Roadster (1961-11 港区内)
「ロードスター」という車種はカリフォルニアの陽光の下、オープンで突っ走ることを前提に、アメリカ輸出専用モデルとも言える車だ。だから幌は緊急事態用として付いていると思った方が良い。全体のバランスなどは全く配慮されていない感じだ。背景の木造家屋は今見るとまさに「昭和」の風景だ。
(写真01-5ab)1949 Jaguar XK120 Roadster(2000-06フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
「JWK 988」のナンバーを持つこの車は、1950年5月にモナコGPの前に行われた「RACツーリスト・トロフィ-」で、後年名ドライバーとなる「スターリング・モス」が初めて優勝した車だ。
(写真01-6ab) 1954 Jaguar XK120 Drop Hrad Coupe
この2台は「ドロップヘッド・クーペ」(カブリオレ)の幌を上げた時と、下した時の姿だ。上げた時は2007年英国国立自動車博物館、下した時は2000年フェスティバル・オブ・スピードで撮影。このタイプはフロントウインドウの支柱がボディと一体の固定式である事が特徴で、肘を出すための切り欠きは無い。
(写真01-7ab)1952 Jaguar XK120 Supersonic by Ghia(2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)
オリジナルが素晴らしいスタイルだから、ジャガー・ベースのカスタムカーはこれが唯一だろうか。「カロッツエリア・ギア」によって造られた「スーパーソニック・シリーズ」は「アルファロメオ」「フィアット」「アストンマーチン」のシャシーにも架装されたが、ジャガーは3台造られている。ただ「スーパーソニック」は「ジャガー」のために造られたのではなく、すでに完成していたボディをジャガーにも載せてみようと思った人がいて3台も注文したという事だ。デザインしたのは「ジョバンニ・サヴォヌッッティ」で、この人は、尾翼の付いた「チシタリア202」のデザイナーとして印象に残っている。この車はミニチュアカーにもなっている注目の車でもある。
② <XK140> (1955-57)
「XK120」は好評で1949年から54年までの約6年で12,055台造られた。年間で2,000台平均だが、国内向けの右ハンドルは僅か14%で、86%は輸出用の左ハンドルだった。後継モデルの「XK140」は、好評だった「XK120」をそのまま踏襲し、エンジンを160hp(120Mは180hp)から190hp迄強化したほかに、ロードスター以外は2+2となり居住性などの向上を図った。外見の変化としては「グリル」の縦線が13本から7本と半減し、「繊細」から「頑強」へとイメージが変わった。その他前後の「バンパー」が強化され、「テールランプ」が大型化したのは輸出先アメリカ対策を配慮したものだろう。1955年から57年までの3年間で9,051台が造られた。
(写真02-1abc) 1956 Jaguar XK140 Roadster (1986-11 モンテミリア/神戸ポートアイランド市民広場)
「XK140」のロードスターは3,354台造られたが、その内右ハンドルは僅か73台しか造られなかったから希少価値のある車だ。
(写真02-2abc) 1955-57 Jaguar XK140 Roadster (1960年 赤坂溜池/日英自動車前)
正面から見た後方の風景は外堀通りで、溜池から山王下、赤坂見附方面を望む。ここは英国車の輸入元「日英自動車」の前で、ショウウインドウの中にはいつも興味深い車が展示されており、裏のモータープールや周辺でも必ず収穫があったので毎回立ち寄る場所だった。この車はオーバーヒート対策の為か、ラジエターの左右にエアインテークがあるが、これはノンオリジナルだ。ジャガーはベントレーと並んでルマンで優勝を重ねた車で、バッジには「1951-3」とあり3回連続のように見えるが、52年は優勝していないので「1951・53」の方が誤解が無いだろう。この後まだまだ優勝は続く。
(写真02-3ab) 1955-57 Jaguar XK140 Roadster (2000-06 フェスティバル・オブ・スピードス)
「XK140」には「2+2シート」が採用されたが、「ロードスター」だけは「2シーター」のままで、オリジナルの美しいプロポーションを守っている。
(写真02-4ab) 1956 Jaguar XK140 Drophead Coupe (1977-01東京プリンスホテル)
一般には「カブリオレ」と言われる、内張の付いた幌を持ったタイプを、ジャガーでは「ドロップヘッド・クーペ」と洒落た名前で呼ぶ。確かに幌を上げた時の見た目や居住性はクーペと殆ど変わらない。ただ写真で見るように幌を下げた場合はロードスターと違って内張がある分かさばるのは止むを得ない。
(写真02-5ab) 1955 Jaguar XK140 Fixedhead Coupe (1976-07 英国ヴィンテージカー即売会/青山・英国トレーディングセンター)
「2+2」となった「フィックスド・クーペ」はリアシートのヘッド・スペース確保のため屋根が延長されたから、オリジナルのキリッとしたプロポーションは損なわれてしまった。
③ <XK150> (1957-61)
1957年2月「XK140」の生産が終了し、3か月後の5月から後継車の「XK150」が発売された。当初は2+2の「フィクスドヘッド・クーペ」と「ドロップヘッド・クーペ」の2種だけで、2シーターの「ロードスター」は1年遅れの58年3月から登場した。スタイルは「XK140」の面影は全く残っておらず、全体に丸みを持ったボディは1955年から平行して生産されている「2.4リッター・サルーン」の影響が強く感じられる。丸く大きくなったグリルは、オーバーヒート対策だろうが、レーシングモデルの「Cタイプ」譲りだ。「XK140」の生産が終了した1957年2月、ジャガーは火災に遭い工場の大部分を失うというアクシデントに見舞われたが、それが「XK140」の生産終了と関係が有ったのだろうか。「ロードスター」の発売が1年遅れになったのは間違えなくこの火災で準備が遅れたためだ。
(写真03-1abc) 1957-61 Jaguar XK150 Fixedhead Coupe (1960-11 港区・古川橋付近)
2+2の「フィックスヘッド・クーペ」は スポーツカーでありながら、居住性も重視した「グラン・ツーリズモ」であり、次世代の「Eタイプ」に続くコンセプトは既に始まっている。モノクロ時代の写真は後年のイベントや博物館で撮影した物と違って、背景を含めて臨場感や生活感があって捨てがたい。それにしても昭和30年代の東京の街はずいぶん混雑していた事が判る。
(写真03-2ab) 1957-61 Jaguar XK150 Drophead Coupe (1967-05 第4回日本グランプリ/富士スピードウエイ)
この角度から見ると「XK150」の変化した特徴が良く判る。それはフェンダーラインで、「XK140」の裾を引くように緩やかに下降したラインが無くなり、申し訳程度にドア付近が下がっているが殆ど水平で、その分室内の横幅が広くなり居住性が増している。場所は富士スピードウエイのグランドスタンドの裏側で、会場に入る前には必ず駐車場の車をチェックするのが決まりだった。
(写真03-3abc) 1957-61 Jaguar XK150 Drophead Coupe (1961-10 港区・虎ノ門)
場所は「虎ノ門病院」の向えにある「商船三井ビル」の横だが、実は表通りの「ニューエムパイア・モータース」の駐車スペースの一部だ。車は「外」の青ナンバーなので近くのアメリカ大使館の車と思われる。「XK140」では2回だった優勝回数は、その後55~57年と3連勝し5回に増えた。これ以上勝ったら書ききれないぞ。
(写真03-4ab) 1958-61Jaguar XK150 2-seater Roadstea (1960-01 千代田区・大手町)
この車は三角窓が無く、小さいキャビンでトランクが大きいのは2シーターのロードスターだ。サルーン系に近くなった「XK150」だが、2シーターのこの車はかろうじて「スポ-ツカー」の面影を残している。車は永代通りを大手町から呉服橋に向かっている。
(写真03-5ab) 1960 Jaguar XK150S 3.8 Drophead Coupe (2007-06 英国国立自動車博物館)
XKシリーズの最後となったのは1959年登場した「Dタイプ」「マークⅨ サルーン」譲りの3.8リッターエンジンを持った最強モデル「XK150 3.8」だった。ジャガーのエンジンは1948年の「XK120」から始まって1964年Eタイプの4.2リッターがでるまでの17年間は「2.4」「3.4」「3.8」の3種をスポーツカー、サルーン共通にうまく使い分けていた。しかも83×76.5=2483cc、83×106=3442cc、87×106=3781ccと共通の「ボア」で「ストローク」を延ばし、同じ「ストローク」で「ボア」を広げるというように基本構造を変えないで排気量を増やしているから、コスト面でも余計な費用が抑えられ「良い品を安く提供する」という理念はここでも生かされている。
④ <C-typ> (1951~53)
冒頭でも触れたように「C・Dタイプ」は「XKシリーズ」と並行して製造され、特に「Cタイプ」は「XK120」ベースの「コンペティション・モデル」として誕生した兄弟の関係にあった。戦前のジャガーはファクトリーとしてレースに参戦した記録は無い。それは「金のかかるレースに手を出したら会社が潰れる」という「ライオンズ」の信念によるものだった。しかし戦後アメリカ市場を対象にスポーツカーを売り出すためには、レースでの宣伝効果が絶大であるところから、「XK120」をファクトリーとしてレースに送り込む事となった。その切っかけとなったのは、1949年「シルバーストーン」の市販車レースでジャガーが 1、2、3位となったのを知ったベルギーの販売店主からの強い要請によるものだった。1950年には1月のフロリダで4位、5月のミッレミリアで5位と実績を上げた。そして5月モナコGPの前座として行われた「RACツーリスト・トロフィー」レースでは、ファクトリーチームとして初めての優勝を手にしたのだ。このレースは後年名ドライバーとなった「スターリング・モス」にとっても初勝利を挙げた記念すべきレースとなった。6月の「ルマン24時間レース」には3台の「XK120」がエントリーしたが、12位と15位でフィニッシュ、残りの1台は7位で走っていた23時間目にリタイヤと結果は残せなかった。1951年にはレースに本格的に取り組むため、レーシング・メカニックの経験豊富なサービスマネージャー「F・R・W・イングランド」を総監督に据えた「レーシング部門」が組織として正式に独立した。そして、この時点から本格的なレーシングカーの歴史が始まった。その手始めがルマンを目指した「Cタイプ」で、エンジンは 直6 DOHC 3441cc圧縮比8.0 SUキャブレターという仕様は「XK120」と変わらないが、吸気口、排気システムに手を加え、ハイリフト・カムと軽量化したフライホイールのお陰で標準の160hpから200hp迄強化されている。(圧縮比9.0の場合は210hp)このモデルは「XK120C」と呼ばれることもあり「XK120」の強化モデルと思われがちだが、シャシーは全く別物の「チューブラー・フレーム」で軽量化が図られており、ボディは「ブリストル航空機」からスカウトしてきた「マルコム・セイヤー」のデザインによる空力特性の優れたアルミ製だ。総重量は1,110kgから939kgまで軽減され、最高速度は時速230キロとされている。(「C-type」の語源は「XK120」の「Competition Model」から付いたのではないかと推測したいのだが、何処からもそれを裏付ける資料は見つけることが出来なかった)
(写真04-0a~d) 1950 Jaguar Tony Prravano Special (XK120)(1994-05 ミッレミリア/ブレシア)
(参考)XK120 Coupe
この車は謎の多い車だ。見た目は「Cタイプ」のようだが、造られたのは「Cタイプ」誕生以前の「1950年」とある。参考に添付した写真と比べても、フェンダーは「XK120」そのものだから、「Cタイプ」発売後、フロントを改造したとみるのが妥当な線だが、もしかして最初からこの形だったとしたら、「Cタイプ」のプロとタイプ?では無いだろうな。(グリルの位置が本物より高い)
・その後「トニー・プラヴァーノ」という人物について調べたら、イタリア生まれで戦後アメリカに帰化したカリフォルニアの不動産王で、1949年「キャディラック・クーペ」で「パン・アメリカン・レース」に参加して以来、すっかりレースに嵌ってしまった。以来1951年から56年までに「フェラーリ」10台、「マセラティ-」8台を購入している。問題の1950年「ジャガーXK120」は「キャディラック」の次に購入した2台目の車で、レースを始めたばかりのアマチュア・ドライバーの車だから購入当時はオリジナルだったに違いない。
(写真04-1abc) 1952 Jaguar C-type Biondetti Special (1994-05 ミッレミリア/ブレシア)
この車は「ビオンディッティ」によって改造された「Cタイプ」のスペシャルで,彼は1951年ジャガーが初優勝した際「ルマン」に送り込まれた3台の内の1台をドライブする程のプロのレーシング・ドライバーだった。戦後再開された1947年のミッレミリアではアルファロメオ 8C 2900 ベルリネッタで優勝、1950年にはXK120 で8位、51年はこの車でミッレミリアに登場したがリタイアに終わった。(登録車名はJaguar 3400 Specialだった) 空力特性の良さそうなオリジナルボディに、あえてエアインテークの穴をあけ、グリルは一回り大きくなり位置も高めに付けられているのは、余程冷却が必要なエンジンが積まれているのだろう。ボディ本体もオリジナルのように見えるが、ヘッドライトがやや内寄りとなった結果フェンダーとボンネットの境の谷間がオリジナルより角度が付いてように見える
(写真04-2a~d) 1951 Jaguar C-type (1986-01 TACS ミーティング/明治公園)
やっと本物の「Cタイプ」が登場する。僕が初めて見た「Cタイプ」だ。第一印象は「摑みどころのないノッペラボウで、写真に撮りにくい難物」と感じた。全く突起が無く、今まで見た中では最も空気抵抗が少なそうに見えた。外見には「XK120」の面影は全く見当たらない。この時は急遽参加したらしく、プログラムには載っていなかった。
(写真04-3abc) 1952 Jaguar C-type (2000-06 ミッレミリア/ブレシア)
この写真で見る限り、第一印象の「ノッペリ」して捉え所の無い感じはない。確かに突起物が全くないスムースなボディは初めて見た時は「見慣れていなかった」こともあるが、「光線の具合」が大きく印象を左右した結果だ。場所は車検場「ビットリア広場」横の通りで、正面側から見た背景は一段高い商店街で、イタリアでは多く見られる「コリドー」と呼ばれる屋根付き通路になっている。
(写真04-4abc) 1952 Jaguar XK120C (C-type) (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード〉
(参考)1954年パナメリカーナ出走時の塗装
この車は1953-54年2年連続してメキシコ縦断レース「パナ・メリカーナ・メヒコ」に参戦している。レースは3,113キロを5日間で走破する公道レースだったが、死亡事故が多発した事や、水害でコースが使えなくなった事もあり1950年から 54年と僅か5年で幕を閉じてしまった。タフなコースを5日間も走る長距離レースだから、繊細な操縦性よりは、頑丈で速く走れる事が重要で、アメリカの大型乗用車でも十分戦えると見て「リンカーン」「キャディラック」「ビュイック」など、普段レースには関係ない車が多数参加していた。写真の車は長年アメリカにあり1980年イギリスに戻っていたが、2010年のフェスティバル・オブ・スピードに参加するためレース当時の塗装を再現したとあった。⑬番は1954年のもので、レース時の写真を参考に添付した。
(写真04-5a~d) 1952/1953 Jaguar C-type (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
(参考)1953年ルマン24時間レース優勝車
「Cタイプ」の項目は年代順に掲載している。偶々同じ場所に隣り合って展示されていたのがこの2台で、レースナンバーが白字で登録ナンバーが「PDV114」は1952年製(#XKC011)で、⑱番で登録ナンバーが「LSF420」は1953年製(#XKC051)だ。両車の違いは⑱番はボンネット脇にエアインテークが開けられている事だが、これは「ルマン」用の改造で年式の変化ではない。なお⑱番は1953年優勝車のナンバーだが、その車は「774RW」なので、この車とは違うようだ。シャシーナンバーを見ると両車の間に40台造られていることが判る。
(写真04-6abc) 1953 Jaguar C-type (1995-08 ラグナセカ・レースウエイ/カリフォルニア)
「Cタイプ」が「XK120」と決定的に違う構造は、レースでのメンテナンスを容易にするため、ボンネットはフェンダーごと前ヒンジでぱっくりと開くことだ。 (これは「Eタイプ」にも引き継がれてた) この車も1953年「ルマン・タイプ」で、⑰番は2位に入った車だが、オリジナル・カーの登録番号は「164WK」なのでこの車とは違う。
(写真04-7abc) 1953 Jaguar XKC Barou (2001-05 ミッレミリア/ブレシア)
(参考)1950 Ferrari 166 Inter Vignale
この車の正体はいま一つはっきりしなかった。取りあえずプログラムに記載された通り「XKC Barou」としたが、どこかで見た事があるような気がしたので探したところ、「ヴィニアーレ」の「フェラーリ166」にたどり着いた。(写真参考) しかしバッジは「ヴィニアーレ」とは違うし、イタリアの有名なカロセリアとも一致しない。更にいろいろ探した結果、遂に「Jean Barou」のバッジを見つけた。そこにある「トゥールノン」という地名はパリのサンジェルマン通にもあるが、下にある「アルデシュ県」はフランス南西部にあり、そこにある「トゥールノン」は人口1万人程度の小さな町のようだ。そこの(多分小さな)カロッセリアが「ジャン・バロウ」の工房という事が判った。
⑤ <D-type> (1954-57)
D-typeはC-typeの後継車として1964年「ルマン」に登場した。C-typeが「XK120」のレースバージョンとして「コンペティション」の「C」だった可能性があるが、D-typeは単に「C」の次の「D」で、このネーミングはこの後「E」「F」と続く。同時進行のロードバージョン「XK140」とはエンジン以外は全く別物で、最大の特徴は最新の「モノコック・ボディ」に生まれ変わった事だ。エンジンについてもドライサンプ方式に変更された結果、下部の突起が改善されて搭載位置を下げることに成功した。ホイールは「ワイヤー」から「軽合金製のディスク」に変更され重量軽減と強化が図られた。大きなテールフィンは「ルマン」の長いストレートでの直進性を確保するため必然的に生まれたものと推測するが、これがD-tytpeのトレードマークとなった。ただし初期のモデルにはフィンの無いものも存在する。総生産台数は4年間で僅か68台だったが、その内19台を撮影している。1951年から57年に至るCタイプ、Dタイプと続いたルマンへの7年間の挑戦は、5回の優勝によってかつてのジャガーの「高級車に見える低価格車」から、「強い車」へと確実にイメージチェンジを果たした。長いジャガーの歴史にとって最も意義ある7年だったと言える。
(写真05-1ab) 1954-57 Jaguar D-type (1963-05 第1回日本グランプリ/鈴鹿サーキット)
この車は僕が初めて見た「D-type」で、出来たばかりの鈴鹿サーキットで開かれた本格的なレースに登場した外国スポーツカーの1台だ。この時の印象は「ロータス23」の地を這うような快走に目を奪われ、同時にサーキットに現れたこの「ジャガー」と「アストンマーチン」は大きいだけで鈍重に見えた。僕らには「スポーツカー」と「レーシングカー」を区別する知識すら持っていなかった時代だ。この車の年式については「プログラム」にも、詳細を伝えた「カーグラフィック」にも記載がなく、ルマンを走った車らしいとあっただけなので年式は不明だ。(テールフィンの大きさから1954年型の可能性が高い)
(写真05-2a~f) 1954 Jaguar D-type Prototype (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)
(参考)1954年 ルマン・テストデイの登場した車
1954年製のプロトタイプとされているこの車のヒストリーは、プログラムには「ルマン」2位とあったが、この年のルマンには⑫⑭⑮の3台の「D-type」が投入され、2台がリタイヤし残りの1台が2位に喰い込んでいる。それは⑭番で登録番号「OKV 2」、シャシーナンバー「XKC402」で、ドライバーはA・ロルト/D・ハミルトンと記録されているが、写真の車は登録番号「OVC 501」、シャシーナンバー「XKC401」だからその車では無い。実は本番1か月前、5月の「ルマン・テストデイ」にすでに完成していたこの車はワークス・ドライバーのトニー・ロルトが試走しラップレコードを5秒縮める好タイムを出していた。その結果を基にシャシー・ナンバー「XKC402,403,404」の本番用の3台が造られレースに臨んだ。この車は「D-type」の1号車となるプロトタイプで、まだテールフィンは付けていなかった。
(写真05-3a~d) 1955 Jaguar D-type (1995-08 ラグナセカ・レースウエイ/カリフォルニア)
この車はテールフィンが無く、54年の「プロトタープ」にそっくりで、もしかしたら同じ車ではないかと疑ったが、プロトタイプなら英国で登録された「OVC501」は歴史的ナンバーで消すわけがないので、最初からアメリカ向けに輸出された車だろうと推定した。
(写真05-4a~e) 1955 Jaguar D-type (1986-11 第2回モンテミリア/神戸ポートアイランド市民広場)
僕が最初に間近で見たDタイプがこの車で、ロードバ-ジョンとしては完璧な姿をしている。ウインドシールドがのばされ、ノーズが長くなり、テールフィンも大型化され直進性の向上を目指した。
(写真05-5a) 1955 Jaguar D-type (1999-08 ラグナセカ・レースウエイ/カリフォルニア)
この車は1955年の「ルマン」を走った車だ。55年のジャガーは⑥⑦⑧⑨⑩の5台がエントリーしたが、⑥番(774RW)はマイク・ホーソン/Y・ブエブのドライブで優勝した車だ。しかしこの優勝の陰には「メルセデス」が引き起こした大惨事があり、その要因は、この車がピットインのため行ったコース変更時、後続車の安全確認が不十分ではなかったかと疑問を残した。その経過は目の前でスローダウンした「ジャガー」をよけるため「オースチンヒーレー」がフル・ブレーキングでコントロールを失い、そこに乗り上げた「メルセデス」がジャンプしてスタンドに飛び込み83人の命を奪うという空前絶後の大事故だった。
(写真05-6abc) 1955 Jaguar D-type (1999-08 ラグナセカ・レースウエイ/カリフォルニア)
(参考)1955 Dタイプ(ブリックス・カニンガム仕様)
(参考)1955 Cunningham C6R (ジャガーと一緒にルマンを走った車)
1955年ルマンに参加したジャガー5台の内⑥⑦⑧の3台はワークスからだったが、残りの2台はプライベートで⑨番のこの車は「ブリックス・カニンガム」がエントリーした。「カニンガム」はカリフォルニアの車好きな大富豪で、ルマンとの係り合いは1950年にはキャディラックを改造した車で11位になると、翌年からは自前の車「カニンガム」を造ってしまった。52年には自身が20時間ドライブして4位になり、54年には3位に入賞している。55年には㉒「カニンガムC6R」と、写真の車⑨「ジャガーDタイプ」2台で参加したが完走は出来なかった。塗装はアメリカのナショナル・レーシングカラー「白にブルーのストライプ」だ。
(写真05-7abc) 1955 Jaguar D-type (2001-05 ミッレミリア/サンマリノ)
(参考)1955年ルマン24時間レースの⑩番
1955年ルマンに参加したジャガー5台の最後の1台は⑩番のこの車で、「エキュリー・フランコルシャン」からのエントリーだった。ボディの黄色は「ベルギー」のナショナルカラーで、3位入賞した。
(写真05-8a~e) 1955 Jaguar D-type (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード/グッドウッド)
ジャガーのルマンでの5勝の内56,57年の2回はプライベート・チーム「エキュリー・エコッス」がエントリーした車によるものだった。スコットランドのこのチームのシンボルは「青地に白の斜め十字」で、大英帝国の「ユニオン・ジャック」はこれをベースに、コットランドの「白地に赤十字」と、アイルランドの「白地に斜め赤十字」で構成されている。英国のレーシング・カラーはグリーンだが、このチームの車は母国スコットランドの旗の色から「ブルー」に塗られている。(フランスのナショナルカラーも「ブルー」だが・・・)
(写真05-9abc( 1955 Jaguar D-type (2004-08 ラグナセカ・レースウエイ/カリフォルニア)
(参考)レースで3本ストライプは⑦番で、⑥番は2本ストライプの車だ。
この車は場所も時間も全く違ったところで撮影したものだが、前項の車の登録番号「RSF 301」と続きの「RSF 302」で、1955年製だが3年落ちで58年のルマンに挑戦している。(2周目でリタイヤ)プライベーチームだから毎年最新モデルとはいかなかったのだろうか。レースでの識別のため、この車は3本のストライプが入っているがレースNo.は⑦番で、⑥番の車は2本ストライプの「RSF 303」と紛らわしい。
(写真05-10ab) 1956 Jaguar D-type (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
1956年ルマンで優勝したのは「エキュリー・エコッス」から参加した④番の車だった。ペブルビーチに展示されたこの車は④番を付けているので、もしやその車ではないかと思ったが、このコンクールのプログラムにはヒストリーは一切記載されていないので、決め手はなく、逆にエキュリーチームのバッジが無く、カラーもブルーではないので別の車と判定した。
(写真05-11a~d) 1955 Jaguar D-type (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
前項の車を56年のルマン優勝車かと疑った後、次に登場したのがこの車で、55年型だが登録番号「MWS 301」は紛れもなく56年の「ルマン」優勝車だという事が判った。
(写真05-12abc)1956 Jaguar D-type 3.8-Litre (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード)
この車もワークスがレース活動から手を引いた後「セミ・ワークス」となった「エキュリー・エコッス」からエントリーし、Dタイプでは最後、ジャガーとしては5回目となる「ルマン」優勝をもたらした車だ。3.8リッターのエンジンはこの後市販車シリーズに生かされた。
⑥ <XK-SS> (1957-57)
1954年からルマンで大活躍した「Dタイプ」のイメージを最大限に利用して、これをロードバージョンとしてアメリカでの販売を目論んで造られたのが「XK-SS」だ。基本性能はDタイプと同じで3.4リッター、250馬力のエンジンは時速160マイル(256キロ)が可能で、6500ドル程度で売り出す予定だった。ところが生産を始めてまもなくの1957 年2月12日、コベントリーの工場が火災に遭い在庫やボディの治具が失われたため、以後の生産は続けることが出来なかった。そんな訳で、総生産台数は火災の時までに完成していた16台にとどまった(と言っても予定生産台数は25台だったようだ。)
(写真06-1a~e)1957 Jaguar XK-SS Roadster (1991-01 TACS 汐留ミーティング)
世界でも数少ないこの車が日本に在って良いのだろうか、と思いながらこの車と対面したことを思い出す。バブル華やかなりし頃には目を見張る様な貴重な車がイベントとごとに登場し、僕らを楽しませてくれた。これもその1台だ。外見で最も目立つのは、固定されたフロントのウインドシールドと、前後のバンパー、そしてテールフィンが無いことだ。居住性を高めるため革張りのシートや幌が付けられた。
(写真(06-2ab) 1957 Jaguar XK-SS Roadster (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
アメリカ輸出でドルを英国にもたらす筈だった「XK-SS」だが、実際には何台アメリカに渡ったのだろうか。少なくとも1台は確実にアメリカに上陸していた。ロード・バージョンを付けても抑揚のあるボディは精悍で魅力的だ。
(写真06-3a~d)1957 Jaguar XK-SS Roadster (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード)
工場の火災を逃れた16台の内の1台だが、説明書に書かれている「XKSS701」というシャシー・ナンバーは1号車(プロトタイプ)のものだろう。
― 次回は「Eタイプ」と「レーシング・モデル」の予定です ―