1936 SS Jaguar 100
「ジャガー」の創立者は、後年「サー」の称号を受けた「ウィリアム・ライオンズ」として知られている。彼は1901年イギリスの中西部ブラックプールで生まれた。10代で「クロスレイ・モータース」の見習工となり、19歳で「サンビーム」のセールスマンとなった。その頃同じブラックプールで「ウィリアム・ウォームズレイ」は払い下げの軍用オートバイを民間用に改造し、それに「サイドカー」を付けて販売するビジネスを行っていた。このサイドカーは他車のものと較べると抜群に格好良かった言われ、ライオンズも1台購入しすっかり気に入ってしまった。21歳になった「ライオンズ」は「ウォームズレイ」と組んで「スワロー・サイドカ-・カンパニー」を設立した。(という事は厳密にいえばジャガーの源流は「ウォームズレイ」という事になる)1928年には「コベントリー」に移転、1934年には「ウォームズレイ」は「ライオンズ」に経営権を全面的に譲り、会社名は「SSカーズ」と変わった。
(01)<スワロー・サイドカー> (1922-34)
(写真01-1ab) 1924 Swallow SideCar Coupe Sports+Brouph Superior (2002-02 パリ・レトロモビル)
自動車のボディは馬車時代からの技法を受け継いだものだから、長い伝統を持った完成されたものだが、馬車にはサイドカー的発想はなかったから、オートバイが誕生してから生まれた乗り物で、せいぜい10年少々の歴史しかない。創世記、まだスタンダードが確立するまでは、それぞれが思いつくままに、「木の箱」だったり、蔓で編んだ「かご」だったりで、決して見た目が良い物では無かったようだ。そこへ登場したのが「スワロー・サイドカー」で、その外観は時代の最先端を行く硬式飛行船「ツエッペリン」号を連想させるスマートさは他を圧倒した。デビューした1922年の「ロンドン・オートバイ・ショー」では、有名メーカー4社が自社の最新モデルに「スワロー・サイドカー」を付けて展示したことからも判るように、側車を付けることでオートバイ本体の見た目も上がる程恰好良かったという事だ。写真の「ブラフ・シュペール」は「バイクのロールスロイス」と呼ばれ、「アラビアのローレンス」の愛車としても有名だが、自社の標準装備として採用している。
(参考01-1c) サイドカー各種
クーペ・スポーツNo.1 スポーツモデルNo.5 セミスポーツNo.7 レース用サイドカー
<コーチビルダー>(1927~34)
今日まで続く「美しいものは売れる」という基本理念は、創世記サイドカー時代からすでに始まっており、市販の大衆車に一寸手を加えて見た目を良くし、一寸値段を上乗せして販売する商法は、美的感覚の優れた「ウィリアム・ライオンズ」が最も得意とする所だった。性能には変化ないのに見た目だけが良くなり過ぎて「見掛け倒し」と誤解されることもあったが、後年SS100」以降は名実ともに備わった名車に変化する。
(参考1-2a) 1926 Austin Seven (1986-01 TACSミーティング/明治神宮外苑・絵画館前)
「スワロー」が改造する前の「オースチン・セブン」
(参考1-2)1927-30 Austin Seven-Swallow saloon
ベースとなった「オ-スチン・セブン」と初期の作品「オースチン・スワロー」
(写真01-2b) 1931 Austin Seven -Swallow saloon (2007-06 英国国立自動車博物館)
「スワロー」で改装する前のオリジナル・オースチン・セブン」
ボンネットの曲線で塗り分けられた2トーンのサルーンは、角の取れた丸い屋根を持ち、オリジナルの面影はない。
(参考01-2c) 1928-29 Norris Cowley、Alvis 12/50、Fiat、Swift
当時「スワロー・サイドカー」によって改装された車、(上左)1928 Morris Cowley,(上右)1928 Alvis 12/50、(下左) 1929 Fiat 、(下右)1929-31 Swift、
(参考01-2d) 1930-32 Morris Minor、Wolseley Hornet
(上左右)1930 Morris Minor,、(下左右)1932-33 Wolsley Hornet
、
(参考01-2e1~2)「SS」を予見するような「スタンダード」と「スワロー」の密接な関係を示す バッジとポスター
(参考01-2)改装された「スタンダード・スワロー」と、オリジナルの「スタンダード・ナイン」
.
(02)<SSカーズ>(1934~45)
自前の車「SS-1」がデビューしたのは1931年秋の「ロンドン・ショー」で、当時の社名はまだ「スワロー・サイドカー&コーチビルディング」だった。「コーチビルダー」から「自動車メーカー」へと転身を図ろうとした際、拡大を望まない共同経営者の「ウォームズレイ」は経営権をすべて「ライオンズ」に譲り退陣、1934年社名を「SSカーズ」と変更し自動車メーカーの一員となる。「SSカーズ」の名称の由来は古くから諸説ある。一番妥当なのは「スワロー・サイドカー」の略だが、「スワロー・スポーツ」「スワロー・スペシャル」も簡単に思いつく名前だ。もう一つ有力なのは「スタンダード・スワロー」だ。 自前の「SS」を製造するまでは「コーチビルダ-」として「オースチン」や「モーリス」など、いろいろな車の改装を手掛けてきたが、特に「スタンダード」とは密接な関係にあり、添付した資料のポスターやバッジに見られるように殆ど自社製品のようだ。そのようなわけでメーカーでもどれとは特定していないから、どれを信じても誤りではないが、僕は「スタンダード・スワロー」を推したい。
<SSカーズのラインアップ>
「SS」と名の付いた車は1931年から41年まで造られた。1936年からは「SSジャガー」となり、戦後復活した1946年からは「ジャガー」だけになった。
(スポーツ系)
1931-36 SS 1
1931-36 SS 2
1935-35 SS 90
1936-41 SS Jaguar 100
(サルーン・ツアラー系)(12月掲載予定)
1936-38 SS Jaguar 1½-litre saloon (Sv 4cyl 1608cc)
1938-39 SS Jaguar 1½-litre saloon (Ohv 4cyl 1776cc)
1936-40 SS Jaguar 2½-litre saloon (Ohv 6cyl 2663cc)
1938-40 SS Jaguar 3½-litre saloon (Ohv 6cyl 3485cc)
< SS-1> (1931~36)
(参考02-0ab) 1931 SS-1 Fixed Head Coupe (series 1) /1931 Standard Sixteen
「ジャガー」の始祖ともいえるこの車だが、シャシーは「ライオンズ」の指示でアンダースラングに改造された「スタンダード・シックスティーン」をベースに、スタンダード社が造り、それに素晴らしく見た目のいいボディを載せたもので、一見1000ポンド級にも見える車は310ポンドで売り出された。「美しい車を安価で提供する」というのが目的で造られた車だから安価な大衆車がベースで、最初から高性能は想定されて居なかったが、外観から受ける印象から高性能と勘違いされ、「見かけ倒し」と酷評されたが、それは値段を考慮し忘れた評価だ。全長の半分ある長大なボンネットの中には、ストレート・エイトのエンジンでも入っていそうだが、スタンダード車のSV 6気筒2053cc 43hpがこじんまりと鎮座しているだけだ。「ベントレー」「ラゴンダ」「インヴィクタ」など高額スポーツカーは最高速度100マイル(160km/h)を誇っていたが、「SS-1」は110~115km/h程度だった。しかし同クラスの他車は頑張っても100km/hが一杯だったから、それらに較べれば早い方だ。サイクル・フェンダーのシリーズ1は初年度で800台近く販売された。
ベースとなったのが「スタンダード」だから「SS」が「スタンダード・スワロー」の略という説は有力だ。参考にオリジナルの「スタンダード・シックスティーン」の写真を添付した。
(写真02-1a1~5) 1934 SS-1 4-light saloon (series 2) (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード
1933年からはシリーズ1の「プロトタイプ」的なスタイル優先から、使い易さも配慮した改良が行われ、「市販車」としてシリーズ2となった。
(写真02-1b1~2) 1934 SS-1 Sports Tourer (1977-04 TACSミーティング/筑波サーキット)
今から50年近く前、日本クラシックカークラブのメンバーによって、日本にも「SS-1」が輸入されていた。この車は2種ある内大きい方の2664ccのエンジンが乗っているが、製造当時のイギリスの税法で1クラス上のランクで課税される割には、性能アップは今一だったといわれる。後ろ姿は典型的な「ブリティッシュ・スポーツカー」だ。
(写真(02-1c1~5) 1934 SS-1 Sports Tourer (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
この車の「マスコット」と「バッジ」に注目。「バッジ」は初期型の「SS-One」で「Jagur」の文字はない。1934年だから当然「ジャガー」のマスコットはまだ誕生していない。しかしこのマスコットはネコ科の猛獣が獲物に飛び掛かる姿がリアルに再現されている。ジャガーのマスコットについては、アマチュア彫刻家だった当時の宣伝部長「ビル・ランキン」が「柵を飛び越えた猫」と例えられた小さな彫刻を造り、それに著名なアーチスト「ゴードン・クロスビー」が手を加え完成したと伝えられている。写真のマスコットは如何にも「柵を飛び越えた猫」だ。1936年から発売されたサルーン系からオプションで取り付けられたが、原形はそれより前に造られるから、もしかしたらこれがそのオリジナルかもしれない。洒落た内装や、充実した工具セットなどは、安い車とは思えないセールスポイントの一つだ。
(写真02-1d1~4) 1935 SS-1 Airline saloon (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
1930年代中期には、空気抵抗の少ない「流線形」と名付けられた丸みを持ったボディが試みられた。アメリカの「クライスラー」が有名だが、イギリスでも「ヒルマン」や「ジョウエット」が採用している。「SS-1」もバリエーションの一つとして「エアロ・ライン」が造られた。現代の感覚で見れば戦後の「フォード」や「ボルボ」と同じようなずんぐりしたスタイルは、スピード感のあるものではないが、時代を考えれば新感覚だったのだろう。これと同じタイプの車が戦時中の日本国内で撮影され、「軍需省航兵総」のプレートを付けていたところから、シンガポール辺りでイギリス軍が使っていたものを分捕って来たのではないかと推定されていた。しかしその車は1934年野沢組が新車で輸入し、京都にあった物が戦時中に軍に「徴用」されていたという事が判った。
< SS -2 >(1931~36)
「SS-1」の発表と同時に その弟分として「SS-2」も登場した。こちらも「スタンダード」の一番小さい「リトル・ナイン」がベースとなった。エンジンは4気筒SV 1003.6ccで「SS-1」のほぼ半分、価格は210ポンドだった。思い切った低価格が設定された「SS-2」だったが、このクラスにはライバルが多く、「SS-1」の半分程度しか売れなかったが、その原因として「SS-2」には「SS-1」のような「低く」「長い」というインパクトは無く、外見で売る「SS」としてはセールスポイントのないこの車は誤算だったようだ。
(参考資料02-2) 1933 Standard Little Nine Saloon
SS-2のベースとなった車
(参考資料02-2b) 1931-33 SS-2 Coupe
初期型サイクルフェンダーの「SS-2」の資料は殆ど見当たらない。唯一見つけたのがこの写真の車だ。
(写真02-2a1~6) 1933 SS-2 Swallow Special (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
イベントのプログラムには「スワロー・スペシャル」と説明されていた。それが「SS」の説明なのか、特別に造られた「スペシャル」の意味なのか、オリジナルと思われる写真と比べてもあまり違いが判らない。写真で見る限りなかなかお洒落な車だが、横から見ると「低く」はあるが「長く」はないからプロポーションは寸詰りで物足りない。それに加えて小さい割に色々なものを盛り込み過ぎの感じもある。
< SS-90 > (1935)
「見掛け倒し」と見当違いの酷評された「SS-1」は、「美しい車を安価で提供する」という理念に基づいた車だったから、決してスポーツカーとは呼ばれる事は無く、プロムナードカーとバカにされた程だったが、次に「ライオンズ」が発表した「SS-90」は本格的なスポーツカーを目指すものだった。エンジンは後期「SS-1」と同じ「トゥエンティ」と呼ばれる6気筒SV 2663.7ccだったが68hpを90hp迄強化されていた。この本格的スポーツカーを造るため1934年「ライオンズ」はハンバー社から「W・M・ヘインズ」をスカウトしチーフ・エンジニアに任命した。新しい車のホイールベースは「SS-1」よりは15インチ(380mm)も短い104インチ(2640mm)のショートシャシーで、軽い2シーターのオープンボディを持っていた。最高速度は時速90マイル(144キロ)で立派なスポーツカーが誕生したが、「ヘインズ」に課せられた課題は、伝統の「美しい車を安価で提供する」に「高性能」が加えられており、期待にたがわずこの車は395ポンドという異例の安さで販売された。因みに車名の「90」は、最高速度90マイルから命名されたものだが、高性能スポーツカーの目安「100マイル」には達していなかったため、1年で次の「SS-100」が登場する事になった。
(写真02-3a1~6) 1935 SS-90 Prototype open 2-seater (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
この車はプログラムにも「プロトタイプ」と書かれており、流れるような後ろ姿は「市販車」とは全く異なる。
(写真02-3b1~2) 1935 SS-90 open 2-seater (1976-07 英国ヴィンテージカ―即売会/青山・英国トレーディングセンター)
確か雑誌でこの催しを知ったと記憶している。青山通りにある「英国トレーディングセンター」では「ロールスロイス」3台をはじめ新旧「ジャガー」3台の他「ベントレー」「ラゴンダ」「バンプラ」など国内で見る事の出来ない正真正銘のクラシックカーを含む9台が展示されていた。写真の車は「市販車」で、前項の「プロトタイプ」とは後ろ姿が全く異なり、背中にタンクを背負った典型的な英国タイプのスポーツカーとなっている。
(写真02-3c1~2) 1935 SS-90 open 2-seater (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
「SS-90」は、この後登場する「SS-100」と外観は殆ど同じだ。ウイング(フェンダー)を持つクラシック・スポーツカーとしてはほぼ完成形と言って良い。「SS-100」の陰に隠れてしまった「SS-90」は1935年に50台程度しか製造されず、極めて珍しい車だ。
<SSジャガー100> (1936~41)
スポーツカーの系譜で行けば「SS-90」の次は「SS-100」となるのだが、100マイル・スポーツカーを目指して新設計された高性能エンジン6気筒 OHV 2664cc 104hp/4500rpmを使って、全く新しい乗用車が1935年秋スポーツカーより一足先にデビューした。それは全てが「スタンダード」の影響を受けないSS社独自の設計になるもので、この際新しい車名を付けようという事で、最終的には「ジャガー」と決まった。ところがこの名前は1920年代に「アームストロング・シドレー」社の航空機エンジンに使われており、同社の了解を得て世界的に有名な名前がここに誕生した。
(参考02-4) 1936 SS Jaguar 2½-litre tourer
・1936年3月から発売された「SSジャガー100」は,「SS-90」のシャシーに新しい高性能エンジンを載せたもので、2½リッターの最高速度は待望の「100マイル」に達していた。翌1937年にはさらに強力な3485cc 125hp/4250rpmの3½リッターが登場し、最高時速は105マイルまで伸ばし、名実共に一流スポーツカーとなった。ところで、この車の価格だが、オリジナルの2½リッターは信じられないような395ポンドという低価格で購入する事が出来た。ライバルと目される「BMW328」は695ポンドで、約1.8倍だった。車の価値は何で決まるのか。例えば「価格」で決まるとすれば「ジャガー」は安物だ。しかし「性能」で評価するならば一流のスポーツカーだ。当時この車のオーナーは高価な「ラゴンダ」や「インビクタ」ではなく、安い「ジャガー」に乗っていると言うコンプレックスは無かったのだろうか。見栄で乗る車となると、値段が安いことは決して自慢できる材料では無いからだ。1936年から41年までに332台が造られたが多数現存し、僕は19台に出会っており、日本国内でも9台を撮影している。
(写真02-4a1~3) 1936 SS Jaguar 100 2½-litre (1986-03 TACSミーティング/筑波サーキット)
「SS-100」のエンジンは2664ccでスタートし、1937年から3485ccが加わった。だから1936年型は全て2½リッターである。
(写真02-4b1~2) 1936 SS Jaguar 100 3½-litre (2000-05 ミッレミリア・ブレシア/2001-05 サンマリノ)
イタリアのミッレミリアで見つけたこの車は2年連続して日本から遠征して来た車だ。1枚目はスタート前車検場のある「ビットリア広場」に向かう途中で、2、3枚目はサンマリノの最後のヘアピン・レストラン前を通過し、ロープウエイの駅を通ってチェックポイントへ向かう所だ。この車にはダークなこの色がとても似合う。
(写真02-4c1) 1936 SS Jaguar 100 2½-litre (1994-05ブレシア/ミッレミリア)
この角を左に曲がれば50メートル先は車検場「ビットリア広場」だ。横から見た姿からは、多くのイギリス・スポーツカーと見分けが付かないくらい共通点が多い。「SS」系の特徴はあの特大の「ヘッドライト」に負う所が大きい事を再確認した。
(写真02-4d1~3) 1936 SS Jaguar 100 "Old No.8" (2000-06 フェスティバル・オブ・スピード)
この車は最大の特徴である「ヘッドライト」と「フェンダー」を取り去って軽量化を図り、駆動輪は「ダブルタイヤ」にしてヒルクライムに備えている。
(写真02-5a1~3) 1937 SS Jagusr100 2½-litre (1980-11 SCCJミーティング/富士スピードウエイ)
「SS100」シリーズには1937年から一回り大きい3485ccエンジンを持った「3½リッター」が登場した。それと区別するためこの車のエンブレムには「2½litre」の表示が追加された。
(写真02-5b1~2) 1937 SS Jaguar 100 2½-litre (1986-11 モンテミリア/神戸ポートアイランド)
「SS-100」に関してはヘッドライトの大きさが違う以外、殆ど外見は変わらないからどれも皆同じになってしまうが、神戸で撮ったこの写真が、僕にとってはベストショットだ。
(写真02-5c1~4) 1937 SS Jaguar 100 2½-litre (2007-04 トヨタ自動車博物館/名古屋)
「SS100」の場合、見た目が変わらないので「年式」と「排気量」については確定が難しいが、この車はトヨタ博物館の信頼できるデーターが示されているので、決め手の基準として貴重な資料となる。
(写真02-5d1~4) 1937 SS Jaguar 100 2½-litre (2009-03 東京コンクール・デレガンス/六本木ヒルズ)
1936年以降「SS社」の車は「ジャガー」という新しい名前が付けられた。この車の案内板には「Jaguar SS 100」となっているが、本来は「SS Jaguar」の筈で、エンブレムもその順になっている。しかし一般には「SS 100」と略称で呼ばれるケースが多い。案内板には排気量が記入されていないが、バッジが6角の初期型なので2½リッターと判定した。
(写真02-5e1~3) 1937 SS Jaguar 100 2½-liter (2007-06 フェスティバル・オブ・スピード)
この車も案内板には年式のみで排気量は記入がなく、プログラムにも記入が無かったが、6角のバッジから初期型と判定した。
(写真02-6a1~3) 1938 SS Jaguar 100 2½-litre (1982-01 TACSミーティング/明治神宮絵画館前)
1938年からは3½リッターが登場したため、バッジで区別がつくよう一部変更が行われた。6角のバッジには上下に「SS」「Jaguar」と入り、下段のJaguarは字数が多いので6角からはみ出した。従来「Jaguar」に文字が入っていた所に「2½litre」「3½litre」が入った。
(写真02-6b1~2) 1938 SS Jaguar 100 2½-litre (1979-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)
戦前の「SSジャガー」について、サルーンは何台か輸入されたが、「SS100」については僕が調べた限りでは確認出来なかった。この車は僕が最初に見た「SS100」で、もしかしたら日本に最初に入って来た車かもしれない。初期に入ってきたクラシックカーは、一部の著名なコレクターのお陰で我々は目にすることが出来たのだが、この真っ白が似合う車は「林コレクション」の一部だ。
(写真02-5c1~2) 1938 SS Jaguar 100 (2001-05 ミッレミリア/ブレシア、サンマリノ)
ミッレミリア2日目サンマリノのチェックポイント手前で順番待ちで停車している。赤いスポーツカーは、良く似合う車もあるが、僕個人としてはこの車の場合はあまり好きではない。なんとなく重厚さがなくなってしまうようで、同じ理由からか黄色は一度も見たことがない。
(写真02-6d1~2) 1938 SS Jaguar 100 (1995-08 ペブルビーチ・コンクール・デレガンス)
拘るようだが、アメリカでこの車の車名は「SS」ではなく「ジャカー」であり、形式が「SS100」と認識されているようだ。日本でも一般には誰でも「ジャガー」と呼ぶ。発売当初は「SS」だった筈だが、現代ではその会社が「ジャガー」となったのだから、それで良いのかもしれない。それにしても、「SS100」の案内板にはどれも排気量(型式)が記入されていないので、バッジをアップで撮影して居ない場合には判定が付けられない。
(写真02-7a1~5) 1936 SS Jaguar 100 3½-litre (2008-11 トヨタ博物館クラシックカー・フェスタ)
この車はイタリアに遠征していた際撮影した写真で一度登場させているが、「3½リッター」の代表として再登場させた。案内板によれば年式は1936年で、排気量が 3485ccとなっているのがちょっと気になる。このシリーズに「3485cc」が登場したのは1937年(38モデルイヤー)だから、後年エンジンを載せ替えたことは考えられるが、エンブレエムには1937年以降の「3½litre」の文字が入っているので、エンジン換装時にエンブレム迄取り換えたのか、それとも「1936年」は誤りなのか、僕には結論が出せない。
(参考02-7b1~2) 1938 SS100 3½-littre Coupe Prototype
「SS100」は全部で314台造られたが、すべてオープンボディだった。たった1台だけ造られた「クーペ・ボディ」がこの車で、1938年のロンドン・モーターショーに展示されたが、プロトタイプで終わった。しかし屋根からリアウインドウにかけてのラインは戦後の「XKシリーズ」のクーペに引き継がれたようだ。
(写真02-8a1~4) 1941 SS Jaguar 100 (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
案内板には「1941 100 Jaguar SS」と書いてあった。1939年ヨーロッパでは「第2次世世界大戦」が始まり40年以降は殆ど造られていないから、モデルイヤー「1941年」といえばこのシリーズとしては最後の数台ではないかと思われる。不思議な事にこの車のバッジには6角の「SS」が付いておらず、「Jaguar」しかない。資料では1945年社名を「SSカー」から「ジャガー」に改めた際、「SS」の名が消えたとされているが、すでにこの段階で消し去っていたのだろうか。車の「SS」が誕生した1931年には何の問題も無かったのだが、その後ドイツでナチス党が台頭し「ヒットラーの親衛隊」(Schutzstaffel)が「SS」と呼ばれたところから、「SS」はヨーロッパではナチスを連想する「負のイメージ」が生まれていた。1940年はナチス・ドイツが快進撃を続けていた時期だったが、イギリスで「SS」を削除するほどの影響があったのだろうか。
(写真02-9) ジャガーのマークの変遷
1936年「6角のSS」と「Jaguar」のみ。 1937年6角の中「SSとJaguar」下に「2½littre」 1937年6角の中に「SSとJaguar」下に「3½litre」 1941年6角の「SS」が消え「Jaguar」のみ
―― 次回は戦後の花形「XKシリーズ」から「C,D タイプ」の予定です。