1965 Iso Gurifo A3C
(1)<イターラ>(伊)
18世紀の末、イタリアでも移動手段として「自転車」が一般化し、それに目を付けた「ジョバンニ・チェイラノ」と「マッテオ・チェイラノ」兄弟が「J.R.チェイラノ商会」を設立、自転車の輸入から始め、オートバイ、自動車と事業は順次拡大していったが、経営は必ずしも安定しているとはいえず、支援者の「エマヌエーレ・ブリゲザリオ伯爵」は1999年トリノにイタリア初の自動車会社「フィアット」を設立し、「チェイラノ商会」を吸収した。技術者である弟の「マッテオ・チェイラノ」は、合併には反対で、1903年自ら「イターラ社」を設立、1904年4気筒で排気量15.3 リッターのモンスターレーサーを造った。初期のレーサーは、速く走るためには馬力を上げるのが一番で、そのためには排気量を増やすしかなかったから、参考に挙げたライバルたちも皆モンスター揃いだ。
(写真06-1a~dc) 1907 Itara 14.5Litre 120HP (2004-06 イギリス国立自動車博物館/ビューリー)
創世記の「レーシングカー」といえばシャシーにシートだけで、軽量化のためボディもフェンダー付いていなかった。そしてべらぼうに大きなエンジンは前が見えないのではと心配する程のものもあった。この車もその典型的な1台で、正面の「ITALA」の文字が印象的で広く知られている。
(参考-1) 1911 Fiat GP 14Litre
(参考-2) 1908 Mors 12.5Litre GP
(参考-3) 1907 Renault 90CV 13Litre
同時期に活躍した大排気量レーサー3台を参考まで掲載した。
(2)< イ ソ > (1948~ )
「イソ」社の原点は1939年イタリアのジェノバで創業された「イソサーモス」(Isothermos)という冷蔵庫や暖房器具を造る会社だった。この会社を「レンツォ・リボルタ」(Renzo Rivoita)が買収、1942年には空襲を避けてミラノに近い「ブレッソ」へ疎開する。(余談だが社名の「Iso」は、イタリア語では「イーゾ」と発音するらしい。母音の前にある「S」は濁音で発音される場合があるようで、僕はイタリアで「Asai」を(アザーイ)と呼ばれた記憶がある。)
<イソスクーター>
戦後いち早くライセンスを取りスクーターの製造を始め、1948年からは自社製の「イソスクーター」(125cc)が発売された。スクーターと名付けられてはいるが、車輪が大きく、イメージとしてはホンダの「スーパーカブ」に近い。エンジンは「ダブル・シリンダー」というという1気筒だが左右に燃焼室を持つ変わった構造で、水平対向エンジンを一つに纏めたようなものだった。僕は「イセッタ」という名のスクーターがあったと勘違えしていたが「イソスクーター」しかなかった。
(07-0a) 1949 Isoscooter Serie1(125cc) (Scooters Made in Italy より)
<イソ イセッタ> (1952~55)
スクーターの発展型で、雨にも風にも強い全天候型の小型移動手段として誕生したのが「キャビン・スクーター」或いは-「バブルカー」と呼ばれる車だ。「イセッタ」の誕生秘話として「2台のスクーターの間に冷蔵庫を挟んだ車」と言われるのは、イソ社が冷蔵庫メーカーからイメージされたものだろうが、確かに正面「ドア」の開閉は冷蔵庫と同じ感じではある。バブルカーの中で前開きドアを採用している「ハインケル」は1956年からなので、アイデアとしては「イセッタ」がオリジナルだろう。
・この車を日本国内で見た場合は殆どが「BMWイセッタ」で、左側通行用の「イギリス」製もわずかに存在する。しかし本家はイタリア製の「イソ イセッタ」で、1952~55年で1000~1500台程度しか造っておらず1955年以降は海外でのライセンス生産で世界に広まった。中でもドイツの「BMW」製が最も多く16万台以上造ったから、この車が「BMW」オリジナルと思っている人も居そうだ。「ドイツ」「イギリス」の他にも「スペイン」「ベルギー」「フランス」「ブラジル」でもライセンス生産が行われた。
(写真07-1a~d) 1955 Iso Isetta (伊) (2010-11 トヨタクラシックカーフェスタ/神宮外苑)
写真の車は極めて珍しい本家イタリア製の「イセッタ」で、窓のアレンジは「BMW・イセッタ」とは違っている。2サイクル 単気筒 236cc 9.5hp ホイールベース1.5m 前輪トレッド1.2m ほぼスクエアで、歩道に向けて駐車しそのまま降りる裏ワザが可能だった。ライセンス生産した「BMWイセッタ」との違いが分かるように参考添付した・
(写真07-1ef) 1957 Iso Isettacarro Truck (伊)) (インターネット資料)
「イセッタ」のトラック版を見つけたので参考までの掲載した。
・「バブルカー」と呼ばれるような小型車の発想が何時、何処から始まったのかは定かではないが、1940年代には既に出現している。参考までに似たような小型車の一部を並べてみた。
(写真07-1g) 1957 Heinkel Kabinenroller 408-B1(独) (2008-01 ドイツ博物館/ミュンヘン)
「ハインケル」のキャビン・スクーターは1956年の誕生なので、「イソ イセッタ」を参考にしたと思われるが、ライセンス生産ではない。だから「イセッタ」のハンドルはドアの開閉と連動する仕掛けになっているが、これは特許で使用できなかったらしく「ハインケル」では固定式だ。
(写真07-1h)1955 Messerschmitt KR200 Kabinenroller(独)) (1957年 静岡市内)
横並び派の「イセッタ」に対して、縦並び派を代表するのが「メッサーシュミットだ。誕生は1953年で「イセッタ」と同時期なので、それぞれが独自で「キャビン・スクーター」を開発した結果違った形となったのだろう。第2次大戦中ドイツを代表する戦闘機「メッサーシュミッットBf-109」を造った会社だから、キャノピーを跳ね上げて前後に並んだシートに乗り込む発想が「戦闘機」的と勘繰りたくなる。
(写真07-1i)1953 Inter 175A Berline (英) (2002-02 パリ/レトロモビル)
縦並び(タンデム)式のこの車は「メッサーシュミット」派だ。1953年英国生まれなので同じ年代だが偶然同じ形になったのだろうか。スクーターに屋根を付けようと考えたらそのレイアウトは縦に2人並ぶのが常識的ではある。この車もキャビンは跳ね上げ式だった。
(写真07-1j)1941~45 Peugeot VL-V (郵便配送車) (2002-02 パリ・シャンゼリゼ通り)
「バブルカー」と呼ばれる車は、別名「キャビン・スクーター」と言われるように、スクーターの居住性を改善・向上を図ったために誕生したスタイルだから、最初から目的が「郵便配達」のため造られたこの車は「バブルカー」のご先祖とは言えないだろう。
<イソ リヴォルタタ>(1962~71 )
(写真07-2abc)1964 Iso Rivolta 2dr Coupe (1995-08 コンコルソ・イタリアーナ/アメリカ)
「イセッタ」はイタリア国内では思った程人気が出なかったので、1955年僅か3年で生産終了となった。しかし海外では多くの国でライセンス生産が行われ、それなりのライセンス料は発生していたとおもわれる。この会社名は「イソサーモス」で自動車専用メーカーではないから「イセッタ」の製造を止めてからは何年も自動車とは関わりを持っていなかったが、1962年突如創業者自身の名前が付いた「リヴォルタ」が発表された。「イセッタ」が4輪車としては最下限だったのに対して、「リヴォルタ」は「フェラーリ」と肩を並べようかというスーパーカーとして登場した。コンセプトとしてはスーパーカーに相応しい「シャシー」と「ボディ」を持ちながら、高額で気難しい超精密スポーツカー・エンジンに頼らず、大排気量、大トルクで扱い易く入手しやすいアメリカ製のエンジンを載せることで、性能は落とさず価格を抑えることが狙いだ。そのため主任設計者として選ばれたのは、「フェラーリ」で「250シリーズ」に関わっていた「ジョット・ビッザリーニ」だった。「リヴォルタ」は2ドアだが4シーターでホイールベースは2.7mあった。ボディは「ベルトーネ」が製造したが、デザインは「ジョルジェット・ジウジアーロ」が担当した。問題のエンジンはシボレーのV8 5390cc 300hp/5000rpmが選ばれ、最高速度は220km/hとされている。300hpのほかに チューンによって、365hp(250km/h)、400hp(258km/h)も選択できた。価格は555.3万リラで、「マセラティ・クアトロポルテ」の607.4万リラ、「フェラーリ330GT」の679.5万リラに較べれば、ほぼ同じ性能の車が50~130万リラも安く手に入った。
<イソ グリフォ>(1963~74 )
(写真07-3ab)1967 Iso Grifo 2seater Coupe (2004-08 コンコルソ・イタリアーナ/アメリカ)
(写真07-3c~g)1969 Iso Grifo 2seater Coupe (2004-08 コンコルソ・イタリアーナ/アメリカ)
1963年のトリノ・ショーで新しい2シーターのクーペが発表された。「イソ グリフォ」のプロトタイプで、車名は「Iso A3/L Grifo」だった。「リヴォルタ」のホイールベースを2.5mに短縮し、ボディは「ベルトーネ」(ジウジア-ロ)が新しくデデザインした2分割のグリルとフェンダーに大きなアウトレットを持つもので、ぐっとスポーティになった。ただエンジンは「リヴォルタ」と変わりなかったが、最高時速は260kn/hと表示されていた。プロトタイプではヘッドライトが上ヒンジで下を後ろに釣り上げる引っ込み式だったが市販型では固定式に改められた。
<イソ グリフォ 7リッター> (1968~ )
(写真07-4a~d)1970 Iso Grifo 7litre (2004-08 コンコルソ・イタリアーナ/アメリカ)
1968年には高性能版「グリフォ7リッター」が登場した。ボディの基本的な形は変わらないが、エンジンが一回り大きいシボレーのV8 6996cc 406hp/5200rpmと変わったためエンジンルームに収まり切れず、ボンネットが2階建てとなっているのが特徴だ。見た目だけで考えれば「バルジ」(こぶ)で処理する方がスマートだと思うが、ボンネットに収まらない事でパワーを強調するという狙いがあったのだろうか。(スーパーカーはアバルトチューンの小型車のエンジンルームが閉まらないのとは次元が違うと思うのだが・・)何処まで信じていいのか判らないが、最高時速は300kn/hと云われており、それが本当なら当時最速の車だった。
<イソ グリフォ・シリーズⅡ>
(写真07-4abc)1970 Iso Grifo SeriesⅡ (2004-08 コンコルソ・イタリアーナ/アメリカ)
(写真07-4de)1972 Iso Grifo IR8 (2004-08 コンコルソ・イタリアーナ/アメリカ)
1970年マイナーチェンジでシリーズⅡとなった。外観上の最大の変化はヘッドライトで「半格納式」となった事だ。
<イソ グリフォ カンナム> .
(写真07-5a~d) 1970 Iso Grifo siriesⅡ CanAm (2004-08 コンコルソ・イタリアーナ)
1970年シリーズⅡの最強モデルとして「7リッター」に代わる「カンナム」が登場した。「7リッター」の6996cc(406hp)に対して、7443cc(395hp)と一回り大きいシボレーエンジンが採用された。「カンナム」とは.アメリカ輸出用のネーミングだが、「CanAm」レースを走るための車ではない。
<イソ レーレ> (1969-74)
(写真07-6a~d)1969 Iso Lele 2dr 4seater Coupe (2004-08コンコルソ・イタリアーナ)
「レーレ」は初代「リボルタ」の後継モデルとして誕生した。「グリフォ」系のスポーツタイプの2シーターに較べれば、4シーターだからより「リボルタ」に近い。
<イソ フィディア> (1967~74 )
(写真07-76ab)1973 Iso Fidia 4dr Berlina (Late Model) (1999-08 コンコルソ・イタリアーナ)
「イソ」社が造った唯一の「4ドアセダン」で、そのためか生産期間は長く、ヘッドライトが丸型のこの車は後期型だ。同じ4ドアの「マセラティ・クアロロポルテ」がライバルだった。
<イソ グリフォ A3/C ビッザリーニ> (1963~65)
(写真07-8a~e)1965 Iso Grifo A3/C Bizzrini (2010-06 フェスティバル・オブ・スピード)
1963年、「リヴォルタ」のショートシャシー版「グリフォ」が誕生したトリノ・ショーには2台のプロトタイプが展示されていた。ロードバージョン「A3/L」の「L」はラグジュラリーの略で2年後市販車「グリフォ」となった。もう1台の「A3/C」の「C」はコンペティションの略で、翌1964年ルマン24時間レースで14位となっているが「イソ」社では生産されず、レース志向の強い「ビッザリーニ」の下で22台造られた。しかしこの段階で「ビッザリーニ」が「イソ」社を離れ独立したので製造は終了した。だから、この車は「イソ」でもあり「ビッザリーニ」でもある。
(03)<いすゞ/(ウーズレー/スミダ)>
<前史・ウーズレー>
・「いすゞ自動車」の創立は「1937年」(昭和12)「東京自動車工業」とされているが、この会社のルーツは「石川島平野造船所」で、その創業は1853年(嘉永6)だから、ペリー提督の黒船が浦賀にやってきた年だ。最初に自動車を完成させたのは1918年(大正7)のことで、イタリアから輸入した「フィアット」を分解してコピーした「レプリカ」だったが、今後の方針としてはライセンス料の安いイギリスの「ウーズレー」と契約を結び製造、販売権を取得した。その結果1922年完成した国産の「ウーズレー」乗用車だがコスト高で売れず失敗に終わった。
(写真08-0a)1922 Wolesley A9 Phaeton (2018-11 いすずプラザ)
.
(写真08-1a)1924 Wolsley Model 「CP Truck (2013-11 東京モーターショウ/ビッグサイト)
しかしこの自動車製造の技術をトラック製造で生かして、当時制定されていた「軍用自動車保護法」の指定を取れば補助金の交付が受けられるところに着目し、1924年完成した「PC型トラック」は見事認定試験をパスした。この制度は「メーカー」だけでなく、「購入者」も「購入補助金」と「維持補助金」が支給されたから販売時も有利だった筈だ。(ただし有事の際は陸軍が買い上げるという条件付きだった。)
<前史・スミダ>
「PC型トラック」が完成する直前の1923年9月、関東大震災で深川工場が灰燼に帰し全てを失ってしまったが、新工場の再建を機に「石川島造船所・自動車部」と改称し部門として独立した。1926年ウーズレー社との契約を解消し、独自の車を開発したので新しい車の名前を募集したところ、1万通を超える応募があり、その中から選ばれたのが、近くを流れる隅田川に由来する「スミダ」だった。
(1973-11 第20回東京モーターショー/くるまのあゆみ展に展示された時の写真)
(写真08-2abc)1932 Sumida A4 (Model M) (2011-11 東京モーターショー)
<いすず>
・1929年(昭和4)には「(株)石川島自動車製作所」として造船所から分離・独立した。その後1933年「ダット自動車製造」と合併して「自動車工業」となり、さらに1937年「東京瓦斯電気工業」と合併して「東京自動車工業」となった時点が、現在の「いすゞ」の創業とされている。その後、1941年「ヂーゼル自動車工業」と社名変更、合併・車名変更を繰り返し、戦後の1949年(昭和24)遂に現在の社名「いすず自動車工業」にたどり着いた。「いすず」というネーミングは、元々は1932年(昭和7)商工省制定の標準形式自動車のために付けられた名前で、それを製造していたので社名にしたというわけだ。「いすず」とは伊勢神宮の脇を流れる清流「五十鈴川」に因んだものだが、戦前・戦中は「伊勢神宮」「五十鈴川」といえば「神国日本」にとっては「神聖なもの」として特別の意味を持っていた。
(写真08-3) 1933 Isuzu XT35 1.2ton Truck (参考資料)
「商工省標準形式自動車」として企画されたこの車は、1931年から開発が始まりエンジンを石川島自動車製作所、アクスル、ブレーキなどを東京瓦斯電気工業、トランスミッション、クラッチ、プロペラシャフトをダット自動車が担当するなど、当時の総力を挙げて取り組んだことがわかる。1933年には正式に採用され、以後TXは日本のトラックの標準となった。この共同作業が「合併」の大きなきっかけとなった。
(写真08-3ab)1946 Isuzu Model TX80 5-ton Truck
終戦の翌年、昭和21年から生産を再開した「いすず」が造ったのが「TX80型」5トン積みの大型トラックで、焼け野原の復興に大きな役割を果たした。
(写真08-3c) 1951 Isuzu TX 351 5ton Truck (1953年 静岡市内)
1951年モデルチェンジが行われ、ヘッドライトがフェンダーに埋め込まれ、いわゆる「戦後型」となった。僕の印象では「いすゞのバス、トラック」といえばこの顔が頭に浮かぶ。この車を撮影したカメラは「コーナン16」という特殊な超小型カメラで、フィルムは実質10×14mmなので、面積は当時の小型カメラの標準24×36mm(ライカ版)の約16%としかなかったが、その割には良く撮れている。「甲南カメラ研究所」が開発し「ミノルタ」の協力で量産、1950年から販売された。写真で分かるように引き出すとフィルムが送られ、シャッターがセットされた。写真のカメラは「アルミ」仕上げだが、我が家のは「ゴールド」だった。後年同じものが「ミノルタ16」として販売が続いていたから、そちらをご存じの方もあるかも知れない。
(写真08-3d)1951 Isuzu TX Truck (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
博物館に展示されている両側が消防自動車で、しかもこの車の色が「濃い赤」に見えたので、この車をすっかり消防自動車だと思い込んでいたが、よく見たら後ろは立派な「トラック」だった。それでも一瞬「消防署でもこんなトラックを使うんだ」と思ってしまったほど勘違いしていた。しかし、この色は標準色で、カタログにも登場している。
(写真08-3e) 1959 Isuzu BX+1924 Carl-Metz (12006-07 四谷・消防博物館)
ドイツ製の見事な梯子を搭載しているこの消防自動車は、1959年(昭和34)老朽化したシャシーをいすゞのBXと交換した。「BX」の型式からも推定されるようにシャシーは何故か「バス用」が使われた。「TX」との書き違えではないかと、再度会場の案内板を確認したところ、間違えなく「バスのシャシー」と書かれていた。現役時代の最終所属は「王子消防署」で、1971年リタイヤしている。(この車が王子4丁目の消防署にいた同時期、僕は同じ通りの2~300メートル先の王子5丁目に勤務していたが気が付かなかった。)
(写真08-3e3) 1955 Isuzu BX41 Bus (1961-08 長崎駅前 )
1961年(昭和36)、僕は新婚旅行で九州を旅した。その途中長崎に一泊したが、当時の駅前風景だ。右端の三角屋根が長崎駅で時計は丁度9時を示している。左側に写っているのが1955年型「いすゞBX41」バスで、モデルチェンジでルーバーの数が正面は8本から4本に、サイドは4本から2本に変わった。中央には「ダイハツ・ミゼットMP」、右手前に「三菱500」、中央は「ダットサン120トラック」、左端の3輪車は「ダイハツRKM」と、昭和30年代の賑わいを見せている。
(写真08-3fa~d) 1968 Isuzu BXD30(改) Bus (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
一見すれば「いすゞ」とすぐ判るこの車は、実は顔を改造されている。改造を考えた人は僕と同じように、この顔付きこそ「いすゞ」の代表と考えた上の決断だったのだろう。参考までに顔を提供した1958年「BX331」と、整形する前の1968年「BDX30」を掲載した。
(写真08-4a) 1965 Isuzu BXD30(改) Bus (2008-11 トヨタクラシックカーフェスタ/神宮絵画館)
この車も前項の車と同様、ベースは「BXD30」だ。オリジナルの顔付きは前項に掲載したので参照されたいが、可愛いといえば可愛いが何かの顔に見えすぎる気もする。この車は岡山県の「備北バス」に所属しており1978年廃車後は農家の物置となっていたところを助け出されたもので、2年がかりで修復された。その際オーナーの好みもあって63/64年モデルのグリルが付けられたようだ。
(写真08-5a) 1968 Isuzu TSD30(改) Bus (2011-07 江戸東京たてもの園/小金井市 )
小金井市にある「江戸東京たてもの園」には、移築された有名人の自宅などの他にも蒸気機関車や都電も展示されているが、途中に展示されていたのがこの車だ。いすず「TSD43型」バスとされており、1968年型のバス・ボディに1979年型のトラック・シャシーが組み合わされている。4輪駆動は1958年誕生しており、この車は、その流れをくむ1963年の「TSD40」系一族で、山間部の多い路線で多用されていた。イメージ的にはグリルやヘッドライトカバーの印象から「いすず」よりも、米軍の大型トラックを連想するが、実は1959年には東南アジアの米軍車両30万台を日本車に換える計画があり、「いすず」も参加したが入札で破れ、4輪駆動を民間向けに販売することになった。という経緯があるので「アメリカのトラック風」の顔付きは多分その所為だろう。
(写真08-5b) 1968 Isuzu TSD40 Bus (2018-11 旧車天国/お台場)
現役時代は岩手県で活躍していたが、現在は当時の国鉄カラーに化粧直しされ、正面には国鉄のシンボルだった「機関車の動輪」、ボディサイドにはもう一つのシンボル「特急つばめのスワロー」が付いている。ボディを造った「北村製作所」は新潟にある独立した「ボディメーカー」で、最盛期は「イスズ」車のみを手掛け「新潟交通」「神奈川中央交通」という大手バス会社を顧客に持っていた。
<ヒルマン>
「いすゞ自動車」は過去の歴史の中で市販用の乗用車を造ったのは、最初の一回だけで、しかもその「ウーズレー」は失敗作だった。それ以来乗用車には手を出さず、軍用トラックで実力をつけ「バス」「トラック」の専門メーカーとしての地位を築き上げてきた。ただ1943年には「PA10」という大型乗用車を試作しているが、戦時中の事なので市販を目的としたものではなく、軍の高級将校用として造られたと推定され、何台造られたかは不明。(ただカタログは現存しているようだ。)
(写真08-6) 1943 Isuzu PA10 4dr Sedan
戦後の昭和20年代には「トヨタ」「日産」「いすず」が我国の3大メーカーだった。そこで再び乗用車製造の仲間に参入すべくノウハウ取得のためイギリスの「ヒルマン」と契約を結び、ノックダウン(完成部品の組立)方式を始めたのは1953年(昭28)2月だった。同様の動きは他社でも行われ「日産・オースチン」、「日野・ルノー」「中日本重工(現三菱自動車・ヘンリーJ」の組み合わせだった。「日産・オースチン」と「日野・ルノー」と呼ばれた2社は一般にも「国産」と認識されていたが、「ヒルマン」と「ヘンリーJ」は「外車」だと思っていた人が多かったようだ。
(写真08-6a) 1954 Hillman Minx Ⅶ 4dr Saloon (1959年 静岡市追手町)
このタイプが「いすず」が最初に組み立てた「ヒルマンミンクスⅦ」だ。僕らは「外車」だと思っていた。
写真08-6b) 1964 Hillman Minx Supe Deluxe (2017-10 日本自動車博物館/石川県)
このモデルを最後に「いすゞ・ヒルマン」の製造は終了した。この当時は部品の国産化は勿論、本国とは違う独自のモデルとなっていた。
<ベレル>
「ヒルマン」で技術を磨いた「いすず」は、独自の中型(6人乗り)乗用車「ベレル」を1961年秋の東京モーターショーで発表した。名前の由来は「鈴」を現す「Bell」に「五十」を現すローマ数字「L(el)」を加え、「Bellele」=「五十鈴」としたものだ。(最近流行りのひらめきクイズのようだ)市販されたのは1962年4月からで、エンジンは4気筒ガソリンの1.5ℓ,2.0ℓと、ディーゼル2.0ℓの3種が選べた。
(写真08-7a~e)1963 Isuzu Bellele 2000 Diesel Special (2018-11 いすゞプラザ/藤沢)
この車の第一印象は「クオーターパネルからテールフィンにかけてのラインが、大好きな「ランチャ・フラミニア」にそっくりだなと思ったので参考に写真を添付した。
(参考)1965 Lancia Flaminia 2.8 Pininfarina
(写真08-7f~g)1967 Isuzu Bellele 2000 Special Dx (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
1965年10月マイナーチェンジでヘッドライトが縦の四つ目となった。このタイプが最終モデルだ。
<ベレット>
「いすず」の乗用車の中でもっともよく知られている「ベレット」という名前は「小型ベレル」の意味だ。「ベレル」と同時に開発は進められていたが、発売されたのは約1年半遅れの1963年11月だった。そろそろ生産の終了間近かな「ヒルマン」の後継車を目指したもので、5人乗りサルーンでありながら、スポーティさを持った車で、スポーティではあったが「優美さ」も売りだった「ヒルマン」に対して、「力強さ」が強調され若者にもアピールするものを持っていた。4ドアのセダンをベースに数々のバリエーションが生み出され、特に「1600GTクーペ」が有名だ。
(写真08-8a) 1964Isuzu Bellet (1964-05 第2回日本グランプリ/鈴鹿サーキット)
「1600GT」は4月発売で間に合わず、この車は4ドアの1500と思われる。レースは「スカイライン」の生沢が優勝し、⑥番のこの車は15位だった。
(写真08-8b~e) 1965 Isuzu Bellet 4dr 1500 Dx (2018-11 いすずプラザ/藤沢市)
「いすずプラザ」に展示されている最もスタンダードな「ベレット」を取り上げた。
(写真08-8fgh) 1969 Isuzu Bellet 1600GT Fastback (2017-11 トヨタ・クラシックカーフェスタ)
こちらは「ベレット」の中でも一番かっこいい「1600GT」のファストバック・クーペだ。
<117スポーツ/117クーペ>
「117クーペ」は「いすゞ」車としてだけでなく、70年代を代表するパーソナルカーの傑作として歴史の名を遺す車だ。その最大の理由が「ジウジアーロ」デザインのボディの美しさによる、というのは日本人としてはちょっと残念ではあるが・・
(写真08-9a) 1965 Isuzu Bellet Coupe Prototype (カロッツエリア・ギア写真集より)
「カロッツエリア・ギア」で、この車のプロトタイプが完成したのは1965年の事で、「ギア」の写真集に収められている公式写真の車名はまだ「bellet」となっている。市販車の「狛犬?」のマスコットはオリジナルでは平仮名で「いすゞ」と入っていた。
(写真08-9bc) 1966 Isuzu 117 Sport (1966-11 東京モーターショー/晴海)
市販に先駆けて1966年春のジュネーブショーで「ギア」のスタンドに展示され「コンクール・デレガンス賞」を獲得、その秋の東京モーターショーで我が国にデビューした。車名がまだ「117Sport」となっている点に注目。
(写真08-9d~h) 1969 Isuzu 117 Coupe (1970-03 東京レーシングカー・ショー/晴海)
1966,67年と2年続いて東京モーターショーに展示され発売が待たれていた「117スポーツ」が「117クーペ」と名前を変え1968年12月からいよいよ市販が開始された。
(写真08-9ij) 1973 Isuzu 117 Coupe 1800XT (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
1973年マイナーチェンジで外観に初めて変化が見られる。グリル内の横バーが無くなり、狛犬がむき出しになった。
(写真08-9klm) 1982 Isuzu 117 Coupe (2005-10 東京モーターショー/幕張)
「117」はいすずのフラッグ・シップとして長期間生産が続けられ、た。1977年には2回目のマイナーチェンジが行われた。ヘッドライトは角形4灯となり、オリジナルのイメージから大きく変わってしまった。優れたデザインはオリジナルが最高で、モデルチェンジの度に良さを失っていく例は、他にも多く見られる。
<フローリアン>
「フローリアン」という地味な車があった。街中では殆ど見ることはなく、4ドア6ライトのボディは「ギア」がデザインしたといわれるが、当時の感覚でもどうもあか抜けない。特に日本では変形ライトもまだなじみが薄くしっくりこなかった。しかしこの車は「117」と名付けられ、サルーンのプロトタイプとして「117スポーツ」(117クーペのプロトタイプ)と同時に1966年の東京モーターショーに展示された。両車は姉妹車として「117」の開発ナンバーで、共通のシャシーを持ち同時進行で開発がすすめられた。コンセプトとしては「ベレル」と「ベレット」の中間を狙った、装備に重点を置いたハイオーナーカーが狙いでクーラーも標準装備だった。発売は1967年11月で、「117クーペ」より1年早かった。
(写真08-10) 1966 Isuzu 117 4dr Sedan Prototype (1966-11 東京モーターショー/晴海)
モーターショーに展示されたときの名前は「「117セダン」だったが、これを基に市販車「フローリアン」は誕生した。
(写真08-10ab) 1967 Isuzu Florian 1600 Dx 4dr Sedam (2027-10 日本自動車博物館/小松市)
市販車の初代モデル。この車のヘッドライトは変形レンズが使われているが、これがこの車の印象に大きく影響し、長年ヘッドライトは丸いものと刷り込まれている一般人にとって馴染めない原因となっている。モーターショーに展示されたプロトタイプは4灯式で、こちらの方が違和感なく受け入れられたように感じた。変形レンズは「タウナス」や「BMW」などのヨーロッパでの新しい動きをいち早く採用したのかもしれないが、「カロッツエリア・ギア」の写真集を見た限りでは変形ガラスは1台も見当たらなかったから、この変更は「いすゞ」側のアイデアだろう。1970年には丸形4灯に変更している。
(写真08-10cd) 1977 Isuzu Florian 2000 Diesel ML Super Dx
突然別の車が登場したように違和感一杯のこの車だが、1977年型の「フローリアン」だ。ベンツもどきのグリルと角ばった4灯のヘッドライトだが、よく見ると、それ以外は旧モデルのままだという事に気づく。変われば変わるものだが、イメージとしてどの程度高級感を与えることが出来ただろうか。
――次回は「J項」ジヤガー第1回「SS 時代」の予定です――