1931 Invicta S-102 VandenPlus Tourer
① <インペリアル>
「クライスラー社」は「GM」「フォード」と並んで、アメリカの「ビッグ3」と呼ばれ、1950年代は「プリムス」「ダッジ」「デソート」「クライスラー」の4つのデビジョンで大衆車から高級車まで造っていた。「クライスラー」はその中で高級車を代表する銘柄で、50年代のシリーズには「ウインザー」「サラトガ」「ニューヨーカー」などがあり、最上位が「インペリアル」だった。「インペリアル」(帝国)という重厚感のある名前は、1930年代前半の、流線形になる以前のクラシカルな大型のモデルにはうってつけの名前で、1925年から使用されている。僕が車に興味を持ったのは1940年代後半からで、当時「インペリアル」はクライスラーの「シリーズ名」だったが、1954年を最後に、翌1955年からは、デビジョンとして独立し、「車名」となったから、頭に「クライスラー」は付かない別の車となった。
・今回ご紹介する写真は全てが現役時代の姿で白黒写真だが、背景から時代を感じられると思う。
(写真01-1a)1954 Chrysler Imperial/1956 Imperial (1958年 羽田空港)
新旧「インペリアル」が2台並んで駐車していた。左の1954年型は「クライスラー」時代だからボンネットの先端に「クライスラー」のバッジが付いているが、右の1956年型はどこにも「クライスラー」の文字は見られない。
(写真01-2a) 1955 Imperial 4dr Sedan (1962-04 川崎市多摩区・小田急向ヶ丘遊園付近)
1955年から「インペリアル」として独立したので写真の車はその最初のモデルだ。クライスラーとは完全に別の雰囲気を持った車となった。場所は小田急沿線にあった「向ヶ丘遊園」(現在は駅名のみ残っている)に向かう道で、当日は「防衛博」が開催されていた。
(写真01-3ab) 1956 Imperial 4dr Sedan (1959年 銀座6丁目・並木通り)
1956年型は前年と変わりはなく、前から見えるところでは「ヘッドライト」のトリムがクロームメッキから、ボディと同色に塗られているのが識別点だ。
(写真01-3c) 1956 Imperial 4dr Sedan (1962-02 港区三田二丁目・桜田通り)
この場所は背景で判るように飯田橋から品川駅までの都電③系統「三田二丁目」停留場付近で、桜田通りはここで直角に右に曲がり、300米ほど先で、奥に見える慶応義塾大学の正門前を大きく左に曲がって魚籃坂から五反田駅前を通って「第二京浜」となる。
(写真01-3de) 1956 Imperial 4dr Sedan (1962-02 東京駅・八重洲口)
この年の「インペルアル」はリムジンの他は4ドアセダンのみなので前項、前々項の車と全く変わった所はない。場所は東京オリンピックの2年前の東京駅八重洲口で「大丸」は既に出来ているが、駅前広場の向こう側はまだまだ雑然とした状況だ。
(写真01-4a) 1957 Imperial LeBaron 4dr Sedan (1958-04 東京駅・八重洲口)
写真の撮影場所は前項とほぼ同じ場所だが、車の年式の関係で前後しており、こちらの方が4年早い。背景でお気づきのように「慶祝皇太子」の後には「さまご成婚」と続く。これを撮影した1958年4月10日は、当時の皇太子殿下明仁親王と正田美智子さまのご成婚当日だった。
(写真01-5ab)1958 Imperial Crown 4dr Sedan (1960-04 都電「慶應義塾前」桜田通り)
この場所も都電③系統の走っていた桜田通りで、地元では「三田の電車通り」と呼んでいたが、この辺りは戦災で焼けなかったのか、昭和初期の木造建築が残っており僕らの年代には懐かしい風景だ。ここは都電の停留所「慶應義塾前」で、図書館に向かう「東門」の入り口になるが、丁度50年後の2010年に撮影した写真をご覧いただきたい。その変貌ぶりは驚くばかりだ。
(写真01-6ab) 1959 Imperial LeBaron 4dr Sedan (1959-08 羽田空港)
この車は青ナンバーで「外」の字が○で囲まれているので大使の公用車だ。ポールに掲げられている国旗からウルグアイと判定した。今年出来たての新車だ。成田空港が出来る前は、羽田が関東地区で唯一の国際空港だから、外国から来日する要人は船で来ない限り必す羽田にやって来る。だからお迎えの高級車は、ここで待っていれば撮影できるので羽田には何回か足を運んだ。
(写真01-7ab) 1960 Imperial LeBaron4dr Sedan (1961 横浜市内)
横浜には何回も撮影に行っており、この時は電車で行ったので山下公園周辺を廻った。写真で見ると米軍の施設のようだが土地不案内の僕にはどこか特定ができない。隣の車は1949年型の「フォード」で、殆ど同じ50年型は時々見たが49年型は珍しい。
写真01-8ab) 1962 Imperial LeBaron 4dr Sedan (1962-01 千駄ヶ谷駅前)
「第3回東京オートショウ」は1962年1月、千駄ヶ谷の「東京体育館」で開催された。この当時、まだ発展途上から抜け出したばかりの我が国の自動車産業は、欧米先進国と肩を並べるだけの自信がなかったのか、一緒に展示するのを避けていたようで、国産車は「東京モーターショウ」として、輸入車は「東京オートショウ」として少し遅れて別々に開催していた。この日は新旧外車のデモンストレーション・パレードが行われ、この年の「インペリアル」のニューモデルも参加していた。画面奥はJR中央線「千駄ヶ谷駅」。
(写真01-9ab) 1963 Imperial LeBaron 4dr Sedan (1965-09 大英博覧会/晴海)
1965年(昭和40年)の撮影だが、このころになると路上駐車が禁止され街中では殆ど収穫が得られず、もっぱら「イベント」や「ショウ」などに頼らざるを得なくなっていた。この時は「大英博覧会」の関連で市内のパレードが行われるというので、英国車を狙って出発点の晴海に出かけ、参加車ではないが珍しい「インペリアル」を見つけたと言う訳だ。
② <イノチェンティ/ミニ・デトマソ>(伊)
イタリアの車だが「イノチェンティ」という名前で頭に浮かぶには、殆どの方は「ミニ」のバリエーションだろう。しかしこの会社は時代毎にいろいろなものを造ってきた。発足は1922年「フェルディナント・イノチェンティ」がローマで設立した鋼管製造工場で、1931年には6000人規模の大工場をミラノに建設し事業を移転した。しかしこの工場は第2次大戦で爆撃され壊滅した。
・戦後、手掛けたのが「スクーター」で、戦後2年目の1947年には最初のモデル「ランブレッタ125A」が発売されている。ライバルの「ヴェスパ」もほぼ同時期に発売されたが両車とも、最初から「スクーター」の形をしており、自転車の「補助エンジン」からスタートした日本とは土壌の違いだろうか。世界中に広まった「スクーター」の原型の一つといえる。
・1960年には「イノチェンティ950」というスプライトをベースにした小型スポーツカーが造られた。
・1960年代に入ると、スクーターの需要が落ち込んだため小型自動車の製造にも手を広げ、イギリスのBLMCと提携して「A40」「ADO16」「スプライト/ミゼット」などを手掛けていたが、1960年代中頃から「ミニ」が加わった。72年以降本家の「ミニ」が生産を終了した後もそのままの形で製造が続けられたので、オリジナルに拘る「ミニ」ファンからは頼りにされた。
・1976年イタリアの「デトマソ」に買収された「イノチェンティ」は、「イノチェンティ・ミニ・デトマソ」となった。エンジンは「BLMC」Aシリーズ(1275cc)を搭載していたが、1982年からは「ダイハツ・シャレード」用の3気筒1ℓエンジンが採用された。
(写真02-0a)1950-51 Lambretta 125C (2001-05 イタリアの地方都市サンセポルクルにて)
ミッレ・ミリアの2日目、参加車を追ってサンマリノからアッシジに向かう途中でトスカーナ州の「サンセポルクル」という、旅行案内にも載っていないような小さな集落に立ち寄った。人口16,000人ほどの街だが広場には藁で造ったシケインが置かれ、市民が大勢で迎える中、車は一回りして次へ向かう。イタリア中がお祭りのように「ミッレ・ミリア」を楽しむ風景だ。観客が乗ってきたバイクかと思ったが、みんなそれなりに時代物なので集めて展示しているようだ。「ランブレッタ」は世界を代表するスクーターとして昔からよく知っていたつもりだったが、会社名が「ランブレッタ」だと思っていたから「イノチェンティ」が造っていたとは知らなかった。
(写真02-1a~d)1961 Innocenti 950 Spider (2010-07 フェスティバル・オブ・スピード)
イタリアで「オースチン」の小型車をノックダウンで製造していた「イノチェンティ」が自分の名前が付いた車を造った。それがこの車で、ベースとなったのは製造していた車の一つ「オースチン・ヒーレー・スプライトMk1」通称「カニ目」のシャシーで、「ギア」がデザインしたボディを「カロセリアOSI」が造るという合作だったが、「ギア」のデザインだけあって小型スパイダーとして軽快感もありは非常に良くまとまっている。「スプライト」のマーク1がベースなのでエンジンはBMC・Aタイプ945ccが乗っている。
(写真02-2abc)1965 Innocenti Spider S (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ/アメリカ)
ベースとなる「スプライト」がマークⅡとなりエンジンも1098ccにアップしたので、「イノチェンティ」も1963年からこのエンジンを載せ、モデル名は「スパイダーS」と変わった。ボディ周りはグリルのデザインが変わっただけで全体には変わりはない。
(写真02-3ab)1975 Innocenti Mini Cooper1300 (1979-05 筑波サーキット)
「イノチェンティ」はオースチンの車を組み立てしていたから、その中には「ミニ」も入っていた。1972年以降本家のミニが「クラブマン」を残して姿を消した。「クラブマン」は後ろ半分は従来の「ミニ」と変わらないが、顔つきが平凡なでミニファンからは異端児扱いされ、純粋な「ミニ」とは認めたくない雰囲気だった。だからイタリア製とは言え、というよりも内装も性能も本家を超えた「イノチェンティ」は、オリジナルのスタイルを守り続けるその姿と共に、純粋な「ミニ」ファンにとっては掛け替えのない存在となった。
(写真02-4ab)1976-80 Innocenti Mini DeTomaso (1982-05 筑波サーキット)
1974年従来の「ミニ」を進化させた「イノチェンティ・ミニ90/110」が発表された。シャシーはタイヤが12インチとなったほかはミニと変わらず、直線を主体としたボディのデザインは「ベルトーネ」が行い、使い勝手の良い3ドア・ハッチバックが採用された。この車がデビューして間もなく会社は経営危機に陥り、1976年には同じイタリアのスーパーカー・メーカー「デ・トマソ」に買い取られ「ヌオーヴァ・イノチェンティ」となった。そのあとは大幅に車種整理が行われ、従来の「オリジナル・ミニ」もここで終焉を迎え、残されたのは「ベルトーネ・ボディの「90/110」シリーズだった。そして1976年のトリノ・ショウに登場したのが「イノチェンティ・ミニ・デトマソ」だった。前後の大型バンパーをつないでボディの下半部が黒、上半分は鮮やかな赤と、強いコントラストに加え、ボンネットには大きなエアスクープを持ち、その上スーパーカーをイメージする「デ・トマソ」の名前が付いていればいかにも速そうだ。(実際にも160km/hが可能だった)この車は「ミニ・クーパ」を意識し、それを超えるため造られたものだろう。(余談だが1982年以降はダイハツの3気筒エンジンが採用されている)
③ <インターメカニカ>(伊→米→加)1959~
「インターメカニカ」という名前をご存じの方はそんなに多くは無いだろう。そしてその大部分は「ポルシェ」のレプリカを造っている会社として認識して居るのでは無いだろうか。しかしこの会社には「イタリア時代」「アメリカ時代」「カナダ時代」と大きな3つの節がある。
・「インターメカニカ社」はハンガリー生まれの「フランク・レイズナー」によって1959年イタリアのトリノで誕生した。当初は「ルノー」「シムカ」「プジョー」など主にフランス車の性能を高めるキットを手掛けるチューニング・ショップからスタートしたようだが、それでもこの年「IMP」と名付けられた自前の500ccの小型車を生み出した。ベースとなったのはオーストリアの「シュタイヤー・プフ」だったが、「プフ」は「フィアット500」のライセンス生産車だからルーツは「フィアット500」だ。ところでこの車はなかなかの優れものだったらしく、数々のレースで本家のアバルト・チューンの「フィアット500」を打ち負かしたため、メンツを潰された?フィアットから部品の提供が受けられなくなって21台しか造ることが出来なかった。(写真なし)
・次に登場するのは1963年から65年にかけて造られた一連の「アポロ」シリーズだが、これを造った会社は「IMC社」(International Motor Company)で、略号だけ見れば「インターメカニカ」社かと思ってしまうが、実はアメリカの会社で「ミルト・ブラウン(メカニック))、「ロン・ブレシア(デザイン))を中心に進められた「アポロ計画」だった。これだけなら何の関係のないのだが、ブレシアのデザインしたボディがイタリアの「インターメカニカ」で製造されたので紛らわしく、この車が「インターメカニカ」製とされることもあるようだが、今回はコーチビルダーとして参考に登場させた。
(写真03-1ab)1963 Apollo 3500GT Spider (1995-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
この車はアメリカの「IMC」が造った車だが、ボディは当時はまだイタリアにあった「インターメカニカ」社が造った。その後同社が拠点をアメリカに移した事もあって、この車を「インターメカニカ」製と間違えやすい。
(写真03-2ab) 1963 Apollo 5000GT Coupe (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
「3500GT」と「5000GT」はエンジンが違うだけで、「インターメカニカ」社が造るボディは全く変わらない。
・「インターメカニカ」が本気で造ったオリジナルのスーパーカーが1966~72年の「イタリア」と1971~74年の「インドーラ」だ。イタリア製の車にアメリカの大排気量エンジンを載せた豪華車をアメリカで売るのは、イギリスの「ジェンセン」や、フランスの「ファセルヴェガ」などと同じ発想だ。
(写真03-3a~d) 1966 Intermeccnica Italia Spider (1998-08コンコルソ・イタリアーノ)
「イタリア」が生まれるきっかけとなったのは、1965年英国の「TVR」社が「グリフィス」というスポーツカーの後継モデルのボディを「インターメカニカ」に発注したところから始まる。しかし11台出来たところで「VTR」社が倒産、「グリフィス」になる予定だった車は引き継いだ後継者が「オメガ」と名を変えて生産を続けたが、これも33台しか造られなかった。1966年からはこのボディの生産ラインを利用し、車全体の生産ラインに換えて、「スカリオーネ」がデザインしたボディにフォードV8エンジンを載せた自前のスーパーカー「イタリア」が誕生したのだ。「フェラーリ」にも匹敵する素晴らしい仕上がりで、約500台造られヒット作となった。
(写真03-4ab)1971 Intermeccanica Indra Coupe (1995-08 コンノルソ・イタリアーノ)
1971年には「オペル」と提携してスーパーカーを造る大型プロジェクトがスタートした。それは「オペル・ディプロマート」のコンポーネント(シボレー V8 3.5ℓ エンジン)に「スカリオーネ」がデザインしたボディを載せた「インドーラ」で、「オペル」「GM」の販売網で手広く販売される予定だった。ニューヨーク・ショーでも大きな反響があり好評だったが、その後125台造ったところで「オペル」「GM」からの部品の提供が停止されてしまった。その理由は「オペル」が発売する「ビッターCD」と競合するため、という事だったが、その車は「インドーラ」をそっくりコピーしたような車だった。裁判となったが結果は大企業には勝てなかったようだ。
・1975年アメリカに進出した「インターメカニカ」は、次なるターゲットとして人気は高いが高嶺の花の「ポルシェ356スピードスター」を、VWのコンポーネントにコーチビルダーの経験を生かしたそっくりボディを載せた「スピードスター」を造り上げた。数ある「レプリカ」物の中では最も高い評価が与えられている。しかしこれもライセンスのトラブルで生産が続けられず 3年間で約600台生産(内完成車は100台程度で残りはキッドの形で販売されたらしい)したところで共同出資者に株を売り渡しアメリカから撤退した。
・めげない「フランク・レイズナー」は、1981年からはカナダに本拠を移し、そこで今度は同じポルシェでも「カブリオレD」を手本にした「ロードスター」の生産を始めた。この車は「スピードスター」のレプリカと違ってVWの部品に頼らず、シャシーも独自のものを持っており、本物をも上回るロードホールディングの良さと評価は高い。今や「レプリカ」とは言えない「別の車」となったせいか、どこからも苦情は出ないようで今日まで生産が続いている。現在は「ロードスター」と「キューベルワーゲン」の2種を生産している。
・「インターメカニカ」製の「ポルシェ」はどこかで見たような記憶があるが、思い違いだろうか。僕のコレクションの資料からは発見できなかった。あまりそっくりなので「ポルシェ」の中に入れてしまったかと調べてみたがそこからも見つからなかった。いずれにしても、写真があっても「ポルシェ」と寸分違わないから別に目新しくはないが・・・。
・・と言う訳で写真はありません。
④ <インビクタ> 1925~35 (英)
大正末期から昭和一桁代という僅かな期間存在し、かなり昔に消滅してしまった車で、しかも、日本には2台しか輸入されなかったから、知名度はごく一部のマニア以外には殆どゼロに近い。しかしイギリスを中心に長いボンネットとその貴族的な端正な風貌は「クラシックカー」として根強い支持を受けており、各種イベントにも必ず顔を出している。
(写真04-1ab) 1928 Invivta 4.5 Litre (2001-05 ミッレ・ミリア/ブレシア)
4.5リッター・シリーズは1928年から登場した。メドウスの6気筒エンジンは4467ccで、シャシーのみで1050ポンドと非常に高価で、これはロールス・ロイスの20/25と同じくらいだった。ボートテイルのボディを持つこの車は2シーターで、撮影場所はミッレ・ミリアの車検場「ヴィットリア広場」のすぐ隣にある「ロッジア広場」だ。
(写真04-2a~d) 1931 Invivta S-type VandenPlus Tourer (1995-08 ペブルビーチ)
1930年「Sタイプ」が登場する。シャシーは新しく設計され、従来に比べるとずっと低くなり、ホイールベースも126インチから118インチと縮められ、よりスポーティに進化したから、当時の英国重量級スポーツカーの中ではピカイチだった。アメリカのベブルビーチで開催される格式高いコンクールにも登場している。シャシーのみで販売されたこの車には「ヴァンデンプラス」製のボディが載せられている。
(写真04-3abc) 1931 Invicta S-type Cabriolet (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード)
勿論イギリスのイベントでも「インビクタ」は登場する。プログラムには「ツアラー」となっていたが、ランドウ・ジョイントの付いた幌を持っているから「カブリオレ」だろう。フレシキブルの排気管が出ているがスーパーチャージャー付きではない。この魅力的なボディがどこで造られたのかはプログラムにも記載がなく、ボディの何処からも痕跡は見出せなかった。
(写真04-4abc) 1934 Invicta 4.5Litre S-type Tourer (1970-04 CCCJコンクール・デレガンス/東京プリンスホテル)
戦前日本に輸入された2台のうちの一台がこの車だ。野沢組を通じて京都の愛好家が輸入したもので、戦災を逃れ戦後まで生き延びた。昭和30年頃は大坂の毎日新聞社が所有しており宣伝カーとして大きく改造されていたが、1935年頃日本クラシックカークラブの会員に譲渡され殆ど元の形に修復された。しかし、燃料タンクはもっと小型で後ろに工具箱が付いていたから原形とは違っており、幌は畳んだときはボディのラインと同じ高さに収まる筈だが、収まり切れないのはタンクが大きすぎたのが原因だろう。ヘッドライトの中にシールドビームの一式が入っているのはやむを得ないが、古いジャガーのヘッドライトがすりガラスで見えにくくしてあったのはアイデアだと思った。この車を始めてみた時は、ごついタイヤに違和感を覚えたが、前出のイギリスで見たグリーンの車も同じパターンのタイヤだったので、これもありかと納得した。
⑤ <イソッタ・フラスキーニ> (伊)
・僕が「イソッタ・フラスキーニ」と聞いて連想するのは、「サンセット大通り」というハリウッド映画だ。1950年封切りされたその映画に登場した高級車がイタリア製の「イソッタ・フラスキーニ」だった。映画の内容はビバリーヒルの豪邸に住む無声映画時代の大女優にセシル・B・デミル大監督から声がかかる。彼女は張り切るが実は彼女が持っていた「イソッタ・フラスキーニ」が必要だったという話だ。演じる「グロリア・スワンソン」は自身が無声映画時代の大女優で、実際に「イソッタ・フラスキーニ」を所有しており、半分実話のようなストーリーだ。僕は高校1年の16歳で、自動車に関心を持ち始めた頃だが、当時は自動車に関する出版物は皆無で、クラシックな高級車はみんな「ロールス・ロイス」だと思っていた程度の知識しかもっていなかったから、世界には「ロールス・ロイス」の他にもこんな凄い車があるんだと強く印象に残っている忘れられない車だ。
・「イソッタ・フラスキーニ」の名前からも推定されるように出資者「チェザーレ・イソッタ」とエンジニア「ヴィンチェンツォ・フラスキーニ」という二人のイタリア人によってミラノで創業され、2年後「d'Automobili Isotta,Fraschini & Cia」という名前で会社組織となったイタリアとしては最古の部類に入る老舗だ。当時のイタリアはまだ自動車後進国で、先進国の「ドイツ」「フランス」から完成車を輸入販売するのがスタートだったが、ルノーのボワチュレットを部品で輸入して組み立てる「ノックダウン」から自動車の製造を始め、1902年にはルノーの組み立てから発展した「イソッタ・フラスキーニ」の名が付いた車が初めて誕生した。「チェザーレ・イソッタ」と「ヴィンチェンツォ/アントニオ・フラスキーニ兄弟」3人の夫人がビアンキ・アンデルローニ家の姉妹であるところから3人は義兄弟であり、彼女らの弟「フェリチェ・ビアンキ・アンデルローニ」は1904年にはテストドライバーとして「イソッタ社」に入社し行動を共にしていたが、1926年独立しコーチビルダーとなった。それがミラノの名門「カロセリア・ツーリング」という人脈関係にある。
・1905年には大排気量のレーシングカー「ティーポD」(SOHC 17,203cc,120hp)が造られ、1908年のTypoⅠ(7970cc)へと続く。
・1907年からフランスの「ロレーン・デートリッヒ」社が大株主となっていたが、その関係で1908年フランスで行われる「グランプリ・ド・ボワチュレット」という小型車レースのため「Typo FE」(1200cc) が造られ、若き日の「アルフェーリ・マセラティ」がドライブしている。この車は「FENC10/14CV」として市販され、その1台を買ったのが「ライオネル・マーチン」と「ロバート・バムフォード」で、これにコヴェントリー・シンプレックスの1.4ℓエンジンを積んで「アストン・クリントン・ヒルクライム」で大活躍した「スペシャル」が「アストン・マーチン」の始祖となった車だ。
(写真05-1ab) 1908 Isotta-Fraschini Tipo I Racer (2007-04トヨタ気動車博物館・名古屋)
初期の「イソッタ・フラスキーニ」は大排気量でレースを戦っていた。この車は巨大な4気筒7970ccを搭載している。後年豪華なボディを持つ超高級車となるが、この当時はまだボディがないむき出しのままだ。最も、この当時のレーサーはみな似たり寄ったりだった。この車の同型車が1908年シチリア島で開催された伝統のレ-ス「タルガ・フローリオ」で優勝したのでこのタイプは「ティーポⅠタルガ・フローリオ」とも呼ばれる。
(写真05-2ab) 1913 Isotta-Fraschini Tipo IM Racer (1998-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
「TypoⅠM」はアメリカのデーラーからの要請で1913年「インディ500」への参加目的で造られた。レースは39周でリタイヤし20位にとどまったが、ヨーロッパでも幾つかのレースに出場し、1920年6月には「エンツォ・フェラーリ」もこの車で出走している。
<ティーポ8>
・第1次大戦中は航空機エンジンを製造しており、その生産量を増やすため施設は拡大していたから、戦後はそれに対応するためには方針転換が必要で、「多車種少量生産」から、アメリカ市場をも視野に入れた「大型高級車」一本に絞り、1919年誕生したのが「ティーポ 8」だ。これまでヨーロッパの高級車は大型4気筒が主流で、一部に6気筒はあったが、8気筒はそれを上回る最上級のイメージが強い。初期のエンジンは直列8気筒、OHV 85×130mm 5898cc 90hpで、シャシーのみで販売し、ボディは馬車時代からの歴史と伝統を持つ「カスターニャ」や「チェザーレ・サーラ」などの他、著名なコーチビルダーに委ねられた。「ティーポ8」は「8気筒」を現しており、1924年までに約600台が造られた。
<ティーポ8A>
・1924年ニューモデル「ティーポ8A」が登場した。エンジンはボアを10mm広げ、排気量は7370ccとなり 110~115hpまで強化され、シャシーはノーマルの146インチに加え、135インチのショートが用意され、重厚な「リムジン」「タウンカー」から軽快な「ツアラー」や「フライング・スター・ロードスター」まで、あらゆるタイプのボディが生み出された。「イソッタ・フラスキーニ」を代表するモデルとなり、アメリカの上流社会ではステータ・スシンボルとして高く評価され、ハリウッドでは美男子の代表「ルドルフ・バレンチノ」は2台所有していた。1932年までに約950台が造られた。
(写真05-3ab) 1925 Isotta-Fraschini Tipo8A by Castagna (2003-02 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)
シュルンプ兄弟が金に飽かして世界中から目ぼしい車を買い漁った結果集まった車が「シュルンプ・コレクション」で、事業に失敗し兄弟が国外へ逃れた後、労働組合が管理していたが、現在は国立自動車博物館となっている。ここの展示方法で気に入らないのは、街路灯に点灯するため、これらの高級車が「夜景」の状態で薄暗い中に展示されていることだ。最初に行ったときはストロボで撮ってみたが光線が廻り切れず失敗した。今はでデジタルになったからフィルム時代に比べれば10倍の感度があるのでたいていの場合は写ってしまうが、この写真はフィルム時代のもので原版はかなり露出不足だったものをデジタル化して補正したものだ。このシリーズは正面のグリルに個性があり、高級車にも拘らず遊び心が感じられる。この車は誰が見ても、遠くからでも、間違えなく「8A」と確認できる。この車のオリジナル・オーナーはハリウッドの大スター、美男子の「ルドルフ・バレンチノ」だった。・
(写真05-4a~d) 1926 Isotta-Fraschini Tipo8AS Roadster by Freetwood (1991幕張/1995ペブルビーチ)
この車は1991年3月、日本で一度展示されている。ホワイト・タイヤばかりが目に付くこの車は、「ルドルフ・バレンチノ」の2台目の「イソッタ・フラフキーニ」で、当時の金額で25,000ドルという途方もない資金をつぎ込んで造らせた「ロードスター」だ。このボディを造ったのはアメリカの「フリ-トウッド」で、各所に本人のアイデアが盛り込まれているといわれるので、真っ白なタイヤもその一つだろう。ボンネットの「襲い掛かるコブラ」はバレンチノのトレードマークだった。この車は1926年10月完成したが、残念なことにその2か月前31歳の若さでこの世を去った「バレンチノ」は完成したこの車を見ることは出来なかった。
(写真05-5ab)1928 Isotta-Fraschini Tipo 8AS Landaulet by Castagna (2004-08 ペブルビーチ)
この車はイタリアの名門カロセリア「カスターニャ」製の「ランドウレット」だ。馬車時代から存在するこのタイプは、運転席以外は幌を畳むことが出来るスタイルで、有名人がパレードで顔を見せる時などに使用されるものだ。正面のデザインも超高級車としては意表を突いた大胆さだ。
(写真05-6ab) 1928 Isotta-Fraschini 8A Boattail by LeBaron (1991-03 幕張メッセ)
この車も幕張メッセに展示された車の一台で、長いボートテイルのボディは2シーターだが、リアフェンダーの途中にステップがあるので長いテールの中には「ランブル・シート」が隠されているようだ。正面グリルには「稲妻」が走っているが、このモチーフはお気に入りと見えて様々なバリエーションで登場する。
(写真05-7ab)1930 Isotta-Fraschini Tipo8A SS Cabriolet by Castagna (1995-08 ペブルビーチ)
この車も前項の車と同じく贅沢な2シーターで、レイアウトは殆ど同じだ。後ろのトランクにはランブルシートがあることを示す、3段のステップが見える。トランクがランブルシートで占領されてしまった車には、ゴルフ・バッグ用の収納スペースが付いている場合があり、この車のドアとリアフェンダーの間に見える四角い扉がそれではないかと思われる。この車も正面に「稲妻」が見えるが、前項の車の「稲妻」とは微妙に形が違う。
(写真05-8abc) 1930 Isotta -Fraschini Ti@po8A All Weather Tourer (1995-08 ペブルビーチ)
コンクールは8月で真夏の事だから、幌を下ろしたオープンの状態で展示されているが、この車の形式は「オール・ウエザー・ツアラー」(全天候型)で、内張の付いた厚い幌を上げれば寒冷地では鋼鉄製セダン以上の快適な居住性が確保できる優れものだ。ただ、畳んだ際の幌の嵩の多さは、屋根が長いだけに膨大で、ドライバーは後ろが見えないだろう。この車も立派なヘッドライトを備え、端正な顔立ちの高級車ながら、意味不明の装飾が加えられている。
(写真05-9abc) 1932 Isotta -Fraschini Tipo8A SS Tourer by Castagna (1996-08 ペブルビーチ)
「ティーポ8A」には高性能版「S」(1925~27)と、「SS」(1927~32)が少数存在した。この車はその後期型で、圧縮比を高め特殊なキャブレターで出力は160hp迄上げられていた。高速走行が可能なスポーツ・ツアラーだが、現代の目で見れば空気抵抗はものすごく高そうだ。正面に「稲妻」が3本も走っているのは「稲妻」の様な目にも止まらぬ速さの象徴だろう。年代から言って恐らく最後に近い頃の製造かと思われるが、それでもこんな立派な車を造る能力はあり、「イソッタ・フラスキーニ」が消滅したのは車が悪いのではなく、1930年代初頭の世界的大恐慌の所為でこのような高級車を買える人が居なくなってしまったのが、高級車メーカーを次々倒産させた原因だ。
(写真05-10a~e) 1931 Isotta-Fraschini Tipo8A "Flying Star" by Touring (2004-08 コンコルソ・イタリアーノ)
「フライング・スター」という形式のボディは「セダン」とか「クーペ」のような伝統的な名称ではなく「カロッツエリア・ツーリング」がこのタイプの車に付けた「愛称」で、一般的に言えば「スパイダー」(ロードスター)だ。躍動感のある流れるようなラインを持ったこの車は「ツーリング」としても自信作だったようで、同じ年の「アルファロメオ6C 1750GS」に架装した「フライングスター」が良く知られており、ほかに「フィアット」でも試みている。展示車はご親切にボンネットを開けてエンジンを見せてくれているが、そのため折角の流れるようなスタイルがいまいちイメージできないのは残念だ、と言っても居られないので、やむを得ず「カロッツエリア・ツーリング」の写真集から図面とメーカー写真を転用させていただいた。
<ティーポ8B>
・1930年「ティーポ8B」が発表されたが軽量化と馬力強化を図っただけのもので、ニューモデルではなかった。航空エンジンの増産に追われ、アメリカのデーラーからのニューモデルの要求に応えるだけの余力がなかったようだ。結果的には1932年までに約100台生産して「ティーポ8」シリーズは生産を中止し「イソッタ・フラスキーニ」の歴史は幕を閉じたのだ。そのあとも第2次大戦が終わるまでは「航空機エンジン」と「トラック」の製造は続けられていた。
・戦後の1946年この名門を復活させようとする動きがあり、「8C モンテローザ」と名付けられた2544cc V 8エンジンをリアに搭載した大型車で、完成していればチェコの「タトラ」のような車になったはずだが6台試作されただけだった。(写真なし)
――次回は「いすゞ」「イソ」「イターラ」の予定です――
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