1969 Honda H1300E Air-Cooled Engine
<1300シリーズ(空冷)>
ホンダとしては最初の市販普通自動車となった「1300」は、軽トラック「N360」が発売されてから6年後の1969年ようやく誕生した。空冷エンジン信奉者の「宗一郎」の悲願を叶えた特許・実用新案203件というアイデアの塊のようなこの車のエンジンは、「一体構造二重壁空冷方式」(DDAC)と名付けられた「冷却ファン」を持たない「自然吸気」による空冷エンジンだった。本来ならユーザーの「使い易さ」を目的とするはずの「技術」が、技術者の開発の為の「目的」となってしまった感があり、メーカー・販売店の意気込みとは裏腹に、一部のマニアを除いて一般大衆には理解されなかった。空冷にこだわるならば「ポルシェ」などのように「ファン」付きの強制空冷にすればこんなに複雑ではなく、もっと効率的な効果は得られたと思われるが、真似をするのは「宗一郎」の最も嫌いなことだから仕方がないか・・。シリーズはセダンの「99」「77」と「クーペ9」「クーペ7」の4種があり、1969年5月から1972年まで作られ、72年11月からは水冷エンジンに積み替えた「145」シリーズにバトンタッチした。同時期に発生した「マスキー法」対策のためもあって空冷を断念した経緯もさることながら、営業面で見ればこの車は「独りよがり(自己満足)」の失敗作で、これを教訓にしてホンダの体質が変わり、水冷エンジンの低公害車が生まれることとなった。
(01)<1300 セダン> (1969~72)
(写真01-1a~e) 1969 Honda 1300 99S Sedan (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
この車がデビューした時のキャッチフレーズは「2000ccのパワー」「1500ccの居住性」「1000ccの経済性 」というものだった。この車に関しては、エンジンの特異性が話題となり、外見についてはあまり語られていないが、セダンについてはこれといった特徴はなく、ポンティアック風の分割グリルが目に付く程度だ。
(写真01-2a~d) 1969 Honda 1300 99S Sedan /77Dx Sedan (1969-10 第16回東京モーターショー/晴海)
「1300」が発売されたのは1969年5月からだったが、それに先立って68年秋の第15回東京モーターショーで一般にお披露目が行われた。残念ながらその年僕は撮影して居らず、この写真は翌年のモーターショーで撮影したものだ。
(写真01-3a) 1969 Honda 1300 99S Sedan (1970-03 第3回東京レーシングカー・ショー/晴海)
早速目を付けられて「ラリー仕様」に仕立てられたこの車には「Riki Racing」とペイントがあるが、力道山とは関係なさそうだ。
(02) <1300 クーペ> (1970~72)
(写真02-1ab) 1969 Honda 1300X Coupe Prototype (1969-10 第16回東京モーターショー/晴海)
高性能なセダンをベースにした、スポーティなクーペ・シリーズが約9か月後の1970年2月発売されたが、この写真は市販される以前に公開された「プロトタイプ」で、プレートには「HONDA1300 X」と入っている。
(写真02-2a~d) 1970 Honda 1300 Coupe 9S (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
「1300」がデビューした時のキャッチフレーズ「2000ccのパワー」は誇大広告ではなく、4キャブのこの車は110馬力で最高時速は180キロが可能だった。セダンではやわな足回りのため「速いが曲がらない」と言われた。しかしクーペではサスペンションを固めにセットしたのでコーナリングの操縦性も向上し、パワーにマッチしたボディ、シャシーを持ったスポーツ・クーペが完成した。
(写真02-3a~d) 1970 Honda 1300 Coupe 9S (2015-11 トヨタ・クラシックカーフェスタ/神宮)
2分割のラジエターは「セダン」と同じモチーフだが、ノーズを突き出して4灯にしただけですっかり印象が変わってスポーティになった。なだらかなルーフラインは空気抵抗も少なそうだ。
(写真02-4ab) 1970 Honda 1300 Coupe 9S (2018-11 旧車天国/お台場)
この特殊エンジンはどの様にボンネットに収められているのかをご覧いただきたい。
(写真02-5a~e) 1969 Honda H1300E Air-Cooled Engine (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
コレクションホールに「誇らしげに」(と僕には見える) 展示されているのが「宗一郎」のアイデアの塊ともいえるDDAC「1300E」エンジンだ。横置き直列4気筒 SOHC 74×75.5 1298cc 110hp/7300rpm のスペックを持つ。考えられる限りフィンを切って冷却をはかった跡が見られる。茶色に変色したフィンが排気側で、こちらが前向きで搭載される。
(03)<H145(水冷)> (1973~74)
(写真03-1a~e) 1973 Honda H145 Coupe (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
1972年7月に水冷エンジンの「シビック」が発売されてからも「空冷」の「1300」シリーズは併売されていたが、コスト高と販売不振から遂に打ち切られ、1972年12月からは空冷エンジンに変えてシビックの1169ccを改良した水冷1433ccエンジンに積み替えて「H145」シリーズが誕生した。
(04)<初代・シビック(水冷)> (1972~79)
空冷「1300」シリーズでは最も大切にしなければいけない「一般からの要望」をないがしろにした結果の失敗作で、御大「宗一郎」も低公害を目指すマスキー法をクリアーするためには「水冷」に方向転換せざるを得ない状態だった。今回の「シビック」は派手なデザインや複雑なメカニズムとは一切無縁で、外見は既に好評を博している「ライフ」を発展させた2/3ドアの小型車としては標準的なものだった。1972年7月最初に登場した「シビック」は1169cc 60hp/5500rpmで、これまでのホンダのイメージとは程遠いおとなしい街乗りに適した車だった。ただこの時点では、まだ「CVCC」エンジンは搭載されてはいない。しかし平凡とも思えるこの車は、一般大衆には大変好評で、2か月後の9月には高性能版「GL」、73年5月「オートマチック」とバリエーションを増やし、たちまちベストセラーとなった。そして、1973年12月には、誰もが不可能と思ったあのマスキー法を世界で初めてクリアーした「CVCC」エンジンを搭載した「シビック1500 CVCC」が遂に登場した。このエンジンの開発は「宗一郎」の技術者としての最後の挑戦だった。このプロジェクトを立ち上げる意義を「マスキー法は天の助けだ。この開発競争は世界中のメーカーが同時スタートを切るので、後発メーカーの「ホンダ」がこの開発競争に勝てば世界一のメーカーとなれる」と捉えていた。しかしこの考えに対して、若いスタッフが反論した。「社長、お言葉ではありますがそれは間違っていると思います。低公害エンジンの開発は全人類のために必要な研究で、一企業が世界一になるためのものではなく、地球の空気をきれいにする為に研究するのではないでしょうか」と正論を吐いたのは、14年後にF1総監督として世界を制覇した若き日の桜井淑敏だった。このやり取りは「宗一郎」が勇退を決意する一つの要因であったと、後年述べている。この考えは「CVCC」が完成した後も生かされ、技術は他のメーカーにも公開され、「トヨタ」「フォード」「いすゞ」「クライスラー」に提供された。それにしても、こんなやり取りができる社内の雰囲気は、一般の大会社では考えもつかない素晴らしい会社だ。
・「CVCC」の完成は世界レベルの成果で、空冷で失敗した「宗一郎」の自信と信頼を十分回復すると共に、引退の花道となった。技術者としてけじめを付けたのは1971年2月の「CVCC」完成2か月後の4月「本田技術研究所」の社長を勇退したことだ。
・一般顧客の要望とマッチした「シビック」は2輪の「スーパー・カブ」や軽自動車の「N360」の時と同じように、爆発的にしかも長期にわたって需要が続いた。そのため「ホンダ」では生産体制を「シビック」に集中させるため、「ライフ」「145」の生産を終了し乗用車は「シビック」一本に絞り需要に対応した。
(写真04-0a~d) 1972 Honda CVCC Engine (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
・1966年日本自動車工業会のアメリカ視察に参加したホンダの技術者が、既にアメリカでは排気ガスと大気汚染の関係を問題視していることに着目し、帰国後ただちに「大気汚染対策研究室」(通称「AP研」)を立ち上げていた。
・低公害「CVCC」エンジンは誰もが不可能と思っていた「マスキー法」を1972年世界で最初にクリアーしたエンジンだ。1970年エドムンド・マスキー上院議員が提案した「大気浄化法改正法」は提案者の名を採って通称「マスキー法」と呼ばれており、その内容は一酸化炭素(CO)、炭化水素(HC)と、窒素酸化物(NOX)を1970-71年の1/10以下に減少させるというものだった。そもそもの発端はロスアンゼルスを中心に1940年ころから発生している刺激性の強い大気汚染で、昼間でも見通しが利かないほどに悪化したことで「光化学スモッグ」と名付けられていたが、主な原因は工場や自動車から排出される有害物質によるものなので、これを解消するためのものだ。
・自動車から出る排気ガスを浄化する原理は、きわめて大雑把に分類すれば、「完全燃焼させる」か「排気ガスに含まれる不純物を科学的に化合させて無害物質に変える」のふたつになる。「CVCC」は前者であり、「触媒」と呼ばれるのが後者だ。
・ガソリンエンジンは通常運転時の混合気の濃度は完全燃焼するよりはやや濃い目で供給されている。それは薄すぎると点火時に失火するからだ。「CVCC」では完全燃焼する程度の薄い混合気を供給し、それに上手に点火する方法として「副燃焼室」というアイデアを生み出した。これは主燃焼室と続いている狭い副燃焼室に濃いめの混合気を送り、それに点火して着火したら、その火炎で主燃焼室の薄い混合気を燃焼させるというのがその仕組みだ。「CVCCは「Compound Vortex Controlle Combustion」(複合過流調整燃焼方式)というこの装置の略称だ。
(写真04-1a~d) 1973 Honda Civic CVCC 1500 Dx (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
「シビック」は1972年7月から発売されたが、当初は1169ccでまだ「CVCC」は搭載されていなかった。そのせいかコレクションホールの展示車は73年型の最初に「CVCC」が搭載されたこの車が展示されていた。
(写真04-2a~d) 1974 Honda Civic RS (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
1975年以前は「CVCC」は「1500」のみだったから1169ccのこの車のエンジンは「CVCC」ではない。スポーティさが売りのこの車だが「RS」は「レーシング・スポーツ」ではなく穏やかな「ロード・セーリング」の略だ。この車の76馬力は75年以降の「CVCC」となった1238ccnの63馬力より強力なのはガスが濃いお陰か。
(写真04-3abc) 1977 Honda Civic CVCC 1200 (2008-01 シュパイヤー化学技術館/ドイツ)
ドイツの博物館で見つけた「シビック」は独自のブースが与えられて特別展示されていた。外国で日本の車が大切に展示されているのは嬉しい。左ハンドルなのでドイツに向けた輸出モデルだろう。
(05)<2代目・シビック> (1979~83)
(写真05-1a~d) 1979 Honda Civic CX 3dr Hatchback (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
2代目シビックの愛称は「スーパー・シビック」と名付けられた。同時期に発売されていた初代「プレリュード」の影響を感じられる。第2代目は発売当初は3ドアのハッチバックのみだったが、5ドア・ハッチバック、5ドア・ステーションワゴン、4ドアセダンとバリエーションが追加されている。写真の車はバンパーにオーバーライダーが付いた最上級モデルの「CX」だ。
(写真05-2a) 1983 Honda Civic 3dr 1300 GL-E (1999-08 カーメル市内/カルフィルニア)
この写真はアメリカ市民の日常の足として街角に駐車している姿だ。この場所はカリフォルニア州のカーメルで、昔クリント・イーストウッドが市長だったことでも有名な落ち着いた街だ。道が緩やかな下り坂なので車はやや前のめりに写っている。
(06) <3代目・シビック> (1983-87)
(写真06-1a~d) 1983 Honda Civic 3dr 25i (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
3代目には「ワンダー・シビック」のニックネームが付けられた。エンジンは「1.3 ℓ」「1.5ℓ」でスタートし、84年10月から「1.6 ℓ」が追加された。ボディは「3ドア・ハッチバック」「4ドア・セダン」「5ドア・ハッチバック シャトル」と全く異なるタイプの3種が用意された。モデルチェンジで顔つきが大きく変わり、一つ次の世代に入ったことを感じさせる。モデル名は「25i」で他に「23」「35」「55」などがあるが排気量とは関係なく、その根拠は確認できなかった。
(写真)06-2ab) 1987 Honda Civic Si (2009-11ホンダ・コレクションホール)
1986年10月には1.6 ℓ シリーズの中でも最強なDOHCエンジンを持つ「3ドアSi」の特別限定車「Si・F1スペシャル・エディション」が発売されレースで活躍した。「シビック」という名前からも判るように当初は市民の足として街乗りを目的としたおとなしい車の筈だったが、「ホンダ」の血が騒ぐのか、やっぱり速い車を造らずにはいられなかったようだ。
写真の車は87年のツーリングカーレースで6戦全勝したとあり、見た目以上に物凄い車だが、そのエンジンのチューンアップは225ps÷1.595ℓ でリッター当たりなんと141馬力でF1 級だ。
(07)<初代・アコード> (1976~81)
大好評の「シビック」一本に絞って生産体制を整えてきた「ホンダ」に、1976年5月には1年半ぶりにその上級モデル「アコード」が登場した。初代「アコード」は「シビック」の流れを汲んだ3ドア・ハッチバックだったが、1977年10月にはノッチバックの4ドア・サルーンを追加し、一時期はホンダの乗用車のトップの地位にあった。以来、2代目から始まって現在は10代目となるホンダを支える長期ヒットモデルである。
(写真07-1abc) 1976 Honda Accord 3de HB (2009-10 東京モーターショー/幕張メッセ)
初代「アコード」が発売された当時の「シビック」は「1200」と「1500」だったから、「1600」のアコードは兄貴分であり、「ホンダ」としては中型車ながら最上位の車だった。しかし3ドア・ハッチバックで「シビック」とあまり見た目が変わらないから「フラッグ・シップ」と名乗るだけの貫禄はなかった。しかし77年には「アコード」にも当時の高級乗用車の常識だった「4ドアセダン」が誕生し、78年からは排気量も1800cc まで上がって何とか格好が付くようになった。
(08) <初代・プレリュード> (1978∼82)
(写真08-1a~d) 1982 Honda Prelude XR (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
ホンダには「ベルノ」「クリオ」「プリモ」と3つの販売店系列があり、それぞれが、特定の車を販売していた。(名前だけ変えた同じ車を別系列で売るという販売戦略もあった)「ベルノ」は「プレリュード」の誕生と同時に発足し、スポーティーカーやSUVが主な扱い車種だった。「初代・プレリュード」は1978年に姿を消した「145」の後継者車という位置づけで登場した。端正な2ドアセダンといったイメージで、特にスポーティな印象は外見からは感じられない。
(09) <2代目・プレリュード> (1982~87)
(写真09-1a~e) 1985 Honda Prelude 2.0Si (1985~89 千葉市、長野県、福島県)
購入してすぐ「慣らし運転」で長野県の諏訪湖まで行った。(51歳の僕)
リトラクタブルのライトを挙げてみた。
東北旅行の時のスナップ
我が家の車だ。息子のバイク仲間がレーサーを目指して「本田技研」に入社し、近くの「ベルノ」店に配属された。親戚、知人が成績を上げてやろうと援助する狙いに嵌って購入したのがこの車だ。家内を助手席に乗せて初めてドライブした際大雨に出会った。水たまりにかなりの速度で突っ込んだら、自分の跳ね上げた水の弾幕をもろに浴びてしまい、低いノーズの弱点を見てしまった。以来家内はこの車をあまり好まない。1本ワイパーも見た目は格好いいが、大雨の時は役不足で翌年からは普通の2本に変わった。
(10) <初代・シティ> (1981~86)
1200クラスで始まった「シビック」が 徐々にグレードアップし、中型に近い1500クラスになってしまったホンダでは、すでに軽自動車からは撤退していたから小型車に該当するモデルが無くなってしまった。そこで新たに登場したのが1.2リッターの「シティ」だ。今回のコンセプトは「トール・ボーイ」と呼ばれ、常識を超える背の高さで居住空間を確保しているのが特徴だ。
(写真10-1a~d) 1981 Honda City R (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
初代の「シティ」は86年2代目にバトンタッチするまで発売当初の「3ドア・ハッチバック」で「1.2 ℓ」は変更しなかった。この後いろいろなバリエーションも登場するが、コレクションホールの展示車は発売当初の標準モデルだ。行動力を広げるためコンビでセットされた、折り畳み式のバイク「モトコンポ」が積み込まれているのが後ろの窓越しに見える。
(写真10-2ab) 1983 Honda City R Highroof-Sunfoof (2018-11 旧車天国/お台場)
発売1年後の1982年11月になると、背の高い「トール・ボーイ」をさらにノッポにした「ハイルーフ」が追加された。窓から上がかなり膨らんでいるのが判る。
(12) <シティ ターボⅡ>
(写真12-1a~d) 1983 Honda City TurboⅡ (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
手っ取り早く馬力を増やす方法として我も我もと「ターボ」を付けるのがはやった時期があった。「シティ」は1982年9月に「ターボ」を発売しており、写真の左右非対称のグリルを持つこの車は、その進化型「ターボⅡ」だ。コレクションホールの車が標準仕様の63馬力に対して、この車は1.75倍の110馬力もあり、ターボの威力恐るべしだ。
(13) <シティ カブリオレ>
(写真13-1a) 1984 Honda City Cabriolet (1991-09 南青山3丁目付近)
「ホンダ」としては一番小さい排気量の「シティ」だが、いくつかのバリエーションがあり、その中には洒落た「カブリオレ」もあった。場所は表参道から青山通りを渡ってすぐの洒落たブティックなどが並ぶ南青山3丁目付近だったと記憶している。このタイプはボディの側面に「CABRIOLET」のロゴが書かれているのだがこの車にはそれがない。だが誰が見ても「ガブリオレ」だということはすぐ判ります。
(写真13-2a~e) 1985 Honda City Cabriolet (2015 トヨタ・クラシックカーフェスタ/神宮絵画館)
こちらは標準通りボディにロゴが入っているタイプだ。小さいながら可愛いカブリオレで、フランス車やドイツ車の雰囲気だ。説明によると改造のデザインは「ピニンファリナ」が手掛けたとあるが、この幌に特別「世界的デザイナー」の手を煩わす必要があったのだろうか。「普通ジャン!」と言ったら怒られるかな。
(14) < 初代・バラードスポーツCR-X > (1983~87)
一般的には「CR-X」で通っているが、初代が発売されたときは「バラードスポーツCR-X」だった。ベースとなったのが「シビック」の姉妹車「バラード」で、この車はその一族という位置付けだったからだ。
(写真14-1a~d) 1983 Honda Ballade Sports CR-X 1.5i (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
名前からも推定されるように、この車の性格付けは「バラ-ド」という車のバリエーションの一つ「スポーツ・クーペ」だ。小型、軽量のボディに110馬力のエンジンが積まれているからレースでも大活躍したが、「ホンダ」でスポーツカーといえば「S800」や「NSX」などのことで、日常にも使える高性能車は「スポーティカー」だ。前期型のヘッドライトは半分隠れたセミ・リトラクタブルとなっている。
(写真14-2ab) 1985 Honda Ballade Sports CR-X 1.3L 1990-10 千葉市・市立高校付近)
我が家の近くで撮影したこの車は初代後期型で、ヘッドライトが固定式に変わっている。
後端をスパッと切り落とした「コーダ・トロンカ」と呼ばれるこのボディは、空力的には優れた形と言われるが、後方視界については最悪だ。
(15) <2代目・CR-X > (1987~92)
1987年 9月にはモデルチェンジが行われ第2世代となった。前年「バラード」が廃止されたので、車名はシンプルに「CR-X」だけとなった。外見上の大きな変化は後方視界を確保するためにリアエンドの垂直部分に窓が追加されたことだ。
(写真15-1ab) 1987 Honda CR-X 1.6 Si (1990-10 千葉市・市立高校付近)
2代目の一番大きな変更は、リア・ウインドウの傾斜がより水平に近くなり、ますます後方視界が悪くなったので、後端の上半分を透明なガラスにして後方視界を確保した。このガラスは内側からは透明だが、外からは黒く不透明なので一見外販パネルに見え違和感はない。
(写真15-2abc 1987-92 Honda CR-X(輸出仕様) (2010-07 グッドウッド駐車場/イギリス)
この車はイギリス仕様の輸出車で、右ハンドルだが、ライト類はすべて独立した「丸形」だ。オーナはかなりの日本贔屓のようで、それを示すステッカーが貼られていた。
(16) <3代目 CR-X デル ソル> (1992~99)
1992年3月に登場した3代目は「スポーツ・シビック」がベースとなっており、見た目もガラッと変わって新しい世代を感じる。「デルソル」のニックネームが与えられ、太陽の光を浴びるため、電動で屋根をトランクに収納できる仕掛けが付いている。バンパーに丸く穴をあけて埋め込まれた補助ランプがあるのが「前期型」で、1995年10月以降の「後期型」にはこれがない。
(写真16-1a~d)1992 Honda CR-X Del Sol 1.6 SiR 2008-01 ミュンヘン市内/ドイツ)
この時のドイツ旅行ではミュンヘンに3日滞在した。朝ホテル周りを散策して見つけたのがこの車だ。この車について僕は予備知識がなかったので「デルソル」は輸出用の車かと思ったが、帰ってから 調べたら国内でも発売されていることが分かった。日本の車も種類が増え、もはや覚えきれない時代に入っていた。外国の街角で日本車を見つけたときはなぜか無性にうれしい。場所はホテルの向え側で奥の正面が「ミュンヘン駅」だ。
(17~19)) <初代・NSX > (1990~2005)
「ホンダNSX」という車は世界に対して日本を代表する唯一の「スーパーカー」だろう。初代は1990年デビューして以来、2006年でいったん姿を消すまで16年の長きにわたって大きなモデルチェンジもなく現役であり続けたのは、最初から優れたポテンシャルを持っていたからだろう。世界のスーパーカーと言われる車は殆どが性能優先で、居住性や快適さ、視界や運転し易さなどは優先順位が低かった。(カウンタックがバックする時は、ドアを跳ね上げ、上半身を半分外に乗り出して後ろを確認していた。)それに比べると「NSX」の場合は普通の乗用車に変わらない快適な居住性と、特別高度な運転技術を持たなくても運転が可能だった。(もちろん高性能で最高速度が300キロも出るのだから極限迄攻めるならば、それなりの覚悟は必要だが)
< Ⅰ型 > (1990~97)
(写真17-1a~d)1990 Honda NSX Coupe (1991-05 地下鉄東西線・西葛西駅付近/環状七号線)
僕が初めて見付けた「NSX」が写真のこの車だ。当時すでに50台半ばを過ぎていた僕は、西葛西の病院に再就職しておりその通勤の途中で環状7号線に停まっていたこの車の撮影に成功した。日本の「スーパーカー」に逢えて率直に嬉しかった。地を這うような地面にへばりつくような低い姿勢、異様に長く感じたテールが印象的だった。
(写真17-2ab) 1990 Honda Acura NSX Coupe (1991-09 南青山付近)
1968年創業で「BUBU」の愛称で知られる「光岡自動車」は、国産車をクラシカルなグリルを持った車へ改造するメーカーとして知られるが、独自の自動車も製造しており、日本で10番目の「自動車メーカー」としても認証されている。一方1980年代から「輸入販売業者」としてアメリカから平行輸入も行っており、写真の車もその1台と思われる。中身は「ホンダNSX」だが、左ハンドルで、ボンネットのエンブレムは「A」をかたどった「アキュラ」ブランドだから、明らかにアメリカから再輸入したものだ。日本で売っているのに態々(わざわざ)アメリカから取り寄せることも無いだろうと凡人の僕などは思うが、世の中には使い勝手の悪い左ハンドルに乗ってまでも外車気分を味わいたい人がいるのだろう。
(写真17-3ab) 1990 Honda Acura NSX Coupe (1998-08 ラグナセカ/カリフオルニア)
こちらはアメリカで見つけた正真正銘アメリカ仕様の「アキュラ・ブランド」の「NSX」だ。日本国内でもめったに見られないこの車は、毎年8月に出かけていたカリフォルニアの3大イベントの一つ「ラグナセカ・レースウエイ」で開かれる「モンタレー・ヒストリック・オートモビル・レース」の駐車場にいた。アメリカのこの車のオーナーから見れば輸入外車だから、イタリアやドイツなどのスーパーカーなどを所有したのと同じような良い気分に違いない。
(写真17-4ab 1990 Honda NSX Coupe (2008-01シュパイヤー科学技術館/ドイツ)
次も海外で見つけた「NSX」だが、こちらはドイツの博物館のもので、右ハンドルなので「ヨーロッパ仕様」ではなく、展示用に日本から購入したものだろう。柵で囲った展示スペースではなく通路に停まっていたが、ホンダのブースの前なので此処が定位置なのかもしれない。海外で展示されるときは「真っ赤」だとイタリア車と勘違いされるので日本らしい色ならよかったのにとふと思った。後ろ姿で、ナンバープレートの右側に書かれている黄色のラインはドイツを代表する「ニュルブルクリンク」のサーキットコースだ。
(写真17-5a~e)1990 Honda NSX Coupe (2017-08 オ-トモビル・カウンシル/幕張メッセ)
(参考) 1985~89 Ferrari 328
このイベントには年代別の各モデルが展示されていた。初代の最も信頼できるオリジナル・モデルがこの車だ。この車を造る際、ライバルとして参考のため輸入したのが「フェラーリ328」だったそうなので写真を添付した。(参考にしたのは構造ではなく能力テストで目標設定の参考だったと思われる。)
(写真17-6a~d)1994 Honda NSX-TypeR (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
コレクションホールでは「標準タイプ」の「NSX」は展示されておらず代表して「タイプR」が1台置かれていた。「タイプR」は1992年11月から約3年間生産されたスペシャルバージョンの限定モデルで、名前についた「R」は、この場合は「レーシング」を示す。「標準タイプ」で居住性に配慮した快適装備や遮音材などはすべて撤去し、一部アルミ化を図った結果、約120㎏軽量化された。エンジンそのものは「C30A」型で変わらないが、それなりに精度を高める整備がなされ、サスペンションのセッティングもレース仕様に強化されている。外見からは特別変わった所は見当たらない。
< Ⅱ型 > (1997~2001)
(写真18-1abc) 2000 Honda NSX (GT仕様) (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
1997年2月にマイナーチェンジが行われ、「Ⅱ型」となった。主な変更点はエンジン関係で外見上では大きな変化はない。写真の車はレーシング仕様でヘッドライトが見えているが、市販車ではリトラクタブルで収納されている。
< Ⅲ型 > (2001~2005)
(写真19-1ab) 2002 Honda NSX-R (2017-08 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)
2001年12月、外見に変化を伴う「ビッグ・マイナーチェンジ」が行われ「Ⅲ型」となった。ヘッドライトが「重量」と「空気抵抗」を軽減するためリトラクタブルから固定式に変わったほか、ボンネット、リア・デフューザー、大型リア・スポイラーなども改良された。6か月後の2002年5月には「Ⅰ型」と同じように、贅沢品をはぎ取った「Ⅲ型」のレーシングバージョン「NSX-R」が誕生した。
(写真19-2abc)2005(06年GT仕様) Honda NSX (2007-01 東京オートサロン/幕張メッセ)
(写真19-3abc)2005(06年GT仕様)Honda NSX (2007-01東京オートサロン/幕張メッセ)
(写真19-4abc)2005(09年GT仕様)Honda NSX (2009-11 東京モーターショー/ビッグサイト)
レーシング仕様のこの3台は、何れも2001年から05年までに作られたⅢ型をベースにしたもので、年式はレース参加の年(改造した年)を基準にしている。
・2005年7月をもって初代「NSX」の生産は終了した。16年間でトータル18,734台が生産され、その内7,415台(約40%)が国内で販売された。 .
・生産ラインが停止した以後も、経年劣化した車を新車当時の状態に戻す「NSX リフラッシュプラン」が生きており、メーカー自身が最後まで面倒見る姿勢を続けている。
(20) <2代目・NSX > (2016~ )
・新時代のスポーツカーとして2016年登場したのが「ホンダ」を代表する2代目「NSX」だ。(発売は17年2月から)
・ミッドシップは先代と同じだが搭載方法は横置きから縦置きに変わった。V6で3492ccのエンジンにハイブリットシステムを組み合わせエンジンとモーターを合わせると581PSと恐ろしい程の力を持っており、欧米仕様では最高時速308キロといわれる。
(写真20-1abc) 2013 Honda NSX Concept (2013-10 東京モーターショー/ビッグサイト)
発売に先駆けて、3年前の2013年東京モーターショーで「プロトタイプ」が一般公開された時の写真がこれだ。見た目には市販された車と殆ど変わりなく、「プロトタイプ」の完成度の高さが判る。
(写真20-2a~e)2016 Honda NSX Coupe (2017-08 オートモビル・カウンシル/幕張メッセ)
スペシャル・バージョン(どこが違うでしょうか)
現代風に変身した2代目「NSX」は高性能でありながら運転し易いのは「初代」からの伝統といえる。赤い車は著名な写真家による「スペシャルバージョン」とあったが、僕には色が赤いだけで他の違いが判らなかった。年の所為(せい)で「感性」が鈍くなったのかなあ。
(写真20-3a~d)2017 Honda NSX-GT (2017-01 東京オートサロン/幕張メッセ)
最後は「NSX」の中でも最もホットな「GT」モデルで締め括りたい。黒を基調としたカーボンファイバーのボディは見るからに「獰猛」で、闘う車そのものだ。
―― 次回はフォーミュラ・カーの予定です ――