新型コロナウィルス問題が発生以来、新型車の発表会や試乗会などはほとんど開かれず、世界市場での新車販売台数は大幅に落ち込み、回復の兆しも見えない中で、車評オンラインのテーマ選択を三樹書房編集部と話し合った結果、しばらくの間「私の自動車史」といった少し異なった視点のものにしてはどうかということになり、今回から何回かはこのテーマでご報告をさせていただくことにした。「その1」では私の人生がクルマ一筋となった最大の要因といっても過言ではない父小早川元治と、父の心を虜にしたMGK3マグネットをご紹介したい。以下の原稿は2017年に三樹書房から発刊されたトヨタ博物館元館長 杉浦孝彦氏の執筆による『日本自動車レース史(多摩川スピードウェイを中心として)』用に私が書いたものの中からかなり引用させていただいたものだ。
後方がインディアンに乗る父
昭和12年、宮田バイクで東京~大阪ノンストップトリップを実施
東京に到着したMGK3マグネットと父
多摩川スピードウェイでハンドルを握る父
三樹書房発刊の『日本自動車レース史(多摩川スピードウェイを中心として)』より
当時は経済的にもかなり余裕があったのだろう、高校時代からインディアンモーターサイクルにまたがり、1933年に大学卒業後に日産を勤務先に選んだ父小早川元治は根っからのクルマ好きだった。多摩川スピードウェイの開設と、そこで1932年から行われたレースにも触発され、イギリスでMGK3マグネットの試作車(以下MGK3)の入手に際し、野沢組航空部の力をかりた。1938 年4月に多摩川スピードウェイで行われた第4回全日本自動車競走大会でMGK3のハンドルを握るが、メカニカルトラブルのため予選2位で終わり決勝には出場できなかった。全日本自動車競走大会は戦争のためこの第4回が最後となってしまう。
『Safety Fast』1960年8月号の記事
以下『 』内はブリティッシュモーターコーポレーション(BMC)の機関誌、『Safety Fast』1960年8月号の記事だ。
『我々は2台のK3プロトタイプの行方を捜した結果、試作第1号、シャシーナンバーK.3751が、1937年以来日本のエンスージアストM.小早川氏の手元にあることが判明した。東京からの小早川氏の手紙には「このクルマに関するほとんどの記録は空襲で焼けてしまったが、私がMGK3の輸入を模索した折り、当時の役所には許してもらえなかったため、大蔵大臣と直接面談し、MGK3は単なるクルマではなくクルマの最高傑作と言えるもので、アルファロメオ、メルセデスベンツなど世界の著名なレースカーの中から選択したものだと伝えたところ、その場で輸入の許可を与えてくれた。1937年のはじめ、木箱に入れられたこのクルマが神戸の港に着いた時の喜びは生涯忘れることの出来ないものでした」とある。』
空襲で焼けたMGK3マグネット
同
再生されたMGK3マグネット
父が開発した二輪車用スパーチャージャー
トヨペットレーサーに試乗する父
トヨペットレーサー改良型
戦争が始まるとこのMGK3のエンジンは航空研究所に持ち込まれ、その技術力が強い関心をもって調べられた。 父は戦時中航空研究所におけるエンジン研究にも従事したようだ。エンジンは航空研究所にあったため損傷しなかったが、車体は空襲により自宅が全焼して焼損、焼けた車庫の中でしばらくそのまま放置された。我々一家は疎開先の栃木県那須から帰宅できず、1951年ごろようやく疎開先から帰京、父の想いもありMGK3はレストアされ、その後しばらくオートレースに出場、数々の勝利を手中に収め、戦後の困窮の中で生活をささえる糧となったようだが父の喜びは長くは続かなかった。
父の『Safety Fast』への手紙に戻ると、『それはオクタン価の低いガソリンの使用が義務付けられたため、強力な過給性能を持つ MGK3がゆえに、多くのトラブルに遭遇したからです。私はテストのために二輪車を使い始めました。150㏄のスーパーチャージエンジンで、J.A.P. Speedway(当時最も活躍していたマシン)に挑戦しようとしたのです。しかし良い結果とはなりませんでした。なぜなら当時安全委員会の委員長として 安全第一を説いていた私自身が(1955年)その二輪の試運転中に大けがをしてしまったからです。』
大けがをするまでMGK3でオートレー スへの参戦を続けた父は、『オートレースは国産車宣伝のために企てられたもので、外国車が国産車を負かすようなレース はその目論み・趣旨に反すという考え方に反論し、国際ルールによるプロレースを主張してきた。ただ一人、豊田喜一郎氏(トヨタ自動車の創業者 )が私の説を支持され、その上私に外国レーサーを十分研究して国産レーサーを作るべくいろいろお話下さったが、突然の氏の逝去はまことに惜しんでも余りある』と自動車技術誌に寄稿している。
父は初期のトヨペットレーサーの開発には関わっていないが、1952年1月に開かれたトヨタ販売協会委員会で、『顧問の小早川元治氏の意見により、それまでのトヨペットレーサー2台を十分改良して出場することになった』ようで(三樹書房発刊の松本秀夫氏執筆の『トヨタモータースポーツ前史』)、同年3月に逝去された豊田喜一郎氏の想いもこめて、クマベ研究所に委託された改良型トヨペットレーサーの開発に携わったようだ。クマベ研究所の隈部一雄氏は、トヨタ自動車創業者である豊田喜一郎社長時代に副社長を務め、その後豊田喜一郎ともども1950年6月の労働争議の終結とともに退任、クマベ研究所を立ち上げられた方だ。
ミニカー
英文記事
同
ここでMGK3マグネットに関するお話を少ししたい。KタイプはFタイプ の後継車として1932年にロンドンショーで発表され、それまでより小型のエンジンを搭載していたのでマグネットという名称も 加えられたという。KタイプにはK1(1932年から1934年まで生 産された4人乗りのオープンツアラーと4ドアのサルーンで、 181台が生産された)、K2(1933年から1934年まで生産された2シーターオープンツアラーで生産台数はわずか20台)と、 K3(1933年から1934年までに33台が生産された2シータース ポーツ・レーサー)があり、K3マグネットは1086㏄のスーパーチャージャー付き6気筒エンジンを搭載、最高出力は120馬力、最高速度は200km/以上といわれた。
当時欧州におけるモータースポーツをけん引していたのはアルファロメオ、マセラティ、ブガッティなどイタリアやフランスのクルマで、イギリス車が国際レースであまり活躍できない中、 唯一Berkshireの小さな自動車会社MGがそれなりの結果を残していた。MGのチーフエンジニア、Cecil Kimberが国際レースの中の1100㏄クラスでの戦いに着目、わずか6か月のリードタイムで開発したのが2台のK3プロトタイプだという。
MGK3プロトタイプ1号車そのものが父の手にわたったクルマで、生産型のモデルよりホイールベースが4インチほど短く、車体の後部がボートテール状となっている。『Safety Fast』1960年8月号の写真は1933年のモンテカルロ・ラリーの出場した時のもので、日本到着時にもついていたJB1046のライセンスプレートの上に Monte Carlo Rallyのナンバーがついていたことが分かる。雪の中での戦 いとなった同ラリーではドライバーはJames Wright、フィニッ シュした69台中64位で終わったが、ラリーウィークの最後に行 われたMont des Mulesのヒルクライムでは2位のフレーザー ナッシュに12秒もの差をつけてのクラスレコードで優勝している。
MGK3はその後もアルスターTT、ブルックランズ500マイル、コッパ・アセルボをはじめいくつかのレースで勝利をおさめるが、1934年にはルマン24時間レースに2台が挑戦、もう一歩で総合優勝を手にするとこまでゆくが、2位で走行していたK3が前を走っていたクルマのスピンによる事故に巻き込まれてリタイヤ、他の一台が総合4位& クラス優勝で終わった。 「世界の 自動車18 MG」(二玄社)によると、MGK3は単に戦前のMGの最高傑作であるだけでなく、軽量スポーツ・レーシングカーの古典として今日でも高く評価されているとのこと。
小学6年生だった私が父にこのMGK3の助手席に乗せてもらい都心のサービス工場に着くなり、助手席から慌てて降りた私は後輪で右足首をひかれて骨折、入院したのは今でも忘れられない。自ら試作したスーパーチャージャーつき二輪の試運転中に大怪我をした父は、それ以来ハンドルを握れなくなり、MGK3は我が家の車庫に眠り続け急速に劣化することになるが、中学時代の私は毎日のようにその運転席に座ってハンドルを握るとともに、父とのクルマ談義は絶えなかった。 MGK3との出会いと父とのクルマに関する対話が私のクルマへの夢を育んでくれた。