1972 Honda Life Stepvan
1965年のモーターショーで「N800」を発表し、すでに完成した小型乗用車を持っていた「ホンダ」が、あえて「N360」という「軽自動車」を選択したのは何故だろう。ここで「国民車構想」から始まる軽自動車への流れを見ると、この構想が知られたのは1955年5月の事だった。当時「高嶺の花」だった自動車を一般庶民でも持てるようにしようとするための通産省の発案で、その「国民車育成要綱案」の内容は①最高速度時速100キロ、②定員4名、③排気量350~500cc、④燃費30キロ/ℓ、⑤総重量400kg以下、⑥価格25万円以下、という厳しいもので、この条件を満たした候補の中から1つを選んで集中生産し、税金や金融に優遇措置を与える、というものだった。これに対して日本自動車工業会の意見は、価格的に無理、1社集中に対する抵抗、需要層の見通し不明確など否定的で、結論は「将来の研究課題」という回答だった。結局この提案に食いついたのは乗用車進出を図っていた「小松製作所」だけだったが実現はしなかった。しかしこの要目は各社の基準の目安となり、トヨタでは試作車「1A」を経て「パブリカ」が誕生した。
・一番真面目に取り組んだのは「三菱」で360ccも比較検討した上で500ccを選び1960年完成したのが「国民車三菱500」だった。最高速度90キロ、総重量490キロ、価格39万円と構想の目標には達していないが後にも先にも「国民車」を名乗ったのはこの車だけだった。参考に添付した発表時の写真からもその本気度が伺える。しかし3年間頑張ったが1万3千台少々しか売れず、中途半端な排気量では軽自動車と比較して有利な点が少なかったことも否めない。
(写真00-1a) 1960 Mitsubishi 500 (1960-04 新車発表会/静岡市内)
・「ホンダ」では「国民車構想」が出されても宗一郎の「絶対に自信と納得を得るまでは商品化を急ぐべきではない」との信念から3年間は手を付けておらず、1958年9月第3研究課が発足し、国民車構想に沿った軽4輪の試作からスタートした。
・「N360」が発売された時点での他社の軽自動車はスズキ「スズライト」「フロンテ360」、富士重工「スバル360」、マツダ「R360クーペ」「キャロル360」、ダイハツ「フェロー」、三菱「ミニカ」などがあり、50年代のパイオニア達「NJ」「オートサンダル」「フライングフェザー」「ニッケイタロウ」などは既に生産を中止していた。
ホンダN360のライバル達 (スズキ・フロンテ、スバル、マツダ・クーペ、マツダ・キャロル)
① <N360>
冒頭にも触れたが、「ホンダ」がなぜ軽自動車を選択したか、という疑問の回答の一つに先行した「三菱500」の不振があったのかもしれない。製品として「いくら優れた性能を持っていても世間の要求に沿わないものは売れない」という現実は、最高の製品を造ろうとする「ホンダ」に、もう一つ「市場が求めているのは何か」という大きな要素が加えられた結果だろう。この見通しは「スーパーカブ」の時と同じように見事に的中し、軽自動車ブームを造りホンダの屋台骨を支える大ヒットとなった。
(写真01-1a~e) 1967 Honda N360 2dr Sedan (2009-11 ホンダ・コレクション・ホール)
・1967年3月から発売された「N360」の諸元は①最高速度115km/h (100km)、②定員4名(4名)、③排気量354cc(350~500cc)、④燃費 不明 (30km/ℓ)、⑤総重量475kg(400kg)、⑥価格31.3万円(25万円)だった。( )内は国民車構想の期待値。この中で期待値の総重量は価格設定上材料費から算出されたもので構造上の制限ではない。また価格についても構想の発表から12年も経っており、所得も物価水準も上がっているのでほぼ等価とみてよいだろう。
(写真02-1abc) 1968 Honda N360 M-Type 2dr Sedan (1969-06 小金井運転免許センター付近)
「N360」には幾つかのバリエーションがあった。以下初代(67-03~68-12)のモデルを列記すると、①67-03「N360」オリジナル、②67-12「M」ラジオ、リクライニングシート付、③68-02「S」タコメーター付き、④68-04「オートマ」、⑤68-07「G」デラックス版、⑥68-07「サンルーフ」⑦68-07「N600E」輸出仕様国内版、⑧68-10「T」ツインキャブ、30hp,120km/hと、満を持していたように、僅か1年9か月のうちに8種類ものモデルを揃えた。
・写真の車は最初に出されたバリエーションの1台で、外見はバッジ以外には違いが見られない。この場所は中央線小金井駅から行く「運転免許センター」の近くで、東京都民は免許書き換えの時は仕事を休んで1日がかりでここまで足を運ばなければならなかった。
(写真03-1abc) 1969 Honda N360 Super Deluxe 2dr Sedan (2007-04 トヨタ自動車博物館)
1969年1月マイナーチェンジが行われ「第2世代」となった。グレードは「スタンダード」「デラックス」「スーパー・デラックス」「カストム」の4段階があり、「T」は「ツーリング」と変わった。マイナーチェンジはノイズや振動を抑えるための改良で、外見ではサイドマーカーが丸から矩形に変わっただけだ。
(写真04-1abc) 1970 Honda NⅢ360 Sunroof Deluxe (2009-11 ホンダ・コレクション・ホール)
「第2世代」から1年後の1970年1月本格的なモデル・チェンジが行われ「第3世代」となった。性能的には変わりなく、機構的にはギアボックスがコンスタントメッシュから普通の4段フルシンクロに変わった。外見では独立した口を持ったグリルが付いたので前半分の印象は大きく変わったが、後ろ半分はバックアップ・ランプが大きくなったほかに大きな変化は見られない。
(写真04-2ab) 1970 Honda NⅢ360 Touring Custom (1985-04 22ndTACS/筑波サーキット)
2台並んだ「N360」の青い方は、1970年1月モデルチェンジした第3世代の「NⅢ360」で、ツインキャブを持った高性能版「ツーリング」の最高グレード「カスタム」だ。赤い方は13年前に発売された初代の「N360」で、きちんとオリジナルが保たれた良いコンディションだ。前から見ると顔付きが変わったが、後ろ姿は殆ど変わっていないのが判る。
(写真05-1a~d) 1973 Honda N600E Touring (2013-11 トヨタ・クラシックカー・フェスタ)
一見「N360」かと間違えてしまうこの車は、輸出用として造られた「Nシリーズ」のバリエーションの一つで、国内では1968年6月から発売されたが、アメリカで発見されたシリアルナンバー001の車が1967年製とのことなので、最初から「N360」と同時に開発されていたようだ。すでに「S600」が発売されていたがエンジンは別物で、排気量は598ccで「S600」の606ccより少なく、ロング・ストローク仕様となっている。外見も同じように見えるが「N360」より全長では105ミリ長く、高さは逆に105ミリ低くなっているのでこれも別物だ。グリル内の横バーが1本多く、正面の「H」のバッジの下に「600」と入っているのが識別点で、後ろには「600」の表示は無い。
② <LN360>
「N360」の発売から2か月後、それをベースにした商用車「LN360」が発売された。元々ライトバンに近いボディの後端を垂直にし、跳ね上げ式のドアを付けた3ドア仕様で、小回りが利き、維持費が安く、使い勝手の良い配達用の需要を見込んだものだ。
(写真06-1abc)1968 Honda LN360M Lightvan (2009-11 トヨタ・クラシックカー・フェスタ)
フロントドアの直後までは乗用車「N360」と変わらない。後ろ姿は流石に「ライトバン」のイメージで、テールランプは跳ね上がるドアの障害となるため形が変更された。後部ドアは上下2分割となっているが、冷蔵庫風に1枚の横開きもあったらしい。
(写真06-2a~e)1969 Honda LN360 Lightvan (2009-11 ホンダ・コレクションホール)
2年後の1969年、乗用車のマイナーチェンジに倣って、ライトバン「LN360」も2代目となった。性能は変わらず主に騒音、振動の改善による居住性の向上をはかったものだ。
<N360の改造車>
(写真06-3ab) 1968 Honda N360(改) (1962-02 第2回東京レーシングカー・ショー/晴海)
ボディの上半分を取っ払って軽量化したこの車は、単なるオープンカーではなくレースのための改造で、低いウインドシールや太いロールバーがそれを示している。
(写真06-4ab) 1970 Honda N360(改) CAN-AM (1963-03 第3回東京レーシングカー・ショー)
ここまで完璧に改造されれば、ベースが何であろうと全く手掛かりはないから説明を信じるしかないが、これが本当に「N360」とは信じられない。
③ < Z > (N360/SA) 1970-10~74-06
1970年1月にモデルチェンジした3代目「NⅢ360」のフロア・ユニットを使って、10月誕生したのが「Z」シリーズだ。形式的には「2ドア・クーペ」に分類されるが、世界に類を見ないその特異なスタイルは、単に「クーペ」だけでは表現し足りない程だ。あえて言うならば「革靴に車を付けた」と言えばイメージがわくだろうか。シリーズを通じて74年までに3つの変化があり、①初期型は「NⅢ360」がベース、②71-01の中期型からは「ライフ」がベースとなったため、エンジンは水冷となりホイールベースも80ミリ延長された。③72-11の「後期型」はBピラーが無い「ハードトップ」となった。リアウインドウの見た目から「水中眼鏡」の愛称もあった。
(写真07-1a) 1971 Honda Z Coupe (初代) (1973年 銀座5丁目並木通り)
この車は初代の「Z」だから、まだ空冷エンジンだ。モデルはシングル・キャブの「act」「PRO」と、ツイン・キャブの「TS」「GT」があったが砲弾型のバックミラーを持つ「GT」以外は前からでは識別できない。撮影場所は最近まで確定できなかったが、「秀吉ビル」と「ケテル」の看板から銀座5丁目の並木通りと確認した。因みにドイツ・レストラン「ケテル」は自動車好きには東京の街を走っていたロールスロイスのオーナーとしてよく知られた存在だ。
(写真07-2ab)1971 Honda Z GTL Coupe (195-06 22nd TACS ミーティング/筑波サーキット)
「Z」は71年2月にマイナーチェンジがあり、新しく「ゴールデン・シリーズ」が生まれた。それが写真の「GTL」で「GT」のデラックス版の位置付けだから唯一砲弾型のバックミラーを持っている。
(写真08-1a~e)1973 Honda Z GT Coupe TypeⅢ(2011-10 ジャパン・クラシックオートモビル日本橋)
「Z」は1971年12月、ベースとなる車が「NⅢ360」から「ライフ」に変わり、フルモデルチェンジをして2代目(TypeⅡ)となったが、残念なことに僕のアルバムには見つからなかったので、一つ飛んで3代目となる。TypeⅡと同じく「ライフ」がベースだからエンジンは水冷で性能も変わらないが、ボディは窓を開ければBピラーが残らない「ハードトップ」となり、スペアタイヤの格納方法が変わったので後ろのバンパーは2分割となった。
(写真09-1a~e) 1973 Honda Z GSS Coupe TypeⅢ (2014-11 トヨタクラシックカー・フェスタ)
1972年12月にはTypeⅢとなり、下から「SS」「GT」「GL」「GSS」の4つのグレードが設定された。写真の車は最高グレードの「GSS」で、5速MT(マニュアル・トランスミッション)が装備されていた。TypeⅢは最後の「Z」シリーズで74年6月には製造中止となった。
④ <ライフ> (Type SA/WA/VA) 1971/06~74/10
1971年6月、「空冷のN360」に変わって「水冷のライフ」が発売された。このことは「ホンダ・エンジン」が空冷に別れを告げ水冷の時代に入ってという、歴史上の大きな転換期として記憶されるべきポイントだ。話は少し遡るが、すでに「F1」レースに参戦していた「ホンダ」は「世界で何処にもないものを造る。他の真似をしない独自の道を歩むことが技術開発の基本だ」という「宗一郎」の信念どおり、1968年のF1シーズンに前代未聞の「自然空冷F1マシン RA-302」を登場させた。この車は結果的にはオーバーヒートでまともに走れない失敗作で、フランスGPでスリップして横転、炎上しドライバーが死亡した。しかし、1969年5月には、このメカニズムの流れを汲んだ自然空冷の「1300」シリーズが、ホンダ初の普通乗用車として発売された。
・このころアメリカで起こった欠陥車批判運動は、日本でも「ユーザー・ユニオン」が結成された。ベストセラーだった「N360」がそのターゲットとされ「80キロで走行中急に蛇行する」と指摘し「欠陥車」と烙印を押されたことからマスコミでも大々的に報道され、一気に人気を失った。「ユーザー・ユニオン」は本田宗一郎を販売責任者として「未必の殺人罪」で告訴までしたが、10年越しの裁判の結果、逆にユニオンの幹部が「恐喝」と「強請」で有罪となった。
・「欠陥」と指摘された動作については、本来この車が持っている特性で、どんな車にもそれぞれの特性はあり、アクセルが戻らなくなるような欠陥とは異なるものだ。この「欠陥車」問題もあり次期の軽自動車は「N360」とは異なるイメージが必要となって「ライフ」が登場することになる。
(写真10-1a~d) 1971 Honda Life 4dr deluxe (2009-11 ホンダ・コレクション・ホール)
この車が誕生するまでには「開発者」と「宗一郎」の間に壮絶な戦いがあった。「宗一郎」は絶対的な「空冷信奉者」だった。その根本にあるのは「第二次大戦でドイツのロンメル将軍が北アフリカの砂漠で有利に戦ったのは、ドイツの軍用車が水の要らない空冷だったからだ」という思い込みと、空冷のオートバイで世界を制した」という自負もあった。だから「水冷エンジンだって水を媒体とした空冷であって、間接空冷か直接空冷の違いなら直接空冷が一番いいんだ」という「屁理屈」のような自説を押し通した。その結果は後に「シビック」となる水冷4気筒エンジンのセダンの開発は中止され、空冷の「1300」に変わったのだ。この「1300」を発売して間もない1970年に、アメリカ議会で「マスキー法」が成立した。これは自動車の出す排気ガスの有害物質を75年までに1/10に減らすという、誰もが殆ど実現不能と思う厳しいものだった。これをクリアした経過については「シビック」の項で詳しく説明するが、安定した熱のコントロールが可能な水冷でなければ実現不可だった。しかし「宗一郎」は相変わらず若手を中心に1500ccの 究極空冷エンジンに試作を続行し、あらゆる理論を投入してマスキー法のクリアを図ったが、最後は「これだけやっても駄目か」と言わせる結果で終った。一方で中堅技術者たちは秘かに水冷エンジンの計画を進めていたが宗一郎の知る所となり直ちに中止させられるという経緯があった。このピンチを救ったのが「藤沢」で熱海の旅館に水冷を推進する中堅技術者を集め、空冷の問題点、水冷の利点を聞き取って納得した上、その晩の内に宗一郎に電話し、「水冷エンジン」の開発を勧めた。初めの内は技術論であれこれ抵抗していたが藤沢の最後の一言「本田技研の社長の道を採るか、技術者として本田技研にいるべきか、どちらかを選ぶべきでしょう」と選択を迫られ、「俺は社長としているべきだろう」と答え、「宗一郎」の技術者としての能力の限界を、次の世代が追い越したことを認めた瞬間だった。後年水冷の「ライフ」を試乗した際「あったけえな」とつぶやいた一言は、空冷に較べると暖房の効きが良い水冷の良さを認めた結果だろう。
(写真11-1a~d) 1973 Honda Life Wagon Custom (2009-11 トヨタb・クラシックカー・フェスタ)
「ライフ」の2ドア・セダンの屋根を僅かに延長し、後部を跳ね上げ式の3ドアにしたハッチバックが「ワゴン」と名付けられたこの車だ。商用車の「ライトバン」ではなく、あくまでも乗用車として登録されたが、皮肉なことに商用車として発売された何の変哲もない「ステップバン」が後年若者のアイテムとなった。
⑤ <ライフ・ステップバン> (Type VA) 1972~74 生産台数19,012台
・「セミ・キャブオーバー型、軽ボンネット・バン」というのがこの車の形態を表す言葉だ。乗用車「ライフ」のプラットホームの上に、軽の規格枠いっぱいを使った「背の高い」「四角張った」「収納容量最優先」の箱型ボディは「トール・ワゴン」と呼ばれ、現代では軽自動車の標準となっているがこの車が元祖だ。サイズ的には全長2,995ミリ、全幅1,295ミリは「ライフ」と変わらないが高さだけは1,620ミリで280ミリ高くなっている。
・新車として発売された当初は、素っ気ない見た目、フル・キャブオーバーに較べ荷室の長さが短いなどが影響したか、月産2000台を目論んでいたが、最終結果は700台程度に留まる予想外の売れ行きだった。しかし当時「シビック」が順調に伸びており「ホンダ」としては、「ステップバン」の販売促進に特別に力を割くことはなかった。
・この車が中古車市場で、若者に人気が出てきたのは生産中止から3年程経った1977~8年頃からで、カリフォルニアで流行した「バニング」と呼ばれる改造ブームの影響が火付け役と思われる。「ステップバン」は本場の「シボレー」や「フォード」のセミキャブオーバー・バンとその形がよく似ているから一番人気だった。生産台数が少ないこともあって中古車市場でも品うすだった。
(写真12-1a~g) 1972 Honda Life Stepvan Standard (2009-11 ホンダ・コレクション・ホール)
この車は、本来の商用車としてではなく「趣味の対象」として多くの人に愛されて居るので、それぞれ思い思いに手が加えられている場合が多く、きちんとオリジナルが保たれているコレクション・ホールのこの車は貴重だ。オリジナル塗装はライトブルーとアイボリーだった。
(写真12-2a~e) 1972 Honda Life Stepvan (1983-03 /千葉市稲毛区)
この車が我が家に来たのは発売から10年少し経った1983年の春先だった、確か小岩辺りの中古車さんで見つけ、息子と二人で買いに行った。千葉の自宅まで僕が運転して帰ったが、4速のローはギア比が低く、速度が全然出ないので合流するときは、よっぽど空いていないと入れなかった。商業車用のセッティングかと思っていたが、発売当時のパンフレットには「駆動系はライフと同じ」とあった。
・この写真は購入したばかりでステッカーが貼られている以外はオリジナルだ。
*ドアの下半分は左右対称だから右前と、左後は同じものを兼用してコストダウンを図っている。
(写真12-2f~i) 1972 Honda Life Stepvan
我が家に来てから3年後のステップバン。屋根に開閉式のサンルーフを付けたので「改造車」となった。アルミホイールを付けた際オリジナルを処分してしまったら、車検が通らなくて苦労した。「ステップバン」は当時大学生だった息子がアルバイト先のディズニーランド迄往復していたが、そのうちに途中でエンジンが止まってしまい、しばらくそのまま待っていると走り出すというトラブルがしばしば発生するようになった。燃料パイプの途中にある「ストレーナー」のアミを石鹸で洗ったら簡単に解決した。ストレーナーの詰まりだった。ガソリンタンクに穴が開いてしまったので部品を取り寄せたが、下から嵌めるためにはピットが無いと無理だったので、近くの「SF」迄移動するため500ccのビール缶にガソリンを入れ燃料パイプを突っ込んで走った。よく爆発しなかったと今考えるとゾットする暴挙だった。(良い子は絶対マネしないでください)
・息子のアイデアでステーションワゴン風にストライプを張った。
・我が家には今でもパーツリストが残っているが一つだけ面白い装置をお教えしよう。それは手動式で「ウオッシャー液」が噴き出す仕掛けだ。ダッシュボードに「チョークボタン」に似た出っ張りがあり、それを押すと水が出るのだが、ボタンの後ろ側には水の入ったゴム袋があるだけというすごいアイデアだった。
(写真12-3ab)1972 Honda Life Stepvan SuperDeluxe(1982-05 14th TACSミーティング/筑波)
「ステップバン」について僕は20台以上の写真を撮っているが、いずれも趣味の対象となってからなので、殆どがどこかに手を加えられており、オリジナルの物はコレクションホールと、我が家の購入時の写真以外には、唯一この車だけだ。窓枠のゴムにクロームのモールが付いているのはスーパー・デラックス仕様。ダッシュボードが水平で小さなテーブルとなるので伝票の整理など、商用車としての使い勝手も考慮されている。
(写真13-1ab)1072 Honda Life Stepvan (1981-05 11th TACSミーティング/筑波)
この車の「ボディ」は塗装も含めて全くオリジナルで、ホイールのみが換えられている。
薄いブルーかアイボリーのオリジナル塗装は、全塗装のタイミングで殆ど別の色に塗り替えられていくので、この車も貴重な存在だ。
(写真13-2a~d) 1972~74 Honda Life Stepvan
写真「a」「b」は、塗装以外はホイールもオリジナルである。「c」「d」はカリフォルニアの「バニング」に倣って後部の窓が潰してある。
(写真13-3a~d) 1972~74 Honda Life Stepvan
この2台も塗装は変わっているが、ボディ自体に手は加えられていない。ホイールキャップは「NⅢ360」からの転用と思われる。
(写真13-4a~d) 1972~74 Honda Life Stepvan
この4台も塗装は変わっているがオリジナルボディで、ホイールだけが換装されている。
(写真14-1a~d) 1972~74 Honda Life Stepvan
ここからは、ボディの外観に何らかの手が加えられた車で、「a」「b」はヘッドライトが四角に変えてある。「c」「d」はスポイラーが付いている。「c」には跳ね上げ式のサンルーフも付いている。
(写真14-2ab) 1972 Honda Life Stepvan (2018-11 旧車天国/お台場)
最後に登場するのは後部の窓を潰した上、そこに可愛い「ハート」の窓を付けた車で、オーナーがこの車をいかに愛しているかが感じられる。
⑥ <ライフ・ピックアップ> (Type PA)1973/08~74/02 生産台数1,132台
「ステップバン」が発売された11か月後の1973年8月、弟分ともいえる「ピックアップ」が登場した。小さいものは大体が可愛いものだが、この車は特別かわいい!。使い勝手は「ステップバン」の方が上だと思うが、趣味の対象となっている今は、見た目を重視すればこちらの方が上だろう。ステップバンは約17,000台造られたが「ピックアップ」は僅か1,132台しか造られなかったレア物でもある。
(写真15-1a~e) 1973 Honda Life Pickup (2009-11ホンダ・コレクション・ホール)
コレクションホールには「ステップバン」と「ピックアップ」が2台並べて展示されているが、この「アイボリー」と「ライトブルー」の2色がオリジナル・カラーで、色が薄いのはボディにペイントを描き易いためと言われる。兄貴分の「TNシリーズ」はいかにもトラックといった現場向けの逞しさを持っているが、こちらはピックアップというだけあって優しい感じで、小口配達用にぴったりだ。
(写真15-2a~d) 1973 Honda Life Pickup (1984-07 東名高速道路・海老名サービスエリア)
極めて数の少ない「ライフ・ピックアップ」を始めて見付けたのは富士スピードウエイへ向かう途中で立ち寄った海老名サービスエリアだった。その小ささと、引き締まったスタイルに思わず「カワイー!」と叫びたくなるほどだった。黒く塗り替えられ、タイヤとバックミラーが取り換えられているが、洒落たペイントと、アメリカのナンバープレートもよく似合っている。
(写真15-3a~d) 1973 Honda Life Pickup (1986-03 25 th TACSミーティング/筑波サーキット)
次に見つけたのは2年後で、筑波サーキットのピットだった。チン・スポイラーが追加され、ラジエターグリルを菱型のネットに張り替えて、太めのタイヤに履き替えれば、サーキットを走るつもりかな?と期待を持たせる。
(写真15-4a~d) 1973 Honda Life Pickup (2018-11 旧車天国/お台場)
2018年お台場で開かれた「旧車天国」に行ってびっくりした。そこには当時は「まぼろし」だった筈の「ステップバン」や「ピックアップ」が、今でも愛好家のもとで多数元気に動いていることだった。ここに掲示した2台は45年前のオリジナルの今の姿で、当然のことながら錆びだらけである。しかし審査が厳しいことで有名なペブルビーチのコンクールで錆び錆びの古い「ミネルバ」という車がが、オリジナリティを評価され賞を得た例もあり、これはこれで貴重な存在だ。(我が家にあったステップバンが錆びには勝てず手放したのは30年も前だった)
(写真15-5a~d) 1973 Honda Life Pickup (2018-11 旧車天国/お台場)
次の2台はきれいお色直しを済ませた幸せな車だ。バックミラーとホイール以外はオリジナルだが、間違えなく新車の時よりきれいになっている。窓枠にクロームの入っているのが「スーパー・デラックス」で、入っていないのが「スタンダード」である。
(写真15-6abc) 1973 Honda Life Pickup (2018-11 旧車天国/お台場)
真っ白がよく似合うこの車は、色気のないオリジナル・バンパーを外し、スポイラーと一体になった格好いいものに変えただけで雰囲気が大きく変わった。太いタイヤをカバーするため付いている「オーバー・フェンダー」もとても似合っている。
(写真15-7ab) 1973 Honda Life Pickup (2018-11 旧車天国/お台場)
この日のお台場はあまりにも獲物が多く、あちこち歩き回っているうちに皆が帰り始めた。その時見付けたのがこの車で、慌てて駆け付けた。オリジナルの後ろ半分を使ってトレーラーを造るのはヨーロッパの小型車では幾つか見ているが、これは新しく造ったもののようだ。のめり込むのもここまで来ればもう手が付けられませんネ。
(写真15-8a) 1973-74 Honda Life Parts List
ピックアップの項の最後に、パーツリストにあった「幌」のページのコピーを参考に掲載した。実物は僕も見たことは無い。
⑦ <バモス・ホンダ> (Type TN360) 1970~73 生産台数 約2,500台
「ホンダ」以外では絶対に許可が出なかったであろう特異なモデルが、一連の「バモス・ホンダ」だ。この車の発想の原点とも思われるのは、参考に添付したオーストリアのシュタイル・プフ社が造った「ハフリンガー700AP」ではないかと思われる。アルプス山岳兵のため考案された小型4輪駆動車で、床から上はシート、スカットル、ウインドシールドを残してすべて取り外すことが出来たのは「バモス」と同じだ。
「バモス」は当初月産2,000台目途でスタートしたというが、結果は実質2年間で約2,500台しか売れなかったから、商業的には完全な失敗作と言える。「ハフリンガー」の場合は軍用という大口の納入先があり、その目的に合わせて造られたものだが、「バモス」の場合の「使用目的」は農業、牧畜業、山林業などの他、レジャーにも使えます、という両極端に二股賭けた中途半端なものだった。これらの購買層で毎月2,000台売れるとは考えられないので、何処に販路を考えていたか知りたいものだ。オフロードで使用するためには「4輪駆動」は欠かせないものだし、レジャー用という使い方はまだ一般的に普及していなかった。「バモス」という言葉は、スペイン語で「レッツ・ゴ-!」という意味だそうだが、「たんぼへレッツ・ゴー!」よりは「ビーチへレッツ・ゴー!」だった筈だ。
フロントにタイヤをはめ込んだのは写真の「VW」を参考にしたらしいが、ダイハツの「ミゼットⅡ」にそっくり引き継がれている。
(写真16-1a~g) 1970 Honda Vamos-Honda Type 4 (2009-11 ホンダ・コレクション・ホール)
「バモス」には幌の形とシートの数で①「Type2」2人乗りで幌はシート1列分、②「Type4」4人乗りで幌はシートは2列分、③「Typeフルホロ」4人乗りで幌は荷台の最後部迄の3つのバリエーションがあった。写真の車は「Type4」だから幌はシート2列分ある。コレクション・ホールの展示車は流石に新車同様で幌もきれいだ。
(写真16-2a) 1972 Honda Vamos-Honda Type 4 (1985-09 第1回 大阪クラシックカー・フェスタ/万博公園)
まだ30代だった僕はイベントがあると聞けば関西までも足を延ばした。この当時は転勤で長野県の諏訪に住んでいたが車を運転して一人で大阪へ向かった。カーナビなど無い時代、僕は大阪市内で迷子になった。土地勘が全くないので偶々環状線の駅名を見付けてもそこが何処なのか判らない。会場の万博公園は大阪の北の方にある事だけは頭に入っていたので、最後の手段、太陽の位置から北の方角を割り出して無茶苦茶走っていたら、奇跡的に会場への案内板を見付け何とか会場にたどり着いた。これは以前読んだ「坂井三郎空戦記録」で傷を負って羅針盤が読めない坂井が太陽で方角を見定めてラバウル迄戻って来た話を思い出して真似てみた結果だった。
・車は2列シート迄幌がある「Type 4」で、「ステップバン」や「ピックアップ」と違って何処にも改造の跡は見られない。
(写真16-3ab) 1971 Honda Vamos-Honda Type 4 (2018-11旧車天国/お台場)
この車は見た目より実用を優先して日常の姿を見せている。床から上には囲いが何にもないから、冬場は大変だ。不思議なのは、この車にFRPでスマートな屋根やドアを造ろうとした例が見られないことだ。
(写真16-4ab) 1971-73 Honda Vamos-Honda Tyoe 4 (1984-07 22th TACSミーティング/富士スピードウエイ)
「バモス」という車はやはり夏が似合う。ビーチカーとして使われるとしたらこの形だし、それなりに納得できるスタイルだ。この車を遊び心一杯のイタリアのデザイナーに預けたらどんな形の生まれ変わるだろうか。
ビーチカーの代表として洒落た「フィアット」「ダフ」を参考添付した。
1957 Fiat 500 Joiiy byGhia
1958 Fiat 750 Jolly
1966 Daf Kini(オランダ)
(写真17-1abc) 1971 Honda Vamos-Honda Type 2 (2018-11 旧車天国/お台場)
出会った車の中で2人乗りの「Type 2」はこの車だけだった。積み荷重点でトラックとして使うなら荷台の大きい「Type 2」だが、レジャーを含めれば4人乗りの方が人気があるのだろうか。
(写真18-1a~d) 1971 Honda Vamos-Honda Type Furuhoro (2008-11 トヨタ・クラシックカー・フェスタ/神宮)
この車は後ろまで幌のある「フルホロ」モデルだが、オープンにしたときは「Type 4」と殆ど見た目は変わらない。別の機会に同じ車が幌を装着した姿を撮影しているので、その変わり具合をご覧いただきたい。冬は防寒対策で余計なものが付くので決してスマートとは言えないが、これしか無いか。
(写真18-2abc) 1971 Honda Vamosu-Honda TypeFuruhoro (2018-11 旧車天国)
前の車に較べればドア部分が同色なので違和感は少ない。しかしこのドアはどうやって出入りするのだろう。
「ホンダ」は今回取り上げた幾つかの軽自動車と言われる車種を、最終的には1974年12月をもって一旦生産中止とした。次に軽自動車が誕生したのは約11年後の1985年9月の「トゥデイ」だった。
最後に「ステップバン」でお別れです
― 次回はホンダ初の普通自動車「1300」(空冷)、「シビック」(水冷)を予定しています―