1954 Hudson Itaria Touring Coupe
(00) <ホールデン> (豪)
・アメリカを代表する自動車の巨大メーカー「ビッグ・スリー」の一員だった「ジェネラル・モータース」は色々な国の自動車メーカーを傘下に収めていた。フォードのように社名(車名)まで「フォード」を名乗るのではなく、ドイツでは「オペル」、イギリスでは「ボクスホール」と独自のブランドを展開しており、「ホールデン」もその一つでオーストラリアの自動車メーカーだ。GMのモデルをそっくりそのまま生産している訳ではないが、どことなくアメリカナイズされている印象を受ける。
・「ホールデン社」の歴史は古く、1856年J.A.ホールデンがアデレードに馬具製造会社を始めたのが最初で、1900年代に入って自動車の内装を手掛け、1917年からはボディの製造を始める。1924年には「GMオーストラリア」が造る車のボディを一手に担当する完全なボディ・メーカーとなった。1931年にはGMに買収され、同時に「GMオーストラリア」と合併して「ジェネラルモータース・ホールデン」となり、いままでのボディ・メーカーから脱却し自動車メーカーとして「ホールデン」の名前が付いた自動車が誕生した。
(写真00-1ab)1958-59 Holden FC Sedan (1959-12 銀座/1958 羽田空港)
東京の街で「ホールデン」という車は極めてレアな存在で、1950年代は正規輸入の対象ではなかったから、ナンバープレートからも判るように僅かに大使館の車しか存在しなかった。だからこういう車は当時唯一の国際空港だった「羽田」で見つける可能性が高かった。
(写真00-2a) 1960 Holden Special Station Wagon (1962-03 新橋・第一ホテル付近)
この車も大使館の車で、場所は新橋駅近くの第一ホテル付近だったと思う。セダンをベースにしたステーション・ワゴンだが、アメリカのフルサイズよりは幾らか小ぶりで、かといってヨーロッパ車よりは一回り大きいのは、広い国土を持つオーストラリア独特なサイズ設定だ。
(写真00-3a)1961 Holden FB Special 4dr Sedan (1961-06 第2回外車ショー/晴海)
1960年代の初め頃、日本のメーカーはまだ外国車に対してコンプレックスがあったのか、一緒に並べたくなかったのか「国産車」と「輸入車」は別々にショーを開いていた。会場には「Tokyo International Automobile Show」と書かれてあったが、一般には「外車ショー」と呼ばれていた。第1回は1960年5月江の島の東急レストハウス前広場で開催されたと記録にあるが僕は見ていない。但し出展車の中に「豪・1」とあったから「ホールデン」も展示されたようだ。だから写真のこの車は民間輸入車の第1号ではないが、ごく初期の珍車だった。
(写真00-4a)1966 Holden HD Premia 4dr Sedan (1965-11 第7回東京オートショー/晴海)
(写真00-5a)1967 Holden HR Premier 4dr Sedan (1966-11 第8回東京オートショー/晴海)
いずれも外車ショーに出展された車で、アメリカの影響を受けて毎年モデルチェンジをしているが、グリルのデザインが変わった程度で大きく変わってはいない。
(写真00-6a)1969 Holden Torana 2dr Sedan (1968-11 第10回東京オートショー/晴海)
(写真00-7a)1969 Holden Torana 2dr Sedan (1969-11 第11回東京オートショー駐車場/晴海)
前年ショーに展示されていた車と同じタイプの車が、翌年にはショーの会場前に停まっていた。しかし街中で「ホールデン」を見たのはこれが最後で、正規輸入され市販されたといっても希少モデルだったことは変わりない。
(写真00-8a) 196p Holden Premiier 4dr Sedan (1968-11 だい10回東京オートショー/晴海)
この年のホールデンのブースには中型の「トラーナ」と並んで、ホールデンのトップモデル「プレミア」が展示された。ホイールベースはシボレーのインターミディエイト「シェヴィⅡノーヴァ」と同じ2,820mm だから、アメリカでは中型クラスだ。(因みにフルサイズ「インパラ」のホイールベースは3,025mm) 排気量は3,048ccで、262万円だった。余談だが日本自動車博物難に展示されている堂々たる「マツダ・ロードペーサー」は1975年型ホールデン・プレミアにマツダのロータリーエンジンを載せた車だ。
(01)<ホープスター> (日)
車の名前として何も考えずに「ホープスター」と呼んでいたが、日本語に訳せば「希望の星」という素晴らしい名前だ。戦後まもなく、ブームに乗って「雨後の竹の子」のように数多くの手造りに近い自動車もどきの車が生まれたが、殆どはエンジンは自製せず町工場製で数台造られただけだった。1951年「ホープ商会」は自動車の修理・販売を目的に設立され、翌年末には市販部品を利用した軽3輪トラック「ホープスターON型」が完成生産体制に入る。競合他社が短命に終わった中で、「ホープスター」だけが生き残った理由は幾つかあるが、軽3輪トラックの分野は未開発で競合は少なかった。バーハンドル、サドル型の3輪トラックは当時の当たり前のスタイルで、ユーザー側も小さめの3輪トラックとして自然に受け入れた。構造も耐久性も信頼出来た。修理の際部品調達が容易だった。昔ながらのオーソドックスな姿勢が当時の社会情勢とマッチしたのだろう。1954年には「ホープ自動車」と社名を変え、新工場を造って生産体制を整備した結果、3輪メーカーとしての地位を確保した。しかし1957年の「ダイハツ・ミゼット」に始まる大手メーカーも軽3輪トラックへの参入によって完全にダメージをうけ、1960年には軽4輪トラック「ユニカー」へシフトした。その後1968年になって軽自動車初の4輪駆動車「ホープスターON型」が完成した。この車は三菱自動車の部品を多用して造られたものなので、三菱での製品化を狙ったが実現せず、これに興味を示したスズキ自動車が、キャリイの部品を使って造ったプロトタイプを採用し、これが現在の「ジムニー」の元祖となった。
(写真01-1a~d) 1957 Hope Star SU 3-Wheels Truck (2019-11 旧車天国/お台場)
運転席はバーハンドル・タイプの標準的な構造で、エンジンを跨いでサドルに座り、始動は「ペタル・キック式」だ。一見普通の「オート三輪」に見えるが、当時を知る者の目からはやっぱり一回り小さい「軽トラック」だ。
(02) < ホルヒ > (独)
・戦前のドイツで12気筒エンジンを持ち「メルセデス・ベンツ」を凌駕する超高級車が「マイバッハ」と「ホルヒ」だった。マイバッハは近年ダイムラーの傘下となり「メルセデス・マイバッハ」の名で復活したが、「ホルヒ」に関しては一般には全く知名度が無い。創立者の「アウグスト・ホルヒ」は1868年ライン川の上流フランス国境に近いウイニンゲンで生まれた。若い時は父のもとで鍛冶屋の修業を積んだが、その後ヨーロッパ各地でいろいろな職業を経験した後、20歳の時に技術者になると決め工科学校で正規の教育を受ける。卒業後は造船所の設計事務所でエンジンの設計などに携わっていたが、1896年エンジニアとして「ベンツ」に入社、僅か3年後には工場の支配人となっていた。この31歳の野心家の青年を見込んで出資する実業家が現れ、1999年の末「アウグスト・ホルヒ社」を設立し、自身の自動車造りが始まる。この当時のホルヒを取り巻くドイツの社会情勢は、普仏戦争で大勝利した勢いのままバブル景気が続いており、技術的にはガソリンエンジンの実用化、フロントエンジン、リアドライブのレイアウトの確立など、第1号となったプロトタイプからすでに立派な自動車だった。
・技術・品質重視のホルヒの職人気質は利益優先の経営陣とは中々折り合いがつかず、1909年自分の名前が付いた会社を去ることになってしまう。創立者が去ったあともこの会社は「ホルヒ」という名前の車を造り続けるが、一方飛び出した創立者は、同じ町に新しく「アウグスト・ホルヒ自動車工業」を設立した。しかし当然の事ながら裁判で負け自分の名前が使えなくなってしまったので、やむなく辿り着いたのがドイツ語の「Horch」(注意して聞く)と同じような意味を持つラテン語「AUDI」を新しい社名にすることにした。
・1929 年秋の大恐慌は、第一次世界大戦で敗戦国となり重い賠償に喘(あえ)いでいたドイツ経済も大打撃を受け、この事態を切り抜けるための策として1932年中ごろ「アウディ」「DKW」「ホルヒ」が手を組み、つづいて「ヴァンダラー」が加わってザクセン州の4社連合「アウトウニオン」が成立した。これは吸収や合併が行われたのではなく、あくまで連合を組んだので、お互いが対等に独立して今まで通りの名前で車は造られた。それだけでは何のメリットもないが、競合車種の統一や、部品、エンジンなどの共通化で合理化を図ると同時に、販売面での配慮として4社の製造する車種をグレード別に割り振った。これはうまい具合に、それまで造っていた主力製品が最高級車「ホルヒ」、次いで「アウディ」、「ヴァンダラー」「DKW」のランク順だったから何の問題も起こらなかった。
・余談だが戦前は「アウトウニオン」という名前の乗用車は造られていない。ただナチス政権が国威発揚のため国を挙げて「グランプリ・レース」での優勝を目指し、「メルセデス」と「アウトウニオン」が援助を受けることになった。1934年デビューしたGPカー「アウトウニオンAタイプ」から37年の「Cタイプ」まではポルシェ博士が設計し、その後の「Dタイプ」はエベルホルスト教授が引き継ぎ、戦前最後の1939年のレースまで使用された。当時としては画期的な「ミッドシップ・エンジン」だったが、フロントエンジンに慣れたドライバーには感覚が掴めず、なかなか乗りこなせなかったようだ。
(写真02-1ab) 1932 Horch 780 Sport cabriolet (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
1930年代の「ホルヒ」のモデル名は「303」から始まって「951」まで、42もの種類があった。エンジン/排気量も「直8」「V8」「V12」で3,004ccから6,021ccまで13種のバリエーションがあった。300から600までは大まかに言えば3リッタークラスは300代で排気量に関連したモデル名と言えるが、「メルセデス」のように排気量が推定できるほど関連してはいない。例えば4.5 ℓの場合「420」「450」「470」の他に「720」「750」もある。写真のこの車は「780」だが排気量は4,944ccと全く関連が無いので、モデル名からグレードが推定できないのが「ホルヒ」だ。
(写真02-2abc)1938 Horch 853 4dr Phaeton (2004-08 ペブルビーチ)
4ドアの堂々たる幌型だが「ランドウ・ジョイント」が無く、案内板にも「フェートン」とある。アメリカで「フェートン」と言えば風雨を避けるための物だから裏打ちの無い一枚の布製だが、この車の場合はかなり厚そうに見えるので、防寒性も備えているようだ。
(写真02-3ab) 1938 Horch 853A Voll-Ruhrbeck Sport Cabriolet (1999-08 ペブルビーチ)
(写真02-4abc) 1939 Horch 853A Sport Cabriolet (2008-01 シュパイヤー科学館/ドイツ)
(写真02-5abc) 1939 Horch 853A Sport Cabriolet (2008-01 ドイツ国立博物館/ミュンヘン)
(写真02-6ab)1939 Horch 853A Sport Cabriolet (2012-04トヨタ自動車博物館/名古屋)
ここに続けて掲載した4台の車はいずれも1930年代後半の「853A」だ。数あるモデルの中で「853A」ばかり集まった理由はよく判らないが、生産台数が多かったのか、見た目が良いので保存対象となったのか。スポーツ・カブリオレと言ってもドイツ風では「軽快感」より「重厚感」の印象が強い。
(写真02-7a) 1938 Horch 855 Erdmann & Rossi Roadster (1995-08 モントレー・オークション)
華やかな塗分けのこの車は「855」だが、エンジンは直8/4,955ccで前出の「853A」と全く同じだ。毎年8月モンタレー市内のコンベンションホールで開かれるクラシックカーのオークションに持ち込まれた車だ。
(写真02-8abc) 1938 Horch 855 Erdmann & Rpssi Special Roadster (1999-08 ペブルビーチ)
前項の車とは色違いで全く同じボディを持っている。この年は例年より少し早めに現地入りをしたので、コンクールの前日にペブルビーチのゴルフ場から風光明媚な海沿いの17マイル・ドライブコースを通ってモントレー市内迄行われるパレードを追いかけた。
(写真02-9abc) 1938 Horch 930V Cabriolet (2008-01 VWミュージアム/ドイツ本社工場内)
(写真02-10a~d) 1939 Horch 930V Cabriolet (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
モデル名は「930V」と遂に900台まで来たが、排気量は3,823ccで、価格も「855」の半分程度の「ホルヒ」としては普及版というところか。エンジンが「V8」となった分ボンネットが短くなり、ラジエターの位置が前進した近代的レイアウトになったが、全体に「アク」の強さが無くなってしまった。
(写真02-11ab)1940 Horch 901 Type40 (Kfz.11) (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ)
博物館の説明には「1937-43 Horch Sd KFZ」とあった。この車は第二次大戦中のドイツ軍用車だから「統制型乗用車」としての番号が付与されている訳だ。この車は非武装・装輪車だから、僕の乏しい知識だが、「特殊車両」を表す「Sd」は付かないのではないかと思う。39年までの前期型はボディ中央にスペアタイヤを付けているので1940年以降の後期型だ。
・(追記)ここまで書いて気が付いたのは「ホルヒ」についてはA項「アウトウニオン」の中ですでに紹介済みだった事だった。
(03) <オチキス> (仏)
「Hotchkiss」はHを発音しないフランス語では「オチキス」だが、英語では「ホチキス」となる。これはお馴染みのパチンと紙を止めるあの道具だから、事務用品の会社が造った自動車かと思うのは早計で、元々この会社の創立者はアメリカから移住した「ベンジャミン・オチキス」で、1870年起きた普仏戦争で大砲や機関銃などの兵器を造るため造った会社だ。その証拠に自動車のエンブレムには大砲の砲身が交差している。1900年代に入って自動車も造り始め、第二次大戦後の1950年には「プジョー」の傘下に入り1954年まで「オチキス」の名を冠した乗用車を生産していたが、戦前のモデルの焼き直しでお茶を濁していたから時代遅れで、多分正規輸入は無かっただろう。自動車として「オチキス」の名前を知っていた人は殆どなかったし、現物を見た人は希だろう。
・因みにあの道具の方は英語では「Stapler」という。「Staple」(コの字型の金具)を使って紙を綴じる道具という、用途に由来する名称だ。一方我が国では明治時代アメリカから初めて輸入された際、これを造っていた「E.H.ホチキス社」の商品名が「ホチキスNo.1」だった事からそれが定着したものだ。
(写真03-1abc) 1930(推定) Hotchkiss 2dr Cabriolet (2003-02 パリ・レトロモビル)
毎年1月か2月にパリで開かれる「レトロモビル」は、日本で手に入らないメジャーでないフランス車の資料を探したり、写真でしか見たことのなかったフランスの名車に出会えたりと、楽しみなイベントだ。ここの欠点は、ぎっしり詰め込まれた展示物には写真を撮るだけのスペースが無いものが多く、展示物に説明が付いて居ないものが沢山ある事だ。日の出のようなグリルを付けた写真の車だが、全く説明が無く、正体は不明だ。
(写真03-2abc) 1935 Hotchkiss 20-50 Anjou 4dr Berlina (1965-11 CCCJコンクール・デレガンス/池袋)
この車はコンクールで撮影したものなので素性がはっきりしている。全体には1930年代中期の典型的なスタイルで良く纏まっているが、結局このまま発展が無く戦後の1954年の最後のモデル迄フェンダーが付いたままだった。
(写真03-3ab) 1939 Hotchkiss 20CV CS3 Mocane (2004-06 グッドウッド/イギリス)
イギリスのイベント会場駐車場で見つけたフランス車だ。ホイールのブルーが目を引くが、ボディに関してはこれといった特徴は無い。
(写真03-4ab) 1939(推定) Hotchkiss 2dr (2002-01 パリ・レトロモビル)
この車もレトロモビルに展示されていたもので、年式/モデル名は推定だ。トップを取り外しても窓枠が残るこのタイプも、コンバーチブルと同じでフランスでは「デカポタブル」と呼ばれる。
(写真03-5ab)1950-54 Hotchkiss 20-50 Anjo 4dr Berlina (1960-09 ニューエンパイア・モータース/虎ノ門)
「オチキス」としては最後となったモデルで、現役として街中で捉えた貴重な写真だ。珍しい車ではあるが、時代遅れのこの車は流石にフランス大使館ではなく個人の自家用ナンバーだった。デーラーを通しての正規輸入でないとすればどういう経路で日本に入って来たのだろうか。
(写真03-5ab) 1953 Hotchkiss-Gregire Berlina (2002-01 フランス国立自動車博物館)
この車は1951-54年に僅か247台しか造られなかったが、旧態然としていた「オチキス」に活を入れる斬新なものだった。モデル名についている「グレゴワール」は設計者の名前で、1937年以来関係するこの技術者は、前輪駆動の権威として自動車の発展に大きな功績を残している。現代では当たり前の「前輪駆動」は、馬車は馬が前から引くという原理で古くから発想はあったが、舵角を生じた前輪に、スムースに駆動力を伝える「ジョイント」に難点があり中々実現しなかった。ここに登場したのが「グレゴワール式等速ジョイント」で、この特許は1928年「DKW」を始め「アドラー」「シトロエン」から「ジープ」迄広く採用されている。このジョイントを使って1927-30年のルマン24時間レースに初の前輪駆動レーシングカー「トラクタ・ジェフィ」が参戦した。27年にはグレゴワール自身がドライブ、30年には総合8/9位(1.1 ℓクラス 優勝/2位)と堂々たる成果を残している。
(04) <ハドソン> (米)
「ハドソン」はアメリカでビッグ・スリーに属さない独立メーカーとして永い歴史を持ち、主に中級車を造り続け来た。デトロイトの実業家8名によって1909年設立され、発案者の一人で各地で百貨店を経営していた「ジョセフ・ハドソン」の名前から命名された。最大の出資者に敬意を表しただけでなく、「ハドソン」というネーミングは、17世紀の探検家「ヘンリー・ハドソン」や、彼が名付けたニューヨークを流れる「ハドソン川」など、アメリカ人にとってお馴染みだったのも理由の一つと見られる。しかし当のハドソンは僅か3年後の1912年にこの世を去ってしまい、そのあとは出資者の一人「ロイ・D・チャンピオン」という、後に10年間も商務長官を務めたほどの大物が引き継いだが、社名の「ハドソン」は変わらなかった。戦後の「ハドソン」の大きな特徴は、セミ・モノコック構造を生かした低いボディラインと、ドアを開けて下に一段踏み込むような印象から「ステップダウン・ハドソン」と言われた程低く落とし込んだ床面の設定にある。1940年代はまだ男性が帽子を被っているのが普通だったから、それだけのヘッドスペースを必要とするが、床を落とし込むことで全高を低くする事に成功したわけだ。1953年にはライバル「ナッシュ社」のヒット作「ランブラー」の後を追って、ハドソンでも小型車「ジェット」シリーズを発売したが、翌年ビッグ3と対抗すべく長年のライバルだったその「ナッシュ社」と合併して「アメリカン・モータース」となった。合併した後も1957年迄「ハドソン」の名前は残った。
(写真04-1ab) 1924 Hudson Super Six Biddle & Smart Sedan (1995-08 ペブルビーチ)
「ハドソン」は最初に売りだした1910年の「モデル20」がいきなり7099台も(Open Rds.4000、2dr Rds.1000、2dr,Touringcar 2099)製造されたと記録されている。もともと創立者の8名がすでに経営の実績のある実業家で、他の多くのメーカーは車好きの親父が町工場から成りあがったのとは違って、しっかりとした経営理念と生産設備を兼ね備えていたのだろう。写真の車は1924年型だが「ハドソン」の好調は依然続き、この後も断トツの「フォード」に次いで2位の「シボレー」に迫る勢いで、一時期は全米3位までのし上がっている。
(写真04-2ab) 1937 Hudson Custom Eight 75 4dr Sedan (1960-04 最高裁判所駐車場/霞が関)
僕が中学3年と言えば1949年のことだが、丁度アメリカ車が戦後スタイルに変身して次々と新車が街に現れ始めた時期だ。だからその頃は街を行く車でも新型車にばかり関心が向けられていた。勿論その当時は戦前の生き残りで、黒塗りのくたびれた車も現役で走っていたのだが、やはり派手な塗装とモダンなスタイルの方に目が引かれた。昭和30年代中ごろ(1960年)ふと、最近古い車があまり走っていないなと気づいた。国産車がこれにとって代わりつつあったのだ。そこで考え付いたのが官庁の車だった。写真の車は霞が関の最高裁判所の駐車場で撮影したもので、この時は4台撮影したが皆まだナンバー付きだった。
(写真04-3a) 1948-49 Hudson 4dr Sedan (1958-04 羽田空港駐車場)
ここから続く白黒写真の車は僕の経験と同時進行で、いずれも新車に近い時代を街中で捉えたものだ。クラシックカーのイベントで撮影したものと違って、現役の乗用車としての生活感が感じられる。「ハドソン」は戦後型を1948年発表したから、フェンダーに突起が無い「フラッシュサイド」は「フォード」より1年早かったが、歴史的には1949年「フォード」が名を残している。写真の車は羽田空港で撮影したものだが、横長の古いナンバープレートは「4万番代」でこれは官公庁用の番号だ。
(写真04-3b) 1948-49 Hudson (2007-04トヨタ自動車博物館)
ブリキ製の玩具の自動車は、むやみと高嶺で取引されているらしい。我が家にも昔「シトロエンDS」のブレーク仕様があったが、何回も引っ越ししているうちの、どこかに紛失してしまい残念。トヨタ自動車博物館に展示されていたこの車は、車もさることながら、この「箱」に大きな価値がある。何故ならそこには「Made in Occupide Japan」と独立国ではない「占領下」にあった日本の証が示されているからだ。
(写真04-4a) 1948-49 Hudson Super Six 4dr Sedan (1959年 羽田空港駐車場)
この車は前出の車と同じ1948-49年型だが、この2年は外見上での相違点が見つからず年式の特定はできない。この車のナンバープレートは2段式の新しいものが付いている。この時点で「ひらがな」の記号は「あ・か行/営業用」、「さ行/自家用、「た行/官公庁」と割り振られていたから、どこかのお役所の車だろうが、今のように好きなナンバーが買える時代ではなかったのに、良いナンバーが付いている。
(写真04-5ab) 1950 Hudson Commodor 4dr Sedan (1958年 静岡県庁付近)
昭和30年代初め頃の静岡県庁には、多種多様のアメリカ車が在籍していた。「リンカーン」「マーキュリー」「フォード」「クライスラー」「デソート」「ダッジ」「プリムス」「ビュイック」「ポンティアック」「オールズモビル」「パッカード」「ハドソン」「ナッシュ」「スチュードベーカー」「カイザー」「ウイリス・ステーションワゴン」と当時市販されていたアメリカ車は「キャディラック」と「シボレー」以外はすべて揃っていた。財政が豊かだったのか、車好きな担当者が選んだのか、あまりお役所向きではないような派手な車もあった。車格から見ると県知事の車は「リンカーン・コスモポリタン」か。「ハドソン」は順位からすれば課長さんクラスだろう。
(写真04-5c) 1950 Hudson Pacemaker 2dr Club Coupe (1958年 静岡市内)
同じ1950年型だがこちらは2ドアの個人所有の車だ。当時のアメリカ車は社長用の大型の4ドアが一般的で、後座席の乗り降りが不便な2ドアは社長用でないから非常に珍しい。場所は静岡市の江川町交差点で、正面奥が静岡鉄道「新静岡駅」、右の突き当りが「静岡駅」だ。
(写真04-6ab) 1951 Hudson Hornet 4dr Sedan (1959年 銀座4丁目付近)
「ハドソン」はサイドに太い梁が入った特殊な構造のため大きなモデルチェンジは難しく、基本的には顔の変化が年式の確認手段だ。場所は外堀道りの都電停留所、数寄屋橋付近だったと思う。最近は見かけないが、終戦直後から街頭の「靴磨き」はずっと続いていた。
(写真04-6b) 1951 Hudsom Commander 4dr Sedan (1962-04立川市内)
アメリカ臭さを感じるため立川周辺には何回か足を運んだ。東京で見るお役所用のフォーマルな4ドアセダン以外の、個人用の2ドアの車が見られたり、あちこちが凹んだり、パーツが欠損したり、生活の匂いが感じられる車に沢山出会った。立川基地の「ゲート・ワン」から出てきたこの車もドア下のクローム部分がそっくり外れているようだ。
(写真04-7ab) 1952 Hudson Hornet 4dr Sedan (1962-04 JR渋谷駅付近)
この当時僕は世田谷区の祖師谷大蔵から東急/小田急バスを使って渋谷に出ていたから、西口側のバスターミナルから、オリンピックを目前に首都高3号線が青山方面からJRの渋谷駅を超えて道玄坂上に向かって日々延びて行くのを毎日見ていた。一方東口側は東急文化会館・プラネタリュームがあり、4つの都電始発駅となっていた。後ろに見える都電は⑨番系統で、青山通りを通って、赤坂見附-国会議事堂-日比谷-銀座-築地-茅場町-水天宮を経て浜町中ノ橋まで東京の中心部を斜めに突っ切る長距離路線だった。
(写真04-8ab) 1953 Hudson Super Wasp 4dr Sedan (1961-08 赤坂溜池裏道り)
写真の撮影場所は裏通りだが、建物の向こうの表通りは溜池の交差点で、「ダンロップビル」の隣には「日本自動車」があったからここはその裏手に当たる。「日本自動車」は1910年代から「ハドソン」の輸入代理店で、1930年代には国内ではタクシーに多用された。
(写真04-9ab) 1954 Hudson Itaria Six 2dr Sprt Coupe (2004-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
そろそろ先の見えてきた「ハドソン」が最後に見せた力作だ。ベースとなったのは「スーパー・ジェット」で、デザインはチーフデザイナーの「フランク・スプリング」が行い、製作はイタリアの「カロセリア・ ツーリング」が担当した。1954年のトリノ・ショーに展示された際は好評だったが、ショーモデルかと思ったら正式にカタログモデルとして販売された。しかし価格が高すぎて26台しか売れなかった。かなり奇抜なデザインで排気管のように見えるリアの3本のパイプには「テールランプ」「ターンシグナル」「バックアップランプ」が埋め込まれている。
(写真04-10a)1953 Hudson Super Jet 4dr Sedan (1958年 静岡市内)
アメリカで「コンパクトカー・ブーム」が起きたのはビッグ3の「ファルコン」「コルベアー」「ヴァリアント」が発売された1960年からだったが、それより10年も前の1950年、「ナッシュ社」から「ランブラー・シリーズ」として、アメリカ車の標準を下回るホイールベース100インチ(2,540mm)、排気量2,728ccの小さめの車が発売された。同じ年のフルサイズの「キャディラック62」は126インチ(3,200mm)、5,421ccだったから、それからみれば小型車だ。しかし初代「クラウン」はもっと小さくホイールベースは2,530mm、排気量は1,500ccだったから、日本に来れば大型車だ。これが意外と好調で11,500台近く売れたので、同じ独立系のライバルに負けじと1953年「ハドソン社」が造ったのが「ジェット・シリーズ」だった。「ランブラー」よりは少し大きめでホイールベース2,667mm、排気量3,310ccだったが、「ハドソン」の特徴である「ステップダウン」の構造は採用されなかったから、背の高さは兄貴分より高い平凡な車になってしまった。
(写真04-11a) 1954 Hudson Jetliner 4dr Sedan (1961-11 場所不明)
折角小型車「ジェット」シリーズを発売した「ハドソン社」だったが、その翌年1954年にはビッグ3に対抗すべく、長年のライバルだった「ナッシュ社」と合併して「アメリカン・モータース」と社名が変わった。そこには実績のある「ランブラー」という競争相手が有ったハドソンの「ジェット」シリーズは2年で消滅してしまった。僕は若いころ路上で車を追いかけていた頃の白黒写真については、殆ど撮影場所や、その時の情景を覚えているが、特徴のある石畳のこの場所は全く思い出せない。この車を見付けたとき何の感動も受けなかった、という訳ではないと思うのだが・・。
(05) <ハンバー> (英)
「ハンバー」という会社は「トーマス・ハンバー」によって1868年自転車メーカーとして設立された。1898年には時代を先取りして自転車から自動車へと乗り換えたから19世紀中に誕生した自動車メーカーのパイオニアの一つだ。1910年代には英国第2のメーカーとなっており、1925年には商用車「コマー」を、28年には「ヒルマン」を買収して盛業中だった。しかし1931年にはデーラーからメーカーへの転換を狙っていた「ルーツ・グループ」に株を買い占められ、その傘下に置かれることになった。その後も「ハンバー」「ヒルマン」に関してはそのままの体制で製造は続けられた。1930年に「16-50」モデルに「スナイプ」の愛称が付けられたのが戦後まで続く名前のルーツだ。1930年代の「スナイプ」は大小2種のエンジンが用意され2.3 ℓと3.5 ℓが選べた。派手さは無いが落ち着いた上品な中型車として官公庁にも多用された。現エリザベス女王の父君「ジョージ6世」の名の付いた「プルマン・リムジン」のモデルカーがあり、1954年女王が豪州を訪問された際も「ハンバー」が使われたとあるので、英王室においても高い評価を受けていたことが伺える
(写真05-1ab) 1909 Humber 8p (2004-06 英国国立自動車博物館/ビューリー)
殆どボディの無いような「ランナボート」と呼ばれるタイプはこの時代としては特別な物ではなかった。説明によると、この車は「ロ-ド・モンターギュ」(このコレクションの創設者)が1959年結婚記念に奥様へのプレゼントとして購入したとある。天候へのプロテクトは全く配慮されておらず、僅かにドライバーにための丸い風よけがあるだけだ。天気の良い日はレディは籐で編んだバスケットに入れたパラソルをさしたが、最高時速が64キロも出たから、高速時は無理だったろう。この車は1967年の映画「チキチキ・バンバン」で使用され有名になった。
(写真05-2ab)1952-57 Humber Super Snipe Ⅳ Saloon (1960年 東京駅・八重洲口)
1938年「スナイプ゚」の上級モデルを「スナイプ・インペリアル」と名付けたが、1939年にはそれを基に「スーパー・スナイプ」という新しい名前が誕生した。戦後は1945-48年の「マークⅠ」から始まり、48-50年「マークⅡ」、50-52年「マークⅢ」を経て、52-57年の「マークⅣ」に続く。「Ⅰ」は戦前のままでヘッドライトが独立している。「Ⅱ」「Ⅲ」はヘッドライトが埋め込みとなったが、フェンダーは前後とも独立している。「Ⅳ」はGM系のように後ろのフェンダーだけ残したフルワイドボディとなった。日本での代理店は「ヒルマン」などルーツ・グループを扱う「伊藤忠」だったが、大型車となる「ハンバー」は当時日の出の勢いだった派手なアメリカ車に市場を奪われ、輸入された数は少なかった。場所は東京駅八重洲口にあった駐車場で、背景の大きいビルは大丸百貨店だが、道の向こう側はまだ開発が始まっていない。
(写真05-3ab)1954-56 Humber Hawk Ⅵ Saloon (1959年 銀座付近)
戦後の「ハンバー」は「スーパー・スナイプ」の弟分として4気筒1,944ccの「ホーク」シリーズを立ち上げた。戦前のヒルマンに「16/ホーク」と名付けられた上級シリーズがあったが、戦後の「ホーク」は1938-40年の「ヒルマン14」の焼き直しで「ハンバー ホーク」と名を変えて登場したわけだ。マークⅢ以降は「スーパー・スナイプ」と同じ顔付きとなり一見見分けが付かないが、全長が短く、特に「スナイプ」の6気筒に対して4気筒の「ホーク」はボンネットの長さにはっきりとした差がみられる。その差が判り易いように両車を順番に並べて掲載した。
(写真05-4ab) 1956-57 Humber Hawk ⅥA Saloon (1958年 羽田空港駐車場)
あまり多く輸入されなかった旧型の「ハンバー」は、自家用の白ナンバーには街中では2回しか出っていない。ただ国産車が国際レベルに達する以前は、自動車生産国の大使館では自国の車を持ち込んでいたから、大使館の車はイギリスだけでは無く、東欧諸国の珍しい車も沢山見てきた。喜ぶべきか、悲しむべきか、国産車が良くなるにつれて、大使館の雑用に使われる車がみな国産車に変わってしまい、珍しい車に出会う機会は減ってしまった。さて、写真の車は英国大使館のものだろうか、「青ナンバー」と呼ばれるナンバープレートは外交官用で、青地に白文字で「外」と4桁の数字が入る。「外」の字が〇で囲ってあれば大使の公用車で、その場合は末尾に「0」が割り振られる。
・余談だが、「青ナンバー」は治外法権が適用され日本の法律では規制されないらしく、ごく一部の国の車は駐車違反し放題とテレビで報道されていた。取り締まる側も、どうにもならないのを承知で「意地で」何回もタイヤにチョークでマークを付けていたらしい車も見たことがある。名誉のため申し添えると、英国紳士の操るこの車はそんなことはしていないので念の為。
(写真05-5ab) 1957 Humber Hawk MkⅠ Saloon (1959年 有楽町付近/丸の内)
1957年戦後2回目のモデルチェンジが行われ、外観はすっかりアメリカナイズされ、平凡な形になってしまった。旧型で「Ⅵ」まで進んでいたモデル名は、新型になって「Ⅰ」に戻った。
(写真05-6a~d) 1983 Hunber ScepterⅠSaloon (1965-11、2011-10 /クラシックカーイベント)
1963年になると「ホーク」の2.3 ℓより小型の1,6 ℓクラスの「セプター」シリーズを発表した。この当時ルーツ・グループには「ハンバー」の他に、傘下にいくつもの銘柄を抱えており、顔だけ違う「バッジ・エンジニアリング」で「ヒルマン・ミンクス」「シンガー・ガゼル」「サンビーム・レピア」の兄弟も同時に生産している。この車は1965年のCCCJコンクール・デレガンスで撮影しており、46年後ナンバーも同じ昔の儘で再会したものだ。
(写真05-7a) 1964 Humber Scepter 4dr Saloon (1963-11 東京オートショー/晴海)
(写真05-8a) 1965 Humber ScepterⅡ 4dr saloon (1965-09 東京オートショー/晴海)
(写真05-9a) 1966 Humber Scepter 4dr Saloon (1969-11 東京オートショー/晴海)
(写真05-10a) 1967 Humber Scepter 4dr saloon (1966-11 東京オートショー/晴海)
(写真05-11a) 1969 Humber Scepter 4dr Saloon (1968-11 東京オートショー/晴海)
以路上駐車が禁止され街中で撮影が困難な時期、モーターショーに展示された新車状態の車をまとめて掲載した。
― 次回から大量に資料のある「ホンダ」を予定しています ―