1949 Healey Silverstone
(01)<ハノマク> (独)
「HANOMAG」の名前は「Hanoversche Mashinenbau AG」(ハノーバー機械工業株式会社)を縮小したもので、創立は古く19世紀(1800年代)といわれ、最初は蒸気機関車を製造していた。その後スチームエンジンを持ったトラクターを造ったことから、道路を走る自動車の分野に進出した。最初のガソリンエンジンを積んだ自動車は、1925年の「コミスブロート」で、その後小型、中型車の分野で1941年まで市販車を造っていたが、いずれも日本には輸入されなかったようで、資料からも確認できなかった。戦後は1951年に697ccの小型試作車を発表したが生産には至らず姿を消した。
(写真01-1a~e) 1924 Hanomag 2/10PS Kommissbrot (2008-01 VW本社工場内博物館/ウオルフスブルク)
一度見たら忘れられない「一つ目小僧」のこの車は、ハノマクが最初に製造した「コミスブロート」と名付けられた車で、4サイクル水冷単気筒OHV 499cc 10psのエンジンをリアに置き、チエンで駆動する方式でデフは無かった。当時としても「軽自動車」並みの扱いだったが2300マルクという低価格と、最高時速65キロの性能は人気を呼び、1928年までの3年間で15,775台が製造された。しかし後にBMWに買収された「Dixi」が「オースチンセブン」をライセンス生産して市場に参入してきたため、1929年からはそれに対抗するため一回り大きい751ccの「3/16ps」に変わった。
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(02)<ヒーレー> (英)
「ヒーレー」という名前を最初に知ったのは「オースチン・ヒーレー」からだった。その車は1953年誕生した。この車を造ったのは1898年生まれのイギリス人「ドナルド・ミッチェル・ヒーレー」で、若い時は英国陸軍航空隊のパイロットとして第1次世界大戦に参戦したが負傷し、除隊後は自動車への関心を高め、自からのガレージを持つことになった。自身はラリー・ドライバーとして活躍したが、その一方、1931年には「トライアンフ社」のゼネラルナネージャーとして招聘され、デザイナーとして「サザンクロス」と「ドロマイト8」の開発に参画した。第2次大戦が終わると1945年「ドナルド・ヒーレー・モーターカンパニー」を設立し、いよいよ自身の自動車造りが始まる。最初に造った車は1946年の2.4リッター「ウエストランド」だった。1949年には「シルバーストーン」が生産を開始したが、その年アメリカの「ナッシュ」と契約を結び、そのエンジンを使った「ナッシュ・ヒーレー」は1951年から54年までナッシュのカタログモデルとして生産された。1952年締結した「BMC」との契約のもと53年からは「オースチン・ヒーレー」、58年からは「オースチン・ヒーレー・スプライト」が生産され、大メーカーで量産されたことによって「ヒーレー」の名前は僕らの知る所となったのだ。(因みに生産台数の少ない「ヒーレー・シルバーストーン」は、1950 年代の現役当時は日本国内で見ることは出来ず、僕が初めて見たのは1992年だった。)
(写真02-1a~d) 1949 Healey Silverstone (1992-10 第1回ラ・フェスタ・ミッレミリア/明治神宮絵画館前)
「ヒーレー」はエンジンは自製しておらず、当時製造していた2.4リッター系の各車は「ライレー」が開発した水冷直列4気筒OHV 2443cc を自社製のシャシーに搭載している。この車のボディには3つの大きな特徴がある。一つは当時としては珍しい「サイクル・フェンダー」(非連動)付きである事。二つ目は「ヘッドライト」がラジエターグリル内にある事。(これは戦前の「プジョウ402」を連想するデザインだ。)三つ目は「スペアタイヤ」の収納方法で、リアトランクの下に水平に置かれ、少し外に出た後端がバンパーの役目を兼ねているのも面白い発想だ。ボディは軽量化のためアルミ製で、最高速度は107mph(171km/h)とされている。生産されたのは1949-50年と短く、総生産台数は僅か104台だった。因みに「シルバースト-ン」とはイギリスGPも開催される有名なサーキットの名前から採ったものだ。
(写真02-2ab) 1949 Healey Silverstone (2001-05 サンマリノ/ミッレミリア)
この場所はミッレミリアの通過点「サンマリノ」で、車の前方に見える広場がチェックポイントだ。
(写真02-3a) 1949 Healey Silverstone (2000-05 ブレシア/ミッレミリア)
この場所はイタリア・ブレシアで、これからミッレミリアの車検を受けるため「ビットリア広場」へ向かっているところだ。殆ど渋滞しているからオーバーヒートを避けるため人力で押している車が多い。
(写真2-4ab) 1950 Healey Silverstone (2004-06 プレスコット・サーキット/シルバーストーン)
場所はヒルクライムで有名なプレスコット・サーキットで、隣に並んだ「アラード」と共に50年代に活躍した仲間同士だ。
(写真02-5abc) 1950 Healey Silverstone (2010-10 ラ・フェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
現存するのが70台程といわれる「シルバーストーン」だが僕は9台を撮影している。しかもその内3台は日本のナンバー付きだ。性能もさることながら、特異な外見から趣味性も兼ね備えており人気は高い。
(写真02-6abc) 1950 Healey Silverstone (2009-10 ラ・フェスタ・ミッレミリア/明治神宮)
「シルバーストーン」の特徴の一つでもあるグリル内のヘッドライトだが、枠越しの点灯に不安を感じるのか、殆どの車が外に「ヘッドライト」か「ドライビング・ランプ」を追加している。その中でこの車だけはオリジナルのままの姿を保っているのが逆に珍しい。しかしボンネットの下のエンジンはかなり高度にチューンされているようだ。
(03)<ハインケル> (独)
第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは航空機の製造を禁止されていたが、1922年これが解除された際設立されたのが「ハインケル航空機製造会社」だ。第二次大戦中ドイツ空軍の為に造った「He111」爆撃機が傑作機として知られたから、当時小学生だった僕にとって、「ハインケル」は爆撃機、「メッサーシュミット」は戦闘機のイメージが強い。第二次大戦でも再び敗戦国となってしまったから、航空機は造ることが出来ず、1950年代にはスクーターなどの2輪車で糊口を凌(しの)いでいたのはわが国の航空機メーカーと同じだ。スクーターの居住性向上の要望に応えて造られたのが「キャビン・スクーター」で、「イセッタ」「ハインケル」「メッサーシュミット」がよく知られている。「メッサーシュミット」は前後にシートがあり戦闘機のように「キャノピー」をはね上げて乗り込むのに対して、「ハインケル」は横2列のシートで、正面から「冷蔵庫」の扉を開けるようにして乗り込んだ。それぞれの前身が飛行機メーカーだったことを連想させる戦闘機と爆撃機の座席配列からの発想かなと思ったのは僕の勝手な想像だ。
(写真03-1a~d) 1957 Heinkel Kabinenroller Type150 (2008-01 ドイツ国立博物館/ミュンヘン)
「キャビン・スクーター」(カピネン・ローラー)という名前の通り、これは自動車ではなくスクーターの進化したものだ。空冷4ストローク単気筒174cc 9.2ps で、3輪の後ろ1輪を駆動し82km/hが可能だった。ドイツでは「BMW」がイタリアのイセッタを大量にライセンス生産し、日本国内でも多数見られたが、「ハインケル」には一度も出会わなかった。
(写真03-2a~d) 1957(60?) Heinkel Trojan 200 (1985-09 大阪クラシックカーフェスティバル/ 大阪万博公園)
「ハインケル」のキャビン・スクーターは1960~66年イギリスの「トロ―ジャン」でライセンス生産された。写真の車は国内で見た唯一の「トロージャン」で、プログラムに従って1957年としたが、最初に造られた「トロージャン200」は1960年からの筈だ。ドアを開けるとハンドルが連動して移動するのは「イセッタ」が特許を取っており、「ハインケル」の場合は連動していない。
(写真03-3abc) 1963 Heinkel Trojan 603 (2008-01 シュパイヤー科学博物館/ドイツ)
「BMW・イセッタ」の場合と違って、この車は「ハインケル・トロ―ジャン」と「ハインケル」が頭に付くのは両社のネームバリューの差だろうか。最初から最後までボディの形に変化は無く、前項の車には「トロージャン」のバッジを付けているのに、この車は「ハインケル」のバッジで、他の何処にもトロ―ジャンの印は見つからない。
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(04)<ヘンリーJ>(米・日)
「ヘンリーJ」という車はアメリカの「カイザー・フレーザー社」から生まれた車だ。生みの親は造船王で知られる「ヘンリーJ・カイザー」で、元々持っていた「小型車を安価で販売し普及させよう」という構想を実現したものだ。しかし、アメリカで「コンパクトカー」がブームとなったのは1960年に入ってからで、「ヘンリーJ」の登場は10年早く、1951年から54年までで姿を消してしまった。僕は最初見た時はすっかりアメリカ車だと思っていたが、実は日本でノックダウン生産されたものだった。それが証拠に、よく見れば右ハンドルだ。1950年代の日本はまだ自動車に関しては後進国で、その技術を学ぶため「日産」は「オースチン」、「日野」は「ルノー」、「いすゞ」は「ヒルマン」とそれぞれに契約してノックダウン組み立てをしていることが知られていた。しかし「ヘンリーJ」はそれらに先駆けて1950年「東日本重工業」(現・三菱重工業)が、我が国としては最初の生産に入っていたのだ。殆ど本国と同時進行で始まったが、54年までに僅か509台が造られただけだったので、一般には殆ど知られることが無かった。
(写真04-1a~d) 1951-52 Henry J Standard 2dr Sedan (1957年/静岡市内)
国内生産された車は、オースチンは「日産・オースチン」、ルノーは「日野・ルノー」と日本メーカーの名前を付けて呼ばれたが、ヒルマンについては「いすゞ・ヒルマン」と呼んだ記憶はない。「ヘンリーJ」については、国内で生産されていたことすら知らなかったから「東日本重工・ヘンリーJ」とは絶対呼べなかった。リアトランクに書かれた見事な筆記体の「HenryJ」の文字を見れば、紛れも無くアメリカ生まれと思ったのも無理はない。
(写真04-2ab) 1953 Henry J Corsair Deluxe (1959-04 東京会館横/丸の内)
1953年グリルのデザインが変わり「後期型」となった。「ヘンリーJ」は1952-53年アメリカ最大の通販会社「シアーズ・ローバックにOEM提供され、少し手を加えられ「オールステート」の名前で通信販売された。
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(05)<ヒルマン> (英)
英国車「ヒルマン」は1953年から日本の「いすゞ自動車」でノックダウンから製造を始め、部品の国産化を経て、最後には本国とは別の独自の発展を遂げた車だから生産台数も多く、街中でも良く見かける身近な車だった。創業者「ウイリアム・ヒルマン」は1847年生まれで、1870年には「アリエル自転車」を共同で設立し大成功で財を成していた。(因みにこの会社は後年オートバイ・メーカ「アリエル」となって名車を残している)
・最初にヒルマンの名前が付いた車は1907年設立された「ヒルマン・コータレン・モーターカー・カンパニー」が造ったレースカー「24/25CV」(4気筒)で、一方乗用車は9.76リッター(6気筒)と、6.4リッター(4気筒)の大型車だった。 .
・1910年共同経営者でレース指向の主任設計者コータレンがサンビームに去り・会社名が「ヒルマン・モーター・カンパニー」となると、会社の目指す方向も一転して小型乗用車に変り、1327ccの「ヒルマン・ナイン」一本に絞り1925年までに徐々に進化しながら約4000台が造られた。
・1928年になると「ハンバー」に買収されたが「ヒルマン」は、その一部門として存続する。
・1931年「ルーツ・グループ」の傘下に組み込まれたが、自動車部門は「ハンバー」と「ヒルマン」だけで、1934年「サンビーム」がグループに加わってきた。
・1932年小型車の傑作としてヒルマンを支え続けた「ミンクス・シリーズ」が誕生した。第二次大戦を挟んで戦後の1967年まで35年間にわたって造られ「ヒルマンミンクス」とワンフレーズで呼ばれるほどヒルマンを代表するモデルとなった。直列4気筒 SV 1185ccのエンジンは1932年から戦後の49年まで一貫して変わらず、戦前最後の39年型は戦時中も造られ、そのまま戦後の47年迄造られ続けた。
・戦後は1957年迄モデルチェンジのたびに「フェイズⅠ~Ⅷ」と命名されたが、1956年登場した新型からは「シリーズⅠ~Ⅵ」と新しい名前に変わった。英国内で生産台数が判っている1948年から61年迄に約84万台造られているから (45-47年,63-67年は含まず)、全体では100万台近く造られたものと思われる。
・1963年には一回り小型な875ccの「インプ」が誕生し「ミンクス」を引き継いだ。
(写真05-1a~d) 1938 Hillman Minx Magnificent (2007-06 イギリス国立自動車博物館)
この車は戦前造られた6種の「ミンクス」の中で5番目にあたり、殆ど同じ形で戦後の「フェーズⅠ」となった。外見は典型的な30年代後半のスタイルで、際立った特徴は無い。展示場所は博物館の中だが、当時のガソリンスタンド風景に設定されている。
(写真05-2a~d) 1947 Hillman Minx PhaseⅠDrophead Coupe (1959 丸の内/1961 港区内)
戦前の姿のまま戦後型として登場したのがこの車で、「フェーズⅠ」となった。わが国では贅沢な車と認識される幌付きのオープンカーだが、イギリスでは当たり前の車の一種と扱われているようで、物資の欠乏したであろう戦時中も、戦争直後もこのタイプは存在している。写真の車には3回出会っているが、最初の1959年の時(05-2d)は正常だった「ランドウ・ジョイント」(幌を支える金具)が、車検が終わった後の61年(05-2c)には逆に付け替えられていた。本来の金具は「S」字カーブである筈で、金具を組み立てる際、裏側にして組んでしまった結果だ。これが単発的なミスではないのは古い「オペル」も同じ目にあっているので、どこかの「幌内張り屋」の親父が誤って記憶しているのだろう。
(写真05-3ab) 1948 Hillman Minx PhaseⅡ 4dr Saloon (1960年/港区内)
「フェーズⅡ」となったこのモデルは全体には戦前型と変わらないが、フロントフェンダーに手が加えられヘッドライトが内蔵されて戦後型らしくなった。エンジンは戦前と変わらず1185ccのままだった。
(写真05-4a) 1952 Hillman Minx PhaseⅤ(改) Pickup (1957年/静岡市内)
ピックアップに改造されたこの車は、静岡名産「わさび漬」の本舗として有名な「小泉楼」が所有していた。トラックではなくピックアップを選んだのは食品を扱う老舗のこだわりだろうか。国産化される以前の「ヒルマン」だから当然高価な輸入外車で、惜しげもなく改造してしまうのは流石だが、当時静岡市内には1947年の「シボレー」と1951年の「デソート」の乗用車を改造したピックアップも走っていた。
(写真05-5abc)1953 Hillman Minx PhaseⅥ Saloon (PH10) (2007-04 トヨタ自動車博物館)
1953年からは日本の「いすず自動車」が技術習得のため、英国の「ヒルマン・ミンクス」のノックダウン製造(完成した部品を輸入して組み立てし製品にすること)を始めた。
・写真の車はトヨタ自動車博物館に展示されており、案内板に「この車は国産組立第1号車」と説明されている。最初は「まさか」と疑ったが、実は「いすず」から貸与を受けて展示されているということなので本当に1号車だろう。国産ヒルマンは大別して1953-56年の旧型「PH10系」と、1956-64年の新型「PH100系」に分類される。
(写真05-6a)1954 Hillman Minx PhaseⅦ Saloon (PH11) (1959年/静岡市内)
多分国産の「ヒルマン」だろうが、完全ノックダウンだからどこにも「いすゞ」の印は見当たらず、元が英国車だから右ハンドルで、ここからも見分けは付かない。ただ静岡市内では53,54年型の輸入ヨーロッパ車が相当数走っていたから、英国製の可能性もある。
(写真05-7ab)1955 Hillman Minx PhaseⅧ Saloon (PH12) (1957年/静岡市内)
「ヒルマン・ミンクス」は大衆車で奇を衒(てら)う必要はないから、大きな変化はあまりない。エンジンも一度決まったらそのまま変わりなく、ボディの方も1948年のフェイズⅢ依頼基本的には変わっていない。こうして同じものを造り続けることで、品質の安定と信頼性を高め、逆にコストを下げるメリットもあり、これが大衆車のこの車にとっては最良の方法だったのだろう。
(写真05-8abc)1956 Hillman Minx PhaseⅧA Saloon (PH12) (1966-07 /原宿駅付近)
この車が去年と違うところは1か所だけある。それはサイドモールの長さで、前の扉迄だったのが最後尾まで延長されたことだ。場所は山手線原宿駅付近の線路沿いで、竹下通りの入り口に近いところだが、僕の記憶には残っていないから当時はまだ何もなかっただろう。
(写真05-9a) 1957 Hillman Minx SerirsⅠSuper Deluxe saloon(PH100) (1958年/静岡市内)
久々にモデルチェンジが行われ、フラッシュサイドの時代に合ったスタイルとなった。手掛けたのは「口紅から機関車まで」と言われた万能デザイナー「レイモンド・ローウイ」だった。今までの少々野暮ったいイメージから、上品な洗練された印象に変わったから特に女性に評判が良かったようだ。このニュー・モデルからは分類方法に「シリーズ」制が採用された。
(写真05-10ab) 1958 Hillman Minx SeriesⅡSuper Delux Saloon(PH200) (1958年/静岡市内)
「シリーズⅠ」のニューモデルから最後の「シリーズⅥ」までに、エンジンは1390ccから1494cc,1592cc,1725ccと順次排気量を増加していったが、ボディの方は基本的には変わらず、グリルの細かい変化で対応した。
・この年はヒルマン誕生50周年に当たり記念モデルは「ジュビリー」と名付けられた。写真は出来立ての新車を静岡市内で捉えたものだ。
(写真05-11abc) 1962 Hillman Minx SeriesⅢB Super Deluxe Saloon (1977-01 TACSミーティング/東京プリンスホテル)
1960年モデルチェンジで「PH400ⅢA」となると、テールフィンを持ったハイスタイルが登場した。61年からはグリルが2分割となり「PH400ⅢB」となった。柔らかいパステルカラーの2トーンは穏やかで上品な印象を与えた。
(写真05-12ab) 1964 Hillman Minx SeriesⅢ Super Deluxe Saloon (2017-10 日本自動車博物館)
1953年から22年続いたいすゞ製の「ヒルマン・ミンクス」は1964年6月をもって終了した。習得した技術を基に独自の製品が開発され「ベレット」「ベレル」などが誕生していたからだ。写真の車は1964年型という事だからその最終モデルの1台で、通算では67,729台が生産されたと記録されている。
(写真05-13abc) 1963 Hillman Imp Deluxe Saloon (2007-06 イギリス国立自動車博物館)
1960年代初めのルーツ・グループのラインアップは「ヒルマン」「シンガー」「サンビーム」「ハンバー」となっていた。「ヒルマン・インプ」は、「BMC」が大ヒットさせた「ミニ(ADO15)」に対抗するため生み出されたもので,リアエンジン・リアドライブ、エンジンはF1で知られるコベントリー・クライマックス製の水冷直列4気筒、SOHC、875ccだった。見た目は当時流行りの「シボレー・コルベア」風で、ウエストラインが低く窓が大きい明るい感じの車だった。バッジ・エンジニアリングによって「シンガー・シャモア」「サンビーム・インプ」が造られた。
(写真05-14abc) 1963 Hillman Imp Saloon (1966-05 第3回日本GP/富士スピードウエイ)
ウエストラインにぐるりと鉢巻きをしたようなボディスタイルが、当時流行りの「コルベア風」で、思い出すだけでの「NSU」「BMW」「マツダ」「ネッカー」などに同じような傾向が見られた。この車はトランクのハンドルが左右についているのが珍しい。
(写真05-15ab) 1963 Hillman Imp Saloon (1966-05 虎ノ門・港区)
この車はドライビング・ランプが一見埋め込みのように見えるので別のモデルか思ったが、よく見るとランプの背面のメッキが映り込んでいるだけで、初期モデルと変わらない。
(写真05-16abc) 1967 Hillman Super Imp Mk2 (2014-11 トヨタ博物館クラシックカー・フェスタ/神宮絵画館前)
この車はイベントで撮影したものなので、年式は確認出来る。正面グリルの意匠が変わりMk2となった。後部トランクに5本の短いメッキバーが入ったのは、オープンなら「幌受け」となるが、この車の場合は単なる装飾だ。「インプ」は1967年迄造られたが基本的にはエンジンもボディも変更はなかった。
― 次回は「日野」「イスパノ・スイザ」「ホールデン」などへ続く予定です ―