(00)1939 Simca 8 Gordini
(08)ゴールデン・アロー(英)
(写真08-a~f) 1929 Irving-Naper Golden Arrow Record Breaker (2003-02 レトロモビル他)
イギリスで速度記録に挑戦した人物といえば「サー・マルコム・キャンベル」が有名だが、ここに登場する「ヘンリー・シーグレーブ」は、1924,25年と連続して「マルコム」が記録を出したのに続いて、1926 年にはその記録を破って世界記録を出した。その後次々と記録は塗り替えられていたが1927年には再び世界記録を破り頂点に立った。その記録も再び「キャンベルによって更新されたが、1929年3月11日「ゴールデン・アロー号」を駆ってデイトナビーチで231.56mph(372.66kmh)を記録しタイトルを取り戻した。「キャンベル」はその後この記録を破り1935年までに5回も記録を塗り替えたが、「シーグレーブ」はこれが最後の記録となった。
(02)ゴリアト(独)
「ゴリアト」という車は「ボルグヴァルト」グループの一員で、他に「ハンザ」と「ロイト」があり、この4つの名前が「メーカー」だったり、「車名」だったり、「モデル名」だったりして複雑に登場する。母体は「カールF.W.ボルクヴァルト」が1920年ブレーメンに設立した「Bremer Kuhlerfabric Borgward & Co」で、社名から推定すると冷却装置(ラジエター?)を造るところからスタートしたらしい。1924年「Blitzkarren」(稲妻カート)と名付けた小型3輪の配送車を発売、翌1925年にはこれを進化、発展させ「ゴリアト」と名付けた三輪トラックが誕生する。1929年には「Hansa-Loyd Werke」社を吸収合併しボルグヴァルト・グループが形成され、「ハンザ」「ゴリアト」の車名で生産が始まる。
(写真09-1ab)1931 Golisth Pionie (2008-01ドイツ博物館(自動車館)/ミュンヘン)
2サイクル単気筒200ccで2人乗りの三輪車という仕様は、戦後大流行したキャビン・スクーターのご先祖だ。前一輪操舵のこのタイプは戦後イギリスの「ボンド・ミニカー」や「リライアント・リーガル」にそっくり受け継がれたが、本家のドイツでは「ゴリアト」を除いては「メッサーシュミット」「ハインケル」「BMWイセッタ」などのように逆に前二輪が主流だった。
(写真09-2ab)1952 Goliath CD750 Station Wagon(2008-01ドイツ博物館(自動車館/ミュンヘン)
戦前のゴリアトに範を採った三輪の戦後版で1950年から製造が始まった。キャビン・スクーターより大型の実用車でGD750はバン、トラックが造られた。日本にも多くのオート三輪は存在したが、ステーションワゴン風には一度もお目にかかった事は無かった。
(写真09-3ab) 1953 Goliath GD750 3Wheel Truck(2008-01 ドイツ博物館(自動車館)/ミュンヘン)
日本でもキャビン付きオート三輪は良く見られたから特別の違和感はないが、一箇所だけ大きな違いがある。それは前輪の扱いで、ゴリアトではそっくりボンネットの中に収まっているが、日本の場合は個別のサイクルフェンダー付きで外から見える。これはボディの発展過程の違いで、「ゴリアト」の場合は1930年代誕生の時点から丸ハンドルで四輪自動車の前輪が一つ少ないだけだったが、日本では最初はオートバイの三輪版から始まったから「バーハンドル・むき出し」「風防ガラス付き」「屋根付き・窓なし」「密閉キャビン・丸ハンドル」と、もっぱら運転者を風から防ぐ方法として色々張り付けて完成したものなので、前輪は改造の対象外だったのだろう。(日本製の例外として「ジャイアント」だけは「ゴリアト」風だった)
(写真09-4a) 1950-52 Goliath GP 700 2dr Limousine (1958-01 東京駅付近)
戦後の「ボルグヴァルト」グループは、上は「ボルグヴァルト・ハンザ」、下は「ロイト」で中間を「ゴリアト」が担当した。1950-55年688cc, 1956-57年 886cc、1957-59年1093cc、と排気量は順次大きくなっていったが「1100」になった後は車名が「ハンザ」となり1961年で消滅した。1950年時点で見ると「ボディサイドがフラット」で、「フロントが1枚ガラス」というのはかなり進歩的だ。
(10) <ゴルディーニ> (仏)
「ゴルディーニ」という名前から連想するのは、大半の人はあの角ばった「ルノーR8ゴルディーニ」ではないだろうか。これを手掛けたのは1899年イタリア生まれの「アメディ・ゴルディーニ」で、1920年代にフィアットのチューニングで業界に知られる存在となった。そこに目を付けたのがフランスの「シムカ」で、1930年技術提携を結ぶと、「ルマン24時間レース」(小排気量クラス)で3連勝する偉業を成し遂げた。第2次大戦後1950年には「シムカ・ゴルディーニ」の名前で、レーシング界の最高峰「F1」に参戦した。これは「シムカ」が「ゴルディーニ」の力を借りて、というより、「ゴルディーニ」が「シムカ」の資金を目当てに誘い込んだのだろうと推測される。何故なら、1950-52年の3年間でほんの僅かしか得点を上げられず、「シムカ」が手を引いた後も、「ゴルディーニ」単独で56年までレースを続けたからだ。但しこのF1挑戦は完全に失敗だった。F1から手を引いた「ゴルディーニ」は、新たなパートナーとして「ルノー」を選び、手始めに「ドーフィン・ゴルディーニ」が発売された。この車はラリーで活躍したが、その存在はあまり知られなかった。しかし次に手掛けたのは1964年発表された「R8 ゴルディーニ」で、スポーツ・バージョンとしてカタログ・モデルとなり、いきなり「ツール・ド・コルス」で優勝してデビューを飾った。以後数々のレースで勝利をあげ、最も早いサルーンカーとしてのイメージを多くの人の記憶に焼き付けた。「ゴルディーニ」は1969年ルノーに吸収され開発部門の一部となったが、「ゴルディーニ」の名はルノーのブランド名として残された。
(写真10-1abc) 1937 Simca 5 Gordini (2002-02 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)
「シムカ」という会社は1930年代初めの「フィアット・フランス」から始まった。元々はフィアットをフランスで販売することを考えたが、フランスは国策で輸入車の関税がべらぼうに高く、低価格が売りの大衆車にとっては致命的だ。そこで見つけた裏技は殆ど完成に近い部品を輸入して国内で完成させ、国産車として関税を逃れる手だった。ここで対象となったのは「フィアット500トポリーノ」で、フランスでは「シムカ5(サンク)」と呼ばれた。だから写真の車はイタリアのミッレ・ミリアで見る数々の小型スポーツカーと同じように「フィアット500」がベースとなっている。
(写真10-2ab) 1939 Simca 8 Gordini (2002-02 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)
「シムカ8」は「フィアット508バリッラ」のフランス版だからオリジナルは995ccの筈だが、この車の排気量に関しては2冊ある資料が1220ccと1360ccとなっており、どれが正しいかは不明。この博物館に関する資料は訪問時購入した大判で312ページもある「オフィシャル・カタログ」($47.5)と、1989年アメリカで発行された「The Schlumpf Automobile Collection」182ページ(モノクロ)の2冊が頼りだが、両者がかなり食い違っており判断に悩む。特にオフィシャル・カタログの信憑性は低い。
・この車のコレクターは織物業で財を成したシュルンプ兄弟で、「ブガッティ」の大半を買い占めたといわれるほど集めたことで知られるが、「ゴルディーニ」にも高い関心を持っており、相当な数を所有していた。1976年本業の織物業が経営破綻し、兄弟はスイスに逃亡、コレクションは労働組合の占拠する所となったが、散逸を懸念したフランス政府が文化遺産として「国立自動車博物館」となり一般公開された。東京ドームよりもう少し大きい面積を持つワンフロアーに約600台の車が陳列されているが、兄弟が所有していた時代このコレクションは「完全非公開」で、部外者で見た人は3人しか居なかったといわれ、その一人が「ゴルディーニ」というから特別の関係だったのだろう。
(写真10-3ab) 1939 Simca 8 Gordini (2002-02 レトロモビル/パリ)
前項と同じ「シムカ8」で、こうして未塗装のまま素材としてみると、1939年という時代から見ればものすごく空気抵抗が少ない、時代を先取りしたボディだ。
(写真10-4ab) 1950 Simc Gordini Le Mans Coupe (2002-02フランス国立自動車博物館)
戦後「シムカ」と提携してフォミュラーレースに挑戦していた「ゴルディーニ」は、そのノウハウを生かした高性能スポーツカを造っていた。当時のシムカの市販車は「アロンド」(1.3 ℓ)と「ヴィデット」(2.3 ℓ)なので、これ等がベース となったとは考えられないから、「ゴルディーニ」独自の物だろう。この時期の一連のスポーツカーに「シムカ」を付けるのが必要か迷うところだ。この車はシャシーNo.21 GCS、エンジンは4気筒78×78 1491ccスーパーチャージャー付きとあった。
(写真10-5a-e) 1951 Simca Gordini Le Mans (2002-02 パリ・レトロモビル)
この車は前項の車と「リアウインド」と「ドアの後端」がちょっと違うだけでその他は全く同じと見える。しかしエンジンは4気筒2982ccスーパーチャージャー付きと排気量は倍になった。パリのレトロモビルに展示されていたこの車には案内板があり、そこには「Simca-Gordini」とあったのでフランスでもそのように認知されていると理解した。
(写真10-6abc) 1952.(1954) Gordini 20S Roadster (2002-02 フランス国立自動車博物館)
この車の年式は資料によって1952,1954の2種ある。型式は「20S」で、エンジンは6気筒1987ccで一致している。シャシー・ナンバー「18」。2シーター・スポーツカーだが、最初はシングルシーターだったらしい。車の評価については分かれるところだが、フランコ・ボルディーニは幾つかのレースで勝利している。
(写真10-7a) 1953 Gordini 24S Roadster (2002-02フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)
この車も資料によって年式が1953年と1956年の2つに分かれる。シャシー・ナンバーが「37」で54年の「43」より少ないので1956年ではないだろう。エンジンは6気筒(8気筒)2982cc。
フランス、イタリア、モロッコ、アルゼンチンで14レースを戦い優勝2回、2位2回、3位2回、4位1回、5位3回の結果を残している。
(写真10-8ab) 1954 Gordini 20S Roadster (2002-02フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)
シャシー・ナンバー「43」のこの車は、年式の1954年と型式の「20S」は一致しているが、エンジンは6気筒で排気量は1987ccと2473ccのどちらか不明。30回以上のレースで5回優勝したほかに多数の入賞を果たしている。ドライバーは当時「ゴルディーニ」の「F1」をドライブしていた「トランティニアン」「マンツオン」「ベーラ」「ダシルバ・ラモス」など選りすぐりのメンバーだった。
(写真10-9a)1957 Gordini 24S Rpadster (2002-02フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)
この車は1952年モナコでクラッシュした車のシャシー周りを利用して造られたが、レースで活躍することはなかった。しかし「ゴルディーニ」がルノーに買収される前、最後に造った車がこの車だ。
この車についているシャシー・ナンバーのプレートはなぜか53年の24Sと同じ「37」がついている。
エンジンは8気筒2982ccだった。
(写真10-10a) 1946 Gordini T15 モノポスト (2000-05 2ndヒストリック・グランリ/モナコ)
モナコでは「グランプリ週間」の前座として、F1の為準備されたコースを使ったヒストリックカー・レースが開かれる。コースとなる公道はその期間閉鎖され、外から見えないように壁で目隠しされ、お金を払ってスタンドに入った人しか見れないシステムだ。この日はコース西側のホテルから中央部のカジノ前スタンドに向かったが、主要道路が閉鎖されているから山側を迂回しやっとたどり着いた。もう一つ悪いことに、前日から望遠の付いたメインカメラが故障で、ワイド系のサブカメラしか使えなかったので迫力に欠けた写真しか撮れなかった。この車は1946年のトリノGPでは「アメディ・ゴルディーニ」(47)が操縦したように説明があったが本当だろうか。
(写真10-11ab) 1952(54) Gordini Type16 GP (2002-02 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)
この車は公式カタログのグラビア・ページでは1954年、データ一覧表では1952年とありこの資料には悩まされる。もう一台所有している同じType16が1953年でシャシー・ナンバーが「35」なので「34」のこの車は1952年を採った。
(写真10-12ab)1953 Gordini Type16 GP (2002-02 フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)
殆ど変わりない両車はボンネットのルーバーの切り方が僅かに異なる。1952-53年にGPカーについて一つ気になるのは「シムカ」がF1から手を引いたのは1953年限りの筈だから、この当時は「シムカ・ゴルディーニ」でなくてもいいのかな、という疑問だ。(F1の公式記録1950-56に記載されているコンストラクターはすべて「ゴルディーニ」となっているのでF1に関してはシムカは資金提供だけのスポンサーだったのかもしれない)
(写真10-13a-d) 1954 Gordini Type16GP (2003-02 パリ・レトロモビル)
2003年の「パリ・レトロモビル」に展示されていたこの車は、前項の車と同じ「Type16」だ。同じタイプの車3車だがそれぞれパネルのつなぎ目がが異なるのは、状況に応じて対応するレーシングカーの特徴かもしれない。ボディに書かれている「J.BEHRA」は、当時のゴルディーニのエース・ドライバーの名前だ。
(写真10-14ab) 1956 Gordini Type32 GP (2002-02フランス国立自動車博物館/ミュールーズ)
「ゴルディーニ」がF1にかかわったのは1956年までで、この「Type32」が最後のモデルだ。当時のレギュレーションに合わせて排気量はみな2477ccだったが、「Type16」の6気筒に対して、この「Type32」は8気筒だ。写真では判りにくいが、葉巻型ボディの先端が少し広がって、前輪タイヤをカバーするまでは行かないが空気抵抗の低減には効果があっただろうと思われる。
(写真10-15abc) 1958-62 Renault Dauphine-Gordini 4dr Saloon (1966-05 第3回日本GP/富士スピードウエイ)
「シムカ」と縁の切れた「ゴルディーニ」は同じフランスの「ルノー」と手を組んだ。5CVの「ドーフィン」は1956年から製造が始まったが、1958年マイナーチェンジの際「ドーフィン・ゴルディーニ」は正式にカタログモデルとして登場した。その後1963-68年のシリーズにも「ドーフィン・ゴルディーニ」は存在し、ヨーロッパのラリーでも活躍した。
(写真10-16abc) 1968 Renault 8 Gordini 1300 (2018-11 トヨタ・クラシックカー・フェスタ/神宮絵画館前)
「ルノー4CV」は日本でも日野自動車がライセンス生産をした戦後の大ヒット作だったが、大きな欠点があった。それは「リアエンジン」のため後部に荷物を積める「ブレーク仕様」(ライトバン)が造れない事だった。そこで後継の「4」(キャトル)はFWDが採用された。しかし「5CVドフィン」の後継車となる「R8」は、長年のリアエンジンの経験を捨てがたく、あえてドフィンのレイアウトをそのまま採用した。ボクシーな外見ながら、操縦性と高性能がセールスポイントで、「ゴルディーニ」仕様はその代表的なモデルだった。写真の車はプログラムに排気量の記載は無かったが、年式から「1300」と推定した。ロッカーカバーにゴルディーニのイニシャル「G」が入っているから、ついボンネットを開けたくなる気持ちはよく判る。
(11)<ゴードン・キーブル>(英)
車のシンボルといえば早そうなものが当たり前だが、この車はなぜが、歩み(あゆみ)のノロい「亀さん」がボンネットに付いている。日本国内では一度も見たことのない珍しい車だ。ジョン・ゴードンとジム・キーブルが組んで作った会社で、最初に造ったのが「ゴードンGT」だった。写真の車は1964-66年に造られた「ゴードン・キーブルGK1」で、イギリス製のシャシー、ボディ―にアメリカ製の大型エンジンを積んだ、通称「アングロ・アメリカン」とも呼ばれるタイプだ。アメリカ製のV8エンジンは、イギリス製の凝った造りで気難しい上に高価なエンジンに較べ、太いトルクと扱いやすさは、ブランドに拘(こだわ)らなければ実用的で高性能だった。このシリーズではシボレー社の公認で「コルベット」用のV8 OHV 5395ccエンジンが搭載されている。1963年から67年の5年間に100台ほどしか造られなかった「グランド・ツーリングカー」だ。
(写真11-1ab) 1964-66 Gprdon Keeble GK1 Sport Saloon (1995-08 コンコルソ・イタリアーナ/カリフォルニア)
この年の「コンノルソ・イタリアーナ」は「ジウジアーロ」作品の特別展示が行われ、「Alfa2600」「Ferrari250GT」「IsoRivolta」「DeTomaso Mangusuta 」「Maserati Ghiibli」などに混じってこの車も展示されていた。というのはこの車のボディは「ベルトーネ」製で、そのデザイナーは若き日の「ジヨルジェット・ジウジアーロ」だったからだ。
(写真11-2abc) 1964 Gordon Keeble GK1 Sport Saloon (2004-06 フェスティバル・オブ・スピード/イギリス)
少しつり目のヘッドライトは「チャイニーズ・アイ」と呼ばれ1960年代初めには一種の流行で、ミケロッティがデザインした「スカイライン・スポーツ」などにも用いられている。ボンネットの先端にある「京」という字のように見えるのが「亀さん」のバッジだ。大型で贅沢な内装を持ち、アメリカ製の大排気量のV8エンジンを持つ車はイタリアやフランスにもあるが、イギリスでは「ジェンセン・インターセプター」が有名だ。
(12) < ゴッツィ > (日/英)
(写真12-1abc) 1981 Gozzy SS (1981-01 TACSミーティング/神宮絵画館前)
(参考1) オリジナルの1928 Mercedes Benz 720 SSK
クラシックカーに詳しい方なら「え?何でこれが1981年型なの?」と思ってしまうほど、本物そっくりに出来ているが、正真正銘造られたばかりのレプリカだ。日本の「ガレージ伊太利屋」が「メルセデス・ベンツSSK」を忠実に模した「レプリカ」をイギリスで造らせたもので、1979年3月のジュネーブショーでプロトタイプが展示され、少数が市販された本気度の高いものだ。ジュネーブ・ショーでは4万ポンドとあり、日本では2,450万円で販売された。この車が凄いのは、シャシー・フレームやリーフ・スプリングなど現代車をベースにしたレプリカでは絶対に再現できないものはすべてオリジナルに忠実に特注で造り、現代版レプリカの最も弱点である太くて小さいタイヤは、19インチのオリジナルと同じサイズで、違和感はない。外見では法規上シールドビームを使ったヘッドライトを除いては、細かい点まで全く非の打ちどころはなく、数多く見てきたレプリカの中では最高のものだ。「レプリカ」より「複製」と言いたいくらいだが、実は外見はクラシックだが機能は現代(1980)のそのもので、280S用のDOHC 2.7リッター160hpエンジンに4段マニュアルボックスが採用されており、「走る」「止まる」「曲がる」に関しては安全、かつ容易な現代車である。
(参考2) 1968 ExcaliburⅡSSK Roadster
エクスカリバーはSSKのレプリカの中でも良く出来ていると言われ、相当数造られた。プロポーションとしてはラジエターグリルが前車軸より後ろにあり基本的に合格だが、フロントはコイルスプリングで、タイヤも小さく太い。(これが現代車を利用したレプリカの最大の泣き所) エクゾーストは左出しで、右側には無いのが本当だ。
(参考3) 車名不詳
正体不明なので断定はできないが、販売目的で「生産」されたものではなく、板金加工でボディだけ造られたものだろう。現代車をクラシックカー風に改造した典型的な例がこの車で、「SSK」のレプリカには程遠く「エクスカリバー」のレプリカと言ったレベルだ。これらと較べると「ゴッツィ」が如何に優れたレプリカかを判って頂きたく参考に登場させた。
(13) < グラハム > (米)
(写真13-1ab) 1934 Graham 4dr Sedan (1969-10 港区内)
この車は戦前の生き残りの車を何とか稼働させるため、寄せ集めた部品で再生したものでヘッドライトはオリジナルよりずっと小さいものに換えられ、フェンダーとタイヤの間が大きく開いているように明らかにタイヤも小さい。今から50年前撮影した時すでに廃車寸前の状態で、アメリカの大衆車として大した魅力も感じないで撮った。その後手に入れた資料でオリジナルの姿を確認して驚いたのは、その印象の違いの大きさだ。そしてちょっとした「バランス」の崩れがデザインを滅茶滅茶にしてしまうことを知らされた例だった。
(写真13-2ab) 1934 Graham 4dr Sedan (1991-01 JCCA 汐留ミーティング)
この車は前項の車のオリジナルの姿で、戦後アメリカから輸入されたと思われる。ヘッドライトが変わっただけだこんなにも見た目が変わるのかと驚く。「グラハム」は1928から41年まで存在したアメリカの中級車だが、戦前「日産自動車」が、大型乗用車を造るため1935年型「グラハム」(クルセーダー)の施設一式を買い取り造ったのが「ニッサン70型セダン」だったから、我が国にとっても縁があるメーカーだ。
― 次回は「H項」でハノマク、ヒーレー、ハインケルなどが登場予定です -