(00)1958 Volga M21
(1) GAZ(ソ連)
「GAZ」はGorkovsky Avtomobilny Zavod(ゴーリキー自動車工場)の略で、国の管理の下1929年設立された。最初は「フォード」の「モデルA」と「AA」(トラック)の用済みとなった設備を譲り受け「GAZ-A」「GAZ-AA」として1936年までに約10万台が造られた。1936年から42年にかけては「フォード」の「V8」(モデルB) ベースの「GAZ-M1」に変わった。当時の車は「フォード」のロシア語読みで「フォルト」と呼ばれていた。第2次大戦中の1942年になると今迄の経験をもとに自力で開発した初の国産車「GAZ-61」が誕生し、これをベースに、アメリカの「MAジープ」(有名なMB以前に1500台試作されたもので大量にソ連に提供された)を参考にした全輪駆動の軍用車「GAZ-64が開発され、さらに「GAZ-67」「GAZ-69」へと発展した。
「GAZ」という名前は軍用車というイメージが強いが、戦後の1946年には中型乗用車「GAZ-M20」(ポビエーダ)が誕生し、1958年にはその後継車として「GAZ-21」(ヴォルガ)が造られている。「GAZ-M20」は当時ソ連の支配下にあったポーランドの「FSO」社で「ワルシャワ」という名前でライセンス生産されていた。
(写真01-ab)1943 GAZ-67B (2008-01 ジンスハイム科学技術館/ドイツ)
ドイツにあるこの博物館には「ミリタリー館」があり、主にドイツの軍用車両が展示されているが、敵国「ソ連」の車もあった。大きさから言ってもアメリカの「MBジープ」に近いが、参考にしたのはその試作車「MAジープ」だったのでヘッドライトの扱いは「MB」とは異なる。
(写真01-2ab)1953 GAZ-69A 4dr Sedan (2017-10 日本自動車博物館/小松市)
「GAZ-67」の後継車として1946年から開発がはじまり、53年から55年まで生産された。(54年から72年までに別の工場で造られた車は「UAZ」と呼ばれる) 2ドアはピックアップタイプで「GAZ-69」、4ドアは乗用車タイプで「GAZ-69A」と呼ばれる。 全部で60万台近く造られ、東欧の諸国に輸出されたほか、「ポーランド」と「北朝鮮」ではライセンス生産も行われた。(展示車のプレートは1943とあるが1953の誤り)
(写真01-3abc) 1956 GAZ-M20 Povieda 4dr Sedan (1961年/港区一之橋付近)
この車は「M-20ポビエーダ」という名前と認識していたから正式名が「GAZ」だという事は知らなかった。ボンネットの正面のバッジも「M20」で、何処にも「GAZ」の表示はなかったし、ソ連の車の情報は殆どなく、唯一の資料「年鑑」にも「GAZ」はなかった。この車は1947年から造られておりボディは46年のナッシュ・アンバサダーにそっくりだ。車名は「勝利」という意味だそうだ。
(写真01-4ab) 1959 FSO Warszawadr 4dr Sedan (1959-04 有楽町フードセンター横)
「ワルシャワ」はポーランドでライセンス生産された「ポビエーダ」だからグリルを除いてボディは殆ど同じだ。ポーランドには戦前から自動車産業はなく、国営の「FSO」が唯一の自動車メーカーだから「乗用車」の他に「ワゴン」「ピックアップ」「救急車」「タクシー」とあらゆる種類の車が「ワルシャワ」で、鉄の車輪付きの「レールカー」まであった。日本国内では非常に珍しく、多分ポーランドの大使館用として1台しか存在しなかったと思われる。
(写真01-5ab) 1956-57 GAZ M21 Volga 4dr Sedan (1961-01 港区麻布龍土町/現・麻布7丁目)
1956年から「M20ポビエーダ」の後継車として登場したのが「M21ヴォルガ」で、場所は麻布龍土町、現在の東京ミッドタウンから国立新美術館へ向かう通りだ。ソ連の車を見た時はつい「何に似ているな」と考えてしまうのだが、この車も例外ではなくリアフェンダー辺りは1952-53年のフォードの匂いがする。この車は初めて「年鑑」に掲載されていたが、項目は「V」項で、車名は「ヴォルガ」だった。
(写真01-6abc) 1958 GAZ M21 Volga 4dr Sedan (1960-04 港区一之橋付近)
モデルチェンジして1958年型になったが、グリルが52年型のフォード風になった以外は変わりないようだ。この車には素敵なトナカイのマスコットが付いているが、これは工場のあるゴーリキー市のシンボルで、社名はもちろん母なる大河「ヴォルガ河」から採ったものだ。これらの「ヴォルガ」は外交官用の「青ナンバー」でソ連大使館の車だろうが、複数は存在しなかったのではないか。
(02) ジヤンニーニ (伊)
ジャンニ―ニは1920年イタリア・ローマで創業したチューニング・ショップの老舗で、創業当初は有名な「イタラ」のレーシング・チューンを手掛けていた。1930年代に入って「フィアット500トポリーノ」が登場すると、それが対象となり今日まで続いている。フィアットのチューナーとしては「アバルト」と並ぶ双璧である。フィアットをベースに多くのショップが様々な車を生み出しているが、「ジャンニーニ」は原形を保ったままのチューニングに徹し、アバルトなどのように新しいボディを作ることはなかった。
(写真02-1abc) 1968 Giannini 700R (1997-05 ミッレミリア/フータ峠)
ベースとなったのは「フィアット500L」で、ご覧のように殆ど原形のままだ。少し開いたエンジンフードが下ヒンジから上ヒンジに変わっているが、ルーバーも変更はなく、閉めてしまえばバッジを見なければ判らないくらいだ。但しエンジンは500cc から700cc迄拡大されている。場所はミッレミリア2日目の絶景ポイント「フータ峠」でコースの裏道に車を置いて通過する車を応援している。
(写真02-2ab) 1969 Giannini 500 (1999-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
こちらは「フィアット500 F」ベースの「ジヤンニーニ」だが、バッジ以外には見た目が変わらないから「見せびらかしたい人」向きではない。勿論性能はそれなりにチューンされているのだろうけれど。
(写真02-3abc) 1969 Giannini 500TV (2019-04 オートモビル:カウンシル/幕張メッセ)
「フィアット500 L」ベースのこの車は、正面のバッジが派手目で、ボディの横にも「Giannini」の文字が入っているから、だれが見てもすぐに気が付くだろう。展示車のエンジンフードは開いているが、「アバルト」のように開いたままではなく、走行時は完全に閉じる。 .
(03)ジルコ (伊)
(写真03-1a~d)1948 Gilco-Stanguelini 1100 Sport(1994-05ミッレミリア・ブレシア/サンマリノ)
「ジルコ」の名が付いた車は幾つかあるが「ジルコ」自身はデザイン事務所のようで、実車は「スタンゲリーニ」や「エルミニ」などで造られている。この車が何台あるのかは知らないが、僕は1992年日本のラ・フェスタで、そのあと94、97、01年イタリアでと都合4回出会っているからミッレミリアの常連のようだ。イタリアの小規模メーカーの車は殆どがフィアット500/1100をベースとしておりこの車もその一例だ。3、4枚目はサンマリノで道を直角に曲がればその先は偉いさんの並ぶチェックポイントだ。
(04)ジネッタ(英)
「ジネッタ」が産声(うぶごえ)を上げたのは1957年で、イギリス・サフォーク州に住む車好きのウオークレット4兄弟(ダグラス、トレヴァー、アイヴァー、ボブ)が自分たちのために「ウーズレー・ホーネット」を改造して造ったロードスター「ジネッタG1」が最初だった。次に造った「G2」は「ロータスMk6」と酷似した外観で、1172ccのフォードエンジンが載せられた。この車も自分たちの趣味を満たすための物だったが完成度は高く、友人たちからの要望もありキットで販売することに踏み切った。結果的には58年から60年までに約100台が造られ、兄弟は自動車造りが本業となった。1960年から62年にかけて造られた「G3」は「G2」の発展型だがFRPのボディに変わりずっとモダンになった。
(写真04-1abc) 1964 Ginetta G4 Sr.ⅠCoupe (2015-10 アメリカンピクニック/お台場)
1961年のロンドン・レーシングカー・ショーでデビューしたのが「ジネッタ」の名をスポーツカーとして世間に認めさせた初期の傑作「G4」シリーズだ。最初はフォード・アングリア(105E)のOHV997ccエンジンでスタートし、途中から同じフォード系の1197cc、1340cc、1498cc の3種が選らべるようになった。軽量で優れたハンドリングはサーキットでのレースで数々の戦果を挙げる戦闘力を持ち、それが500ポンド前後の低価格で手に入るとなればアマチュア・レーサーたちの注目を浴びるのは当然だ。1961年Sr.Ⅰから69年Sr.Ⅳまでに幾つかの変更を受けながら合計で約500台も造られたから、その人気の程が知られる。
(写真04-2abc) 年式不詳 Ginetta G4 Roadster (2018-11 旧車天国/お台場)
案内板の年式に「99」とあるのは納得出来ない。「G4」シリーズは61-69年と81-85年に生産されたが99年は該当しないので「66」の見誤り?なんて事は無いでしょうね。もしかしたら日本に輸入してから車検を取った「初年度登録」の年かもネ。(見た目では最初のSr.1だと思われる)
(写真04-3ab) 1964 Ginetta G4 Sr.Ⅱ Roadster (1989-10 モンテミリア/神戸ポートピア)
Sr.Ⅰに較べるとボディの先端に少しエッジが付いたようだ。
(写真04-4ab) 1965 Ginetta G4 R Coupe (1989-10 モンテミリア・神戸ポートピア)
この車も前項のSr.Ⅱと同じボディで、「R」仕様だからそれなりのチューニングが施されているのだろうが、プログラムには排気量も記載されていなかったので詳細は不明。
(写真04-5abc) 1968 Ginetta G4 Sr.Ⅳ1600 Coupe (1985-11 SCCJ30周年/筑波サーキット)
「G4」は最終的には「フォード・コルチナ」の1599ccエンジンがついた「1600」まで発展し、1969年で一旦生産は終了したが、その後も人気が高く、81-85年には最終モデル(Sr.Ⅳ)のリバイバル生産が行われている。
(写真04-6a~d) 1967 Ginetta G12 Coupe (1987-03 16th JCCA 筑波ミーティンッグ)
「G4」の次は1964-65年「G10」V8 4727cc(アメリカ向け)、1966年「G11」1798cc MGBのエンジン、パーツ流用の2モデルが造られているが、それぞれ6台、11台と少数造られただけで、僕は写真を撮っていない。その次が「G12」で、フロントのイメージは「C4」を引き継いでいるが、中身は鋼管スペースフレーム、ミッドシップ・エンジンの本格的なレーシングマシンだった。エンジンは1150cc(コスワース)、1.6 ℓ(フォード)、2.0 ℓ(コベントリー・クライマックス)、2.0 ℓ(ロータス)など幅広く用意され、注文によってはアストンマーチンの3 ℓ 直6 や、ローバーの3.5 ℓ V8の搭載も可能だった。これだけレースに徹底した車だから大排気量の車にも負けないパフォーマンスを発揮したが、それだけにそのままではロードカーとして公道を走るには不向きな車で、一般への需要は見込めず約50台で生産が終了したから、レースカーとしては成功したが営業的にはどうだっただろうか。
(写真04-7abc)1967 Ginetta G12 Coupe (2008-11トヨタ博物館クラシックカーフェスタ/神宮)
幾つか選択できたエンジンの中から「ロータス」の2リッターを選んだのがこの車だ。
(写真04-8abc)1968 Ginetta G12 1600 Coupe (1986-03 TACSミーティング/筑波サーキット)
この車は1600とあるので、フォード・コルチナ用の1599ccエンジンが搭載されているが、外見からは全く区別がつかない。
(写真04-9ab) 1972 Ginetta G15 Coupe (2018-04 ジャパンクラシックオートモビル/日本橋)
「G13,14」は無く「G12」の次は「G15」となる。市場性のなかった「G12」と違って、今回は一般受けのする小型スポーティーカーに狙いを定め、1967年ロンドンショーでデビューしたのは「ヒルマン・インプ」の875ccエンジンを持つリアエンジンの2シーター・クーペだった。写真で見る限りリアエンジンの雰囲気は微塵もない。空気取入れ口も見当たらないし、プロポーションもフロントエンジン車と変わらない。しかしエンジンのメンテナンスを行う場合には、リアフェンダーから後ろがぱっくりと上に跳ね上がりエンジンが丸出しとなる。小さいながら最高速度は154.8km/hが可能で、ロータス・エランが約1300ポンドしたとき799ポンドと約60%で買えたから、当初の狙いは大当たりで、1967-74年で約500台が造られた。
(05)グラース(独)
既に1960年代初めに「BMW」に吸収されてしまったから知名度は低いが、1937年頃からミュンヘン近郊で農機具の生産をしていたハンス・グラスが、第2次大戦後のスクーター・ブームに乗ってこの業界に進出した。1955年「T250」「T300」という2ストローク、2気筒のミニカーを発表し、58年には4ストローク、水平対向2気筒の「イザールT600」、62年には水平対向4気筒「1004 Coupe」と順次大きくなっても、ここまでは小型車だった。しかしその後「1300」「1700」最後にはV8「2600」まで大型化したのが身の程知らずというか、背伸びし過ぎたようで、結果的には1966年には「BMW」に吸収されてしまった。
(写真05-1abc) 1964 Glas Goggomobil T250 (2008-01 ドイツ博物館・自動車館/ミュンヘン)
排気量から見れば「メッサーシュミット」「ハインケル」「BMWイセッタ」などキャビン・スクーターと同じ仲間だが、この車は排気量の割にはずっと自動車らしく、とても250ccとは見えない。
(写真05-2a~d) 1962 Glas S1004 Coupe (1965-11 阿佐ヶ谷・中杉通/杉並区)
水冷 直4 SOHC 993ccの進歩的なエンジンを持つこの車は、イタリアの新進デザイナー「ピエトロ・フルア」によって、直線を基調とした斬新なボディが与えられたが時代を先取りし過ぎた。1962年にさかのぼって年鑑をめくってみたら、確かに直線で構成されているのはこの車以外には見当たらなかった。そのキャプションには「ちょっと目新しいが好ましいとは思えない」とあった。これが当時の一般的な印象だったのだろう。車の後方に見えるガードはJR阿佐ヶ谷駅で、この車は国内では数少ない珍車だ。
(06)GMC (米)
「GMC」はざっくり言えば「ゼネラル・モーターズ」のトラック部門のブランド名だ。1911年「ラピッド・モーター・ビークル・カンパニー」と「リライアンス・モーター・カー・カンパニー」が合併して出来た「ゼネラル・モーターズ・トラック・カンパニー」の造る車が「GMC」と呼ばれるようになった。
(写真06-1ab)1920 GMC Truck (1998-01 ディズニーMGMスタジオ/フロリダ)
フロリダにあるディズニー・リゾートには幾つかのテーマパークがあり、その一つが「MGMスタジオ」だ。園内には年代別の街並みが造られており、道路には年代に相応しい車が駐車している。ここは1920年代の街角で、車は「GMC」の1920年ころのトラックだ。
(写真06-2ab)1942 GMC CCKW 353 21/2 ton 6×6輪駆動カーゴ・トラック (2008-01 シュパイヤー科学技術館/ドイツ)
通称「ジミー」と呼ばれ第二次世界大戦中81万台 も造られた大型トラックの主役がこの車だ。昭和20年秋、アメリカ兵を満載した「占領軍」(日本は戦争に負け占領された)がこの車を連ねて街に入って来た時こわごわ眺めていた事を、僕はガソリンの匂いと共に鮮明に記憶している。僕らはこの車のことをタイヤの数から「10輪トラック」と呼んでいた。
(写真06-2c) 1942 GMC 21/2ton CCKW改 TKK Bus (1949-08 旧東京都庁前/千代田区鍜治橋)
戦後「GMC」の軍用トラックは民間に払い下げられ、車不足の日本でバスに改造されたのが写真の車で、ボディに書かれているT.K.K.は「東京急行電鉄」の略だ。静岡に住んでいた15歳の僕が初めて一人で東京へ写真を撮りに来た時撮った1枚で、丸ビルの前を都電の線路沿いに歩いて行ったら突き当たったところが当時の都庁の前だった。
(写真06-3ab) 1942 CMC DUKW 353 水陸両用装輪式汎用車両 (2002-02 パリ・レトロモビル)
水陸両用の軍用車と聞けば殆どの人は「VWシュビム・ワーゲン」が頭に浮かぶだろう。しかし我々に全く縁のないこの車を知っている人は皆無に近いと思う。外見は「船」に近く、沖の輸送船から荷物を陸揚げする「はしけ」のようなことが主な役割で、港も桟橋もなくても其の儘上陸できる優れものだ。兵員なら50名、貨物なら5トンが積めた。この車の陸上を走るための装置は「GMC」の大ヒット「CCKW 353」大型トラックの物がそっくりはめ込まれている。船舶としてはドーバー海峡を横断できるだけの性能を持ちノルマンディー作戦でも活躍したとある。しかしドキュメンタリー映画で見る波打ち際で前蓋を開いて突撃する「LCVP」のような敵前上陸の第一線では無く、海岸線が確保されてから後の補給作戦で活躍したのではないかと想像する。GIからは「Duck」(あひる)の愛称で呼ばれた。
(写真06-4a) 1948-53 GMC Suburban Carryall (1958-07 銀座6丁目並木通り)
この車のナンバープレートは横一列で現代とは違った古い形式だ。1951年(昭26)制定されたもので、1955年2段表示になる迄使われた。(改正直後は新旧共存した)当時の基準で読み取ると、最初の「1」は車種の表示で「大型貨物」、ハイフンのあとの5桁は「1万番代」と呼ばれ「自家用」である。(因みに「2万番代」は事業用、「3万番代」は外人用、「4万番代」は官公庁と区分けされていた)「GMC」は街で見かけた事のない珍しい車で、外形にほとんど変化がないので年式は特定できないが、多分外貨事情の良かった1953年型ではないだろうか。
(写真06-5a) 1954 GMC 100 1/2 Ton Pick-up Truck (1991-01 JCCA 汐留ミーティング)
「GMC」の小型トラック・シリーズは「100 1/2-Ton」「150 3/4-Ton」「250 1-Ton」の3種があるがエンジンは共通で、OHV 6気筒248.5cu (4070cc) 125hp と意外と大きなものを積んでいる。「ミニMkⅠ」のような「 ひげ」の付いたグリルは この年限りの物なので年式の「1954」年は間違えない。
(写真06-6ab) 1999 GMC Yucon Pick-up Truck (1999-08 カーメル市内/カリフォルニア)
この年はカーメル市内のモーテルに泊った。その近くで見つけたのがこの車で、年代から対象外とするつもりだったが、荷台の後端にスポイラーを付けている心意気を買って取り上げた。エンジンは5.7ℓ V8と強力だが、スポイラーがあの位置で整流効果がどの位期待出来るのだろうか。後ろから荷物を積む時は物凄く邪魔だと思うが。
(07)G.N.(英)
「G.N.」という車は1910年から25年まで存在した車で、大昔に消滅した車だから知名度は低い。この車を造ったのは「H.R.ゴドフレー」と「アーチー・フレーザー・ナッシュ」の2人で、車名の「GN」はそれぞれの頭文字だ。種類はモーターサイクルより一寸ましな車で「サイクル・カー」と呼ばれ「自動車もどき」と位置付けられる手造りに近いものが多かった。「三ないし四輪の2座席を持つ車で、空車重量350kg以内、エンジンは1100cc以下」がその条件だった。最初に登場したのは1909年イギリスで造られた「ベデリア」(写真参照)で、タンデム2座、チエーン駆動のこの車は1914年までに数千台造られたと言われる。
(参考)1912 Bedelis BD2(最初に造られたサイクル・カー)
(写真07-1abc) 1920 G.N. KimⅡ (2000-06 グッドウッド/イギリス)
第1次大戦後の「G.N.」はサイクルカーといってもすごく戦闘力を持っていた。それは大メーカーが小型車の分野に進出してきて乗り心地では太刀打ちできないから、その軽量を生かした軽快な操縦性と、低価格が武器だったからだ。その中でも「キム」は最も有名な車で、1914年のマン島レースの為造られ、第一次大戦後の1920年から27年まで7年間で50回以上優勝した実績を持っている。20年レースで大クラッシュした後改造され「キムⅡ」となったが、この車は、1919年から22年にかけてはフランスの「サルムソン」でライセンス生産されるほどの人気だった。
(写真07-2ab)1921 G.N. V8 Curtiss (2004-06 プレスコット・サーキット/イギリス)
レース場で見つけたこの車は、もはや「サイクルカー」とは言えない8リッターV8エンジンのモンスターだが、むき出しのエンジンやシンプルなシャシーにはサイクルカーの面影がある。カーチスのエンジンを積んだ車といえば、本田宗一郎の造った車を連想する。
(写真07-3ab)年式不詳 C.N. (2004-06 プレスコット・サーキット/イギリス)
(参考)1929 Frazer Nash Super Sports
この車もレース場で見つけた車だが、プログラムには記載がなく。詳細は全く不明だ。「アーチー・フレーザー・ナッシュ」は1924年には自分の名前を付けたスポーツカー「フレーザー・ナッシュ」を造っており、写真の車は一寸年代は離れるが、参考に添付した1929年の「フレーザー・ナッシュ」と印象が似ている。
――次回はゴールデン・アロー、ゴリアト、ゴルディーニと続く予定です――