1951 Ferrari 340 America Vignale Spider
・「166」から「250」「275」にかけて「コロンボ・エンジン」の車について話を進めていった結果、同時期に並行して活躍していた大排気量の「ランプレディ・エンジン」には触れなかった。外見的には似た車が多かったので混乱を避けたかったからだ。今回は型式に捉われず年式順に紹介するので、同じ車種の車が飛び飛びに登場することもあることをご了承下さい。
・後年「ピニンファリナ」の独占状態となったデザインも初期は「ツーリング」をはじめ「ヴィニアーレ」「ギア」が中心で、50年代中頃になると「ピニン・ファリナ」「スカリエッティ」「ボアノ/エレナ」が目立つようになった。独特な魅力を持つ「ザガート」はフェラーリとは相性が良くなかったのか「250GT」で2回顔を出しただけだった。
・今回は「4気筒」「6気筒」についても紹介する。
(写真50-1ab) 1950 Ferrari 340 America Touring Berlinetta (1994-05 ミッレミリア/ブレシア)
ツーリング社製のこのボディは同時期に活躍していたコロンボ・エンジンの「166バルケッタ」と全く同じ印象だが、尾っぽがとがったテールランプ周りはベルリネッタと同じ手法だ。
(写真51-1abc) 1951 Ferrari 340 America Vignale Berlinetta (2001-05 ミッレミリア/ブレシア)
個性の強い「ビニアーレ」の中では、それらしい特徴が全く見当たらないのこの車だが、1951年のミッレミリアではフロントに大きなダメージを受けながら優勝した有名なゼッケン番号405の車そのものだ。(参考写真添付)
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(写真51-2abc)1951 Ferrari 340 America Vignale Barchetta (1999-08 ペブルビーチ/アメリカ)
この車も「ヴィニアーレ」製で全体の印象は「ツーリング」製の「166バルケッタ」に近いが、テールランプのクロームの扱いがヴィニアーレの特徴だ。
(写真51-3a~d)1951 Ferrari 340 America Vignale Spider (2011-11 ジャパン・クラシック・オートモビル・日本橋)
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同時期に造られたこの車も前項の車とほとんど変わらないが、ボンネットの横には、これも「ビニアーレ」の特徴に一つ「ベンチ・ポート」(丸い穴)がついている。このデザインは50年代の「ビュイック」でお馴染みだが、この穴が付いたヴィニアーレ製のフェラーリは1950年の「166MM」が最初で、ビュイックより1年遅かった。
(写真51-4a~d)1951 Ferrari 340 America Touring Berlinetta (1997,2000-05ミッレミリア/ブレシア)
1950年代初期「フェラーリ」のボディは「ツーリング」製が中心だった。バルケッタと呼ばれるフル・オープンが主流だったが、屋根付きの小型セダン「ベルリネッタ」は1950年の「166MM/LeMans」でデビューし、排気量が変わっても基本的には変わることなく、そのスタイルは受け継がれた。写真の車はミッレ・ミリアで捉えたもので、撮影した日付と、ナンバーは異なるが車は同じものと思われる。
(写真51-5ab)1951 Ferrari 340 Touring Berlinetta (1995-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
ナンバー等で確認ができないので確信はないが、アメリカで撮影したこの車もバックミラー以外のすべての特徴が同じなので、前項の車と同じかもしれない。
(写真51-6a~d)1951 Ferrari 340 America Ghia Berlinetta(2004-08コンコルソイタリアーノ)
1950年代初期には「ツーリング」「ヴィニアーレ」に次いで「ギア」も多くのフェラーリを手掛けていた。グリル格子の横バーがダブルになって太いのも「ギア」の特徴の一つだ。この車はフェラーリとしては珍しくトランクに「340 America」と型式が表示されている。
(写真52-1abc)1952 Ferrari 340 Mexico Vignake Spider(2004-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
「340 Mexico」の名前はレースに由来する。1950年から54年にかけて行われたメキシコ縦断3,113キロを5日かけて走り抜けるロードレースがあった。イタリアの「ミッレ・ミリア」に倣ったものだったが死亡事故が何件か発生し、僅か5年で消滅してしまった。1951年のレースではタルフィ/キネッティ組の「Ferrari 212 Inter」が優勝し、2位もフェラーリが入り上位を独占した。これに因んで名付けられた車で、ヴィニアーレ製のボディはミケロッティがデザインした個性的なスタイルだ。
(写真53-1a~d)1953 Ferrari 375 MM Pininfarina Berlinetta(2004-08 ラグナセカ/アメリカ)
この車はペイントの「Ⅳ」から1953年の第4回「パナメリカーナ・メヒコ」に参加した車と判る。資料を調べるとManciniのドライブで総合4位に入賞している。このレースは「ミッレ・ミリア」と違ってボディにスポンサー名が派手にペイントされているのが特徴だ。
(写真53-2ab)1953 Ferrari 375 MM Pininfarina Berlinetta (2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
1952年になると「ピニンファリナ」が「フェラーリ」を手掛けるようになった。「212」から始まり「250」「340」「342」「375」と一気に種類を増やしていった。写真の「375」は初期の「250」「340」の流れをくむお尻の丸い典型的なスタイルが特徴だ。この車のリア・ウインドは大きなガラス部分をパネルで埋め小さく改造したように見える。
(写真53-3abc)1953 Ferrari 375 MM Vignale Spider (1999-08 ラグナセカ・カリフォニア)
⑳番は1954年の「パナメリカ・メヒコ」に出場し、「フィル・ヒル」のドライブで2位に入った戦歴を持つ。ボンネットの文字「V」は第5回、即ち1954年を表している。飛行機の垂直尾翼のようなテールフィンが特徴だ。
(写真53-4abc)1953 Ferrari 340 MM Vignale Spider (1999-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
「166 MM」の基本形を踏まえ、グリルの開口部が一段と大きく,逞しくなって、大排気量の兄貴分の貫禄を感じさせる。ボンネット横の「サイド・ポート」の丸い穴と、リアフェンダーの三角のエア・スクープはヴィニアーレの特徴だ。
(写真53-5a~e)1953 Ferrari 375 MM Pininfarina Berlinetta Competition(2002-02 レトロモビル/パリ)
「250 MM」以来「ピニンファリナ」のコンペティション・モデルの典型だった、ボンネットから突き出した楕円のグリルを持つ丸みを持ったボディ(53-1~2参照)は1953年にも造られていたが、この年グリルが前傾し、よりアグレッシブなスタイルを持ったニューデザインが登場した。一つ気になるのは一寸奥に引っ込んだヘッドライトで、物凄く空気抵抗が多そうに見えるが問題にならなかっただろうか。せめてお椀形の透明ガラス・キャップを付けたら、と余計な心配をしてしまった。(シャシーNo、0358AM/PF618)
(写真53-7abc)1953 Ferrari 375 MM Pininfarina Spider(2004-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
同じ「ピニンファリナ」がデザインした「375 MM」のスパイダー・バージョンがこの車で、前半分はベルリネッタとほとんど変わらないが、後ろ半分はリアフェンダーが独立するほど絞り込まれ精悍さが増している。(シャシーNo,0360AM/PF625)
(写真53-8a~d)1953 Ferrari 340 America Pininfarina Cabriolet(1999-08 コンコルソ・イタリアーノ)
「ピニンファリーナ」がレース・バージョンの「340 MM」をロード・バージョンに仕立て、アメリカ輸出を狙ったのが「340アメリカ」だ。(オリジナルは53-2参照) グリル周りのクロームメッキや、バンパーなど余計なものを取り除くと元の姿が浮かんでくる。「MM」ではあまり感じなかったが、街乗りの車としてはこのグリルはかなり「獰猛」だ。
(写真54-1abc)1954 Ferrari 340 Touring Barchetta(2001-05ミッレミリア/フータ峠、サンマリノ)
こちらは初期の「166 MM」とほとんど変わっていない「ツーリング」の「340 MM」だ。
「ツーリング」は次々と形を変える「ピニンファリナ」と違って、基本的には「バルケッタ」と「ベルリネッタ」2種が多数造られたようだ。最初の写真は2日目の難所「フータ峠」の最後のカーブを登りきって頂上へ向かうところ、2,3枚目はサンマリノでヘアピンを抜け、ケーブルの駅からチェックポイントへ向かうところだ。
(写真54-2a~d)1954 Ferrari 375 MM Scaglietti Coupe(1998-08 ペブルビーチ/アメリカ)
この車のボディは「スカリエッティ」製と記されているが、同じ年パリ・サロンで話題となったデザイン史上でも有名な「ピニンファリナ」の「バーグマン・クーペ」からの影響を大きく受けたものと思われる。(或いはデザインは「ピニンファリナ」かもしれない)
フェラーリのヘッドライトがこの形になったのは、市販車では1956年の「410スーパー・アメリカ」が最初だから、スタイルの上でもかなり先取りしている。
(写真54-3a~d)1954 Ferrari 375Plus MM Barchetta (2004-06 グッドウッド/イギリス)
(参考・ベースとなった375 F-1)
「375プラス」のエンジンの仕様は85×74.5mm 412.86cc ×12 4954.34ccだった。ベースとなった「375」と較べストロークが68mmから74.5mmに増えただけだが、このストロークの基となったのは、当時の「375 F-1」(写真参考)を改造してスポーツカーでブエノスアイレスで7位に入った車にヒントを得たものだ。このエンジンをベースにストロークはそのままにボアを「375」と同じ85mm に広げたものだ。1気筒当たりの排気量で表す慣習に従えば「413」となる筈なのに何故「375プラス」となったのかは僕には分らなかったが、「375 F-1」の発展型という思いがあったのだろうか。「375」のストロークを伸ばしたのではなく、「375 F-1」のボアを広げた、と解釈すれば納得できる。
(写真54-4a)1954 Ferrari 375plus MM Barchetta (1991-03ワールドヴィンテージカー・オークション)
この車は1枚しか写真を撮っていない。というのはこの催しの協賛者のカメラ会社が1本だけフィルムの入ったカメラを貸し出し、一般カメラの使用は禁止だったので撮影枚数に限りがあったからだ。僕は一寸ズルして持参したフィルムをこっそり借りたカメラに入れ替えて2本撮ったが。「375プラス」は2台のロード・カーを含む6台が造られたが1954年ルマンで優勝した④番、リタイヤした③⑤番の3台とは違うようだ。
(写真55-1a~e)1955 Ferrari 375 MM Sport Speziale (2010-07 グッドウッド/イギリス)
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1955年トリノショーに展示されたこの車は、この後のロード・カーに与えた影響は大きい。リアフェンダーからテールフィンを形造る造形は、50年代の後半世界的に流行した「テールフィン・ブーム」の先駆けで、アメリカ車でもようやく目立ち始めた時期だ。段付きのテールフィンと言うと1957年の「プリムス」が頭に浮かぶが、「フェラーリ」ではこの車の他には段付きは見当たらない。この車が「375 MM」としては最後の車となった。
(写真55-2abc)1955 Ferrar 500 Mondial Scaglietti Spider(2000-05 ミッレミリア/ブレシア)
12気筒以外は「フェラーリ」を名乗らせなかったのは飽くまでも「市販車」に限ったことで、レースの世界では速く走るためには軽くてトルクのある高性能小型エンジンは早くから開発されており、この車は1953年末にデビューしている。「500」を名乗るこの車は市販車(12気筒)だったら6,000ccとなるが、「4気筒」なので1,984ccしか無い。DOHCで160hp/7000rpm 最高速度は235km/hだった。
(写真55-3abc)1955 Ferrari 750 Monza Scaglietti Spider(1998-08ペブルビーチ/カリフォルニア)
同じ4気筒で3リッター・クラスのため造られたのが「750モンツァ」で、1954年デビュー戦「モンツァ」で①②フィニッシュを飾ったところからこの名前が付けられた。
(写真55-4abc)1955 Ferrari 857S Scaglietti Spider (2004-08rootアグナセカ/カリフォルニア)
「4気筒フェラーリ」について僕の手元資料は多くない。「12気筒でない」「市販車でない」「F1でもない」ということで出版対象から外れているためだ。写真の車はたまたまボンネットが外されているのでエンジンがよく見え、一見「V8」のようで迷ったがこの時期「V8」エンジンは存在しない。実車の写真は見付けることが出来なかったが、ミニチュアカーの写真のボンネットを見るとバルジが2本膨らんでいるので安心した。
(写真56-1abc)1956 Ferrari 290 MM Spider (2004-08 ラグナセカ/カリフォルニア)
「290」エンジンは、チーフ・エンジニアの「ランプレディ」がフィアットに去った後、ランチャから移ってきたベテラン「ヴィットリオ・ヤーノ」をチーフに置いた新しいチームによって造られたエンジンだ。SOHC 60度 V12 という基本形は従来と変わらず、「コロンボ」と「ランプレディ」の長所を生かした上、「ヤーノ」のアイデア「ツイン・プラグ」が加えられている。93×69.5mm 290.88cc 総排気量は3490.61ccで、1956年のミッレ・ミリアでは優勝と④位と大活躍したが、期待された「ル・マン」は前年の大事故から排気量が制限され出場することが出来なかった。
(写真56-2a~e)1956 Ferrari 290 MM Scaglietti Spider(2004-08ペブルビーチ/カリフォルニア)
「290 MM」は1957年からは「マセラティ」に対抗してDOHC 化を図り「290 S」となる。年内に「315 S」「335 S」次々と排気量を上げていったがこれらのモデルは残念ながら写真を撮っていない。写真の車とは関係ないが、1957年のミッレ・ミリアミリアは「315 S」が①②位を独占した。しかし「335 S」に乗ったポルタゴ/ネルソン組が死者10人を出す大事故を起こしてしまい、これがきっかけでミッレ・ミリアをはじめイタリアでの公道レースが禁止されてしまった。
(写真57-1a)1957 Ferrari 335S Scglietti Spider (2004-08 ペブルビーチ/カリフォルニア)
1957年の最終戦を迎えるにあたって「335 S」は外見が大きく改造された。フロント・ブレーキの冷却効果を高めるためフロントフェンダー前端を独立させる特異な形は、翌1958年誕生した「250 TR」テスタロッサに採用され一般的に知られる事になる。(この写真は「250 TR」で紹介したので「再掲」となる)
(写真57-1acb)1957 Ferrari 625 TRC Scaglietti Spider (1995-08ラグナセカ/カリフォルニア)
「625 TRC」は「500モンディアル」「750モンツァ」などと同じ4気筒シリーズの一員で、DOHC 94×90mm 総排気量2498ccのエンジンは、テスタロッサ(赤い頭)の名前の通りヘッドのカムカバーは真っ赤に塗られている。インターネットで見つけたやや古い情報(2012)では、ヨーロッパの競売で500万ユーロ(約5億2千万円)で落札されたとあった。
(写真66-1ab)1966 Dino 206 SP (1999-08 コンコルソ・イタリアーノ/カリフォルニア)
写真の車は18台造られたという「206 SP」の1台で、ホイールにその特徴が見られる。この車の誕生にはレース基準が大きく関わっている。1967年の「F2」の規定が「6気筒を上限とする量産エンジン」と決められ、F1のV8から転用を予定していたフェラーリは困惑した。「量産」とは年間500台が目途だが当時のフェラーリの生産台数は700台程度だったからだ。V6エンジンは1957年エンツォの息子「アルフレード・フェラーリ(通称ディーノ)」も関わって開発がはじまっており、1965年には「206P」でチャンピオンとなった2リッターエンジンがあった。問題は500台の量産で、当時フェラーリにキャブレターを納入していた「ウエーバー」がフィアットの傘下にあったことから、その仲介でフィアットでの量産が決まった。当時のエンツォはロードカーに対する関心度は低く、500台をクリアーするのが目的だったが、せっかく量産したエンジンをすべて「フィアット」に任せるのはもったいないと考えたのか自らもピニンファリナのボディを持つ「206 GT」を発売した。皮肉なことにこれだけ苦労した「F2」については華々しい活躍は残されていない。
(写真67-1a~d)1967 Dino 206 GT Coupe (1991-01 TACSミーティング/レールシティ)
(参考・同時に発売されたフィアット製フロント・エンジンの「ディーノ」)
フロントエンジンの「フィアット・ディーノ」と同時の発売されたフェラーリの「ディーノ206 GT」は、V6エンジンをミッドシップに横置きしたレイアウトで登場した。車名の「206」はフェラーリの公式「1気筒当たりの排気量」とは異なり、前2桁は「排気量」、3桁目は「気筒数」を表している。この手法は後年フェラーリに8気筒が出現した際も使われている。1967年新しく誕生した6気筒の「206 GT」が量産に入ったのは68年からで、69年に「246 GT」が出るまでの短期間だったので生産量は少なく、出会う機会も少なかった。外見は「246 GT」とほとんど変わりなく、左後ろにある給油口のキャップが直に見えるのが「206 GT」、パネルで覆われていれば「246 GT」である。また国内であれば「5」ナンバーと「3」ナンバーで見分けることが可能だ。
(写真69-1abc)1969 Dino 246 GT tipeL Berlinetta (2013-11 トヨタク・ラシックカーフェスタ/神宮)
北米の排ガス規制が厳しくなる中でフェラーリは回転数で馬力を稼ぐよりは、排気量を増やすことで解決を図った。新エンジンは以前フィアットに移籍していた「ランプレディ」がフィアット側のスタッフとして共同開発に加わり、単にボア・アップではなく、新設計のシリンダー・ブロックを持つ生産性の高い新しいエンジンが生まれた。このモデルには3タイプのベルリネッタとスパイダーが存在する。写真の車はシリーズⅠ(タイプL)で、初期型の特徴はホイールがセンター・ノックオフであることだ。
(写真70-1abc)1971 Dino 246 GT tipeM Berlinetta (2008-11 トヨタ・クラシックフェスタ/神宮)
シリーズⅡ(タイプM )は1970~71/6に507台しか造られなかった。他のモデルとの相違点はホイールがセンター・ロックから5本のスタッド・ボルトによる固定式となったこと。バンパーは初期型と同じ長さで、フロントは開口部にかかるほど長い。左後ろの給油口にカバーが付いているのが「206 GT」と異なる。
(写真71-1abc)1972 Dino 246 GT tipoE Berlinetta (1986-11 2ndモンテミリア/神戸ポートアイランド)
シリーズⅢ(タイプE)の特徴として、ホイールは5本のスタッド・ボルトの固定式でタイプⅡと変わらないが、バンパーはシリーズⅠ,Ⅱと較べるとやや短くなり、フロント・バンパーは開口部にかからない。1971年から74年「308」系に変わるまでにスパイダーを含め2897台が造られた。
(写真72-2ab)1974 Dino 246 GTS Spider (1986-11 2nd モンテミリア/神戸ポートアイランド)
「246」系のオープン・モデルはシリーズⅢになって初めて登場した。アメリカの基準に沿ったタルガ・トップは好評で、シリーズⅢの約44%に相当する1274台が造られている。
(写真743-1a~f) フェラーリの表示を付けたディーノたち各種
「ディーノ」の名は若くして世を去ったエンツォの息子から採ったことは衆知の事だが、「フェラーリ」を名乗れなかったという話もかなり広く信じられている。これが事実かどうかは公式に確認は出来ていないが、レース・シーンでは「フェラーリ・ディーノ」だった事もあり、アメリカに輸出するにあたっては有名な「ブランド名」を利用しない手は無い。僕自身も「跳ね馬のバッジ」や「Ferrari」のエンブレムの付いた「ディーノ」を何台か見ているが、オーナーが後から付けたのだろう位に思ってきた。しかし最初から付けて輸出したという説もあり、真相は判らない。(写真参照)
―― 長らく続いた「フェラーリ」は次回フォミュラカーでようやく終る予定です ――